■ ユーラジア・ヴィジョン ■

今日から 本務校の授業がはじまった。

ありがたいことに 「宗教学」 担当教員として、 「宗教学」 の講義やゼミばかり(!)をもたせていただいている。

これは、業界の方がたはお分かりだと思うが、今や 日本の大学ではとても珍しいことだと思う。 ここまで 「宗教学」 のコマを用意してくれている大学は、もうほとんどないのではないか・・・

ところで、、、 今日 ある学生さんから 質問をいただいた。

「先生は インド研究者でもあるんですよね。 インドの授業はしないんですか?」

しません、、、というか できません、、、というのが、残念ながら 私の応えだ。

宗教学を担当させていただけるのは嬉しいのだが、私が担当する 「南アジア地域研究」 の授業というのは ないのである。

正直申し上げて、、、これは 私にとって とてもさみしいことだ。

せっかくだから、学生さんたちに 南アジアのこと、インドのことを 体系だってお伝えしていきたいのだがなぁ、と思うのだが、ままならない。

そこで、、、 私が書いている もう一つのブログを こちらで紹介させていただきたい。

■ ユーラジア・ヴィジョン ■

うちの学生さん専用、、、というわけにはいかないけれど、南アジア地域研究者として、インド研究者として 私のアンテナにひっかかったことを、そちらに書きためている。

ご興味のある方は ぜひそちらも訪れていただけたら、本当にうれしいです。

学生さんで このブログにたどりついたらば、そして インドについて少しでも興味があるのなら、ぜひ覗いてみてほしいと思います。

自分で言うのもなんですが、、、なかなか面白いと思いますよ。

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宗教と政治過程

先日から話題にしている『宗教と現代がわかる本2008』 (前便は こちら)。 力作ぞろいの論集だが、中でも面白かったもののひとつが

井上まどかさんの 「気になる人物の発言集」 (275-62頁)

人選といい、解説といい、これはセンスにあふれるエッセイだった。 すごく面白かった。 平成天皇をはじめとして、何人かの言葉が取り上げられているのだが、 私がとくに注目したのは

村上正邦氏 (元労働大臣・参議院議員)の項 (270頁)

「宗教と政治過程」 とでも名づけたらよいだろうか、、、 具体的な政治の場面において 宗教なるものがどう関わっているか ―― 宗教政治学の重要な視角になる。

関連の前便は こちら

ということで、井上さんの文章をば 少々長くなるが 引用させていただく。

======以下引用(ただし、一部書式を引用者改定)======

神の御心にかなう政治こそ、
日本人にとっての政治だったんです。
相食むものもなく、病むものもなく、
苦しむものもなく、乏しきもののない、
そのような邦を、
この日本に実現するために、
私は政治に命を懸けてきたんです

村上正邦
(元労働大臣・参議院議員)

=============

『証言 村上正邦――我、国に裏切られようとも』
(魚住昭著、講談社)より

 村上氏は20代後半に、9歳年上の故玉置和郎氏(元総務庁長官)と出会う。玉置氏は選挙に出るにあたり、宗教団体のなかでいちばん政治に熱心でありながら候補者を持っていない団体として、生長の家を知る。玉置氏は奮起して谷口雅春氏の『生命の實相』(全40巻)を読破、日夜合掌し、村上氏に「あんたは俺の心の影だ。女房以上の存在なんだ。だから、俺と一緒になって成長の家に入ってくれ」と熱く語る。そこで村上氏は、1962年、30歳にならんとする頃に10日間の練成を受けることになる。村上氏の父親は酒や博打にお金をつぎ込んでしまう人で、「父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」(成長の家の経典『甘露の法雨』より)と教えられても、とてもその心境に達せずにいる。が、練成の5日目に、ある思い出から父親の大変さや苦しさを実感し、「親父の実相は慈愛深い笑顔だった……私を生長の家の教えに導くために現れた観世音菩薩だった」と心からの懺悔と両親への感謝の気持ちに満たされるという体験を得る。謙虚な気持ちになり、自分が変わることで世界を変えていくという教えを得たと村上氏は語っている。玉置氏とともに入信したときには、票をとるために入ってきた「偽者」だとの謗りを教団内部からも受けていたが、「生長の家政治連合」の国民運動本部長を務めながら、日本の宗教界が結集した「日本を守る会」(1974年4月結成)の事務局の中心メンバーとして働く。その後「成長の家」の路線転換で、教団から離脱することになるが、「成長の家」の谷口雅春氏の思想を核とした政治や教育の改革運動に邁進した。2001年にKSD事件関連の受託収賄罪で逮捕される。1審、2審で実刑判決を受け、上告して現在も係争中。1932年生まれ。福岡県出身。

======引用おわり======

さて、、、
このエントリを下書きしていた昨日、村上氏の刑確定のニュースが飛びこんできた。 偶然が重なるときは こんなものである。

「KSD事件 上告棄却 村上元労相」でグーグル ⇒

【メモ】

井上まどかさんが、この「発言集」で「物故者」の一人として カール・ゴッチ を含めてくれたことは、個人的にツボである。 井上さんが引いているゴッチの言葉は

技術と精神は常に一緒だ。 決して嘘をつくな。 決してごまかすな。 そして決して放棄するな
『ザ・レスラー』(渡辺研著、JICC出版局)より

解説文もまたよい。 井上さんがプロレス好きだとは承知していないのだが、、、果たしてなぜゴッチがここに(笑)、、、嬉しい驚きだ

【リンク】

村上正邦氏のブログ ⇒

『証言 村上正邦』@アマゾン ⇒

生長の家のHP ⇒

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榎本美樹さんの 「亡命チベット人の宗教と政治の現状」

とにかく面白く読んでいる 『宗教と現代がわかる本 2008』!!

渡邊直樹さん責任編集,平凡社,2008年.

渡邊さんと平凡社におかれましては (昨年の私のように、原稿締め切りをまったく守らない輩がいたりで) さぞご苦労が多かろうと思う。 しかし、ぜひぜひ このシリーズを継続させていただきたい。 (今度こそ、私もできる協力があれば、何でもさせていただきたい)

それぐらい面白い本だと思うのだ。

この本全体の特徴のひとつが、「宗教と政治」の関わりについて、積極的に論考をくわえているところだ。

いくつかのエッセイがそのテーマを直接、間接に取りあげているのだが、その中でもとくに「宗教政治学」の真ん中を突く一節をみつけた。

榎本美樹さんの 「亡命チベット人の宗教と政治の現状」 (100-103頁) の中の一節である。

榎本さんは「大阪商業大学 比較地域研究所 PD研究員」

以下の引用で [ ] は引用者注、です

======以下引用======

 宗教的価値観が牽引する社会規範を尊重する人人にとって、政治という意思決定の場面では、アクターが持つ政治倫理が重要となる。 ゆえに信仰心が重視され、宗教者が政治に関わることに対する抵抗を軽減する。 むしろ宗教的レベルの高い者の方が将来や物事の本質を観ずる力を持つため、政治に限らずあらゆる意思決定をより適切になすことができると考えられている。

======引用おわり======

非常に繊細に、宗教と社会と文化と価値観と政治との絡まりあいを解きほぐしてくれる文章だと思う。 フィールドに密着していなくては、こうした文章はなかなか書けない。

もちろん本当は 「絡まっている」 のでもなんでもない。 ただ、宗教・社会・文化・価値観・政治などなどの概念が、それぞれ別のものとして設定されているからこそ、そのように 「見える」 だけ、そのように 「書くしかない」 だけなのである。 既成概念がまずあって、私たちの知的な活動を制約している ―― 現代宗教研究では、いつもいつも問題になる点だ。

さて、、、
上の一節は、チベット人 (主に亡命チベット社会) の現状を念頭に、一般的な用語で書かれたものだ。 チベット人たちの現状について、関連する部分を ご参考までに書き抜いておく。

======以下引用======

 …… ダライ・ラマに決断を委ねる [チベット人の] 思考は、彼が観音菩薩の化身として人間を超越した存在であると考えるチベット仏教の思想と無為関係ではないだろう。 多くのチベット人は、彼は未来を観ずることができ、一切衆生のために最善の決断が下せると信じているのだ。

[中略]

 亡命チベット社会の場合、政治倫理とは多分に仏教的価値観から導き出されるものである。 CTA [Central Tibetan Administration: 中央チベット行政府] のような政治形態は、物心両面で閉じた社会の中では独裁に繋がる政体だが、指導者が有能で、開かれた社会として存続し、普遍的価値観を提示できる限りにおいて、国民国家よりも柔軟性がある人間集団の統合を推進し得る。 哲人政治が最善かどうかはチベット人自身が判断することだが、現時点で絶対的権威を持つ指導者ダライ・ラマ一四世が、今後も非暴力と平和を掲げ、民主化を推進する中で民衆が覚醒することを見守るのが支援する側に求められるだろう。

======引用おわり======

短いエッセイであるので、ぜひぜひ読んでいただきたいと思います。

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日本の政治家は「宗教」というコトバを

日本の政治家が宗教をどう考えているか――正確には、「宗教」というコトバをどう使っているか―― 私たちはこれをほとんど知らないと思う。

創価学会と公明党の関係はいうまでもないが、、、 「神の国」発現、新宗連と自民党の関係など、私たちがもっている情報や理解は、かぎりなく断片的だと思う。 私が知る範囲にかぎっても、政治の現場ではもっともっと複雑な力学がはたらいているのが実情だ。

それをしっかり調べるだけでも、大した研究になると思うのだが(ちょうど私がインドでやっているように)、なかなかそういう研究は出てきそうにない。 若い世代の宗教研究者、政治研究者に期待したい。 誰か、そういうことに興味をお持ちの方はいないものだろうか。

ということで、、、

ひとつの事例を紹介したいと思う。 日本の政治家は「宗教」というコトバを どう使っているのか……その実例である。

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自民党のチラシに『自由民主』というのがある。その平成20(2008)年3月4日付けの号、「衆議院 法務委員長・衆議院議員 下村博文さん特集号」(No. 3?) を入手した。

裏面に、同議員の書評が転載されていて、そこに「宗教」や「神」というコトバがたくさん使われている。 

資料の性質上、全文引用しても、大きな問題にはならないと判断しましたので、そうさせていただきます。あしからず。

しかし、、、これも孫引きになるのだろうか、、、

======以下引用======

『自由民主』2月12日全国版より
下村博文 この一冊
「宇宙からの帰還」 立花隆・著 中公出版

傷心旅行で座右の銘とした忘れ難き一冊

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 本書は私の人生の最大の挫折体験の思い出とも重なる忘れ難き一冊です。昭和六十年、私は都会議員選挙に初出馬。ところが選挙運動の途中で家内が過労から急性肝炎を患い入院し、しかも選挙は落選してしまい、傷心を抱えてひとり北海道へ旅に出たのです。その時、携えていったのが本書です。

 米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士たちの体験を取材した立花隆さんのこの著作はもともと五十六年に『中央公論』に発表されたもので、宇宙飛行士の多くが宗教家に転じていることなどその内容の一端は承知していました。考え方の中に求道的生き方を求める傾向があり、宗教にも関心を持っていた私はいつか読んでみたいと思っていました。自分の人生をあらためて考えてみようという、ある種、求道的な旅を思い立った時この本を買い求め、座右の書としたのです。

 夜行列車に乗り、朝靄の立つ網走を通過するその時、また知床半島を巡るバスの車中や遊覧船の戦場でずっと読んでいました。

 優れた最先端科学者でもある宇宙飛行士がなぜ、科学の対極にあるともいえる宗教家に転じたのか。宇宙体験を通じて彼らが得た「神と一体感を感じた」「神に包まれている」「宇宙から見た地球は生命体である。自分はまさに神に生かされていると感じた」といった感覚は実に興味深く、感銘を受けました。

 「神」という言い方はキリスト者などの表現で、それは仏陀の言うところの宗教的悟りともいえますし、そこでは地球意識のようなものが芽生えるのではないかと思います。

 自然との共生、地球の中における人類。そういった広い視点で人間の生き方を考えなおさなくてはならないのではないか。地球温暖化が問題とされ、今日、当時本書を読んで感じたこういう思いと、旅した北海道の美しい自然がオーバーラップして思い起こされます。政治家はもはやエゴの代表者であってはならない。有資源社会の時代にあって、国益だけを主張していたら地球温暖化などとても解決できません。今こそ宇宙飛行士が感じたと思われる「地球意識」のような宗教的感性、感覚を持って政治を考える必要があると思います。

======引用おわり======

この文章をどう読むか――宗教政治学の基本的なスタンスが問われるところだなぁ、と思うのでした。

【参考】

下村議員のサイトはこちら(↓)
http://hakubun.cocolog-nifty.com/main/

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現代のスピリチュアリティの意味

もう随分と前だが、、、 こちらの記事 で、 現代のスピリチュアリティの意味 について思うところを書いた。

今日読んでいた『民博通信』の関根先生のエッセイのなかに、それと通じる一節があったので、ご紹介します。

======以下引用======

その信仰的知識という元来の全体性は、流通に際して……わかりやすい事柄を中心に断片化、簡略化される方向で世俗的理解の届く範囲の知識にパッケージ化されることになる。ここで、宗教信仰はスピリチュアリティに縮減される。言うなれば、物質的合理性中心の「進歩の理論」の跋扈する世界のもたらす歪みやストレスのサプリメントとして世界市場を獲得するという形になっている。その意味で、復古的色調をもった更なる近代化という再帰的近代化現象の内部に位置することは間違いない。そうであるから、このようなニューサイエンスの潮流と結びついたローカリティの生き残り方、つまり「勝利するローカリティ」の道行きには、近代の限界問題への新たな道開きという革新性を見いだすことは難しい。その道行きで捨て去られた何か、隠された何か、それをこそ検討しなければならない。「敗北したローカリティ」が問題になる由縁である。

[中略]

 「敗北したローカリティ」とは、西洋に発した近代化、世俗化に押し流されて命脈を絶たれ解体されつつあるうえに、「勝利するローカリティ」という再帰的近代化現象の輝きの陰にますます身を隠されてしまう、ローカルな生活文化の有り様のことである。

======引用おわり======

【典拠】 関根康正「ストリートという縁辺で人類学する――「ストリートの人類学」の提唱」『民博通信』2007: No.116, p. 5.

=============

この『民博通信』では、関根先生が責任編集をおこなった「特集 ストリートの人類学」が冒頭をかざる。オモシロイ特集だった。上の一節は、その第一エッセイから。

僭越ながら申し上げれば、こちらのエッセイ、「関根人類学」のエッセンスがとても分かり易く書かれていると思いました。

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万能細胞の出現と宗教者の立場

天理大学おやさと研究所 というところがある。

そちらでは、月刊の公刊物として 「 グローカル天理 」 を出している。

その2008年2月号の 「 巻頭言 」 は 「 万能細胞の出現と宗教者の立場 」 という記事。 筆者は 同研究所所長の 井上昭夫氏 。

同氏のブログは こちら

ここで 「 万能細胞 」 とは、iPS 細胞のこと ( こちら @ Wikipedia ) 。

この細胞の開発成功のニュースは 「 ノーベル賞級 」 として大きく報じられた。 そして、日本政府は 実に迅速にこれに対応した。

上記 「 巻頭言 」 において井上氏は、 iPS 細胞がもたらす衝撃について 天理教の教学の立場から コメントしておられる。

曰く、、、

宗教の教学は iPS 万能細胞の出現にどのような対応が迫られるのであろうか。

続きを読む "万能細胞の出現と宗教者の立場"

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再開

ずぅっと 放っておいたこちらのブログ、、、 来年度より少しずつ再開しようと思います。

宗教学関係の カタいブログ、、、という当初のコンセプトを 再確認。

また宜しくお願いいたします。

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フランス系機能主義的宗教論

歴史に規定されたものとしての個々の社会が、みずからを理解するために、と同時に、みずからの抱える困難や限界をのりこえるために作りあげた表象の諸形態として、歴史上存在した宗教と「聖」の諸形態を理解すること。

竹沢尚一郎 「 「聖なるもの」 の系譜学: デュルケーム学派からエリアーデへ 」 同編『 宗教とモダニティ 』(世界思想社,2006,49~104頁所収)63頁より

デュルケームからメルロ=ポンティを経由して、竹沢先生がたどりついた、宗教の機能主義的理解の定式化、もしくは宗教概念の機能主義的定義である。

やっぱり フランス系機能主義的宗教論 は説得力あるなぁ。。。できる理論だよ、やっぱりこれ!!

<注>

竹沢先生ご自身は 「 機能主義 」 というコトバを使ってはいない。まして 「 フランス系機能主義的宗教論 」 をや。 いずれもコンドウのコトバである。 怒られそうで怖い・・・って誰に?!?

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250超

こちらのエントリ で 「 120オーバーだぁ 」 と書いた昨日 ( 29日 )、、、

なんだか知らないが、 アクセス数が 一気に 250超

びっくりした。 ちゃんと書いてみるもんだなぁ。。。

ところで、、、

ココログのアクセス解析では 「 アクセス数 」 と 「 訪問者数 」 という二つの数字が出ている。 要するに、ちゃんと読んでくれたそうな人が 「 訪問者 」 ということなんだろう、、、と ヒトリゴチ

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割り込み大歓迎

老婆心ながら、、、

皆さん、 私 コメントの方も いくつか新たにアップいたしました。

ウォーターマンさんはじめ、皆さんからいただいているコメントに、走り書きでお返事しております。

きっちりした文章ではございませんが、どうぞご覧ください。 そして、ぜひお気軽にコメントなどいただければ嬉しいです。 割り込み大歓迎 でございます。

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