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2005年10月の記事

2005年10月30日 (日)

スピリチュアリティ

いま日本では 多くの人たちが 「 スピリチュアリティ 」という言葉を使って、 ある感覚、ある生活世界、ある世界観を示そうとしている。 それは 僕の言葉で言えば、、、「宗教と世俗のあいだ」の ある特定の局面を指示しようとするコトバなのだ。

そうした言説アプローチに 僕は理解を示す。 ただ、やはり僕はそれを「 ロマン主義 」と呼びたい、と思うのだ。 19世紀末から20世紀前半の欧州や日本。。。 そういったものとの異同を、 僕はやはり忘れたくはない、と思うからだ。

ロマン主義へと吸引されていく大衆と、 対決と決断を好むリーダーを求める権威主義への吸引、、、 これは やはり ひとつの現象の 別々の二側面ではないだろうか。。。 

ただし、誤解をさけるために言っておくが、 かつて ロマン主義者は 必ずしも 軍国主義者であったわけではない !! 今もまた そうだろう。 しかし それにも関わらず、 善意にあふれた、心優しき群衆の出現と 政治のマッチョ化は 確実につながっているように思えてならない。。。

宗教と世俗のあいだ

宗教と世俗のあいだ 」 という考え方 (観念) が とても大事だ、と僕は思う。

「宗教」というものを なにかひとつの本質をもった、 そういう意味で固定的なカテゴリーだ、、、なんて 思うと、、、

  1. 僕らの目や耳に飛びこんでくる「 なんだか宗教っぽい 」現象のことが、 さっぱりわからなくなる。
  2. 僕ら自身が いかに強く 深く 「 なんだか宗教っぽい 」ものに ひたって生きているか、 さっぱりわからなくなる。

僕らは 実に「宗教的」である。 「○○教」を信じていないとか、 「○○教団」に入っていないとか、 そんなことは関係ない 。 さらには、 理性と科学にもとづいて生きている ということさえ、 関係ない 。 僕らは もうすでに 「完全に宗教的ではないにせよ、完全に世俗的でもない世界」 を生きている。 それが 「宗教と世俗のあいだ」 である。

<具体例>

10日まえぐらいの「天声人語」に 鹿児島は知覧の特攻隊基地でのお話がのっていた。 明日 特攻に飛びたつという若者が、お世話になった近所のおばちゃんに 「ホタルになって帰ってくるからね」 と伝えた。 特攻機が飛びたった夜、 少し空けておいた戸口から 大きなホタルが入ってきた。 それをみつけた娘さんが、 おばさんに向かって こう言った。

「ほら、○○さんが 帰ってきたよ」

有名な話である。 僕もどこかで聞いたことがあった。 これを 「宗教」と呼ぶべきかどうかは、 ここでは問わない。 しかし それが「世俗でない」のは たしかなことだ。

<もう一つの具体例>

上の「天声人語」が掲載されたのと同じ日(・・・だったと思うが)、J-WAVEの深夜番組「 ミッドナイト・ガーデン 」で 坂本美雨さんが こんなナレーションをしていた。

おまえ自身の身体を 支配しようとしてはいけない。
おまえ自身の肉体を 支配しようとしてはいけない。
おまえ自身の皮も、脂肪も、肉も、
おまえ自身の骨も、血も、細胞も、
それは、おまえ自身のものではない。 

おまえが、「身体のもの」なのである。 

おまえの意志は、身体の意志である。
おまえは、その肉体に支配された精神でしかない。

ここではもちろん、何か生理学的な発見が言われているのではない。 ホルモンや脳内物質と、意識との関係に関する解剖学的な知見が 言われているのではない。 (その証拠に 坂本さんの相方は 善意なるニューエイジャー、ロバート・ハリスさんなのだ)  カラダと意識をめぐるこの感覚、、、 宗教ではないけれど、科学でもあるまい。

壊れたPCを「手術」

やっと、、、ホントに やっと!! 時間がとれたので、 壊れたPCを「手術」 にかけることができた。 (Sさん> ありがとうございます)

今日の段階での 診断と手術によれば、 どうやら マザーボードがいかれた様子。 後日 さらに 電源のところを、 再診断、再手術するとの由。

さいわい HDは壊れていなさそうであり、 とりあえず一安心。

8万人を超える

パキスタン地震 (ただし これは通称 → こちら 参照) で 死者が 8万人を超える とのことである。 先便 で 4万7千 と伝えてから 10日しかたっていないのに・・・ 

あの極寒の地で これから数ヶ月、 被災者はどんな暮らしに耐えねばならないのだろう・・・

どうしようもない、、、とは 分かっているけれど、 自分の無力さ と 世界の不条理 に なんだか もぉ クラクラする。 他者にちゃんと同情できる感性を保つ一方で、 そうした不可能にも耐えうる、、、 そんなチカラを 僕のなかで きたえていきたい、と 強くつよく思う。

<メモ>

大阪外大のウルドゥ語専攻の皆さんが、現地の新聞情報等を 直接 日本語にしてくださっている。 ありがとうございます。 ご関心のある方、必見です。  (→ こちら

2005年10月27日 (木)

お勧めの現代インド本

先日 久しぶりに Hさんとお会いした。 お話のなかで 「 現代インド をとりあげた、信頼に足る、新書ぐらいの手軽さの 書き物」  つまり 「 お勧めの現代インド本 」 はないか、とたずねられた。 大変ありがたい問い合わせだった が、、、 僕の答えは 「なかなか ないんですよねぇ」 だった。

先日(25日) 東大に行く用事があった。 30分ほど時間があったので、いつもと違うルートで 根津駅まで歩いていくことにした。 古本屋があるのに気づき、入ってみた。 昔ながらの品揃えのくせに、どこか今風のところを感じさせる店だった。 なかなかお目にかかれない一冊を みつけた。

  • 吉村文成 『 インド同時代 』

1985年にめこん社から出ている本である (→ こちら )。 なかなか手に入らない本だと思っていたら、まだ絶版じゃなかったんですねぇ。。。 喜ばしいことです。

この本を最初に手にしたのは、勤務していた在印日本国大使館でのことだった。図書館にあったこの本を何気なく手にし、かなり強く感銘をうけたのを覚えている。

今回 読みなおしてみたが、 現代インドの社会や政治や文化やら を、 なんというか 現地の人々の視線に立った外国人として ちゃんと知る ためには カッコウの本だと 確信しなおした。 専門的な研究書ではない。 エッセイというか 紀行文というか、なんだか独特のジャンルなのだけれど、まぁ そんなことはどうでもよくて、とにかく とてもよい。

表紙の煽り文句からして イカシテいる。

インドでこじきの目に感動してはならない。そこで感動してしまっては、何もかもぶち壊しだ。いわば、”異文化”に近づく戸口で回れ右をするようなものだ。

「神秘にして悠久の」精神世界をインドに見つける人たちを、わたしは疑っている。

これは 本書169~80頁あたりに書いてあることだ。 現代インドの研究者であれば、大方の人が 同じ思いを胸にいだいている。

本の作りも なかなかどうして 味わい深い。 わざとなんだろうけど、わら半紙の分厚いやつみたいな紙で、 粗雑な感じでつくってある。 この頃のめこん社の本を 僕はとても愛している。

とにかくお勧めの本だ。 この方面に興味のある方は、ぜひ一度読んでいただきたい と思います。 ただし、これは85年の本です。 今から20年前のインドということは 頭に入れておいていただきたい。 変わったところ、変わっていないところ、、、 当然のことながら そうした事柄が 読者である僕の頭には いくつもいくつも 去来します。

Hさん> なんでしたら、いつでもお貸しします。お申しつけください。

ちなみに、、、

もう一冊 一般書として心に残っている本を紹介しておきたい。

  • 藤原新也 『 印度放浪 』 (→ こちら

いわずと知れた、超メジャーな本である。 吉村さんの本より さらに古いもので、 消費されつくした感もあるが、 この手 の本 としては 僕は いまだに一番好きです。 写真の付いていない版も出されていますが、 ここはやはり 写真付きの方を お手にとっていただきたい。

もちろん これは、その手 の本であって、吉村さんの本とは かなり違う方向から インドにアプローチしている。 しかし、 やっぱり 面白い、 と僕は思うんだなぁ。。。

2005年10月25日 (火)

小泉靖国参拝 #3

なかなかしっかりと書く時間がとれない、、、 小泉靖国参拝 の憲法問題としての側面。

高橋哲哉  「 首相の「靖国」参拝─何が「問題」か 」 は、まずはぜひ読んでいただきたい記事です。

<追記>

先々便 「 小泉靖国参拝 」 (→ こちら ) コメント欄での かんたさんとの意見交換は さらに継続中です。

2005年10月21日 (金)

小泉靖国参拝 #2

もしや お気づきでない方もいらっしゃろうかと思い、 まったく老婆心ながら お知らせいたします。

先便 「 小泉靖国参拝 」 (→ こちら )のコメント欄にて 「かんたさん」と かなり突っ込んだ議論をさせていただいております。 

ご関心のある方は どうぞご覧下さい。

2005年10月20日 (木)

小泉靖国参拝、および公明党

小泉靖国参拝、および公明党 の問題 (ただし、いわゆる 学会バッシング ではない。 責任与党としての公明党についての 真っ正直な評価と批判) に関連して、 先日もご紹介した 先生のブログで 立てつづけにエントリがあった。

いずれも短いものではあるが、参考になる。 僕としては、とくに後者のエントリに 強く印象づけられた。

4万7千人を超えた

10月12日付けでエントリした際には (→ こちら ) 死者4万人に届きかねない、、、との報道だった パキスタン地震 。 今朝方のNHKのBSニュースでは その数が 4万7千人を超えた 、 とされていた。 ますます コトバもない状況になってきた。 

ドラえもん募金 で百円だかいくらだか、、、僕ができた 具体的な貢献といえば それだけだ。

2005年10月19日 (水)

デスクトップ ついに壊れる

デスクトップ ついに壊れる 。。。 M上さんにくみ上げていただいた 自作PC。

動かなくなったのは 1週間ほど前。 なんとか自力救出をはかるも、あえなく断念。 知り合いの方に SOSを打つはめになった。

忙しいときに限って コンピュータは壊れる―― 別に マーフィーに言ってもらわなくても、 みんな知っている真理だ。

2005年10月18日 (火)

高橋原 『ユングの宗教論』

川瀬さんのところにも届いたようだが 、 僕のところにも 著者謹呈をたまわった。

  • 高橋原 『 ユングの宗教論 キリスト教神話の再生

お金がない今、 こうして本をいただけると 本当にうれしい。

高橋さん> どうもありがとうございます。 ご家族にお変わりはございませんか。 また 酒でもご一緒致しましょう。

斜め読み1時間半 。 高橋さんへの ささやかなお礼として、 以下 簡単なコメントを書かせていただく。

斜め読み書評 であるのに加えて、 僕は、 ユング研究のなんたるか、 精神分析のなんたるか、、、を知らない 素人 である。 だから 高橋さんのご研究が どういった意義をもつのか、 どこが新しいことなのか、 本当のところはわからない。

そんな限界はあるけれど、 何かのお役に立つこともあろうかと思い、コメントを寄せさせていただくことにした。 「 素人の斜め読み 」 だからこそおもしろい、、、ということも、 まぁなくはないので。。。

業界外の皆さんへ> 書評っぽいコメントですから、 いわゆる 「 ネタバレ 」 が含まれます。 高橋さんの労作の ナマの衝撃を感じたい方は、 以下の拙文など読まないほうがよいです。 老婆心ながら、この点 最初に明記しておきます。

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大変 おもしろく拝読した 。 お世辞ではない。 ユングの姿が ずいぶん違って見えてきた。 

上で「素人」と書いたけれど、実のところ 僕は 「 ズブの素人 」 ではない。 大学入学時、 ユング心理学か 異常心理学か トランスパーソナル心理学をやりたい、、、と真剣に考えていた。 当時 バリバリ ハードコアなニューエイジャーだった頃。 

結局、 母校の心理学科が 実験心理学中心のところだというのがわかり、 僕は なんの素養もなかった哲学科にすすんだ (さらにその後 大学院からは宗教学にすすみ インド研究を社会学的なアプローチでするようになった)。 こうして ユングに本格的にとりくむことは ついぞなかった。 

ユングとその心理学説、セラピーについて 断片的な知識を一定量もっている私だが、 「 キリスト教徒としてのユング 」  という切り口については ほとんど何も 知らなかった。 高橋 『ユングの宗教論』 は まさにそれを主題とする本である。

非常に独自の 異端すれすれの神秘体験と直感を 「もうすでに」 もってしまったユング。 その彼が キリスト教の枠内で みずからの生と理論を 意義づけ 位置づけようとする、、、高橋は ユング思想を そのようなものとして描き出す。  それは 僕にとっては 実に新鮮なユングの姿だった。  だから 面白かったのである。

さて、 こうして書いてきて すでにお分かりかと思うが、 正確にいうならば、、、この本 実は  「ユングの宗教論」については ほとんど何も語っていない 。 この本が語っているのは、 正しくは・・・

  • ユングのキリスト教論 (18頁)
  • ユングとその思想を、キリスト教というコンテクストにおいて理解すること (23頁)
  • ユングの、あるいは分析心理学の「神学的傾向」 (24頁)
  • ユングの葛藤、論争を通じて、あらためてキリスト教文化――あるいは一神教文化と呼んでもよいだろうか――という異文化を対象化する[こと](25頁)

などである。 表題と内容が やや(かなり?)ズレているように思う。。。が いかがか。。。?

まぁ しかし、 上で列挙した目標について ということであれば、 この本は 本当にちゃんと書けている。 表現も論旨展開も明晰で、 とっても読みやすい。 ユングの罠にはまったような人に、 ぜひ一読をすすめたい本だ。 そして 19世紀末から20世紀前半の 西洋思想に興味をもつ方にも おすすめの本だ。

高橋さん どうもご苦労さまでした。

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以上が 昨日(18日)夜8時の時点に 書いた内容である。 現在 19日の午前10時。 「 素人ななめ読み書評 」では あまりにひどいので、、、 せめて その後 ちゃんと読んだ部分についてのコメントは、 コメント欄に随時 書き加えていきたいと思います。 

ご興味のある方は そちらもご覧ください。

小泉靖国参拝

宗教政治学宣言 をかました身としては、 はやく書かなくちゃ、はやく書かなくちゃ、、、と 気ばかり焦っています。 小泉靖国参拝 問題!!

時間がないので 要点だけ。

  • 首相、閣僚の靖国参拝に 断固反対
  • 外交問題、憲法問題だけに 反対の理由を限定してはならない、と考える (もちろん 双方とも 本質的に重要な問題ではあるが、、、)
  • 戦争責任、不戦の誓い、、、そういうものへの 態度不十分さが問題だ! と提言したい
  • 次の条件がクリアされて はじめて、 首相の靖国参拝の当否を議論することができるようになる 、と考える (ご注意: してよい、、、すべきだ、、、ではない!!)
  • すなわち、隣国、世界各国の 「追悼施設」 「戦争記念施設」 への 「 公式 」 参拝を、継続的に 日本の首相、閣僚がおこなってきた という実績が積み重なること
  • それについて 各国の (反日過激派 以外の ) 良心派とのあいだで 一定の理解が積み重なること 
  • 外交問題、憲法問題も、、、行政+民間のこうしたイニシアティヴにより 大きく様変わりするだろう
  • しかる後に、 国内の問題として 憲法論議(主として 政教分離、信教の自由、良心の自由)をすることができるだろう。

走り書き ご容赦ください。 大して煮詰まってもいないアイディアの羅列です。 また必ず、これについては書きます。

<リンク>

いつも回覧しているブログでは まだ全然 議論がもちあがっていない。 現時点で 素早い反応を示したのは、次のエントリのみでした。

  • おそらくは 公明党支持者/共鳴者だと思われる 大学の先生による エントリ → こちら
  • 政治問題についていつも迅速な反応を示し、なおかつ 明確な立場を決して崩さない リベラル派の大学の先生による エントリ (日記形式のもの) → こちら

2005年10月16日 (日)

インドの女性がかわいそう

千葉市女性センターでの講演に関連して、 先日のエントリ で 次の三つの論点をあげた。

  1. 「宗教が強すぎて、国民を支配している」
  2. 「宗教と政治が結びつくのはとても恐ろしい」
  3. インドの女性がかわいそう

ずいぶん間が空いてしまったが、、、今日はその三つ目について、コメント返しをばさせていただきたいと思います。  言いたいことは 先便と同じです。

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「インドの女性がかわいそう」 というのは、実に ビミョーなコトバです。  このビミョーさを どこまで自覚できるか (その気はなくても、そう思われるかもしれない、、、ではなくて、、、本当にビミョーかもしれない、、、と どこまで思えるか) この点を 問いたいと思います。

「かわいそう」 というコトバで表される感情は 真剣な同情、優しい気持ち、人に対する思いやり、素直な正義感、、、などなどなど の基礎となるべきものです。 ですから、 とっても大事 です。 

しかし、、、「かわいそう」 というコトバに ビミョーに潜りこんでいる 上下関係 (専門用語で ヘゲモニー ) の響きを 僕はここで指摘したいと思います。 

  1. それが、 「同情」 というコトバの字面どおり、 自分の苦境や苦悩と 誰かの姿が 的に 調する、、、というのなら わかるのです。 何も 僕がわざわざ文句を言うほどのことではありません。
  2. しかし、 「かわいそう」 には もうひとつ 別の使い方があります。 それは、 「 (私は 幸せで 恵まれているけど、、、 あの人は、あの人たちは) かわいそうねぇ」 というものです。 誰かを「かわいそう」と思うことで、 自分の優越性 を 心のどこかで (あるいは かなり意識的に) 確認してしまうのだとしたら・・・ どうでしょう?

私の講義に寄せていただいた感想のなかの 「かわいそう」 というコトバが、 上記二つの意味の どちらで使われているのか、、、短い文章ですから 私には判断できませんでした。 

前者の意味での「かわいそう」であってほしい、、、との願いをこめて これを書いてみました。

日本とインドのように、 経済状態や 政治体制が違う国、、、もっとはっきり言いますと、 「後進国」という名付けられてしまう国と 世界第二位の経済大国とを 比べる場合には、 いま私が 上で述べたようなところまで、 繊細さが求められます。 そうでなければ、 インド/第三世界/「後進国」 を学ぶことは、 自己確認と自己賛美の作業 でおわってしまうことに なりかねません。

たしかに これは コトバ一つの問題ではあります。 ほんとんど神経症的 なこだわりだ、、、と言われてしまうかもしれません。 しかしながら!! こうしたこだわりこそ、 大事なことなのだと思います。

2005年10月15日 (土)

自分作り

「習い性」 という言葉があるが、 研究者の習い性といえば、 ものを書いたり言ったりするとき そこに「 なにか新しいこと 」が入っていなくてはいけない、、、と考えてしまうこと があげられるかもしれない。 「研究者」 というのが 広すぎるくくりだとすれば、 少なくとも 僕には そういう自己抑制の傾向がある。 「なにか新しいこと、 面白いことを 言わなくちゃ」 という 強迫観念である。 「 プロの仕事 って そんなもんじゃないの・・・?」 という 思い込みが 僕にはあるのだ。

こんな話から説きおこしたのは、他でもない、 これから下で 「もうすでに 多くの人が 多くの場所で 書いたり言ったりしていること」 を 書こうと思っているからだ。 変な職業意識、 独りよがりの自己抑制 を かなぐり捨ててでも、 言葉にしておきたい、、、今朝 アイスコーヒーをすすりながら、 僕はそう思ったのです。

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人生いろいろ と言ったのは、 我らが宰相であったが、 政治的な当不当 ・ 人間的な好悪 を別にすれば、 言い得て妙である。

人生はいろいろである 。 本当にいろんなことがある。 思うにまかせない出来事が たくさんおこる。 イライラすること、不当だと思われること、言い訳したいこと、悲しいこと、つらいこと。。。

そんなとき、僕は どうしても 「周りの人や事との関係」  で行動/コトバ/思いをおこす、、、または 「周りからの刺激」 に対して ただ素朴に反応する。 当たり前のように 反射的にそうする。 しかし そうすることで 僕は、、、なんだか 自分を見失っていくような気がする

それに気づくと、 「自分」ってなんだろう と思う。 なんだか 周りに流されて、 周りの刺激に反応するだけの ひとつの物体 であるような感覚になる。 

他の人の心のなかは ホントは よく分からないのだけれども、 「 自分探し 」という観念が 現代日本で (いくらか下火になったとはいえ、なおも) 根強い人気を誇るのは、 そうした 僕のような精神状態が 広く共有されていることを 証しているのだろう。

でもおそらくは 「自分」は 探してみつかるもの ではないのだろう。 どこかに隠されてあるものではない。 どうしてそう言えるんだ、、、と問われても 答えはないのだけど、、、僕にとっての「自分」とは そのようなものではない、 あるいは 僕の「自分」がそういうものだとすれば、 僕は ぜんぜん救われない。

「自分」とは (探し出すのではなく) 作り上げるもの である -- そう言った方が 僕にはどうもしっくりくる/美的に満足する/コミットメントを生ずる (なんだか やる気がでる、 ほのかな希望がみえる)。 

一昔前 「自我」 批判 が流行し、 今や それが当たり前になってしまっている。 自我という 内面世界の強すぎる中心が、 もろもろの苦しみの原因なのだ・・・と。 たしかに そういう面もあろう。 でも、それだけじゃない のではないか。 固くない、閉じていない、他者という陰画を勝手に作りあげることのない、 だけども頼りになる 、、、そんな自我こそが いまの僕の願いであるし、、、また 他の多くの人にとっても そうじゃないのか、 と思うのだ。

具体的にいえば、 そんなに大したことを言っているのではない。 自分にとって何が大切で、 何を変えないか、、、 柔らかくても 倒れない 失われない 何か 、 僕のなかの軸、、、そんなことだ。

たとえば 僕にとって それは 「 修行 」 というプロセスの観念、 「 利他 」 「 」 という究極の理想 (あこがれとしての高み) として もうすでにそこにある 。 それを見失わないことが きっと 僕にとっての 「 自分作り 」 であるのだろう。

そして、、、きっと 何人かの人々にとっては そういう方向に心と体を向けることが 大切なことなんじゃないか、、、と まぁ そんなことを思う。 もちろん ここには、 思想的ニヒリズム と 実践的ショーヴィニズムの直結 という、 僕なりの時代判断もあるのですが。。。

2005年10月14日 (金)

幸せなカップルや家庭

<今日の一言>

恋愛は、投資の割にリターンが少ない。つまり割りに合わないんです。イケメンでない男性は、お金や時間をたくさんつぎ込まないと恋愛に参加できない。つぎ込んでもリターンがあるかわからない。そんな事業にいつまでも投資し続けたら、会社なら経営責任を問われます。もっと、リターンの多い娯楽はたくさんありますよ。

よく考えると、家族を養う義務と、仕事はほどほどにして家族サービスをする義務の二つを負わされ、揚げ句に熟年離婚だなんてケースを聞いていると、結婚は恋愛に比べてさらに割に合わない。

AERA 2005.10.17, p. 19 ( 八玉子煩悩隊 主催者のコトバ)

ドラマ『熟年離婚』も昨日からはじまったばかり。 幸せなカップルや家庭 のイメージが とにかく抱きづらいのが 昨今の日本だ。 僕は「オタク」ではないけれど、よくわかる・・・

2005年10月13日 (木)

日本人の宗教性とは

興味深いシンポジウムが 國學院で開かれる (→ こちら)。 

日本人の宗教性とは 具体的にどんなものか、、、 「無宗教」とか「独特」とか言われるけど、それは一体どういうことなのか、、、 こうしたテーマを 統計資料を使ってたしかめる というものらしい。

行きたいけど 行けないなぁ・・・ ちくしょぉ・・・

<メモ>

この情報、 以前ここでも紹介 した Kuro-san RSS Reader でゲットました。 クロさん、いつもお世話になってます。

このブログが僕の命綱

このブログを立ち上げて 早一ヶ月(→ こちら )。 やっと少しずつ、僕にとってのブログとはなにか、分かってきた。

予想していなかったことなのだけど、今 このブログが僕の命綱 になっている。

生活のためのバイトが忙しくて、 最近とにかく勉強できない。 本を読みたい、資料を読みたい、フィールドに行きたい、研究会に出たい、論文を書きたい、、、だけど それができないでいる。 そんなときに このブログである。 おかげで・・・

  1. 勉強脳、研究脳を 多少なりとも 維持できる
  2. 短く 端的に書く 訓練ができる
  3. 業界外の方々に読んでいただけるような文体を 意識せられる
  4. 業界内の方々に 「僕が・ここに・いること」 を お伝えできる

このブログを通じて、 なんとかこの苦しい時期を 乗りこえていけたらなぁ・・・

2005年10月12日 (水)

パキスタンの地震

何度も書いては消し 書いては消しをくり返した このトピック、「 パキスタンの地震 」。

これはもちろん通称である。 間違えてはいけないのは インド側カシュミール(インドが実行支配するジャンム&カシュミール州)でも 多大の被害がでているということだ。 「パキスタン地震」という呼び名は便利すぎて、事実を覆い隠してしまいかねない危険がある。 コトバが先行して、そこから事後的に理解ができあがる というのは、まぁ、よくある話なのだが、、、 こういったことをきっかけに、日本の皆さんのあいだで 印パ分離の歴史(→ こちら 、 あるいは こちら )についての関心が増してくれたらよい、と思う。

死者2万数千から4万人、被災者250万人、、、もう僕は 何を言ってよいか 分からない。どんな不幸がそこに生まれ、どんな悲劇や希望がそこで交差しているのか、、、 現地の人々、救援活動をなさっている人々、その他諸々の関係者の皆さん、、、心からのエールを送りたい。

カシュミールにもパキスタンにも 実は 僕は行ったことがない。しかし、南アジア研究者としては やはり身近な問題のように感じられて仕方がない。 インド洋津波があり、今回はまた地震。。。 南アジア西部の大災害ということでは、グジャラート地震(2001年1月)も 思い出す。。。 僕自身が人生をかけて関わりつづけている地域で、恐ろしい天災がつづいている。

こうしたことを どのように受け止めていくのか、、、これは 僕にとってまったく解決されていないままに残されている問題だ。(→ こちらのエントリ も参照)

========

こんなブログごときに コトバを連ねてみても仕方ない、、、と思っていたが、ひとつ 僕が書いておかねばならないと思われることがあったので、ここに エントリすることにした。

それは、 谷川秀善外務副大臣の訪パ の話題である。

小渕さんか森さんか小泉さんか、その辺りから、外務副大臣が海外の現場に飛ぶというスキームができあがっている。 これを日本の皆さんは どう思っているのだろう? 脱官僚/政治家主導の行政・外交、、、ということで これを歓迎するのだろうか?

たしかに そういった面はあろう。 外交において「顔」をしっかり売り込むというのは、本質的に重要なことであり、政治家がその役割をはたす、ということなのだろう。 それはそれでよい。 あとは 個々の政治家の実力が問われるだけだ。 はてさて 谷川さんは どれほどのモノだろうか ・・・?

ただし、かつて在印日本大使館で勤務していた僕には 言っておきたいことがある。 それは、こんな大災害のときに 大臣なんかが来たら、現地の外交官は 本当に、本当に、本当に 大変だ!! ということである。

地震が起きて、現地の外交官の仕事量はハンパじゃないものとなっているはずだ。ほとんどの人が、ほとんど眠っていないはずだ。 そこに、、、 大臣が、意気揚揚と 、、、なんて、自分のことと思ったら、そりゃぁもうゾッする。 政治家が「顔」になってくれるのはよいが、そして (なかなか ありえないことだとは思うが、まぁ それでも もしも)それが 本当に困っている現地の人ひとりひとりの助けになるのなら、素晴らしいことだが、 谷川さん、ちゃんとはたらいている外交官の皆さんを どうかちゃんとねぎらってやってください。 主権者であるわれわれは、そうした外交の現場を 少しでも身近なものに感じていくのが好ましいと思う。

2005年10月11日 (火)

細木数子

好物になったわけではない。むしろ今でも・・・どっちだと言われれば・・・嫌いだ。しかし、典型的な食わず嫌いだったことは分かった。 細木数子 の話である。

最近はじめて 彼女のテレビ番組を観た。 本当に気が乗らなかったのだが、ちょっとした事情があって、観ざるをえなくなってしまった。 観ているうちに 引きこまれた。 彼女が 凡人ではない ことが はっきり分かった。 (あぁ、そうだ、、、急いで付け加えておこう、、、もちろん 偉人でもなんでもない)

彼女の占いが当たろうが 当たるまいが、そんなことはどうでもよい。 彼女が占い師であることなんて、ほとんど意味のないことだ (スマン!! モンキッキ・・・)。 大事なのは、 保守的な価値観を現代風の言葉で、断定文を連発して表現する、その手際である。 いやぁ、、、実に感服した。 たしかに説得力がある。 視聴率が高いのもうなずける。 あれはたしかに 現代日本の大衆が見たいと思っているもの だ。

劇物である。劇薬である。 億単位の買い物をし、タッキーとマサトをはべらせ、ゲタゲタと笑う。 怪物である。 僕のお気に入り映画「 血と骨 」を思い出す。 モンスターは規格外、想定外であるからこそ、商品になる、、、そんなことも ちゃぁんと分かって、この俗物は いまもどこかで この世の春を謳歌していることだろう。

宗思研

今日(10日)は 鶴岡科研+ 宗思研 (比較宗教思想研究会)に参加してきました。

ここのところ 生活のためのバイトであまりに忙しくて、研究会なんてものに まったく出ることができていなかった。 こうして参加させてもらえただけで 本当にうれしかった。 あぁ、、、学問をやりたいなぁ、、、と つくづく思ったのでした。

発表者はお二人でした。

  • 津城寛文 「<霊>の探求――近代スピリチュアリズムと宗教学」
  • 市川 裕  「ユダヤ民族誌研究とハシディズムの意義」

津城先生の発表 は 今月末に発刊予定のご著書(今年にはいって二冊目!!)の骨格をまとめたものだった。 19世紀末から20世紀半ばぐらいにかけての英語圏の「近代スピリチュアリズム」とその周辺が取りあげられていた。

印象に残ったのは、、、

  • 意思をもった一人の人間としての「自信」に満ち溢れたオカルティスト
  • 高級霊の前に自らの小ささを引きうける「謙虚さ」をもったスピリチュアリスト

この二者の対比という発想だ。 その筋の参加者からは なかなか面白い区別だ、との評があったが、そうした対比にどういった意味があるのか 僕には最後までよく分からなかった。 それは ちゃんと理解すべき大切なことなのか、そうでないのか、、、そこがどうも、、、「?」 のまま残された。 大切なことなら、ちゃんと理解したいのだが、、、

もう一つ 分からなかったのは、 ミスティシズム(神秘主義)の位置づけだ。 たとえば、マザー・テレサ(→ こちら も参照)。 彼女はおそらく 伝統的な神秘家に近い。 しかも、「謙虚さ」で満ち溢れた人だ。 そのことは 津城先生もお認めになっていた(@ 酒の席)。 さらに 彼女もまた20世紀前半の人であり、 しかも 津城発表のなかで中心的に論じられていた神智学協会と 同時代のインドで活躍した人だ。 だけど、、、彼女の霊的体験はやはり スピリチュアリズムとはいいにくいわけで、 彼女のような人を 津城先生の枠組みが どのように位置づけるのか、あるいは 別に位置づけなくてもいいのか、、、そこが 分からなかった。 マザー・テレサの事例は 大事なことじゃないのだろうか、、、大事なのか 大事じゃないのか、、、そもそも そんなことを考えるのが的外れなのか そうじゃないのか、、、??

こうして書いてみると あらためて分かるが、要するに 僕は 津城先生のご報告を ちゃんと理解できなかったんだなぁ。。。 睡眠不足で動いていない脳のせいもあろうけど、 やっぱり僕は どうもこの分野にうとい、うとすぎる。 勉強が必要なのかもしれない。。。

市川先生の発表 は ハシディズムを中心に 18世紀後半から20世紀前半までの 東欧ユダヤ人社会の全体像をとらえようとする、、、あるいはその逆に、、、18世紀後半から20世紀前半ごろまでの 東欧ユダヤ人社会という舞台のうえで ハシディズムとはなにか をとらえようとする発表だった。 先生も研究をはじめたばかりということで、とりあえずの中間発表といった性格のものだった。

僕にとって快感だったのは、 ハシディズムのイメージがことごとく壊されたことだ。 ごく表層的な理解しかなかったのは分かっていたが、、、

  • 百年ほどの間に 誕生から 迫害、 そして東欧ユダヤ社会の中心へ という、劇的な過程を経たこと
  • ウルトラ高度なユダヤ神秘主義思想の思弁と 悪霊払いなど民間信仰とみなされるべき実践とが 一体化していたこと

この二つのことを知って、率直に ただもうビックリした。 まだまだまだ 解明されるべきこと、学ぶべきことが 宗教史のなかには いっぱい残されているのだなぁ、と思った。 僕も自分の研究で 読者や聴衆にそうした印象を与えることができたらいいなぁ、と思った。

2005年10月10日 (月)

ブブブ

足元で寝ていたリズが 「 ブブブ 」 と 鼻だかノドだかを鳴らして 起き上がる。 横に座って、しょぼしょぼの眼で こちらをのぞきこんだ。

リズとは うちのフレブルである。黒多目のブリンドル、3歳、♀。

秋の夜長に フレブルと

宗教が強すぎて

先日 千葉市女性センターでおこなった講義(→ こちら)の感想が 担当の方から届いた。

ふむふむ、、、講義は どうやら好評だったみたいですね。よかったです。

いただいた感想のなかで 気になるポイントが三つあった。

  1. 宗教が強すぎて 、国民を支配している」
  2. 「宗教と政治が結びつくのはとても恐ろしい」
  3. 「インドの女性がかわいそう」

二つ目と三つ目の点は 別便で書くことにして、 ここでは第一のポイントについて ちょっと書かせていただきたい と思う。

受講者の方々> もし このブログを読んでおいでなら、質問なり反論なりを ぜひともお寄せください

「宗教が強すぎて、国民を支配している」というのは インドの現状を表わすコトバとしては、 半分当たって 半分ハズれ ている、と僕は思います。 日本と比べて インド人の日常生活において宗教がとても重要な役割をはたしている、というのは その通りでしょう。 でも、強 すぎる というのは どうでしょう? まして 支配している という とても否定的な言い方は どうでしょう?

それは とても素朴な感想です。素朴で率直な感想なのですから、僕もそれを尊重したい。バカにしたり、無碍に否定したりは 絶対にしない。しかしながら ですね、 外国のことを理解するためには、そういった単純素朴な感想は むしろ障害 になってしまう、、、僕は このことを強調したいのです。

「宗教が強すぎて、国民を支配している」というのは 日本人が日本人の感覚で インドのことを 勝手に 判断して、 勝手に 評価している、、、そんなコトバではないのかな、、、と僕には思えるのですが、いかがでしょうか。

二つのことを申しあげます。

  • 宗教を弱めてしまえば、インドの人たち(とくに ここでは女性)は解放されるのでしょうか? 幸せになるのでしょうか? 宗教(この場合、とくにヒンドゥー教)は たしかに人を「支配」したり、不幸にしたりしています。それはそのとおりです。 しかし、 それが宗教のすべてでしょうか ? もっと複雑で、色々な方向へと向かう道筋が そこには含まれているのではないでしょうか?
  • 私たち現代日本人は、何かに「支配」されてはいないでしょうか? 私たちの日常生活もまた 何か「強すぎる」ものによって「支配」されてはいないでしょうか? 宗教以外にも 、人間は多くの「強すぎる」ものに「支配」されている、、、それが実は普通のことではないでしょうか?

素朴で、良心的な(つまり、インドの人のことに 真剣に同情する、そうした)気持ちが、むしろ 私たちの知らない世界を バカにしてしまうことがある、、、ここで ふんばれるかどうか、、、それが外国のことを学ぶキーになるでしょう。 要するに、 自己反省が先にあるべし ということです。

2005年10月 9日 (日)

ホセ・カサノヴァ 『近代世界の公共宗教』

ホセ・カサノヴァ 『近代世界の公共宗教』 (→ こちら @アマゾン) を読みなおしている。 言うまでもなく、 宗教政治学のお手本 の一冊だ(→ こちらのエントリ も参照)。

まだ1章を読んだところだが、 自分がどれだけ強く この本に影響されていたのか 気づいて、びっくりしている。

最初に読んだのは、 出てすぐのことだから もう7~8年前。 そんなに熱狂して読んだわけではなかった。 でも、、、 基本的な主張、 細かな論旨展開、 記述のスタイル、、、 今の僕と すごくよく似ている 。 とくに 最近の自信作 「 宗教復興と世俗的近代 」が まるでカサノヴァ的であるから、 自分でも ちょっととまどっている。 

全面的に絶賛、、、というわけではない。 注文を二点 つけておこう。

  1. カサノヴァ本人も認めていることだが、あまりにも「 西洋中心 」すぎる。 なんてったって、キリスト教のことしか書いてないのだから。。。 僕の研究は、カサノヴァの理論枠組みを ヒンドゥー・ナショナリズムの事例から検証するもの、、、という位置づけができそうだ。 同じ疑問は、 矢野秀武さん からも提出されている( こちら @アマゾン)。 カサノヴァの議論では、タイの仏教のことがさっぱり分からない、 というわけだ。 さもありなん。
  2. 宗教概念の定義問題 が 完全に脇におかれている。 これはマズい。 この問題は、宗教復興論、世俗化論、「公共宗教」論の本質に関わる。 僕自身、上記拙稿で これらの諸問題のリンクを ほのめかすだけでおわっている。 一度、ちゃんと論じておかないといけない。 来年の宗教学会ででも 発表させていただこうかしら・・・

こうした注文はあるけれど、 やっぱりよくできた本だ。 カサノヴァの頭の良さが サラリと表されている。 これからも しばしば読み返すことになるだろうなぁ。。。

なお、2004年9月、カサノヴァさんが来日した折の動向については、 川瀬貴也さんがレポートしてくれている(→ こちら )。

2005年10月 6日 (木)

ホテル・ルワンダ

映画「 ホテル・ルワンダ 」の公開決定!!を 粟津さんのブログ で知った。 これは行かねば。 旧ユーロスペースのみの公開(来春以降)のようですが、、、 ともあれ 関東在住の皆さん 行きましょう! そして 東京に起こしになることがあれば、 ぜひぜひ!

世田谷市民大学

今日(6日)、 世田谷市民大学 (→ こちら)に行ってきた。 来年度、そちらで講義をうけもたせてもらう、その打ち合わせのためだ。 今年度 ゼミをうけもってらっしゃる 西平直先生 → 僕の師匠である 島薗進先生 → 僕 、、、 という順番で 話がまわってきたのである。 今日は現地で 西平先生はじめ 関係者の方々にお会いした。

少しでも(!!)研究に関わる仕事をさせてもらえるのは、 本当に感謝なのだ。 ありがとうございます、諸先生方。 よろしくお願いします、関係者の皆さま。

来年度のことではあるけれど、 「 非暴力の可能性 ―― マハトマ・ガンディーの場合 」 という題名の講義をしようと思っている(9月~12月)。 前期に 日本女子大で 同様の講義をうけもたせていただくことになっているので、 それとのコラボということになる。

がんばろ・・・

2005年10月 5日 (水)

YONSH の内容

先日のエントリ で YONSH なるものを 僕が作っていることを紹介した。

せっかくなので 今日は そのさわりをご紹介。 読んでおきたい宗教論の論文リスト、、、なわけですが、 たとえば 次のように書かれているわけです。

  • いとうせいこう・スガ秀実・中沢新一 1995. 「精神世界概論:座談会」同『それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド』太田出版,第1章(12-67頁).

これに 次のような脚注をつけてあります。

いとうせいこうはヒップだ。曰く「なるほど。そうするとチャネリングはどういう流れですか。個人に宇宙人が答えてくれるって言うんだから、アメリカ的だと思うんですが。 こんなインスタントなことで、宇宙人と会っちゃいけないだろうと思うんだけど 」(46頁:強調引用者)。このセンスの良さに脱帽。

中沢新一はもちろんグルだ。神経「腺」ではなく神経「線」と言っているところに要注目。曰く「眉間の奥には間脳からの神経線がたくさん集まっています。 それで 眉間からいつも人間は、生命的な力を放出しています」(24頁:強調引用者)。「 宗教は倫理じゃない ということを日本人がはじめて理解しはじめた」(52頁:強調引用者)。

こんなのが 現時点で60数本(・・・かな?) ズラリと並んでいるのが YONSH です。 おおよそ一年一度の更新。 いかがでしょうか? ご興味 ございますか?

宗教を研究したって ダメでしょォ

先日のエントリ で 映画 「マザー・テレサ」 について書いた。そこで 友人のSさんとの会話を記録した、、、ら、、、Sさんからのコメントをいただいた。僕からのコメント返しとして、次のように書いた。

マザー評価は、本当にむずかしい と思うのです。おそらくは、宗教学者の試金石といってもいいような問い と言えましょう。  万教同根論 がこれまでの宗教学の隠された規範だったわけですが、いったい それで宗教のなにが分かるというのか、、、僕らは ちゃんと考えてみないといけない、と思います。

この点について (Sさんは この表現だけで十分お分かりだと確信するが、宗教学業界外の方のために) もっと分かりやすいコトバで、もう少し長めに書いておきたいと思う。

========

宗教学を学びはじめたとき、 誰もがつきあたる問い がある。

宗教は信じてみて、自分で実践してみて はじめて分かるものではないのか・・・?

それを学的に研究する (つまりは 客観的に、外部から、価値判断をせず、自ら実践をせず、理性で 分析する) とは 一体どういうことか・・・?

そんなの 宗教を知ったことには 全然ならないのではないか・・・?

宗教の学的探求とは いったい 何を目ざして 誰のために おこなわれる営みなのか・・・?

この問いは、宗教学者が自分で自分に問いかけるだけではない。 業界外からの 宗教学批判の決り文句 でもある。

宗教を研究したって ダメでしょォ!! 自分でやってみなきゃ、 自分で信じてみなきゃ ・・・・ねェ?!

これに対して、 宗教学は 二つの立場から 自己弁護、自己正当化をしてきた。 (こちらのエントリ も参照)

  1. 【科学主義】  社会科学の理論と方法は 自律的なものである。 その「科学」の「対象」を「宗教」にすれば、 おのずと 宗教学/宗教研究ができあがる。 それに意味があるかどうかは、 二の次である。 分かる人にはわかる、 分からない人にはわからない、、、 意味ある成果が出ればでるし、出なければでない (やってみて ナンボ) 、、、 ただそれだけである。
  2. 【万教同根主義】  諸宗教の比較によって、 「普遍的な宗教性」  ――具体的には あらゆる宗教が人間存在と人間社会の一般的な構造、根底に根ざしていること―― が明らかになる。 それは 人間存在と人間社会の可能性の拡大である。 あるいは 真理である。

これらいずれからの立場に共鳴する人たちが宗教研究者になってきた。 とくに 後者に共感する人は 「宗教学者」 になってきた。 (宗教学とは かなり強い程度に 万教同根主義により規定されてきた)

それは 論理的に証明された結論 というよりも、 コミットメントを要求する思想である。

そうした情念のレベル、イデオロギーのレベルを確保しえていたからこそ、宗教学は 一方的で役立たずと言われる反面、 熱心な支持者・実践者をえてもきた。

========

今日は ここまでにします。 アイディアはありありなのですが、、、 思ったより 文章にするのに時間がかかっちゃいました。 

このつづきは 近いうちにまた 書かせていただきます。 中途半端御免

2005年10月 4日 (火)

YONSH 第5版

<事務連絡 、、、って言っても だれに?>

YONSH 第5版 、 昨日(3日) 研究室のノートにはってきました。 ちょっと事情があって、年度半ばの更新となりました。 ぜひ ご覧ください

<YONSH とは・・・>

「読んでおきたい宗教論」 → 「読ん・宗」 → 「ヨン・シュウ」 → 「ヨンシュ」 。その名のごとくのものでして、ワタシ自作の論文リストです。 一部からは 大変好評をいただいておりますから、 いつか HPを立ち上げることができたら 公開させていただきたいと思います。

2005年10月 2日 (日)

ジル・ケペル『宗教の復讐』

宗教政治学のお手本がない!! と書いたが(→ こちら)、 ヒンドゥー・ナショナリズム研究をやっていくに際して (正確には、ヒンドゥー・ナショナリズムの世界史的な位置づけについて考えるに際して) 僕は 徒手空拳であったわけではない

もっともよく参考にしてきた一冊は ジル・ケペル『宗教の復讐』 (→ アマゾンなら こちら) である。 (英訳も読んでいるが、、、 お恥ずかしい、、、 僕はフランス語が読めない、、、原典を読んでいない、、、)

この業界ではもはや「古典」のおもむきすらある この本。 『 現代宗教事典 』に独立項目が立っていたりする。

たしかに役に立つ。 しかも 世界的にみても、この分野ではもっとも早い業績でもある。 (最初の著作が一番よい、、、というのは よくあること。 まさに 古典!!) 

ただし 難点がある。 

第一に、 ケペルが近代性と宗教性を 比較的単純なしかたで 対立的に理解しているところだ。 この本・・・ 各地の情勢 (政治と社会の情勢。 「社会」も入っているところが、この政治学者による著作の長所のひとつだ)を かなり繊細にフォローしている。 また、 いろいろな限定をつけて、 現代史の厚みを描こうとしている。 けれども!! フランス的な発想なんだか、 ヨーロッパ的なんだか、 西洋的なんだか よく知らないけれど、 結局 大枠が 宗教 vs 近代性 という おなじみの 二項対立図式 になってしまっている。 (この図式の不毛については こちらの論文 で論じさせていただいた)

第二に、 これまたよくあることだけど・・・ いわゆる「原理主義」の比較研究が目指されているこの本、、、 やっぱり セム的一神教 (ユダヤ教、キリスト教、イスラーム) だけが対象になっている。 インドのことなんて、ほんのちょっと ポロッとふれられるだけ。 これは やっぱり 「宗教論」 としては 弱いです。 仕方ないこととはいえ、 どうしてもこうなっちゃうんだよなぁ・・・ 実際、 僕もそういことできていないし・・・

このような批判はあるのですが、 ともあれ 今でも折にふれ 手に取る一冊なのでした。

原爆文学

先日 「 暴力を論じる際のためらいや難しさ 」について書いた(→ こちら

そしたら昨日、佐藤啓介さんのブログに こんなエントリ があった。「 原爆文学 」の紹介だ

佐藤さん> 実はいつも見させていただいておりました。こんな形の挨拶となり、、、なんだかすいません。これからもどうぞよろしくお願いします

恥ずかしながら、あるいは 単におかしなことながら、 原爆の問題とインドの暴力の問題 を 僕はつなげていなかった。 でも、あらためて考えてみれば、 こんなにも身近に(子供のころから さんざん気化されてきた話に) インドのあの悲劇と深くつながることがらが たくさん含まれていたのだ。

佐藤さんによれば、原爆文学の分野でも 「 表象の不可能性 」が問題になっているらしい。正確にいえば、「表象の不可能性」というメタ表象の優越ということか・・・ 「語れない/文字にできない/記録できない/記憶できない」という あらかじめ分かりきった結論にいきついたところで、議論や語りがとまってしまう、、、という、、、

コトバであれ モノであれ エーゾーであれ、暴力の問題であれ それ以外の問題であれ、 そもそも表象/代表なんて不可能である。 なにかがなにかを 正確に写しとるようにして表わす、、、なんて そんなことありえないだろう、、、

それでも、「表象の不可能性」というコトバでなんとかとらえようとしている その体験――当事者の、関係者の、外部者(ワタシ)の体験、、、 それは たしかに尊重されるべきものだ。 それをワタシの限界として、基底として そこにしっかり保ちつづけ、 そこから営みをくりだしていくこと、 ワタシと別のワタシとのつながり(そのようなものとして感得されるもの、あるいは そこから制度と言説が固定化されるところのもの) を結び固め、ほどきゆるめする(あるいは、結ばれ固まり、ほどかれゆるめられを知る)―― これは かけるに値する人生 ではないか。。。そんなことを どうやら僕は考えているらしいことが分からせていただいたみたいです。

<佐藤さんのブログについて メモ>

  • Kuro-san RSS Reader ( こちら で紹介)には現時点でまだ登録されていない
  • デザインが本当にすばらしい!!
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