資源動員というパースペクティヴ
前便は こちら
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カサノヴァの本から 印象的な一節をば 再び
1970年代から80年代にかけてのアメリカでの
「プロテスタント根本主義」 の台頭を論じる箇所から
資源動員というパースペクティヴ は、 諸運動がいかにして組織され、 成長し、 衰微するかということに関して、 もっともらしい記事を提供できる一方、 このパースペクティヴ、 とくにその 「組織上の支流」 というパースペクティヴは、 人々がなぜ最初にある運動をはじめようと望むのか、 その理由を説明するのには、 あまり役立たない。 人々を集団的行動へと動かした不平の原因と動機、 権力への意思、 認知され受け入れられたいという要求 ―― これらのことを、 その理論は定数とみなし、 そしてそれらは定数として、 当然のこととみなされるのである。 さらにそれらは、 もし不足の場合は上のほうから容易に作り出すことができる [とされる]。 [また] 人々が組織されずにいるのは、 周囲の好条件の欠落、 資源の乏しさ、 組織化に関する技術の不足によることは、 まったく明らかである [とされる]。 これにより古い諸理論が、 原因として不平や相対的剥奪を強調していたこと、 また社会運動の発生をそれらの原因で説明できると信じていたことに対して、 資源動員というパースペクティヴ は過剰に反応して、 それらを無視するか、 あるいは単に組織されるべく待機している資源とみなすことを好んでいる。
邦訳 188頁: 強調引用者。 [ ]は引用者注
この一段落があらわれるのは
資源動員論の有効性を数頁にわたって論じてきたあとである
つまり、その有効性に対する限界を示すものである
こうしたことは、僕も ヒンドゥー・ナショナリズム研究をやってきて
明確に気づいていたことであり
実際 いくつかの論文にも そう書いてきた
僕の論文と違って、カサノヴァのこの本が
すでに 「古典」 の域に達しているのは、 自らの理解を
ちゃんと社会運動論の先行研究を注記することで示している点だ
(上記引用では 注は除いてある)
こういうのを 本当の研究 というのだろう
さてしかし、 問題は 上の指摘のつづきである
資源動員論でなにが説明できて、なにが説明できないか
これを明らかにしたうえで
では 現実の諸運動/現象の動態を どのように説明しなおすのか
というわけだ
ここが 本当にむずかしいところ であり
僕も そこでかなり微妙な議論を強いられてきた
はてさて カサノヴァは それをどう処理しているのやら・・・?
もう少し 熟読してから 僕なりの理解を得たいと思う
【メモ】
(1)
後便 「人の心のパワー」 ご覧くださいませ
(2)
邦訳者の津城寛文さんは、 fundamentalism を一貫して
「根本主義」 と訳出している
そうした訳語の選択は、 カサノヴァのこの本で、 この語が
アメリカのプロテスタントのそれにのみ充当させられているからであろう
そのことは理解できる
きっと苦肉の訳出であったのだろう
しかしそれでもやはり、「 原理主義 」という訳語の方が
よかったのではないか・・・ とも ちょっと思った
実際、、、
- 6章の注1には、 「世界のすべての宗教における今日のさまざまな根本主義的運動」 という一節がある (324頁)
- 津城さんの 「訳者あとがき」 に、 「原理主義・根本主義」 という表現がある (388頁)
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