宗教を研究したって ダメでしょォ
先日のエントリ で 映画 「マザー・テレサ」 について書いた。そこで 友人のSさんとの会話を記録した、、、ら、、、Sさんからのコメントをいただいた。僕からのコメント返しとして、次のように書いた。
マザー評価は、本当にむずかしい と思うのです。おそらくは、宗教学者の試金石といってもいいような問い と言えましょう。 万教同根論 がこれまでの宗教学の隠された規範だったわけですが、いったい それで宗教のなにが分かるというのか、、、僕らは ちゃんと考えてみないといけない、と思います。
この点について (Sさんは この表現だけで十分お分かりだと確信するが、宗教学業界外の方のために) もっと分かりやすいコトバで、もう少し長めに書いておきたいと思う。
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宗教学を学びはじめたとき、 誰もがつきあたる問い がある。
宗教は信じてみて、自分で実践してみて はじめて分かるものではないのか・・・?
それを学的に研究する (つまりは 客観的に、外部から、価値判断をせず、自ら実践をせず、理性で 分析する) とは 一体どういうことか・・・?
そんなの 宗教を知ったことには 全然ならないのではないか・・・?
宗教の学的探求とは いったい 何を目ざして 誰のために おこなわれる営みなのか・・・?
この問いは、宗教学者が自分で自分に問いかけるだけではない。 業界外からの 宗教学批判の決り文句 でもある。
宗教を研究したって ダメでしょォ!! 自分でやってみなきゃ、 自分で信じてみなきゃ ・・・・ねェ?!
これに対して、 宗教学は 二つの立場から 自己弁護、自己正当化をしてきた。 (こちらのエントリ も参照)
- 【科学主義】 社会科学の理論と方法は 自律的なものである。 その「科学」の「対象」を「宗教」にすれば、 おのずと 宗教学/宗教研究ができあがる。 それに意味があるかどうかは、 二の次である。 分かる人にはわかる、 分からない人にはわからない、、、 意味ある成果が出ればでるし、出なければでない (やってみて ナンボ) 、、、 ただそれだけである。
- 【万教同根主義】 諸宗教の比較によって、 「普遍的な宗教性」 ――具体的には あらゆる宗教が人間存在と人間社会の一般的な構造、根底に根ざしていること―― が明らかになる。 それは 人間存在と人間社会の可能性の拡大である。 あるいは 真理である。
これらいずれからの立場に共鳴する人たちが宗教研究者になってきた。 とくに 後者に共感する人は 「宗教学者」 になってきた。 (宗教学とは かなり強い程度に 万教同根主義により規定されてきた)
それは 論理的に証明された結論 というよりも、 コミットメントを要求する思想である。
そうした情念のレベル、イデオロギーのレベルを確保しえていたからこそ、宗教学は 一方的で役立たずと言われる反面、 熱心な支持者・実践者をえてもきた。
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今日は ここまでにします。 アイディアはありありなのですが、、、 思ったより 文章にするのに時間がかかっちゃいました。
このつづきは 近いうちにまた 書かせていただきます。 中途半端御免
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