原爆文学
先日 「 暴力を論じる際のためらいや難しさ 」について書いた(→ こちら)
そしたら昨日、佐藤啓介さんのブログに こんなエントリ があった。「 原爆文学 」の紹介だ
佐藤さん> 実はいつも見させていただいておりました。こんな形の挨拶となり、、、なんだかすいません。これからもどうぞよろしくお願いします
恥ずかしながら、あるいは 単におかしなことながら、 原爆の問題とインドの暴力の問題 を 僕はつなげていなかった。 でも、あらためて考えてみれば、 こんなにも身近に(子供のころから さんざん気化されてきた話に) インドのあの悲劇と深くつながることがらが たくさん含まれていたのだ。
佐藤さんによれば、原爆文学の分野でも 「 表象の不可能性 」が問題になっているらしい。正確にいえば、「表象の不可能性」というメタ表象の優越ということか・・・ 「語れない/文字にできない/記録できない/記憶できない」という あらかじめ分かりきった結論にいきついたところで、議論や語りがとまってしまう、、、という、、、
コトバであれ モノであれ エーゾーであれ、暴力の問題であれ それ以外の問題であれ、 そもそも表象/代表なんて不可能である。 なにかがなにかを 正確に写しとるようにして表わす、、、なんて そんなことありえないだろう、、、
それでも、「表象の不可能性」というコトバでなんとかとらえようとしている その体験――当事者の、関係者の、外部者(ワタシ)の体験、、、 それは たしかに尊重されるべきものだ。 それをワタシの限界として、基底として そこにしっかり保ちつづけ、 そこから営みをくりだしていくこと、 ワタシと別のワタシとのつながり(そのようなものとして感得されるもの、あるいは そこから制度と言説が固定化されるところのもの) を結び固め、ほどきゆるめする(あるいは、結ばれ固まり、ほどかれゆるめられを知る)―― これは かけるに値する人生 ではないか。。。そんなことを どうやら僕は考えているらしいことが分からせていただいたみたいです。
<佐藤さんのブログについて メモ>
- Kuro-san RSS Reader ( こちら で紹介)には現時点でまだ登録されていない
- デザインが本当にすばらしい!!
« 後記 #2: 9/23 ドキュメンタリー映画会議 | トップページ | ジル・ケペル『宗教の復讐』 »
「01A 宗教学」カテゴリの記事
- 20世紀における「反近代」の変容(2016.02.24)
- 島薗進 『ポストモダンの新宗教』 (2001)(2016.02.17)
- [ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か(2016.02.27)
- ヒンドゥーの霊的原初主義(2015.12.17)
- 映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2015.11.11)
「02A 南アジア研究」カテゴリの記事
- 近現代の日印文化交流 ― タゴールと遠藤周作 ―(2016.06.07)
- ヒンドゥーの霊的原初主義(2015.12.17)
- 映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2015.11.11)
- 【公開講座】 インド現代史(2015.04.04)
- 路上の神様―祈り(2014.11.30)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
トラバいただき、ありがとうございました。
京都で西欧系の「宗教哲学」とかいうマイナーな研究をしている若輩でございます。(といいつつ、収入の大半は塾講師)
「宗教政治学」という言葉には、虚を衝かれました。私の分野だと、ただちにルジャンドルの議論などが想起されましたが、とまれ、今後ともちょくちょく拝見させていただきます。
投稿: pensiero | 2005年10月 2日 (日) 23時15分
pensiero さま>
コメントまでいただき、ありがとうございます。
おそらくはTさんをご存知ではないでしょうか。いまはアメリカにいらっしゃる(はずの)、神学系宗教哲学をやってらっしゃる あのTさん。 僕は「師匠」とお呼びして、仲良くさせていただいております。 (そういえば、最近 全然 連絡をさしあげていませんが・・・) そんなところで、pensieroさんとは意外なつながりがあるかもしれない、、、と想像したりします。
ルジャンドルもそうですが、もしかしたら やっぱりシモーヌ・ヴェーユなのか、、、と思ったりもしています。 いずれにせよ、忙しくて 手はついていませんが、、、
どうぞ これからもよろしくお願いします。
投稿: コンドウ | 2005年10月 3日 (月) 06時15分