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2005年9月の記事

2005年9月30日 (金)

後記 #2: 9/23 ドキュメンタリー映画会議

先日の ドキュメンタリー映画会議 のご報告、続報です (前便は こちら

僕がコメントとして述べた第一の点

暴力を論じる際のためらいや難しさ

について、僕が参加できなかった2日目にも 問題になった、、、と うかがいました。 (Rさん> お知らせ ありがとうございます)

メーノーン監督のストレートな映像づくり、、、 被害者や当事者の様子やコトバを ただそのまま連ねていくという その姿勢、、、 それは まったくの混沌であり、説明もなければ 理解の準拠枠もない、、、 みているものたちは、その暴力の真っ只中に ただの傍観者として投げ出されたかのようだった。。。

だから 僕の第一の感想は 

この膨れ上がったお腹が 恥ずかしい

だった。 こんな不幸を目の前におかれて、 何かを 知的な仕方でしゃべるよう求められている、この僕って いったい何者なんだろうか・・・

暴力/ジェノサイドの問題は、国際法の整備(概念の整理を含む)、国際刑事裁判所の機能、国際フォーラムにおける圧力、、、 等々の問題である。 そのことに まったく異論はない。

しかし、暴力を目の前にしたときの ためらい、、、 恥じらい、、、 苦しさ、、、 こうしたものを 僕らは決して忘れるべきではない。 否 むしろ そこから コトバを立ち上げていかねばならない。

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Kuro-san RSS Reader でいつもニューエントリをチェックしている

先輩の黒崎さんが 「はてな」で立ち上げたものだ。

黒崎さん> ご無沙汰しております

RSS Reader で他人に頼ってどうすんじゃ!! 自分で作れよ!! ――

との声が聞こえてきそうだ

まったくもって そのとおりです

クロさんのを参考に、近い将来 自分も「はてな」で 同様のものをつくりたいと思っています。

後記: 9/29 インドの政治と女性

昨日(29日)、 以前のエントリ でお伝えしてありましたが、 千葉市女性センターにて 「 インドの政治と女性 ヒンドゥー・ナショナリスト運動に焦点をあてて」 と題する講義をやらせていただきました。

関係者各位> 遅刻ぎりぎりの登場、できあがっていないレジュメ、、、大変なご心配とご迷惑をおかけしました。 あらためて、心よりお詫び申し上げます。すいませんでした。

講義直後のアンケートを拝見したところ、おおむね好評であった様子。 ホッとしました。 ただ、私がしゃべったことの「内容」に関する感想よりも、 私の「 トーク・スタイル 」や「 キャラクター 」についての感想が非常に多く、 なんと申しますか、、、 ありがたいのと同時に、複雑な気持ちになりました。

内容はちゃんと伝わったのかなぁ、、、 「インドの政治と女性」 というテーマで 皆さんの知性は ちゃんと刺激されたのかなぁ、、、

ともあれ、後日 メール等々にて 長めの感想が送られてくるのが通例だ、 ということでしたので、 しばし それを待つことといたします。

さて、 この講義の結論 は 次の二点でした。

  • ヒンドゥー・ナショナリスト運動は インドと世界の女性を幸せにはしない。 
    • 幸せになる女性が皆無、ということではないだろう。 
    • しかし その実態は、おおむね 「すでにもう そこそこの生活を送ることのできている 保守的な女性」 が さらに幸せになる、幸せを再確認する、、、といった程度で終わるだろう。 
    • むしろ、不幸になる女性が多くなるだろう。
    • いま苦悩している女性は めったに 幸せにはならないだろう。
  • 「インドの政治と女性」 ということで われわれが取りくむべき課題のひとつは、 「ヒンドゥーの宗教=伝統=文化」と、 「世俗的で 近代的な価値観=制度」とを どのように 両立させていけるか、、、 というものである。

こうした結論にいたるまで、 本論部でどのような議論を展開したか 、、、 本来ならば そのアウトラインを以下に記すべきところですが、、、 なにせ 長くなりますので 省略させていただきます。すいません。

2005年9月29日 (木)

もはや「アルバイト」ではない

PDでがんばってらっしゃる皆さんへ>

昨日(28日)は 昼の3時から夜の1時まで ぶっ通しで仕事をしていた。

仕事といっても、塾のアルバイト講師の方である。今日(29日)これから、千葉市女性センターでの講演(→ こちら )に向かうので、授業やら業務やら 昨日のうちに引きついでおかねばならなかった。そのため、予想外にも 夜中の1時まで書類仕事(主に 中学生の中間テスト用の問題集作り)に忙殺されていた、というわけだ。

さらにその後、塾長に誘われて 3時前まで居酒屋。 3時半に帰宅  風呂に入って一休み  2時間睡眠 (リビングの床にて。布団に入ってしまっては決して起きられないから)  朝のワイドショーをぼんやりみて、先ほど 仕事部屋にはいった

もはや「アルバイト」ではない ・・・ しかし、、、諸般の事情から 今は どうしてもカネが必要なとき・・・ 苦しいところだ・・・

体をこわす寸前まで仕事をするなら、研究の仕事でそうしたい・・・ フィールドに出かけ、資料を読み、論文を書きたい・・・ そうできないことが、ホントにくやしいし、つらい・・・

この苦悩が いつか報われる なんてこと、、、ホントにあるんだろうか・・・

皆さん 今日もがんばっていきましょお!!!

2005年9月27日 (火)

宗教政治学宣言

現代においてマジメにものを考えている宗教研究者なら、 一度は頭をよぎったことがあるだろう 「 宗教政治学 」 というこのコトバ!!

こうした学問分野は いまだない!! ガンディー研究をやり、ヒンドゥー・ナショナリズム研究をやっている僕は、 そうした学問分野の必要性と可能性を痛感しているのだが、 そして この分野の確立を 専門家も非専門家も 皆が願っていることを知ってもいるのだが、 やはり 宗教政治学なんてものは 地球上のどこにもない!!

僕自身、研究をはじめた当初は 「宗教政治学」というコトバは ぜんぜん頭に浮かんでいなかった。だけど最近、 これまでやってきたことをまとめると、、、どうやら そういうことになるのかなぁ、、、 と思う。

新しい学問分野を立ち上げるというのが 一体どういうことなのか、、、 僕にはさっぱり分からない。 しかし、これまでの経験から、とにかく お手本になる(のっかれる)先行研究が全然ないので (これは 本当に見当たらないので、ご存知の方があったら むしろぜひ教えていただきたい)、 理論から方法から 自分でいちいち 作りあげなくてはいけない、、、 というのは 承知している。

かなり大変な作業になりそうだ、、、 というのも うすうす分かっている。 これまで宗教政治学が生まれ育まれてこなかった理由も、 おおよその見当がついている (これらの点については、いずれ 別のエントリにて)

さて どうしたものか・・・? 

おそらく近道は、モノグラフをきっちり ものにすることだろう。 僕であれば・・・

  • ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーを徹底的に分析した 博論の出版  (← お話はあるのだが、 とにかく 生活のための塾のバイトが忙しくて、まったく手がついていない)
  • 独立インドの近代化/世俗化 の形態を具体的に論じた 歴史社会学的な本を書くこと  (← これも構想はあるのだが、方法論的に とても困難なので、とにかくまったく進んでいない。とりあえずは ミーナークシプラム「事件」についての論文を書くことから始めてみよう、と思っている。その後は、インドの新宗教の研究をサーベイしてみよう、と思っている。 ・・・時間がほしい・・・)

これらの著作を通じて 「宗教政治学」なんてものに可能性があるのかどうか、世に問うてみないといけない、そうするのが近道のはずだ。 薄っぺらな内容ではない、ガッチリとした調査と論証にもとづいた、面白い モノグラフ――これを書いてしまえば、 同志が声をあげてくれるのじゃないか、、、と夢想する。 

まだ時間はかかるかもしれない。単なる僕の妄想なのかもしれない。しかし、これが 僕の 宗教政治学宣言 です。

2005年9月26日 (月)

宗教を学的に研究するとはどういうことか?

私は 宇都宮大学で「 比較宗教文化論 」という講義をやらせてもらっています。

その期末テストで、「 宗教を学的に研究するとはどういうことか? 」という問題を出しました。

以下は 学生さんの回答のなかで とってもよく書けているもののひとつです(100%の評価を与えました)。

  • 僕が勝手に名前を公表することはできません。これを書いた学生さん、これを読んでいたら ぜひ名乗り出てくれませんか。
  • 実際のレポートでは 改行がなされていませんでした。

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そもそも宗教を学的または、学問的に研究するということには、どういったメリットとデメリットがあるのであろうか。

それについて書く前に私はまず、何かを「研究する」という行為について考えたいと思う。私達が、ある事柄に対して「もっと知りたい」とか、さらには「これは一体どうなっているのだろうか」など、まずその事柄に対して、人間が一般に抱く興味関心よりもさらに深い興味関心をそのものに持たない限り「研究する」という行為は行われないであろうと考えている。そういった点から考えれば、どのようにという How to はあとにして、ある事柄を研究するという行為自体が、非常に意味深いものとなりうるのだ。

では、その研究するという行為を、学的に学問的に行うということには、どのようなメリット、デメリットの要素が含まれているのか考えていきたい。まず、メリットは、「学的」または、「学問的」な立場から宗教を研究するのだから、あくまで客観的な立場や見方をできるということだ。つまり、世の中に存在する多種多様なあらゆる宗教をすべて知っていなければならなかったり、その宗教を研究するたび改心して信者になる必要もないのである。または、それぞれの宗教を並べて比較することだってできるし、様々な指摘をすることだって可能である。その他にも、宗教を一つ一つの単体として取り上げずに、「宗教」という一つの大きな枠で宗教そのものを捉えて、宗教の存在意義や宗教とは?と疑問を投げかけることだってできる。

では逆に宗教を学的または、学問的に研究することのデメリットは何であろうか。それは、先述したように宗教を学的または、学問的に研究するということはあくまで客観的に宗教を見ることができると述べたが、それは授業でも先生がおっしゃっていたように、「あくまで宗教を理性的に研究する」ということではないだろうか。

しかし、その理性的にという方法には、2つの限界があるのだ。一つは「宗教は信じて初めて分かるという立場にあるもの」ということ。二つ目は「理性の不確かさ」である。

ここで一つ目の限界について指摘したい点がある。それは、「宗教は信じて初めて分かる」というが、何をどうしたら、その宗教を信じていると言えるのだろうか。例えばクリスチャンならクロスのペンダントをつけていたからなのか、もしくは何かの宗教の教本なるものを購入しているから。私は、宗教を"信じる"という概念は、人間の心の内に存在しているものであって、それは目で見ることは難しく、あまりにも曖昧な定義の上に成り立つものにすぎないと思う。

また二つ目の限界である「理性の不確かさ」というものについても、同じようなことが言える。研究している側の人間には、個人的な感情や偏見はもちろん存在している。いくら自分で、「個人的な感情や偏見は自分の研究に介入していない。」と言い張ったところで、それを証明できるものはなにもないのだ。つまり、感情や偏見も人間の内に存在しているものだからであり、理性の確かさには限界があるといえるのだ。

このように宗教を学的または、学問的に研究するということについての、メリットとデメリットの両者を見てきた上で、改めて宗教を学的または、学問的に研究するということはどういうことかを考えてみた。私が思うに、私たち人間が、中立な立場で宗教を学的または、学問的に研究するということは全体的に考えると非常に困難であると思う。なぜなら、人間は自らが抱いている全ての感情や意志を全て捨てて、"無"という境地の精神状態になることは不可能であると同時に、仮にそのような状態になったところで、そこから何かに興味関心を抱き物事を研究するなんてことは絶対にできるわけがないからだ。

しかしながら、私は宗教を学的または、学問的に研究することは、我々と我々の生きている社会にとって必要であると思う。その理由は、たとえ不完全な形ではあっても、宗教を客観的に研究する人たちがいないと、社会の中でひとつひとつの宗教が主張されすぎて、私たちにとって、あるいは個人にとってどのようなものを持っているのが"宗教"なのか、また"宗教"全体としての大きな概念自体がわからなくなってしまうのではないかと思う。そういった意味で宗教を学的または、学問的に研究することは、私たちにとって必要なものではないかと私は思った。

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よく書けてますねぇ・・・ 立派です!!

2005年9月25日 (日)

実践的理想主義者

右翼ともいわれ、左翼ともいわれる 私の政治的立場。

つらつら考えてみるに、結局 僕の政治観は マハトマ・ガンディー から ほとんど一歩も抜けだしていないのです。 それは、政治について僕が勉強をはじめたのが、修士論文にガンディーをとりあげたのが きっかけだったからです。

ガンディーは 自分のことを 「 実践的理想主義者 a practical idealist」 と呼んでいました (→ こちら あるいは こちら を参照)。 

理想の実現のために現実的な対応をおこなう、 つまりは・・・
妥協や制限、方針転換などをおこなうけれど、決して 理想そのものをすてることはないのであって、 むしろ、そうすることで・・・
理想のたしかさを、理想が空想ではないことを 積極的に証しちゃおうとする人

ってな意味でしょうか。

おかげで ガンディーは 一方からは 

  • 「どうしようもない策士」
  • 「無定見の宗教家きどり」
  • 「政治の世界に迷い込んだサードゥー」

みたいなことを言われつづけ、 また もう一方からは

  • 「頑迷なる狂信者」
  • 「傲慢不遜な権力者」

とも言われつづけたのでした。

僕は そうしたガンディーのバランス感覚が 好き なのです。 欠点があることは知っているし、ガンディーと対立した人たちが どれほどイライラさせられたかも知っています。 しかし、それにも関わらず 僕はガンディーの行き方を 理想化しているところがあります。 良きにつけ悪しきにつけ、政治のど真ん中を渡りあるいた ウルトラ理想主義の宗教家というのは、歴史上でも ほとんどいなかったのではないでしょうか。

2005年9月24日 (土)

映画: マザー・テレサ

この前の月曜(19日)、映画「 マザー・テレサ 」をみてきました。

以下 率直な感想です ( ネタバレ 、、、あるかもしれません。ご注意!!)

映画としての出来は 残念ながら さほどよくはありませんでした。同じ伝記映画としては、アッテンボローの「 ガンディー 」とか、スピルバーグの「 シンドラーのリスト 」の方が 映画としては 数段上のものだったと言えましょう。

お金がなかったのか、インドの街や人の描き方も ちょっと物足りなかった。インドに何年間も通っている僕などからすると、 インドらしいインドではないなぁ、、、と思うのでした。 なんちゃってインド、、、っていうのかなぁ、、、

ただし、 オリビア・ハッセー の演技は よかった。真剣にとりくんでいる感、マザーを尊敬している感が すごくよく伝わってきました。 ハッセーの眼が 印象に残りました。 マザーの尋常ではない 意志の強さ

  • 霊感と召命を受けた者の意志の強さ
  • そして そういう人の生涯に与えらえた苦難
  • その「奇跡的な」解決

これが この映画のテーマだったわけですが、そうした意志そのものを ハッセーは 眼で演じていた と思いました。

さて、、、

以上が 映画 「マザー・テレサ」 への評なわけですが、 これとは別に、この映画をみて、 マザー・テレサという歴史的人物そのものへの評価についても いろいろと考えさせられました。 ここが本当に むすかしいところです。

映画をみた晩、たまたまSさんと食事をご一緒する約束がありました。半ば冗談めかして 半ば真剣に 「原理主義者」 を 自称する彼に 話題をふりました。

「えぇ~~っと、Sさん、、、今日 「マザー・テレサ」 みてきたんですよ。 やっぱり Sさんは マザー・テレサ ってのは ちょっと アレですよね」

「あの方は 異端ですから、あの方が列聖されたら、僕はカトリックやめます」

列聖 」とは ヴァチカンが正式に聖者であると認可することです。マザーは現在 「 列福 」 つまり、「福者」としては認められています。 もちろん 聖者の方が ランクは格段に上です。 聖者っていう認定は、カトリック教会では きわめて重大なことです。

なるほどねぇ、、、 そうなんだよねぇ、、、 宗教学者としては、ここで立場をはっきりするべきなのかもしれませんが、 僕には そうできませんでした。 僕はマザー・テレサが好きです。 人として 好きです。 ああいう人がもっとたくさんいたらいいのに、、、僕も なれるものなら あんな風になりたかったのに、、、と思います。 しかし、カトリックの修道女としての彼女を 僕はまだ うまく評価できないのです。 カトリックとして生き、カトリックに人生のすべてかけ、カトリックを己の人生そのものとしている、、、そのような人の目に映るマザー・テレサ、、、これは 外部者である僕が 何かを言えるようなものではありません。

あぁ、この点は こんな走り書きで論じるべきではありませんね。 お気軽お手軽には 賞賛も 軽蔑もしない、、、そんな微妙な立場をつらぬかねばならない、 と言うだけに ここではとどめておきます。

国際政治事典

国際政治事典 が発刊されるよ、との知らせが 弘文堂からきていました。もう出たのかと思って調べてみたら、実際の発売は11月になるみたいです。 (なんだかなぁ・・・)

そこに私、次の項目を執筆させていただきました。

  • アヨーディヤ
  • ヒンドゥー・ナショナリズム
  • 民族奉仕団(RSS)
  • インド人民党

政治学、国際関係論の分野にも できるだけ積極的に出ていきたい と思っている僕としては、こうしたお仕事をいただけるのは 本当にありがたい です。

この事典、自分で関わったから言うのではないですが、なかなかおもしろいです。ご関心のある方は ぜひお手にとってみてください。 (2ヶ月後・・・の話だけど・・・)

後記: 9/23 ドキュメンタリー映画会議

先にお知らせさせていただいていた「 ドキュメンタリー映画会議 」、昨日(23日) 参加してまいりました。

会議自体は 本日(24日)までつづくのですが、残念ながら 僕は 生活の糧である塾のアルバイトがどうしても抜けられないため 欠席せざるをえません。。。今日もきっと盛り上がることと思いますが、とりあえず 昨日の会議についてご報告します。

    • 観客は30名ぐらいしか集まらないんじゃないか、、、
    • 現代インドのことをやったって いつもは それぐらいが関の山だもの、、、
    • お客さんが集まらなかったら、困っちゃうねぇ、、、

などと 本番前 僕らは危惧していたのですが、 ふたを開けてみれば 大盛況!! 150名入りの部屋が満杯で、追加の席も急きょ用意されるほどでした。 (ご来場の皆さま> 心よりお礼申しあげます)

会議後の懇親会で、主催者のおひとりで 僕と一緒にコメンテータをなさった 石田勇治先生(東京大学大学院総合文化研究科)とお話をしていました。

「近藤さん、なんでこんなに人が来たんだろうねぇ。映画上映があったからかなぁ・・・? それとも、現代インドの暴力っていうテーマのおかげかなぁ・・・?」

「石田先生、間違いなく 前者ですよ。 現代インドのことで 人が入りッこありません から・・・」

なんて会話をしていたのでした。 監督のゴーパール・メノンさん も お客さんがたくさんなうえ、質問やコメントがとても本質的だった、と 喜んでおられました。

さて、、、

僕は コメンテータとして参加させていただいたのですが、なんと言いますか、、、上手にコメントできなくて、本当に困りました。普段は ペラペラペラペラ 口ばっかり達者な僕なわけですが、

  • コメント時間が10分
  • 人文社会科学、暴力研究の専門家じゃない方が大勢いた
  • 南アジア研究の専門家じゃない方がほとんどだった
  • 通訳の方が通訳しやすいように すっきりした日本語でしゃべりたい と願っていた

そして何よりも、、、

  • メノン監督の映画が突きつけた迫力の前に、 頭でっかちで 偉そうなこと をしゃべるのがはばかられた

という事情があったのでした。

「それでも なんとか、もうちょっとマシなコメントはできなかったのか、お前は・・・!!」

と帰りの電車のなかでは 反省しきり。 

「あれも言えばよかった、これも言えばよかった、、、あんな風に言えばよかった、こんな風に言えばよかった、、、」

いつものことではありますが、自分のふがいなさにガックリするばかりでした。

それでも、 僕のなかでの収穫 は 大きく分けてふたつありました。

  • 南アジアのことを 広く知ってもらえた。映画は大評判(とくに 二本目の「ヘー・ラーム」が好評)
  • 暴力の問題について、調査研究をおこなう動機を 新たにしてもらった

本日の会議も どうぞ盛況でありますように。

2005年9月22日 (木)

宗教復興と世俗的近代

2011年11月2日 加筆訂正

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『現代宗教 2005』が出版されました。今号の特集は「宗教復興の潮流」です。

(業界外の方> 本書は 国際宗教研究所 が編集し、年一回、東京堂出版から発行されている雑誌です。一般書店で購入可、公立図書館にもおいてあることもあります)

私そこに 「 宗教復興と世俗的近代 ――現代インドのヒンドゥー・ナショナリズムの事例から」 という論文を載せていただきました(83-105頁)。 

(原稿執筆では、締め切りを大幅におくれ、編集の方には 大変なご迷惑をおかけしました。 本当にすいません >関係各位)

これまで出されてきた宗教復興論は どれも どうも納得いかないところが多かった。完全な的外れとは言わないけれど、インドや日本、アメリカや中近東など 世界各地の事例を 思いおこしてみると、 どうも それらがうまく説明できていないんじゃないか。。。 ハズレじゃないけど、アタリでもない。。。 そんな感覚が 僕には非常に強かったのでした。

もうこうなったら、自分で 理論的なレベルから (つまり、世界各地の細かな 細かな事例を、ここ数十年のスパンでまとめあげるような) 全体的な見取り図を描いてみよう!! と思って 書いたのが この論文です。 つまり、僕なりの 宗教復興論の基礎論 ということです。ここから この分野がうまく発展していけばいいな、、、という願いをこめました。

したがって、どうしても 宗教研究業界の専門家向けの論文になってしまいました。おそらくは その筋の方でないと、何を言ってるんだか よく分からない・・・ ということになるでしょう。 

(この点でも 編集・出版サイドにはお詫び申しあげます。当初、「一般の方にも読んでいただけるようなものを書きますよぉっ!!」 と豪語していたくせに、、、 すいません >関係各位)

そのような欠点があるにはあるのですが、内容的には かなり気合を入れて、出せるものはギリギリまで出しつくして 書いた論文ではあります。 どこかでお手にとっていただき、なおかつ もしもご感想など寄せていただける なんてことがありましたら、、、本当にうれしいです。

中道左派と左派の大同団結

前便「 民主党の役割 」で 次のような課題を示しました。

  • どんな条件がそろえば、民主党は解体するのか?
  • どんな条件がそろえば、社民/共産勢力は現実路線をより大きくとり入れることになるのか?

つらつら読み返してみまして、、、老婆心ながら これを書いただけでは、読者に誤解をあたえかねない と思い、補足説明をさせていただくことにしました。

上の二つの課題、、、

  • 民主党は解体すべきだ
  • 社民/共産勢力は現実路線をより大きくとり入れるべきだ

という 主張ではありません!! そうではなく、政界再編の軸となる課題は この二つになるだろう、という だけ のことです。

僕は――いくらか消極的であるとはいえ――護憲派ですから、社民/共産勢力には あまりに「現実主義」に寄ってもらっては困ります。(僕は 「現実主義」批判の論文を書いたことすらあります) また、いま民主党が解体すれば、政権交代の芽(せっかく わずかながらも 芽生えた可能性)は ついえてしまいかねません。 

こうしたことを了解しつつ なお 非自民党勢力の整理整頓――はっきり言いますと 中道左派と左派の大同団結 ――、これはほとんど不可避だろう と思うのです。(小選挙区制では、そうしないと 決して勝てないからです) あれだけ悪口を言っていた公明党と ガッチリ ニコニコ 連携できる自民党は、主義信条の面で美しさのかけらもありませんが、強いです。図太いです。

これを見習えとはいいません。しかし、政治とは どこまでもそのようなものなのでしょう

そういう微妙なバランスを頭のなかに入れながら、先の二つの課題について 政治家は「現実的」な対応を模索してほしいし、僕は 評論家の一人として 知的な整理をしていきたい、と思います。

2005年9月19日 (月)

塾の時代

昨日(18日)、バイト先の塾の業務として 「スクールフェア 2006」に行ってきました。

JAC 千葉学習塾協同組合 が主催して(つまり 千葉の学習塾が旗振りになって)、私立学校を学生さんたちに紹介しよう というイベントです。ララポート の一部みたになってる ホテルの2階を借りきっての催しでした。各学校ごとにブースが並び、1500人以上の来場者があったようです (IAHRの縮小版 みたいなものです >関係者の皆さん)

スタッフの一員として行ったわけですが、これからは塾の時代だなぁ って つくづく思いました。あれだけしっかりとやっているのを見せられると、これからは公立中学、小学の位置づけがますます問われることになるな、と直観しないわけにはいきませんでした。

その前日、「女王の教室」の最終回をみていただけに、感慨もひとしおなのでした。

民主党の役割

民主党は どうしてあんなに自信喪失し、混乱しちゃってるんだろう・・・?

小選挙区制での議席数予測なんて、ほんとのところ 誰にもできやしない。議席数の激減よりも、得票率をみてみればいいじゃないか、と思う。小選挙区で36.4%(自民 47.8)、比例区で31.0%(自民 38.2) っていうのは、立派な数字じゃないか。

「議席数はあれですけど、国民の直接の支持では ここまできてるんですよ!!」 って、テレビでもっと言えばいいのに・・・・・・ なんで あんなに 負け犬っぽい所作 をするんだろう・・・? 党内政治、支持者に対するパフォーマンスなのかなぁ・・・? 得票率なんて、普通の国民は知らないんだから、もっともっと アピールすればいいのに・・・・・・

それよりも、本当に大事なのは 小泉の勝利のわけだ。

守旧派=自民党、刷新派=民主党――これが 当初の図式だった。でも、「ジュンちゃんのコーゾーカイカク」が登場して、この図式は 根底から無意味になった。民主党の役割の第一段階は、そこでもうすでに終わっていたのだ。 そこがはっきりされなかったから、有権者もなんだかボンヤリしている。

今回の選挙ではっきりしたこと:

  • おそらくは無駄におわるだろうけど、国民の小さからぬ部分が 「ジュンちゃんのコーゾーカイカク」にまだ期待を寄せている。
  • 郵政民営化法案をめぐる国会内でのやりとりを、お茶の間は、「ジュンちゃん vs テーコーセーリョク」の図式で見ていた。マスコミは「抵抗勢力」という言葉を ぜんぜん使っていなかったけれど、やっぱり「ジュンちゃん、かわいそう」なのである。

これを「劇場政治」「ワイドショー政治」「愚衆政治」「ポピュリズム」と呼ぶかどうかは、長くなるので ここでは論じないでおく。  ともあれ・・・  日本の構造改革と政界再編を真剣にもとめる人が今すべきことは、中期的な展望の組みなおしではないか、と思う。

それはつまり、次のような課題に取りくむことだ。

  • どんな条件がそろえば、民主党は解体するのか?
  • どんな条件がそろえば、社民/共産勢力は現実路線をより大きくとり入れることになるのか?

こうした課題について、政治家は戦術戦略を練り、僕ら評論家は理解枠組みとコトバを練りなおす――それが いま本当に求められていることだ と思う。

2005年9月17日 (土)

今回の総選挙

川瀬さんのブログにもコメントさせていただきましたが・・・

やはり ここにも書かないわけにはいきません、 今回の総選挙!

===< 以下、同上コメントの文面を少し変えたものの 再録御免 >===

背筋の寒くなる結果でした。ただ、得票率が国民の真の声ですから、そこは間違えたくない。

また、小泉を「稀代の喧嘩師」などとは決して言いたくない。結果の大きさにまどわされず、その要因を冷静に分析したい。  で・・・

  • 小選挙区制 のもとでは、ちょっとしたウェーブも大増幅される
  • 小選挙区制 のもとでは、選挙協力をした政党が勝つ

こうした制度的要因に加え、選挙政治における次の大鉄則がほとんど言われてないようですね。

  • マクロの経済指標 が好調なときには、与党が勝つ

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続きは 次便にて。。。

2005年9月16日 (金)

お医者さんたちの倫理観

前便のつづき です。

医療ミス、医学会政治、製薬会社や政界との癒着などが ニュースやドラマになりますから、 お医者さんたちの倫理観 については、 このごろ 信頼がゆらいでいますね。僕も どこかで そのような感覚をもっていました(平成版「白い巨塔」は お気に入りのドラマでした)。

しかし・・・

決して ニュースにはならないけれど、お医者さんたち(看護士、薬剤師も含む)は 地道にがんばって、倫理問題を自分のものとして引き受けようとしているようです。

大森病院では 「倫理委員会」の設置が5年前 ということですから、遅きに失した感はたしかにあります。 ありますが、文句ばかりをつけるわけにもいきません。

  • 委員会での議論はちゃんとしたものだし、皆さんも熱心です。
  • 僕みたいな 外部委員を入れているのも 当然のことながら、良心的です。
  • 申請件数がこのところ急増している というのは、昨日書きました。
  • 医学部での講義に、倫理関連の科目は 多いです。
  • この問題に対する学生さんたちの関心も 異様に低い というほどではありません。

さらに しかし・・・

病院名を実名で出していますし、僕が目にするのは審査承認前の申請書類 だけ でありますから、具体的にはいえないのですが (申し訳ない) ・・・・・・ やはり 首をかしげたくなる申請書に出くわすこともあります。

倫理委員会への申請がルーチン化している とでもいうのでしょうか・・・ 

「あとで ごちゃごちゃ うるさいから、出しとかな しゃぁない」 

なんて 申請者は思っちゃってんのかなぁ、、、という印象を受けることが ときどきあるのです。

そういった印象は、申請書類のちょっとした言葉づかいとか、申請書類の不十分さ などから感じとられます。 (感じているだけですから、ホントのところは 残念ながら わかりません)

お医者さんたちの倫理――これは今 確定の途上にあるようです。

2005年9月14日 (水)

医療行為の倫理性を審査する

今日は 東邦大学医療センター大森病院の 「倫理委員会」に出席してきました。私、その外部委員の一人なのです。

この委員に選ばれたのは、僕が 東邦大学医学部で 「宗教学」の非常勤講師をやっているからです。この授業では、「生命倫理と宗教」というテーマに3分の1をあてています。宗教学者としては、伝統医療や医療人類学をやることもできるのですが、まぁ 得意なところで、社会や政治の視覚から「医療と宗教」の問題を考える、ということです。

この授業については、またいつか書くことにします。今日は 倫理委員会について。

19件の審査申請が出ていました。数百ページの申請書と添付資料が10日ほど前に送られてきます。それら全部に あらかじめ書類に目を通すだけで、大変な労力が要ります。

委員会は2時間。19件を全て審査するなんて とてもできませんから、今日は9件だけが審議されました。

内容は、承認済み/未承認の薬の実験的投与、アンケート調査 などについてのものがほとんどです。

  • 申請されている研究/実験そのものが倫理的な問題を生じていないか

これは もちろん最大のチェックポイントですが、それだけではありません。

  • 患者さんへの説明は適切か
  • プライヴァシーの保護措置はなされているか
  • 副作用や不利益に対する説明や対処はできているか
  • 書類上に研究者の倫理性の欠如があらわれていないか

こういった点も、ひとつひとつ 審議されていきます。

僕は 宗教学者、インド研究者ですから、その立場から それなりの発言をするよう求められているのかもしれませんが、なかなか そうもいきません。

人工肛門をつけた人のQOL調査について、現代の宗教理論やアーユルベーダの知識が なにを発言できるというのか、、、僕には どうも分からないからです。

そこで、二つの役割を自分に課しています。

  1. 自分を 「医療素人 = 患者」  の立場において、そこから発言すること
  2. ちゃんと資料を読んで、積極的に議論に参加する まじめな委員

第一の立場は、自分のかつての大病を思い出すことで そのようにふるまわれます (実際、僕の症例は、すくなくとも三つの学会で発表されたのでした)。 こうした患者の立場からの発想では、 同じく委員であられる看護士の方々と 意見がよく一致します。

この委員会、本当によい経験になっています。こういうことが 若いうちにできているというのは、幸せなことだと思います。

9/29 インドの政治と女性

「世界の女性: インドの女性の今: 暮らしと仕事を探る」で
講演やらせていただきます。

・ 全4回中の第3回 「インドの政治と女性」 という題目で
・ 9月29日(木) 14:30~16:30
・ 千葉市女性センター

こちら すでに受講申し込みは終わっておりますが、もしかしたら いけるかもしれません。
ご興味があれば、私までご一報を。

詳細は以下:
http://www.chp.or.jp/event/event.asp

9/23 ドキュメンタリー映画会議

「アジア・アフリカ ドキュメンタリー映画祭2005」 でコメントやります。

・ 9月23日(祝) 13:30~18:00
・ 東大駒場キャンパス 18号館ホール

ぜひおいでください。

詳細は下記ご参照あれ:
http://www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/
http://www.aa.tufs.ac.jp/humsecr/

2005年9月13日 (火)

ブログを立ち上げました

前々から懸案だったブログ・・・ ついに初めてみました。

どうなるのか、何をどうするのか 全然決めていませんが、ま どうにかなるでしょ。

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