前便 「見田宗介のコミューン経験」 より つづく
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見田宗介/真木悠介先生 のコミューン運動の主導・関与について
まずは批判的に検討しておきたい――
ということで いくつかのエントリを重ねるつもりです
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見田/真木先生は 2006年4月刊行の新書のなかで
「コミューンという経験」 の批判的継承を説く
そこには ご自身の コミューン運動の参与と主導の経験
への批判が含まれているのだろうが
それがそれとして 明示的に総括されるわけではない
“推して知るべし” ということなのだろう
こうした態度には 賛否両論があるはずだ
不徹底で不誠実ととるか、 必要十分ととるか…
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以下に 前掲書から引用いたします
とても長い引用になります
長い引用は 僕の本意ではないのですが…
そもそもこの本が 各種論点をかなり凝縮させ
選別され洗練されつくした特殊概念で埋め尽くされています
そのため、 細切れの引用を なかなか許してくれません
ご理解のうえ どうぞお付き合いくださいませ
以下引用
これに対して、 われわれの社会構想の構成の二重性の内、 せっきょ気宇的な実質のユニットを構成している、 〈交歓する他者〉 たちの関係のユートピアというコンセプトは、 社会の理念史の内で知られているコンセプトとの対応でいえば、 「コミューン」 という経験のエッセンスを確保しながら、 個の自由という原理を明確に優先するということを基軸に、 批判的な転回を行なおうとするコンセプトである。
この批判的な転回は、 核となる論点なのであえてくりかえして展開すれば、 社会のこれまでの理念史の内の 「コミューン」 という名称のほとんどが強調してきた、 「連帯」 や 「結合」 や 「友愛」 ということよりも以前に、 個々人の 「自由」 を優先する第一義として前提し、 この上に立つ交歓だけを望ましいものとして追求するということである。 このことの系として、 それは個人たちの同質性でなく、 反対に個人たちの異質性をこそ、 積極的に享受するものである。 サルトルが、 他の点では学ぶべきことの多いその社会理論の力業 (『弁証法的理性批判』) において提示した、 「溶融集団」 ――そこでは他者の他者性は溶融するという―― とは反対に、 他者の他者性こそが相互に享受される関係の圏域である。 われわれにとって好ましいものである限りの 〈コミューン〉 は、 異質な諸個人が自由に交響するその限りにおいて、 事実的に存立する関係の呼応空間である。
このように、 われわれの社会構想の積極的な実質のユニットをなす 〈関係のユートピア〉 たちが、 コミューンという経験のエッセンスをその生命として擁護するものでありながら、 個々人の自由を優先する第一義として前提すること、 個々人の異質性をこそ希求し享受するものであることを表現するために、 これを 〈交響圏〉、 あるいは 〈交響するコミューン〉 と名づけておくことが出来る。 〈交響するコミューン〉 というコンセプトには、 〈溶融するコミューン〉 その他、 同質化し 「一体化」 する共同体の理想に対する、 批判の意思がこめられている。
引用おわり: 180-82頁: 傍点は太字で示した
- 見田宗介 『社会学入門: 人間と社会の未来』 (岩波新書, 岩波書店, 2006年4月)
さらにもう4段落 引用しておきたいところですが
すっかり長くなりました
次便にて
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なお、 ガンディー研究者でもある僕から付言しておくなら
ガンディーもまた コミューン運動を積極的に展開した
1869年生まれ、 1948年没のガンディー
彼は 19世紀末の南アフリカでコミューン運動をはじめた
<論点1>
《教祖》 という類型は 自らを中心とするあらたな集団の形成
それへの関心と、 その能力が必須である
<論点2>
20世紀後半の欧米(とくに米)を震源とするコミューン運動は
それ以前50年以上もつづいていた 長い文化批判運動の
パッと燃えて尽きた残り火である
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<つづく>
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