カテゴリー「01D 世俗の宗教学」の記事

2016年7月29日 (金)

【シンポジウム】 「宗教」をものがたる - 宗教/文学研究のいま -

第2回「宗教・イメージ・想像力」研究会として、こんなシンポジウムやります。

ご参加希望の方、どうぞお気軽に連絡くださいませ。

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【シンポジウム】 「宗教」をものがたる-宗教/文学研究のいま-

◆ 2016年8月7日(日)13時半から17時半ごろまで
  (時間帯が多少前後するかもしれません)

◆ 日本女子大学 目白キャンパス 百年館

◆ 発表者
  • 13:30-14:10 大澤絢子(東京工業大学大学院)「新聞小説と親鸞像--石丸梧平から吉川英治へ--」 ※ 石丸梧平の新聞小説をめぐって
  • 14:10-14:50 飯島孝良(東京大学大学院)「「メディアとしての一休「像」とその禅文化史的意義」」 ※ 水上勉『一休』、唐木順三「しん女語りぐさ」、加藤周一「狂雲森春雨」、『別冊太陽 一休』などをめぐって
      <休憩>
  • 15:10-15:50 橋迫瑞穂(立教大学)「ポピュラー小説にみられる宗教/スピリチュアル的「世界」観ーー恩田陸『夢違』を事例に」 ※ 恩田陸『夢違』をめぐって
  • 15:50-16:30 茂木謙之介(東京大学大学院)「〈幻想〉の宗教学―雑誌『幻想文学』研究序説―」 ※『幻想文学』をめぐって
◆ コメンテータ 中西恭子(東京大学)

◆ 主旨 (文責:茂木)

 この企画は、「宗教と社会」学会 第24回学術大会でのテーマセッション「物語を読む、宗教を読む―宗教/文学研究の架橋のために―」(代表者:橋迫瑞穂)のフォローアップ企画です

 本シンポジウムの目的は、近現代の諸メディアの分析を通して、「宗教文学」を問い、宗教研究と文学研究の架橋を図ることにある。

 これまで宗教研究では、フィクションと宗教を問う際に、文学テクストに内在する〈宗教〉的モチーフの検討が多くなされてきた。だが、そこで扱われる〈宗教〉的モチーフとはいかなるものかについては曖昧な議論がまま見受けられ、文学テクストを扱うに際してのメディア論的な見地からの検討も十分になされてきたとは言いがたい。一方で、文学研究における「宗教文学」研究においては、特に特定の宗教への信仰を語る主体を対象とするような作家論的研究が多くを占めていると言える。

 過去二十年以上にわたり、人文諸学においては自らの学問領野の自明性・自律性を問い直す試みが行われてきた。宗教研究においては、〈宗教〉概念が俎上に載せられ、分析概念の相対化が図られてきたことは周知の通りであり、また文学研究においても、〈文学〉なるものの範囲、正典(カノン)としての〈名作〉の特権性、そしてロラン・バルト以降の作者の優位性をそれぞれ問い直す動向が生起している。だが、そのように自らの研究領野へ批判的なまなざしを向ける一方で、周辺領野の研究に関して相対化は十分に図られてきていないのではないだろうか。言うなれば物語と宗教の関わりをめぐって、宗教研究と文学研究は、互いの研究領野における学問的達成への目配りが成立しているとは言いがたく、積極的な架橋が望まれているのである。

 以上の問題意識から、本シンポジウムでは、作家論的研究を乗り越えることを一つの課題とし、宗教研究及び文学研究で共に研究領野の相対化に資しているメディアへの注目を一つの視座として検討を行う。なお、メディアはイエ、教育とならび、大衆の宗教へのアクセスの仕方として想定可能である。特に大衆が宗教性に巻き込まれる、あるいは大衆を宗教性に巻き込むといった事態を想定した際、メディアを分析する意義はきわめて大きい。これを見ることによって端的に文学の正典に寄り添うだけにとどまらない「宗教/文学」研究の可能性を探ることができるのではないだろうか。

 大正期の新聞小説における親鸞の検討を行う大澤絢子、および戦後諸雑誌における一休表象を問う飯島孝良の報告では、近世以降の出版文化の流れを踏まえつつ、近代以降の諸メディアにおける祖師像の形成過程とその意義を明らかにする。スピリチュアリティの観点から恩田陸の小説『夢違』の分析を行う橋迫瑞穂と、雑誌『幻想文学』における宗教学知の影響を論じる茂木謙之介は、1970年代のオカルトブーム以降の現代文化の文脈をおさえつつ、文学の文化的背景としての宗教を論ずる。

 コメンテーターには宗教研究と文学研究を架橋する実践者である中西恭子氏を迎え、討議を行いたい。

◆ 連絡先 近藤光博 fwih3395@mb.infoweb.ne.jp またはツイッター @mittsko

◆ 主催:「宗教・イメージ・想像力」研究会/エコノミメーシスR&D
  オーガナイザ: 茂木謙之介/橋迫瑞穂

2016年3月14日 (月)

個人主義の理論 -ギデンス、トゥレーヌ、ベック

ウルリッヒ・ベック曰く

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 個人は発展した近代がもたらす、より抽象的で、よりグローバル化した構造から利益を引き出すことができるとアンソニー・ギデンス(1990)は強調している。これに対してトゥレーヌ(1992)は、この構造は科学的方法によって「鍛えられて」おり、個人は結局のところ、より高度に合理化された生産物の付属品と化し、「消費単位」として疎外された存在を生きることになると危惧している。私の目から見ると、国民国家を土台とした(第一の)近代の諸構造は、ギデンスが約束し、トゥレーヌが危惧しているほどに安定的なものだとはとうてい思えない。まさに正反対のことが正しい。その構造は浸食され、統合力を失い、そこから生じている真空状態の中で様々なプレイヤーが不慣れな関連枠の中で不安な手探り状態を続け、しかも知識さえ(得られ)ないままに自分の新しい行為空間を測量することを学ばねばならない。その関連枠を構成しているのはラディカル化し、コスモポリタン化した格差であり、しかも文化的、宗教的他者を自分たちの経験や反省の地平から排除しえないという条件だ。

183頁


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ここで要約されているかぎり、 ボクはベックの立場に賛成だ (。・ω・。)

さてベックはこれにつづけて、 より微細な議論にも注釈をつけていく

それはまた次のエントリで

2016年3月11日 (金)

歴史的闘争、制度化、具体性

ウルリッヒ・ベック曰く

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 したがってわれわれが今日、そして未来において関わることになる (1) 個人化の歴史的主観形式は、イマヌエル・カントが考えていたような 抽象的な 意味で人間の決断の自由を表現したものではない。カントは個人的な行動動機を悪の源泉とみなしていた。私の道徳原則が一般化可能な場合にのみ、そして私の行動の格率が私の社会的立場や、私の利害や、私の情熱から発していない場合にのみ、それは道徳的に善とされる。この立場からすれば、行動者の主観性から切り離された行動だけが「善」とみなされる。ルソーもまた似たような議論をしている。ルソーにとっては、特殊利害を洗い流した 一般化可能な 意志だけが社会契約の基盤となりうる。こうした高級道徳は一方では個人的なものから切り離され、他方では一般化された個人にとらわれている。これに対して、個人化はこうした高級道徳を越える何かを意味している。個人的な個人主義が、また一般的な道徳的個人主義が、ここでは 制度化された個人化 によって置き換えられる。それは一連の歴史的闘争の成果として解読されねばならない。すなわち宗教的寛容を、あるいは市民的、政治的、社会的基本権を、そして何よりも一般的人権を求めてきた闘争の成果として。一般的人権とは、一般化されたものとして考えられた個人に対して自由を保証するものであり、その要求は、現実における絶えざる人権侵害によっても無力化されることはない。こうしてみるならば個人化は決してアナーキズムに流れ込むことはない。むしろ逆に、それはナショナルな防壁に抵抗し、国境を越えて道徳的統一性を保証しうる価値体系となり、信念体系となる。

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(1)  しかもこれは John W. Meyer 2005 [Weltkultur. Wie die westlischen Prinzipen die Welt durchdringen, hg. von Georg Krücken. Frankfurt a. M.: Suhrkamp.] の拡散とグローバル化の分析に従えば全世界的現象だ。

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144-45頁: 傍点は太字で示した


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すごく大事な、そして大好きな一段落(*'▽') 力づよいなぁ

ボクが 《世俗の宗教学》 と呼んでるものの重要なピースになる言葉

こういうのに出会うと、 なんかやっててよかったな、って思う

2016年3月10日 (木)

芸術宗教、もしくは世俗化した世界の宗教的感受性

ウルリッヒ・ベック曰く

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 それでも、「自分自身の神」がどこまで信仰の代替物なのかという問いは残る。それはどこまで(Kunstに含まれる「芸術」と「人工」の二つの意味を込めたうえでの)「芸術〔クンスト〕宗教」が提供する偽りの約束に相当するものなのだろうか。芸術宗教は科学宗教の解体の後を継いだものであり、その科学宗教は科学宗教で(きわめて単純化すれば)宗教の解体に対する一つの反応だった。通常、その場合の「芸術」とは、高度に世俗化した社会の疑似宗教的な身振りを訓練するための教練場と考えられている。藝術体験の中で宗教的アウラが語られ、その中で世俗化した世界の宗教的感受性が自己表明を行い、その意義を認められる。そこにはパラドックスの上に立つ宗教的な決断主義が顔をのぞかせている。すなわち、一方で信仰者が「自分自身」の神を創造し、他方ではその神の自己啓示が信仰者の「自分自身」の生に主観的安心と解放を約束する。これは、自己自身を措定する自我をあらゆる超越的かつ内在的な洞察と確実性の源泉とみなしたフィヒテの自我哲学を思いださせるものだ。

135頁: ルビは 〔〕 内に示した


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「藝術の宗教学」 の今日的な問題点を 精確にいいあててると思う

2016年2月27日 (土)

[ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か

新企画ライン 第6弾は 「宗教とオタク」! 皆さんのご参加、お待ちしております
 ・ 第1弾は 「映画」 でした (140302 開催)
 ・ 第2弾は 「食」 でした (140426 開催)
 ・ 第3弾は 「哲学」 でした (140517 開催)
 ・ 第4弾は 「音楽」 でした (140621 開催)
 ・ 第5弾は 「映画」でした (141122 開催)

※ 企画運営は 「エコノミメーシス R&D」。 この 「エコノ…なんとか…RD」 という集まりは 「藝術の宗教学 研究会」 を改名したものです

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エコノミメーシス R&D 第8回 ワークショップ 》


        オタクにとって聖なるものとは何か


宗教研究からするオタク論―― 意外とアカデミックな集まりになりそうです (*'▽')

○ 「オタク」 がしばしば宗教的になるのはどうして…?

○ 「オタク」 の宗教性はふつうの意味での宗教と同じなの、違うの…?

○ 「オタク」 が宗教と違うところ、むしろその独自性とはどこに…?

○ 「オタク」 はグローバルな宗教=文化動向となにか関係してるの…?

○ 「オタク」 の宗教性を語って、「オタク」 をどうしようというの…?


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日時 2016年2月27日(土) 13時30分-17時30分
           セッション終了後、18時まで 参加者の交流会をもちます

場所 日本女子大学 目白キャンパス 新泉山館 大会議室 ⇒ マップ

公開・参加費無料
事前に参加申し込みいただいた方にかぎり 当日、配布資料あり
   参加申し込み ⇒ http://www.economimesis.com/teaser/8/

   ※ 参加申し込みは 【当日 27日正午】 で打ち切らせていただきます。
     資料の印刷をする時間がこれでぎりぎりのためです。

パネリスト
  ・ 今井信治 (東京家政大学  非常勤講師)

題目(仮) 「拡張現実とアニメ「聖地巡礼」――来訪者アンケートを中心に」

キーワード 「拡張現実」「リアリティ」「ツーリズム」

主要参考文献

  • 北海道大学観光学高等研究センター文化資源マネジメント研究チーム(編)『メディアコンテンツとツーリズム―鷲宮町の経験から考える文化創造型交流の可能性』(北海道大学観光学高等研究センター、2009)
  • エドワード・ブルーナー『観光と文化――旅の民族誌』(安村克己・遠藤英樹他訳、学文社、2005=2007)
  • ディーン・マキャーネル『ザ・ツーリスト――高度近代社会の構造分析』(安村克己他訳、学文社、1999=2012)

  ・ 橋迫瑞穂 (立教大学  兼任講師)

題目 「『聖』なる少女のつくり方――『魔女っこ』と『ゴスロリ少女』」

キーワード 「少女」「モノ」「占い/おまじない」「データベース」「雑誌」

主要参考文献

  • 東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001)
  • 大澤真幸『虚構の時代の果て』(筑摩書房、1996)
  • 大塚英志『「りぼん」のふろくと乙女チックの時代――たそがれ時にみつけたもの』(筑摩書房、1995)
  • 島薗進『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』(東京堂出版、2001)
  • 見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社、1995)

  ・ 茂木謙之介 (東京大学大学院  博士課程)

題目(仮) 「〈オタク論〉と宗教学知 ― 1970~2010年代のメタヒストリー」

キーワード 「オタク論」「学説史」「大塚英志」「東浩紀」「澁澤龍彦」

主要参考文献

  • 大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書、2004)
  • 東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)
  • 澁澤龍彦『少女コレクション序説』(中公文庫、1985)

ファシリテータ
  ・ 川村覚文 (東京大学大学院  UTCP  特任助教)


趣旨

 現代日本のオタク文化のなかに、宗教的なものを見出すのはたやすい。オタクたち自身、いくらか自嘲気味に「ネタとして」、しかし内心ではかなりの真剣さをもって「ベタに」、みずからの行動や世界観を宗教用語であらわすことがある。その行動様式もまた、自覚的であろうとなかろうと、しばしば「まるで宗教のようだ」。例えば、原始宗教を思いおこさせる奇天烈な衣装、古代の崇拝(カルト)とみまがう踊りや礼拝、集団の祈りのごとき形式化された絶唱など。

 オタク文化を彩る作品群(漫画、アニメ、ゲーム、ラノベなど)にも、宗教的な表象が満ちあふれている。伝統宗教の場や象徴がそっくりそのまま採用されていることもあれば、元の文脈から引きはがされた有形無形の断片が作品に意味をあたえていることもある。また、オタク作品群につねにあらわれる超常的で霊的な存在や力は、「宗教」という固い表現になじまず、むしろ、「オカルト」「スピリチュアル」「俗信」といった表現の方がしっくりくることも多い。

 制作者と作品とオタクとが、こうした世界観において「何か」を交換しあい、多彩な文化をきずきあげているのだ。

 めくるめく伝統と霊性のオタク現象―― これをまえに、宗教研究には、重大な問いが突きつけられる。オタク文化はどうしてこうも宗教に「類似している」のだろうか。「共有されるなにか」があってこその類似のはずだが、それはなにか。はたして、オタク文化とは伝統的な宗教と「同じなにか」なのだろうか。それは「偶像崇拝」「多神教」「異教」と何が異なるのだろうか。あるいはまた、「宗教」という言葉をさけて、「スピリチュアル」「霊的」「俗信的」「空想的」などの言葉を使えば、それはうまく説明されるのだろうか。

 現在、宗教社会学の先端では、これらの問いが真摯にとりくまれている。本ワークショップでは、その潮流をけん引する4名の若手研究者を交え、「宗教研究からのオタク論」の今後について見通しをえたい。

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公式サイト http://www.economimesis.com/teaser/8/ 
参加申し込み 同上 http://www.economimesis.com/teaser/8/

企画運営 エコノミメーシス R&D
主   催  日本女子大学 文学部・文学研究科 学術交流企画

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2016年2月24日 (水)

20世紀における「反近代」の変容

こちらのワークショップ での主要参考文献のひとつ

島薗進 『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』 (東京堂出版,2001年) より

近代は、「反近代」をつねに内包させてきた――

この事実が、ポストモダンを論じるのをいつもむずかしくさせます

この本では、とくに近代日本の新宗教団体の歴史に注目して

「反近代」の変容について語っている箇所があります

それは、「見えにくい、しかし大変大きな変容」だと言われています


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 幸福の科学が新新宗教[1970年代以降に発展した宗教団体]による近代的価値への批判のあり方の典型だというわけではない。これは一つの例にすぎないのだが、ここにポストモダン的な近代批判という点でこの時期[1990年を前後する時期]の時代相が如実に表現されているのも確かだろう。かつての新宗教[江戸時代の末期から1960年代までのあいだに発展した宗教団体]の中にも、西洋的近代への批判や唯物思想批判を唱えるものが少なくなかった。大本教はその代表的な例である。

 しかし同じく近代批判、唯物思想批判といっても、その意味が相当に異なってきている。大本教では「われよし」の態度が告発の主たるターゲットであり、相互扶助精神の崩壊を招く利己主義、私利追求主義が厳しくとがめられた。そこではヨコの連帯の意識が基礎にあり、それを脅かすものに批判が向けられた。新新宗教においてはヨコの連帯の意識は薄く、タテの秩序を回復することに力点が置かれている。資本主義的な自由競争を是認しつつ、差異に基づく階層的秩序を再建し、悪平等がもたらす混乱に対処しようとするのである。宗教はヨコの連帯や苦悩への共感のよりどころとしてよりも、聖なるものに基づく差異を確立し、距離をもって対すべきものの場所を指し示す根拠として理解されている。

 こうした相違は「反近代」、すなわち近代的価値への抵抗のモメントが、二〇世紀を通り過ぎる間にこうむった、見えにくい、しかしたいへん大きな変容を反映している。[1970年代以降]新宗教において地域の小集団が発展しにくくなってきたことは、第二章で述べた。これは身近な生活感覚を分かち合う人々のヨコの連帯の感覚が弱まってきたことと関わりがある。暖かい共同性の中に住まおうとしても、身近な生活空間の中では容易に実現しそうではなくなってきた。砂漠の砂粒のような孤立感に脅かされるとき、メディアを媒介としたゆるやかな連帯意識[たとえば、「新霊性運動=文化」にみられる]はとりあえずの落ち着き場所と見える。しかし、それは安定した秩序や根の降ろしどころを示してくれるものではない。

 自由競争が生活の隅々にまで浸透するとともに、画一的な平等主義の抑圧性が自覚されるようになり、相互扶助に根ざした共同性が現実性を失い、イメージすることも難しくなってきた。無理にそれを実現しようとすれば、内閉的な集団を構成することになってしまい、安定感を提供するように見えながら、実は抑圧性を強化するしかないというように見える。また、その方向をとるにせよとらないにせよ、ヨコの連帯よりも差異と階層性を強調する方向で、近代への抵抗を組織化する傾向が目立つようになってきた。秩序の元基をヨコの連帯よりも、聖なる中心と階層性の方に見出す考え方が力を得てきたのである。


236-237頁: 注は省略


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2015年9月 8日 (火)

失語体験と説話論的な磁場

これまで一生懸命考えてきた 《世俗》 概念…

文章にしては発表せず、宗教学会で数度 口頭発表してきただけ

その都度、とにかく理解をえられなくて 四苦八苦してきた

去年などは、ある大御所の先生から 「何をしようとしているかわからない」

と言われたほどだ

ボクはこのとき、「これはチャンスだ!」 と思った

「わからない」 というのは 新しいことを言えてるからだ、と思ったからだ

今年の宗教学会では、その説明を少しだけ進展させることができて

数は多くなかったけれど、聴衆の皆さんには 何かを伝えることができた(みたい)

しかし、まだまだ研鑽が必要だ

おそらく間違ってたり、見当違いだったり、ってことではなさそうなので

あとは、表現だったり 文脈だったりの問題なんだろう…

そう心に誓って なんの気なしに読みかけの本を手にしたら

ばっちり、ボクなりの 《世俗》 論と並行させうる文章をみつけてしまった

うれしい

蓮實重彦先生が、1982年、もう33年も前に書いた文章だ

まずは 「失語体験」 について

これは、ボクが 《外部》 という語で言おうとしてきたものだ

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[……] 事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な文節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得のしぐさによってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい近郊におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没店を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。


20‐21頁


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つづけて、「説話論的な磁場」 について

これは、ボクの 《世俗》 概念に対応する観念の様相とそっくり同じだ

さらにはちなみに…

ボクのナショナリズム論 (そっちが本業) ともそっくり同じだ

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 このように、物語の装置が有効かつ円滑に機能して知と同調しうる空間を、われわれは説話論的な磁場と呼んでおいた。名前はさして重要ではない。肝心な点は、この磁場が誰か特権的な存在によって組織されたものではないということだ。特定の個体なり集団なりの意志がそれを操作しているのではないという意味で、説話論的な磁場は、どこか自然の環境を思わせもする。にもかかわらず、これは普遍的な抽象空間ではない。あたかも自然なものであるかのように機能していながら、実はきわめて歴史的な時=空として限界づけられるものこそがその磁場であり、そこにあっては、すべてが具体的な運動なのである。もちろん、知は、人が歴史を語りうる限りにおいて、濃淡の差こそあれ、あらゆる瞬間に存在しただろうし、物語もまた、人類が生きた時間とともにあらゆる領域に拡がりだしてもいよう。だが、知と物語とは、いたるところで同等の資格でたがいの条件を保証しあい、均質な環境をかたちづくっていはしなかった。それらは、あるとき、しかるべきところで、何らかの具体的なできごとを契機として、それまでにはありえなかった相互補完的な関係をとり結んだのだろう。その関係が成立する以前に、人は説話論的な磁場など持ってはいなかったのである。

 こんにち、われわれは、明らかに説話論的な磁場の中に暮している。誰も、それ以外の領域に生まれることを許されてはいない。だが、ある時期まで、知と物語とは、決して同じ資格で支えあうことのない一つの階級的秩序におさまっていた。物語は、あくまで知に従属していたのである。知っていたものだけが、語りえたわけだ。 [……]


24‐25頁


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下のリンクは文庫版ですが、上の引用は1985年刊の原著からです




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〈150913 追記〉

読み進めてたら、 さらにぴったりの一節をみつけたので 書き加え

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[……] つまり、社会的な幻想として成立した「芸術」は、説話論的な制度としておのれを条件づけたというわけだ。それが複数型の単語として流通していたかぎりにおいて、「芸術」は、物語の主題とはなりえても、語るものを分節化する説話論的な機能を帯びてはいなかった。ところが、単数型として交換される記号となるや否や、「芸術」はたちどころに幻想的な説話装置へと変貌し、これを主題とする物語のすべてを、類型的に体系化する働きを持つことになるのだ。

 その体系化の運動は、まず境界線を引く。差異をきわだたせる力が、世界を二つの異なる領域に分割し、これといった正当な理由もないまま、この境界線を特権化するのである。ほかにいくらも可能な分割の条件の中からこれだけが選択され、あたかも決定的な身振りに操られたものであるかのように、そこで対立する二領域に思考を集中させる。しかも、何ものかがしかるべき意図にもとづいてその分割を統御しているわけではないのに、ごく曖昧に捏造された境界線は揺るぎなく存続する。特権化と排除の運動に従って新語が流行語になるのもそうした境界線を介してである。

62-63頁

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2015年6月 1日 (月)

宗教者と無神論者の双方に関わる問題、あるいは信への転回

《世俗の宗教学》 にとっての(西洋)哲学史上の基礎となるようなところ、じゃないかな

  • ロベルト・デ・ガエターノ著、廣瀬純翻訳・解題「シネマ地理学」 (同編『ドゥルーズ、映画を思考する』廣瀬純・増田靖彦訳、勁草書房、2000[原1993]年、70-131頁)

この論文から一節を引用します

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[…] というのも、哲学は、全宇宙空間に対する全知全能をあきらめることで、こんどは思考されざるものから、思考そのものの力、すなわち思考を信じることの力を作り出すひとつの思考の運動となるからだ。この「信じること」への転向=回心は、「宗教的な」思考者たちだけの問題ではなく、「無神論者」たちにも関わる問題である。 「キリスト者に対しても無神論者に対しても、わたしたちの全世界的なスキゾフレニーのなかでは、この世界〔の存在〕を信じることが許されていなければならない。 [中略] こうした「信じること」への転向=回心は、すでに哲学における大きなターニングポイントとなっていた。それはパスカルからニーチェにわたって行われた転換であり、これによって知(ること)のモデルが信じることによって置き換えられた。ただしこうして信じることが知(ること)にとって代わるのは、信じることが、あるがままのこの世界を信じることになるときだけなのだ」。 [★19] [訳注五七]

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(★19) L 'Image-temps, p.223-224 [2-7-2].

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(訳注五七) ドゥルーズが言う「信仰(croyance)」が極めて特異な意味を持っていることを理解するためにはこのテクストに付けられた脚注が参考になると思われるので、以下に引用する。「哲学史において、知に対して信仰を置き換えることは様々な書き手のなかに見出されるが、そのうちには経験でありつづける者たちだけでなく、無神論者へと回心した者たちも含まれる。ここから次のようなまさにカップルと呼べる存在が生じてくる。パスカル〔宗教者〕とヒューム〔無神論者〕、カント〔宗教者〕とフィヒテ〔無神論者〕、キルケゴール〔宗教者〕とニーチェ〔無神論者〕、ルキエ〔宗教者〕とルヌビエ〔無神論者〕。ただし、敬虔な者たちにおいてですら、信仰はもはや別の世界へと向けられているのではなく、この世界へと向けられているのだ。キルケゴールによる信仰、あるいはパスカルによる信仰ですら、わたしたちに人間と世界〔との紐帯〕を取り戻させるものとなっているのである」(L 'Image-temps, p.224 [2-7-2]. の脚注30)。ドゥルーズが言う「無神論」もまた極めて特異な意味をもつ。「宗教から引き出されるべき無神論が、つねに存在するのである。それは、すでにユダヤ思想においても真実であった。ユダヤ思想は、[中略] 無神論者スピノザによって、ようやく概念に達するのだ」(『哲学とは何か』一三二-一三三頁)。


112-13, 126頁



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宇野邦一らの訳『シネマ2*時間イメージ』からも 同箇所をひいておきますかね

個人的には、 上の廣瀬訳のほうがずっとわかりやすい

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[…] キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。これはすでにパスカルからニーチェにいたる哲学の大いなる転機であった。(30) 知のモデルを信頼によっておきかえること。しかし信頼が知にとってかわるとすれば、それは信頼があるがままのこの世界に対する信頼となるときである。

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 30. 哲学史においては,信による知のおきかえが,まだ信仰を捨てていない思想家と無神論的な転回をした思想家とのいずれにおいても行われている.パスカルとヒューム,カントとフィヒテ,キェルケゴールとニーチェ,ルキエとルヌーヴィエといった真の対関係が,そこから生じる.信仰を捨てていない思想家にあっても,信はもはや別の世界にではなく,この世界にむけられている.キェルケゴールやパスカルによれば、信仰はわれわれに人間と世界とを取り戻させるのである.


240,(62)頁: 傍点は太字で示した



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2015年5月 7日 (木)

世間とは何か

今年度、ある授業で 「現代日本の道徳と宗教」 をテーマにかかげている

日本研究者でないので、今更いろいろ勉強している

山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』 を読み終わったので

つぎは、阿部謹也 『「世間」とは何か』 に手をだした

阿部先生の思索は、じつにマイルドで馴染みやすい

教養人、文化人としての落ち着きと懐のふかさを感じさせる

(対して、山本・小室の言葉はエッジが立っていて まさに事態を切り裂いていく!)

阿部 「おわりに」 から一節を引用します

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 この書では、以上のような状況を明らかにし、私達の一人一人が自分が属している世間を明確に自覚し得るための素材を提供しようとしたに過ぎない。世間をわたってゆくための知恵は枚挙に暇がない。しあkし大切なことは世間が一人一人で異なってはいるものの、日本人の全体がその中にいるということであり、その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。昔も今も世間の問題に気づいた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。かつては兼好のように隠者となってすり抜けようとしたのである。しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっているのである。そこで考えなければならないのは世間のあり方の中での個人の位置である。私は日本の社会から世間がまったくなくなってしまうとは考えていない。しかしその中での個人についてはもう少し闊達なありようを考えなければならないと思っている。

257-58頁


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2015年5月 1日 (金)

日本教における自然

前便 「日本教的ファンダメンタリズムの大成者」 にひきつづき

山本七平・小室直樹の対談 『日本教の社会学』 からの引用です

「自然」概念については 独自に研究したことがありますが

日本教論において こんなに中核的な概念であることには

当時、まったく無自覚でした お恥ずかしい

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山本  不干斎ハビアンは[…]いったん棄教するとキリスト教が決定的な問題になってきて、何よりもいけないとなる。何でいけないかといいますと、キリスト教は不自然だからいけないというんです。

小室  しかし、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教の考え方からすれば、宗教というのはまず不自然であるべきなんですね。自然のままでいいなんていったら宗教なんて出てきっこない。聖書は[…]人間は自然のままほうっておいたらどんなに悪いことをする動物であるか、その例示で全巻が構成されているといっても過言ではない。それを制御するのが神との契約なのですが、これも自然のなりゆきにまかせておけば、人間は絶対に神との契約を守らない。そこで、神は預言者をつかわして警告し、もし神との契約が守られないのであれば、ユダヤの民を罰し、亡ぼそうとさえする。つまり、自然に価値があるのではなしに、神が作為的にきめた不自然きわまりない契約にのみ価値がある。

山本  日本人の発想はまさに逆ですよ。不自然じゃなきゃいけないんです。内心の規範まで自然的秩序(ナチュラル・オーダー)でなきゃいけないんです。これは前述の明恵上人にも出てきます。ところがそのことをいうと、「じゃヨーロッパの自然法とどう違うんですか」という質問が必ず出てくるんです。つまり自然法という考え方は、自然は本質であるといっても、同時に自由も本質であるという考え方が必ずあるんで、日本だと、つまり自由というのは自然のなかに組み込まれていて、自由という概念そのものが違っちゃう。たとえば、布施松翁(しょうおう)みたいな発想とすると、自然が自由なんですよ。従って、自然・自由は二つの本質ではないんです。
 たとえば、石田梅岩(ばいがん)がそうで、生命あるものは全部、自然の秩序を践(ふ)んでいる。だから「鳥類、獣類、形を践む。されど小人はしからず」なんです。小人というのは鳥類、獣類以下になる。それをどうすれば鳥類、獣類のように形に従って自然を践んで、いけるようにしてくれるかを説くのが聖人だ――といういい方なんですね。この発想はキリスト教とも儒教とも逆転してるんで、これはもう日本人独特の驚くべき宗教観なんです。

小室  これが山本さんのいわれた日本教ですね。[…]


106-8頁: ルビは括弧内に示した

引用者注:
    • 不干斎ハビアン(1565-1621)。もともと禅の修行者だったが切支丹となり、『妙貞問答』(1605)などで儒仏神を批判し、キリスト教の優越を説いた。晩年、修道女と駆け落ちし、棄教。一転、キリスト教の批判書『破提宇子』(1620)を著し、切支丹迫害者となった。
    • 明恵(1173-1232)。鎌倉時代前期の華厳宗の僧。戒律と修行を重んじる立場から、法然の「専修念仏」を激しく非難した。観行での夢想を記録した『夢記』が有名。
    • 布施松翁(1725-1784)。江戸中期の心学者。京都の人。近江地方から各地へと「心学」を開拓した。彼の心学は老荘と仏教思想が濃い。著書『松翁道話』(1812-)は江戸時代の通俗教育書の白眉とされ
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なお、前便にも書きましたとおり

『日本教の社会学』(1981年)はもともと単行本ですが、今や入手困難


そこで、上の引用は 『山本七平全対話4』(1985年)からのものです



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