カテゴリー「01E 宗教学の積極的解体」の記事

2015年6月 1日 (月)

宗教者と無神論者の双方に関わる問題、あるいは信への転回

《世俗の宗教学》 にとっての(西洋)哲学史上の基礎となるようなところ、じゃないかな

  • ロベルト・デ・ガエターノ著、廣瀬純翻訳・解題「シネマ地理学」 (同編『ドゥルーズ、映画を思考する』廣瀬純・増田靖彦訳、勁草書房、2000[原1993]年、70-131頁)

この論文から一節を引用します

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[…] というのも、哲学は、全宇宙空間に対する全知全能をあきらめることで、こんどは思考されざるものから、思考そのものの力、すなわち思考を信じることの力を作り出すひとつの思考の運動となるからだ。この「信じること」への転向=回心は、「宗教的な」思考者たちだけの問題ではなく、「無神論者」たちにも関わる問題である。 「キリスト者に対しても無神論者に対しても、わたしたちの全世界的なスキゾフレニーのなかでは、この世界〔の存在〕を信じることが許されていなければならない。 [中略] こうした「信じること」への転向=回心は、すでに哲学における大きなターニングポイントとなっていた。それはパスカルからニーチェにわたって行われた転換であり、これによって知(ること)のモデルが信じることによって置き換えられた。ただしこうして信じることが知(ること)にとって代わるのは、信じることが、あるがままのこの世界を信じることになるときだけなのだ」。 [★19] [訳注五七]

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(★19) L 'Image-temps, p.223-224 [2-7-2].

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(訳注五七) ドゥルーズが言う「信仰(croyance)」が極めて特異な意味を持っていることを理解するためにはこのテクストに付けられた脚注が参考になると思われるので、以下に引用する。「哲学史において、知に対して信仰を置き換えることは様々な書き手のなかに見出されるが、そのうちには経験でありつづける者たちだけでなく、無神論者へと回心した者たちも含まれる。ここから次のようなまさにカップルと呼べる存在が生じてくる。パスカル〔宗教者〕とヒューム〔無神論者〕、カント〔宗教者〕とフィヒテ〔無神論者〕、キルケゴール〔宗教者〕とニーチェ〔無神論者〕、ルキエ〔宗教者〕とルヌビエ〔無神論者〕。ただし、敬虔な者たちにおいてですら、信仰はもはや別の世界へと向けられているのではなく、この世界へと向けられているのだ。キルケゴールによる信仰、あるいはパスカルによる信仰ですら、わたしたちに人間と世界〔との紐帯〕を取り戻させるものとなっているのである」(L 'Image-temps, p.224 [2-7-2]. の脚注30)。ドゥルーズが言う「無神論」もまた極めて特異な意味をもつ。「宗教から引き出されるべき無神論が、つねに存在するのである。それは、すでにユダヤ思想においても真実であった。ユダヤ思想は、[中略] 無神論者スピノザによって、ようやく概念に達するのだ」(『哲学とは何か』一三二-一三三頁)。


112-13, 126頁



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宇野邦一らの訳『シネマ2*時間イメージ』からも 同箇所をひいておきますかね

個人的には、 上の廣瀬訳のほうがずっとわかりやすい

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[…] キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。これはすでにパスカルからニーチェにいたる哲学の大いなる転機であった。(30) 知のモデルを信頼によっておきかえること。しかし信頼が知にとってかわるとすれば、それは信頼があるがままのこの世界に対する信頼となるときである。

==========

 30. 哲学史においては,信による知のおきかえが,まだ信仰を捨てていない思想家と無神論的な転回をした思想家とのいずれにおいても行われている.パスカルとヒューム,カントとフィヒテ,キェルケゴールとニーチェ,ルキエとルヌーヴィエといった真の対関係が,そこから生じる.信仰を捨てていない思想家にあっても,信はもはや別の世界にではなく,この世界にむけられている.キェルケゴールやパスカルによれば、信仰はわれわれに人間と世界とを取り戻させるのである.


240,(62)頁: 傍点は太字で示した



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2015年5月 7日 (木)

世間とは何か

今年度、ある授業で 「現代日本の道徳と宗教」 をテーマにかかげている

日本研究者でないので、今更いろいろ勉強している

山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』 を読み終わったので

つぎは、阿部謹也 『「世間」とは何か』 に手をだした

阿部先生の思索は、じつにマイルドで馴染みやすい

教養人、文化人としての落ち着きと懐のふかさを感じさせる

(対して、山本・小室の言葉はエッジが立っていて まさに事態を切り裂いていく!)

阿部 「おわりに」 から一節を引用します

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 この書では、以上のような状況を明らかにし、私達の一人一人が自分が属している世間を明確に自覚し得るための素材を提供しようとしたに過ぎない。世間をわたってゆくための知恵は枚挙に暇がない。しあkし大切なことは世間が一人一人で異なってはいるものの、日本人の全体がその中にいるということであり、その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。昔も今も世間の問題に気づいた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。かつては兼好のように隠者となってすり抜けようとしたのである。しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっているのである。そこで考えなければならないのは世間のあり方の中での個人の位置である。私は日本の社会から世間がまったくなくなってしまうとは考えていない。しかしその中での個人についてはもう少し闊達なありようを考えなければならないと思っている。

257-58頁


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2014年11月14日 (金)

宗教学名著選 刊行開始

国書刊行会より 『宗教学名著選』 というシリーズの刊行がはじまっています

その第2巻 (↓) を御恵贈いただきました。ありがとうございます

 

大変重要で、今後は宗教学研究の基本文献になることまちがいなし!

全六巻の構成が なかなかネットのうえで一瞥できません

国書刊行会のサイトのなかに リーフレット(PDF 注意)が埋まってました

http://www.kokusho.co.jp/catalog/978336056887.pdf

いかがでしょう、わくわくしますよね(*´Д`)

すでに刊行された二つの巻については こちら

http://www.kokusho.co.jp/np/result.html?ser_id=179

第一巻は こちらです (amazon)

 

2011年12月21日 (水)

放送大学の受講生の皆さんへ ※ 面接授業「現代宗教論」

放送大学での面接授業 「現代宗教論」 にて

お配りすべき文献リストの最終頁が抜けておりました

全体を作り直しました

こちらからダウンロードできます

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どうぞご自由にご覧くださいませ

どのように使っていただいても結構ですが

その際 私のこの頁にメンションしてくださいますよう お願いいたします

2011年10月26日 (水)

【講座】 現代宗教論

放送大学の 「面接授業」 のひとつとして

「現代宗教論」 などという大仰なタイトルの連続講義をさせていただいております

放送大学のサイト ⇒ http://syl-web1.code.ouj.ac.jp/ouj-f232/dt-8550.html

私がこれまで取り組んできた研究課題は 以下の3つ

  • 宗教と政治、 もしくは近現代インドの政治とヒンドゥー教
  • 宗教と世俗、 もしくは現代日本の宗教概念をめぐる言説空間
  • 宗教と世俗のあいだ、 映画の宗教学

そこから 一般的な宗教論として引き出した結論を

私としてははじめて 横断的、総合的に論じてみよう、 という授業です

以下、内容の紹介をば

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専門科目:人間と文化 | 現代宗教論

【授業内容】

 長足の進歩をやめない科学技術と、 政治経済・文化のグローバル化により、 私たちの日常は激変しています。 そうした情況下、 宗教についての既存の理解や意味づけもまた問いなおされています。
 たとえば、 公的領域 (政治、 法律、 経済、 教育など) であらたに重要性をもつようになった宗教があります。 また、 あらたな宗教団体の発生と展開の脇では、 スピリチュアリティ (霊性) と呼ばれる領域が爆発的に拡大しています。
 これらの現象は、 実は、 ただ単に新奇であるというより、 現在進行中の世界的な支配構造の変化に対応するものです。 そのため、 私たちがこれまでもってきた宗教についての理解や価値づけが、 おそらくは一般に想像される以上の深さから、 変更を余儀なくされています。
 本講義は、 そうした変化をとらえるため、 概念のレベルから考察を説きおこし、 各種事例を位置づけるための包括的な宗教論の再構築を目ざします。

【授業テーマ】

  • 第1回 日本語の「宗教」とは何を表すか
  • 第2回 宗教/世俗の二分法、あるいは宗教概念の三分類
  • 第3回 宗教と世俗のあいだ ―藝術と霊性―
  • 第4回 宗教紛争における宗教 ―南アジアの事例から 問題の所在―
  • 第5回 宗教紛争における宗教 ―南アジアの事例から イギリス植民地支配―
  • 第6回 宗教紛争における宗教 ―南アジアの事例から 現代インドのセキュラリズム―
  • 第7回 宗教と民族、あるいは信仰・宗教団体・宗教分類学
  • 第8回 まとめ 現代宗教論の展開

【学生へのメッセージ】

 宗教についての予備知識は不要です。 むしろ、 「宗教」 という問題について、 既成の理解を一旦脇において、 あらためて考えなおしてみたいとの意欲をもって受講していただいたいと願います。

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2010年7月30日 (金)

《あちら》との境域を指示するのに用いられる 「通俗」 概念、 あるいは映画の獰猛さについて

  • 高橋洋 『映画の魔』 (青土社, 2004年10月)

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 映画は徹底して通俗なのである。 通俗とは本来、 既存の通念の枠内に収まることを指すのだろうが、 私はあらゆることを “出来事” 化し、 つまり見世物化する映画の獰猛さを通俗と呼びたい。 見世物という通念の側から観客を撃ち、 あのカタマリを、 天国から地獄までをまるごと触知させる、 その可能性をこめた通俗に私は賭けたいと思っている。 映画はそれ自体として決して仰ぎ見るものではない。 “出来事” という通俗の地べたをはいずり回るものだ。 映画をめぐる一部の言説は、 時として映画を仰ぎ見るものとして抑圧的に働いてしまった。 私がいちいちスピルバーグに難癖をつけるのは、 彼が映画を仰ぎ見てしまっているからなのである。 だがそこでスクリーンに投影されるのは、 映画を愛する自分への自己愛だったのではないか。 そのことがネガティブな意味において彼の映画の通俗性を保証してしまい、 彼以降の映画を (これまた一見実に派手なエンターテインメントでありながら) 細々としたものにしてしまったのではないか。 私は映画なぞ仰ぎ見ない。 私は映画のただ中にいる。 そして私は、 もはや映画とは言えぬものの予感に身を焼かれるのだ。

75頁

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2010年5月 5日 (水)

ファンタジー,メタファー,リアリティ

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 窓は開けられ、6月の風が白いレースのカーテンの裾を静かに揺らせている。 かすかに潮の匂いがする。 海岸の砂の感触を手の中に思い出す。 僕は机の前を離れ、 大島さんのところに行って、 その体を強く抱く。 大島さんのすらりとした身体は、 なにかひどく懐かしいものを思いださせる。 大島さんは僕の髪を静かに撫でる。

「世界はメタファーだ、 田村カフカくん」 と大島さんは僕の耳もとで言う。 「でもね、 僕にとっても君にとっても、 この図書館だけはなんのメタファーでもない。 この図書館はどこまで行っても――この図書館だ。 僕と君のあいだで、 それだけははっきりしておきたい」

「もちろん」 と僕は言う。

「とてもソリッドで、 個別的で、 とくべつな図書館だ。 ほかのどんなものにも代用はできない」

 僕はうなずく。

「さよなら、 田村カフカくん」 と大島さんは言う。

「さよなら、 大島さん」 と僕は言う。 「そのネクタイはとても素敵だよ」

 彼は僕から離れ、 僕の顔をまっすぐ見て微笑む。 「いつそれを言ってくれるか、 ずっと待っていたんだ」

村上春樹 『海辺のカフカ (下巻)』 (新潮社, 初版, 2002年) 424‐5頁: ルビは省略

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上の引用はハードカバー版より。 下は文庫版へのリンクです

2010年3月24日 (水)

宗教的な装置はその機能を失い、もはや修復不可能である

長々とやってきました

  • マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)

に関する連投――

本便で 一応の区切りとさせていただきます

お付き合い ありがとうございました

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ゴーシェのこの本は 彼の研究活動の

ひとつの集大成、 というかそのコンサイスな全体像

という位置づけがどうやらできるそうなので (たしか訳者談)

結論にあたるものがあるわけではない

この本が 全体として ひとつの結論になっている

と 言った方がよいのだろう

それでも、 ゴーシェの語りの要点みたいなところは

いくつか散見されるわけであり、 私見によれば

そのうちの一つが 100-103頁 にある!

そこで言われているのは こういうことだ――

====================

諸宗教は 完全に 民主主義へと統合された

    ↓

民主主義にとってそれは、 対抗相手がもはやいないということ
 <根源の枯渇>

    ↓

これにより今や 「信じうることが根本からずれる」 ことになっている
 <実質的な内容の衰退>

こちらをちょっと見ていただけると嬉しい

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この図式は 《世俗化》 論のそれと大差ない

しかし、 それを 政治学と心理学の知見のなかで

ひとつの大きな枠組みに仕立て上げたところが 凄い!

2010年3月23日 (火)

「宗教の復権」 ならぬ 「宗教の根源的変容」

前便 「《内的世俗化》 が徹底した今という時代」 より つづく

前便 に いろいろと注意書きをしました

そちらをご覧のうえ、 以下 お読みくださいませ

====================

  • マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)

《世俗化》 が行くところまで行く、 すなわち

《内的世俗化=宗教の個人主義化》 がデフォルト化して

「宗教」 自体が それに意義をとなえられなくなる――

ゴーシェの (フランス) 社会に対するこのような診断が正しいとして

では、 「宗教」 (主たる内実は 《フランス・カソリシズム》 ) には

どのような 「仕事」 が残されているのか、 いないのか

と、 そういう話題で本便へ という流れになっています

ゴーシェ曰く

 だが、 宗教にはやはり、 宗教にしかなしえない仕事が残されている。 宗教は神に準拠しているため、 神なしですます思想よりも、 すぐれたよき生をもっていると主張することができる。 神に依拠してよりより生を説くことには、 それなりの輝かしい未来がある。 厳密に言えば、 俗なる倫理と聖なる教説のかつての対立は、 今や収束している。 だが、 競争はある。 したがって、 宗教が倫理の方へと向かう動きがいくら重要なものだからといって、 神学的なものは倫理的なものへと解消される傾向があると、 いささか性急な結論をそこから導いてしまっては勇み足だろう。

160頁

現在の宗教論が直面する根本的な困難とは

「宗教」 の言説論的布置があやふやになっていること

そこに起因する

ゴーシェの上のような整理は、 そうした曖昧さに

一定の見通しを与えるという点で、 とても重要だ

しかし、 簡単に誤読されてしまいそうである

これは 「宗教の復権」 を言祝ぐ理論では まったくない

「宗教」 の根本的変容について、 フランスの事例をもとに

ある一般的な見通しを与えようとする――

とても冷静で、 ある意味 冷徹な観察者のコトバである

 かつて偉大な思想家たちは、 人びとを迷妄から覚めさせようとして、 宗教は人間の精神が生み出した産物にすぎず、 現世的な目的のために存在しているだけなのに、 その真の姿を隠蔽していると言って非難したものだが、 今日宗教的意識は、 まさにそうした真の姿になろうとしている。 ただ、 疎外からの救済を説いた哲学者たちは、 このような距離が内側から取れれば、 宗教的意識は消滅すると考えていたが、 今日ではそれどころか、 その距離によって新たな正当性が可能になっている。 信仰の原動力は人間に発し、 人間に帰する―― だが、 こう言うだけ、 信じるための理由がひとつ加わるのであり、 それがひょっとすると最良の理由かもしれない。

160-61頁

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2010年3月22日 (月)

《内的世俗化》 が徹底した今という時代

  • マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)

連投で 自分のメモかねがね いろいろご紹介しております

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ゴーシェの議論の結論は とりあえずフランスの

次に西ヨーロッパ諸国の、 さらに先進諸国の

社会において、 いわゆる 《世俗化》 が

行き着くところまで行ったのだ、 ということです

(1)

なおちなみに ゴーシェ自身は

「secularisation」 という概念に 留保をつけています (37-40頁)

ちゃんと議論すべきポイントですが、 すいません

とりあえず 日本語でのいわゆる 《世俗化》 ということで

話をつづけさせていただきます

ゴーシェによれば、 それは 「宗教」 の否定ではありません

社会から 「宗教」 が消え去っていく、 ということではありません

「宗教」 が 「自律」 をみずからに取り入れることで

それ自体として変容する、 ということです

(2)

ここで もう一つの留保――

次の引用に明らかですが、 ゴーシェは

フランスの事情をあまりに一般化しすぎています

彼自身の卓見を表現し 伝達するためにこそ

「宗教」 という普遍概念を用いないほうがよい

と、 僕には思われます

その点は すでに前便で論じました

要は、 下記引用文中の 「宗教」 とは 当面

フランスのカトリック教会とその影響圏という意味で

《カソリシズム》 を指す、 と脳内変換をおこない

一般的な宗教論には直接つなげないように お願いします

ということです

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 ところが今日、 人びとの意識が宗教の方へと向かう場合、 探求や懇請は、 逆に当然の需要として正当化されている。 あらかじめ定められた意味のようなものがあって、 それに従ったり、 そのために自分を曲げたりすべきだとは、 まったく思われていない。 だが、 個人としては、 自分を個として確立するために、 世界の神秘や自分の実存を正当化してくれるものを問わねばならない。 今や宗教的な行動の核心をなすのは、 探求であって受容ではなく、 自分のものにする動きであって無条件の自己犠牲ではない。 信仰が模範的であるか否かは、 その信念が堅固かどうかよりも、 不安が正真正銘のものであるかどうかにあり、 既存の宗教もその例に漏れない。

 意味の需要は、 自分のことに無自覚ではないし、 それに個人的な性格を要求している。 したがって、 そこから出発して、 内実を備えた真実に至る野望が抱かれることはありえない。 目指されているのは、 真ではなく意味であって、 完全な正確さを期して言うなら、 問題なのは、 真が客観的であるかどうかではなく、 ある主体性にとっての意味が、 客観的な必然性に適っているかどうかである。 […]

158頁

これは いわゆる 《内的世俗化》、 あるいは 《宗教の個人主義化》

という事態を 赤裸々に描写している部分です

この揺るがしがたい、 と言うよりも すでに完全に既定路線と化した

社会=心理様態の時空において

いわゆる 《宗教復興》 も注意深く解せよ、 とゴーシェは言います

つまり、 それは 《世俗化=個人主義化》 した宗教の台頭であって

単なる 「復興」 などではなく、 《近代的なもの》 (引用者の言葉)

そっくりそのままあてはまるのだから、 と

では、 ゴーシェの言う 「宗教」 (主としては、 《カソリシズム》 ) に

それ自体としての、 独自の 「仕事」 は

もう残されていない、 ということなのか

ゴーシェは それはちょっと違う、 と言います

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<つづく>

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