市民社会と民俗
たった今 前便 で市民宗教について書いたが、 そこでは実はまだ 僕がもともと書きたかったことに触れていない。 それは 市民社会と民俗 という問題だ。
カサノヴァ 『近代世界の公共宗教』の邦訳(→ 在庫切れながらも こちら )の「訳者あとがき」で 津城寛文さん は次のように書いている。 思い切って ちょっと長めに引用させていただく。
カサノヴァは、国家レベルの公共宗教、政治社会レベルの公共宗教、市民社会レベルの公共宗教がありうるという風に、公的領域のレベルに応じた公共宗教の諸形態を区別しているが、私は……公共性・集合性をもった宗教には、これ以外の形態もあるのではないか、という気がしてならない。前著 『日本の深層文化序説――三つの深層と宗教』(玉川大学出版部)で、日本(人、文化)論のイデオロギー性に言及した際、イデオロギー批判に解消されない宗教性が民俗的レベルに存在することを示唆しておいたが、カサノヴァの「公共宗教」論を参照することで、国家的、政治社会的、あるいは市民社会的ななんらかの動員をめざす公共宗教とは異なる、「深層文化としての宗教」の位置付けが、もう少しはっきりしてきたように思う。 (邦訳 389頁)
ここでの問題は二段階に分けてみるとわかりやすい。
- 市民社会と民俗 (公共性論のレベルで): 民俗とは どのような公共性/集合性なのか? それは 市民社会/政治共同体/社会共同体/国家などと どのような関係にあるのか?
- 市民宗教と民俗宗教 (宗教論のレベルで): 上の問題に応じて、宗教の様態や機能はどのようなものになるのか? その上であらためて宗教とはなにか?
これはとても面白い論点だと思った。 カサノヴァの議論自体が、ハーバマス以降の公共性論にのっかっている。 ハーバマスの批判的再検討をおこなっているとはいえ、カサノヴァ自身、 明確な近代主義の立場 をとっているのだ。 こうして 彼の議論からは どうしても「民俗」のレベルがぬけおちることになる。
僕自身、「民俗」をどのようにあつかっていいのやら、あまりよく分かっていない。 ヒンドゥー教のことを考えてみれば、まさに「民俗」と呼ぶべきものが 巨大な役割をはたす一方、 ヒンドゥー・ナショナリズムは 国家、政治社会、市民社会などに本質的にかかわる。 これらの間には、 断絶とともに連続がある としか、いまの僕にはいえない。
ここをちゃんと説明できれば、とっても素晴らしいとは思うのだが・・・
<メモ>
津城先生の著作一覧は こちら 。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

最近のコメント