カテゴリー「04D 連載 近代とは何か、近代性とは何か」の記事

2016年3月14日 (月)

個人主義の理論 -ギデンス、トゥレーヌ、ベック

ウルリッヒ・ベック曰く

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 個人は発展した近代がもたらす、より抽象的で、よりグローバル化した構造から利益を引き出すことができるとアンソニー・ギデンス(1990)は強調している。これに対してトゥレーヌ(1992)は、この構造は科学的方法によって「鍛えられて」おり、個人は結局のところ、より高度に合理化された生産物の付属品と化し、「消費単位」として疎外された存在を生きることになると危惧している。私の目から見ると、国民国家を土台とした(第一の)近代の諸構造は、ギデンスが約束し、トゥレーヌが危惧しているほどに安定的なものだとはとうてい思えない。まさに正反対のことが正しい。その構造は浸食され、統合力を失い、そこから生じている真空状態の中で様々なプレイヤーが不慣れな関連枠の中で不安な手探り状態を続け、しかも知識さえ(得られ)ないままに自分の新しい行為空間を測量することを学ばねばならない。その関連枠を構成しているのはラディカル化し、コスモポリタン化した格差であり、しかも文化的、宗教的他者を自分たちの経験や反省の地平から排除しえないという条件だ。

183頁


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ここで要約されているかぎり、 ボクはベックの立場に賛成だ (。・ω・。)

さてベックはこれにつづけて、 より微細な議論にも注釈をつけていく

それはまた次のエントリで

2016年3月11日 (金)

歴史的闘争、制度化、具体性

ウルリッヒ・ベック曰く

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 したがってわれわれが今日、そして未来において関わることになる (1) 個人化の歴史的主観形式は、イマヌエル・カントが考えていたような 抽象的な 意味で人間の決断の自由を表現したものではない。カントは個人的な行動動機を悪の源泉とみなしていた。私の道徳原則が一般化可能な場合にのみ、そして私の行動の格率が私の社会的立場や、私の利害や、私の情熱から発していない場合にのみ、それは道徳的に善とされる。この立場からすれば、行動者の主観性から切り離された行動だけが「善」とみなされる。ルソーもまた似たような議論をしている。ルソーにとっては、特殊利害を洗い流した 一般化可能な 意志だけが社会契約の基盤となりうる。こうした高級道徳は一方では個人的なものから切り離され、他方では一般化された個人にとらわれている。これに対して、個人化はこうした高級道徳を越える何かを意味している。個人的な個人主義が、また一般的な道徳的個人主義が、ここでは 制度化された個人化 によって置き換えられる。それは一連の歴史的闘争の成果として解読されねばならない。すなわち宗教的寛容を、あるいは市民的、政治的、社会的基本権を、そして何よりも一般的人権を求めてきた闘争の成果として。一般的人権とは、一般化されたものとして考えられた個人に対して自由を保証するものであり、その要求は、現実における絶えざる人権侵害によっても無力化されることはない。こうしてみるならば個人化は決してアナーキズムに流れ込むことはない。むしろ逆に、それはナショナルな防壁に抵抗し、国境を越えて道徳的統一性を保証しうる価値体系となり、信念体系となる。

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(1)  しかもこれは John W. Meyer 2005 [Weltkultur. Wie die westlischen Prinzipen die Welt durchdringen, hg. von Georg Krücken. Frankfurt a. M.: Suhrkamp.] の拡散とグローバル化の分析に従えば全世界的現象だ。

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144-45頁: 傍点は太字で示した


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すごく大事な、そして大好きな一段落(*'▽') 力づよいなぁ

ボクが 《世俗の宗教学》 と呼んでるものの重要なピースになる言葉

こういうのに出会うと、 なんかやっててよかったな、って思う

2016年2月24日 (水)

20世紀における「反近代」の変容

こちらのワークショップ での主要参考文献のひとつ

島薗進 『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』 (東京堂出版,2001年) より

近代は、「反近代」をつねに内包させてきた――

この事実が、ポストモダンを論じるのをいつもむずかしくさせます

この本では、とくに近代日本の新宗教団体の歴史に注目して

「反近代」の変容について語っている箇所があります

それは、「見えにくい、しかし大変大きな変容」だと言われています


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 幸福の科学が新新宗教[1970年代以降に発展した宗教団体]による近代的価値への批判のあり方の典型だというわけではない。これは一つの例にすぎないのだが、ここにポストモダン的な近代批判という点でこの時期[1990年を前後する時期]の時代相が如実に表現されているのも確かだろう。かつての新宗教[江戸時代の末期から1960年代までのあいだに発展した宗教団体]の中にも、西洋的近代への批判や唯物思想批判を唱えるものが少なくなかった。大本教はその代表的な例である。

 しかし同じく近代批判、唯物思想批判といっても、その意味が相当に異なってきている。大本教では「われよし」の態度が告発の主たるターゲットであり、相互扶助精神の崩壊を招く利己主義、私利追求主義が厳しくとがめられた。そこではヨコの連帯の意識が基礎にあり、それを脅かすものに批判が向けられた。新新宗教においてはヨコの連帯の意識は薄く、タテの秩序を回復することに力点が置かれている。資本主義的な自由競争を是認しつつ、差異に基づく階層的秩序を再建し、悪平等がもたらす混乱に対処しようとするのである。宗教はヨコの連帯や苦悩への共感のよりどころとしてよりも、聖なるものに基づく差異を確立し、距離をもって対すべきものの場所を指し示す根拠として理解されている。

 こうした相違は「反近代」、すなわち近代的価値への抵抗のモメントが、二〇世紀を通り過ぎる間にこうむった、見えにくい、しかしたいへん大きな変容を反映している。[1970年代以降]新宗教において地域の小集団が発展しにくくなってきたことは、第二章で述べた。これは身近な生活感覚を分かち合う人々のヨコの連帯の感覚が弱まってきたことと関わりがある。暖かい共同性の中に住まおうとしても、身近な生活空間の中では容易に実現しそうではなくなってきた。砂漠の砂粒のような孤立感に脅かされるとき、メディアを媒介としたゆるやかな連帯意識[たとえば、「新霊性運動=文化」にみられる]はとりあえずの落ち着き場所と見える。しかし、それは安定した秩序や根の降ろしどころを示してくれるものではない。

 自由競争が生活の隅々にまで浸透するとともに、画一的な平等主義の抑圧性が自覚されるようになり、相互扶助に根ざした共同性が現実性を失い、イメージすることも難しくなってきた。無理にそれを実現しようとすれば、内閉的な集団を構成することになってしまい、安定感を提供するように見えながら、実は抑圧性を強化するしかないというように見える。また、その方向をとるにせよとらないにせよ、ヨコの連帯よりも差異と階層性を強調する方向で、近代への抵抗を組織化する傾向が目立つようになってきた。秩序の元基をヨコの連帯よりも、聖なる中心と階層性の方に見出す考え方が力を得てきたのである。


236-237頁: 注は省略


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2016年2月17日 (水)

島薗進 『ポストモダンの新宗教』 (2001)

こちらのワークショップ での主要参考文献のひとつ

島薗進 『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』 (東京堂出版,2001年) より

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 では、[ポストモダンの新宗教、すなわち「新新宗教」において] このように隔離型や個人参加型という両極端のタイプの教団がいくつも登場するようになったのはなぜだろうか。隔離型と個人参加型がふえてきたということは、中間型の教団の占める割合が [「旧」新宗教のなかで] かつては圧倒的多数だったのに、今ではかなり低くなってきたということでもある。いいかえると世俗生活と連続的な生活規範(「心なおし」の体系)の習得深化を目標とし、教祖や最高指導者から地域熱心家に至るヒエラルヒー的な指導者系列をもつ信仰共同体を形成することが困難になってきたということである。さらに、なぜそれが困難になってきたかといえば、世俗生活(一般生活)の道徳的秩序やそれを土台とする親密な人間関係が築く(守る)に足りるもの、守りうる(築きうる)ものと感じられなくなってきたからだろう。いいかえれば、情報化が進み、社会構造がますます複雑化・多様化し、人間関係の機能化が進んだために、人と人との絆が弱まり、それを反映して個人主義的な考え方が広まってきたということである。

 そうした状況で、一般社会に適合する方向でなお教団が形成されるとき、個人参加型の特徴を帯びるようになる。すなわち心なおしの教えが薄められ、信仰共同体も散漫なものになるという形である。こうした教団は時に、宗教書や救いの処方箋や瞑想法などの宗教商品を販売する会社のように見えることがある。一方、一般社会の趨勢に対抗し、道徳的一致や緊密な共同体の形成を目指すとき、隔離型の教団が形成される。つまり、一般社会とは断絶した強固な道徳規範と共同体を作ろうとするわけである。こうした教団は一般社会との厳しい緊張関係に立ち、社会問題を引き起こす可能性が少なくない。統一教会の霊感商法のように、他方で方便として宗教商品の販売会社的な活動を営むような場合にはなおさらのことである。


35-36頁


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2015年5月 7日 (木)

世間とは何か

今年度、ある授業で 「現代日本の道徳と宗教」 をテーマにかかげている

日本研究者でないので、今更いろいろ勉強している

山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』 を読み終わったので

つぎは、阿部謹也 『「世間」とは何か』 に手をだした

阿部先生の思索は、じつにマイルドで馴染みやすい

教養人、文化人としての落ち着きと懐のふかさを感じさせる

(対して、山本・小室の言葉はエッジが立っていて まさに事態を切り裂いていく!)

阿部 「おわりに」 から一節を引用します

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 この書では、以上のような状況を明らかにし、私達の一人一人が自分が属している世間を明確に自覚し得るための素材を提供しようとしたに過ぎない。世間をわたってゆくための知恵は枚挙に暇がない。しあkし大切なことは世間が一人一人で異なってはいるものの、日本人の全体がその中にいるということであり、その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。昔も今も世間の問題に気づいた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。かつては兼好のように隠者となってすり抜けようとしたのである。しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっているのである。そこで考えなければならないのは世間のあり方の中での個人の位置である。私は日本の社会から世間がまったくなくなってしまうとは考えていない。しかしその中での個人についてはもう少し闊達なありようを考えなければならないと思っている。

257-58頁


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2015年4月23日 (木)

近代経済人の宗教的根源

宗教と経済、宗教と資本主義 の関係については これまで

などのエントリで少しずつ考えてきました

んでもって、ここでは そのものズバリのタイトルをもつ

梅津順一 『近代経済人の宗教的根源』 を紹介したいと思います





お察しのとおり、ウエーバーの「プロ倫」テーゼ再考の一冊です





冒頭の二段落を書き抜きますね

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 本書で「近代経済人」というときには、二つの意味で使用されています。ひとつには、歴史的に西ヨーロッパで近代資本主義が発生してくる過程で、それに積極的にかかわった人間類型という意味で、もうひとつには、理論的に経済学が全tネイとする人間像という意味です。今日の世界では、政治における人権思想と同じく、経済における市場原理の普遍的意味が、体制のいかんを問わず、文化のいかんを問わず、広く承認されてるようになりました。「宗教的根源」とは、その市場原理に対応する独立した責任的主体が、禁欲的プロテスタンティズムと深い関わりの中で発生したことを意味しますが、そうした問題設定は、いささか奇異の感をもって受け取られるかも知れません。人権思想が信教の自由をその中に含むと同じく、市場原理に対応する人間もまた、特定の宗教的背景とは無関係であることが常識とされているからです。

 ここでは、近代資本主義の発生を歴史的個性的現象として見るという観点に立っています。今日普遍的と考えられている現象も、それがどのようなものであれ、歴史においては同じ時期にどこにでも同じように現れたのではなく、特定の時と所で、さまざまな諸条件の個性的組み合わせによって発生しました。近代資本主義の発生にあっては、とくにプロテスタンティズムの禁欲の系譜を引く「資本主義の精神」の積極的役割が注目されるのですが、その問いには確立した近代資本主義が暗黙のうちに前提としている人間的条件を明確にするという意味があります。個人を内面的に理解するには、本人も忘れたかも知れない性格形成期の経験を知ることが重要なように、近代資本主義を内面的に理解するには、今日では忘れられた発生期の精神的状況を知ることが有効なのです。もちろん、この本がどれだけその狙いを達成しているかは読者の判断に待つほかありませんが、文化的背景を異にする諸社会の資本主義の構造をめぐる議論や、資本主義の人間的意味とその将来をさぐる思索に、なにほどか寄与するものであって欲しいと願っています。

i-ii 頁

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2015年2月11日 (水)

西ヨーロッパの宗教状況、あるいは世俗化と「見えない宗教」

ナタリ・リュカ著/伊達聖伸訳 『セクトの宗教社会学』 読了

訳者の伊達さんにご恵贈いただいた >ありがとー、伊達さん

とっても素晴しい一冊だった

 

前便 「世俗人、あるいは資本家と資本主義者」 で紹介したのもこの本

セクト論概説という、リュカのねらいとは別のところを引用させていただいたわけだが

ここでもまた リュカの本論からすれば補足的なところに興味がいったので

紹介させていただきたい

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リュカは 「西洋」 をいくつにも分けて思考をすすめる

ヨーロッパとアメリカをわけ、西欧とその他欧州をわけ、フランスとその他の国々をわける

韓国の現代宗教研究者であるリュカ (「訳者あとがき」参照) は

オクシデントをいわば人類学的な視野のなかにおいているわけだ

ということで、 次の短い一節には たくさんの研究成果が凝縮されている

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ヨーロッパの宗教状況は、次のような共通の大きな傾向によって特徴づけられていて、他の地域に見られる現象と比べても、その特殊性は目立っている。すなわち、心性の世俗化、文化の多元化、統一をもたらす大きな思想体系の喪失、大きな宗教制度の影響力の後退、信者数の顕著な減少、個人主義的な信仰の分散、規制緩和された象徴財の市場における宗教的小集団やネットワークの増殖などである。ここに掲げた現象はすべて、西欧全体に認められる。

120-21頁

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見やすいように箇条書きにしておこう

  • 心性の世俗化
  • 文化の多元化
  • 統一をもたらす大きな思想体系の喪失
  • 大きな宗教制度の影響力の後退
  • 信者数の顕著な減少
  • 個人主義的な信仰の分散
  • 規制緩和された象徴財の市場における宗教的小集団やネットワークの増殖

2015年2月 9日 (月)

世俗人、あるいは資本家と資本主義者

近代性について考えていくと、 国民国家と資本主義のところで どうにも行き詰ります

いずれもが、近代を決定的に規定するのですが

いずれもが、近代性の原則 「人間主義・個人主義・合理主義」 とうまく合致しないからです

ここら辺は こつこつと考えてきましたが やっぱりまだ上手い答えがみつかってません

さらに こつこつと勉強していくしかなさそうです

ということで… 次の新書『セクトの宗教社会学』から、一節をご紹介します


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 リュック・ボルタンスキーとエヴ・シアペロは『新・資本主義の精神』 [邦訳は下記リンクの 『資本主義の新たな精神』] において、「近年の資本主義の変容にともなうイデオロギーの変化」を研究している。彼らによれば、資本主義は三つの時期を経験してきた。第一期は十九世紀末に現われ、それは「ブルジョワ的」で「家父長的」そして本質的に「家族的」な起業家世界の側面によって特徴づけられる。このような側面は、本研究 [ナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』] が扱う社会的な問題集団 [セクト/カルト] の特徴には合致しない。しかし、第二期および第三期の特徴は、これらの集団にぴったり当てはまる。第二期資本主義の精神は、一九三〇年代から一九六〇年代に発達したもので、それはとくに戦中および冷戦期の「社会的公正を目指す大企業と国家の協力」によって特徴づけられる。大企業は社会的使命の担い手を自任し、勤労の精神を強調した。その規模は「目がくらむほど巨大」で、第一期を特徴づけていた家族企業の規模とは雲泥の差である。そして「大規模な経済、製品の標準化、労働の合理的組織化、市場拡大の新技術に依拠しながら、大衆向けの商品を産み出していった」。大企業の特徴は効率という基準を追求したことで、それが年功序列の基準に代わり、昇進を正当化する唯一の基準になる。労働者は「資本蓄積の過程」において決定的な役割を担っているにもかかわらず、その「主たる享受者」ではない。

74-75頁: 注は省略した

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「第三期資本主義の精神」 は次のようにいわれる

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 共産主義の崩壊は企業に大きな衝撃を与え、そのあり方を深いところで変えてしまった。「一九八〇年代後半、冷戦の終結にともない資本主義のみが生き残った。それに対抗しうる信憑性のある代替物が現われることはなかった」。資本主義を正当化する論理がいっそう個人主義的なものとなり、企業は国家との関係を解消する。競争の激化とグローバル化の進展のなかで、企業は人事もさることながら技術の適用性を重視する。もはや人員を丸抱えで導くだけの強力なイデオロギーがないため、企業の動員力は自分のヴィジョンを伝えて従業員を引きつけることのできるカリスマのある指導者の肩にのしかかる。このようななかで登場してきた職務に、「各人の潜在能力を伸ばすよう個人指導を行なう役割」を担う「コーチ」、チームのレベルで同様のはたらきをする「マネージャー」、情報を握っている「エキスパート」などがある。従業員全員に大きな責任が負わせられ、各人は「雇用条件を満たす能力」を最大限発揮するよう求められ、自分が携わっているすべてのプロジェクトにおいて有能であることを示さなければならない。そのためには、各人は人間関係のネットワークのなかで自分の位置を見出し、それを活用しなければならない。成功するためには、ひとつの仕事を覚えるだけではもはや不充分で、リスクを引き受けながら刷新をめざし、もはや私生活と職業生活の区別がつかなくなるくらい、自分の人柄と誠意を賭けなければならない。すると、失敗は個人的な性格を帯び、その人の価値は下落し、場合によっては孤立を招くことになる。

77-78頁: 注は省略した

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2013年5月24日 (金)

宗教的人間と非宗教的人間のあいだの本質的差異?――エリアーデの公理

エリアーデは 宗教的人間と非宗教的人間を 明確に区別する

そこには「本質的な差異が存する」と力説する

前者は「超人間的性質」に通じているが

後者は「神」との交わりをもたない「人間的経験」しか生きない、という

この断言(大変つよい調子だ)の根拠/論拠は 示されない

これは エリアーデ思想における無媒介の公理だ

さて、私たちは そのようにして出来上がる「宗教」理解を どう受け止めるべきだろう?

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 近代社会の非宗教的人間にとって時間が何であるか、を手短かに述べることはなお一層難しかろう。われわれはここで近代哲学の時間論についても、今日の科学の時間概念についても語ろうとは思わない。体系や哲学ではなく、実存的行動様式が当面比較対照のまとである。非宗教的な人間もまた、或る種の時間の非連続と異質性とを知っている。彼にとってもまた、たとえば比較的単調な仕事の時間と、娯楽と慰めの時間、要するに〈祭の時〉とがある。彼もまた [宗教的人間 homo religiosus と同様に] さまざまな時間リズムの中に生き、濃度を異にする時間を知っている。好きな音楽を聞くとき、恋人を待つ時、また会っている時、彼は働いたり退屈したりしている時とは別の時間リズムを感ずる。

 しかもなお宗教的人間と彼との間には本質的な差異が存する。前者は浄められた時間を知っている。それはその他の時間経過と共通点をもたず、異なった構造、異なった〈起源〉をもつ時間であり、神々によって浄められ、祭によって再現される原初の時間である。宗教的でない人間には、この祭礼の時の超人間的性質は到達し難い。非宗教的人間によって、時間には断絶もなければ〈秘密〉もない。時間は人間の最も深い生存の次元である。それは彼の生存と結びついており、したがって始めと――生存を滅する死において――終りをもつ。彼の体得する時間リズムがいかほど多種多様であろうとも、その濃度にいかほどの差異が感じられようとも、非宗教的人間は、それらが常に神の現在の入り込む余地をもたない人間的経験であることを知っている。

61-62頁

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続きを読む "宗教的人間と非宗教的人間のあいだの本質的差異?――エリアーデの公理" »

2013年2月10日 (日)

ロマン主義のお勉強のために 【文献リスト】

ツイッター上で ロマン主義を勉強したい、と囀った

そしたら 某西洋政治思想史家から

(実名だがカギ付きのアカウントを使ってらっしゃるので お名前はふせる)

オススメの本をご紹介いただいた

大変ありがとうございます せっかくなので こちらでもご紹介

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まずは次の四冊

  • H・G・シェンク『ロマン主義の精神』生松敬三/塚本明子訳,みすず書房,1975年.
  • M・H・エイブラムズ『鏡とランプ―ロマン主義理論と批評の伝統』水之江有一訳,研究社出版,1976年.
  • M・H・エイブラムズ『自然と超自然―ロマン主義理念の形成』吉村正和訳,平凡社,1993年2月.
  • リリアン・R・ファースト『ヨーロッパ・ロマン主義―主題と変奏』床尾辰男訳,創芸出版,2002年2月.

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んでもって まぁいろいろありますけど… 参考までに…

というニュアンスで次の一冊

  • ケネス・クラーク『ロマン主義の反逆―ダヴィッドからロダンまで13人の芸術家』高階秀爾訳,小学館,1988年11月.

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その後 さらに次の5冊も教えてくださいました

<英文学>

  • W・J・ベイト『古典主義からロマン主義へ―18世紀英国の文学的風土』小黒和子訳,みすず書房,1993年7月.
  • セシル・モーリス・バウラ『ロマン主義と想像力』床尾辰男訳,みすず書房,1974年1月.

<その他>

  • フランク・カーモード『ロマン派のイメージ』菅沼慶一・真田時蔵訳,金星堂,1982年7月.
  • キャスリーン・コーバーン『自己認識を広げる想像力―コールリッジのメモ帳の研究』渡辺美智子訳,八潮出版社,1991年12月.

<必読>

  • 佐々木健一『美学辞典』の「想像力」の項目

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