宗教が強すぎて
先日 千葉市女性センターでおこなった講義(→ こちら)の感想が 担当の方から届いた。
ふむふむ、、、講義は どうやら好評だったみたいですね。よかったです。
いただいた感想のなかで 気になるポイントが三つあった。
- 「 宗教が強すぎて 、国民を支配している」
- 「宗教と政治が結びつくのはとても恐ろしい」
- 「インドの女性がかわいそう」
二つ目と三つ目の点は 別便で書くことにして、 ここでは第一のポイントについて ちょっと書かせていただきたい と思う。
受講者の方々> もし このブログを読んでおいでなら、質問なり反論なりを ぜひともお寄せください
「宗教が強すぎて、国民を支配している」というのは インドの現状を表わすコトバとしては、 半分当たって 半分ハズれ ている、と僕は思います。 日本と比べて インド人の日常生活において宗教がとても重要な役割をはたしている、というのは その通りでしょう。 でも、強 すぎる というのは どうでしょう? まして 支配している という とても否定的な言い方は どうでしょう?
それは とても素朴な感想です。素朴で率直な感想なのですから、僕もそれを尊重したい。バカにしたり、無碍に否定したりは 絶対にしない。しかしながら ですね、 外国のことを理解するためには、そういった単純素朴な感想は むしろ障害 になってしまう、、、僕は このことを強調したいのです。
「宗教が強すぎて、国民を支配している」というのは 日本人が日本人の感覚で インドのことを 勝手に 判断して、 勝手に 評価している、、、そんなコトバではないのかな、、、と僕には思えるのですが、いかがでしょうか。
二つのことを申しあげます。
- 宗教を弱めてしまえば、インドの人たち(とくに ここでは女性)は解放されるのでしょうか? 幸せになるのでしょうか? 宗教(この場合、とくにヒンドゥー教)は たしかに人を「支配」したり、不幸にしたりしています。それはそのとおりです。 しかし、 それが宗教のすべてでしょうか ? もっと複雑で、色々な方向へと向かう道筋が そこには含まれているのではないでしょうか?
- 私たち現代日本人は、何かに「支配」されてはいないでしょうか? 私たちの日常生活もまた 何か「強すぎる」ものによって「支配」されてはいないでしょうか? 宗教以外にも 、人間は多くの「強すぎる」ものに「支配」されている、、、それが実は普通のことではないでしょうか?
素朴で、良心的な(つまり、インドの人のことに 真剣に同情する、そうした)気持ちが、むしろ 私たちの知らない世界を バカにしてしまうことがある、、、ここで ふんばれるかどうか、、、それが外国のことを学ぶキーになるでしょう。 要するに、 自己反省が先にあるべし ということです。
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