【シンポジウム】 「宗教」をものがたる - 宗教/文学研究のいま -
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【シンポジウム】 「宗教」をものがたる-宗教/文学研究のいま-
◆ 2016年8月7日(日)13時半から17時半ごろまで
(時間帯が多少前後するかもしれません)
◆ 日本女子大学 目白キャンパス 百年館
◆ 発表者
- 13:30-14:10 大澤絢子(東京工業大学大学院)「新聞小説と親鸞像--石丸梧平から吉川英治へ--」 ※ 石丸梧平の新聞小説をめぐって
- 14:10-14:50 飯島孝良(東京大学大学院)「「メディアとしての一休「像」とその禅文化史的意義」」 ※ 水上勉『一休』、唐木順三「しん女語りぐさ」、加藤周一「狂雲森春雨」、『別冊太陽 一休』などをめぐって
- 15:10-15:50 橋迫瑞穂(立教大学)「ポピュラー小説にみられる宗教/スピリチュアル的「世界」観ーー恩田陸『夢違』を事例に」 ※ 恩田陸『夢違』をめぐって
- 15:50-16:30 茂木謙之介(東京大学大学院)「〈幻想〉の宗教学―雑誌『幻想文学』研究序説―」 ※『幻想文学』をめぐって
◆ 主旨 (文責:茂木)
※ この企画は、「宗教と社会」学会 第24回学術大会でのテーマセッション「物語を読む、宗教を読む―宗教/文学研究の架橋のために―」(代表者:橋迫瑞穂)のフォローアップ企画です
本シンポジウムの目的は、近現代の諸メディアの分析を通して、「宗教文学」を問い、宗教研究と文学研究の架橋を図ることにある。
これまで宗教研究では、フィクションと宗教を問う際に、文学テクストに内在する〈宗教〉的モチーフの検討が多くなされてきた。だが、そこで扱われる〈宗教〉的モチーフとはいかなるものかについては曖昧な議論がまま見受けられ、文学テクストを扱うに際してのメディア論的な見地からの検討も十分になされてきたとは言いがたい。一方で、文学研究における「宗教文学」研究においては、特に特定の宗教への信仰を語る主体を対象とするような作家論的研究が多くを占めていると言える。
過去二十年以上にわたり、人文諸学においては自らの学問領野の自明性・自律性を問い直す試みが行われてきた。宗教研究においては、〈宗教〉概念が俎上に載せられ、分析概念の相対化が図られてきたことは周知の通りであり、また文学研究においても、〈文学〉なるものの範囲、正典(カノン)としての〈名作〉の特権性、そしてロラン・バルト以降の作者の優位性をそれぞれ問い直す動向が生起している。だが、そのように自らの研究領野へ批判的なまなざしを向ける一方で、周辺領野の研究に関して相対化は十分に図られてきていないのではないだろうか。言うなれば物語と宗教の関わりをめぐって、宗教研究と文学研究は、互いの研究領野における学問的達成への目配りが成立しているとは言いがたく、積極的な架橋が望まれているのである。
以上の問題意識から、本シンポジウムでは、作家論的研究を乗り越えることを一つの課題とし、宗教研究及び文学研究で共に研究領野の相対化に資しているメディアへの注目を一つの視座として検討を行う。なお、メディアはイエ、教育とならび、大衆の宗教へのアクセスの仕方として想定可能である。特に大衆が宗教性に巻き込まれる、あるいは大衆を宗教性に巻き込むといった事態を想定した際、メディアを分析する意義はきわめて大きい。これを見ることによって端的に文学の正典に寄り添うだけにとどまらない「宗教/文学」研究の可能性を探ることができるのではないだろうか。
大正期の新聞小説における親鸞の検討を行う大澤絢子、および戦後諸雑誌における一休表象を問う飯島孝良の報告では、近世以降の出版文化の流れを踏まえつつ、近代以降の諸メディアにおける祖師像の形成過程とその意義を明らかにする。スピリチュアリティの観点から恩田陸の小説『夢違』の分析を行う橋迫瑞穂と、雑誌『幻想文学』における宗教学知の影響を論じる茂木謙之介は、1970年代のオカルトブーム以降の現代文化の文脈をおさえつつ、文学の文化的背景としての宗教を論ずる。
コメンテーターには宗教研究と文学研究を架橋する実践者である中西恭子氏を迎え、討議を行いたい。
◆ 連絡先 近藤光博 fwih3395@mb.infoweb.ne.jp またはツイッター @mittsko
◆ 主催:「宗教・イメージ・想像力」研究会/エコノミメーシスR&D
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