現代の宗教性
カサノヴァの本(→ こちら )から 印象的な一節をば。なお、[ ]は引用者注である。
宗教の脱私事化は、反近代(アンチモダン)の現象として理解することもできないし、ポストモダンの現象として理解することもできない。私の見る所、近代の私事化された種類の宗教性が、ポストモダン状況の真の先触れであるが、ここに示された宗教現象[すなわち、宗教の脱私事化]はどれも、その意味深い例として見ることはできない。 ・・・・・・ ポストモダン的なものと宗教の公的復活[脱私事化]との間に、直接のつながりあるいは偏った親和性を見出そうとするのは、難しいだろう。すでに示したように、ここで分析された宗教の公的干渉[脱私事化]という現象は、近代の制度化がとる特定の形態を、近代の規範的パースペクティヴから内在的に批判したもの、とみなすのがより適切であろう。 (邦訳、290~1 頁)
ここで「ポストモダン」は、「 ハイパーモダン 」と書いた方が 誤解がなかっただろう。
「近代の規範的パースペクティヴから内在的に批判」 とは、要するに 「近代の近代による近代のための近代に対する批判」であるから 単に 「 モダン 」 ということである。
つまり、 一般に 「 現代の宗教性 」 という問題を 仮に掲げたとすると、 そこでは 次の二つのことが区別されねばならない、 ということだ。
- 私事性、拡散などを特徴とする「宗教なるもの」「宗教性」は ハイパーモダンに対応する現象である。
- 公共性、動員などを特徴とする「宗教ナショナリズム」「原理主義」、およびその他の「公的宗教」は (分析レベルにおいて) モダンに対応する現象である。 ただし、ここでのモダンは 「リベラル」ではないし、ましてや「啓蒙主義」ではありえない。
留意点をふたつ。
1)
上で箇条書きにした二点のうちの後者を、多くの社会科学者は なかなか承認しないであろう。
モダンで公的な宗教なんてものがありうるのか???
というわけである。
しかし、カサノヴァは それは完全にありうるし、現にあるし、これからもあるだろう、という (もちろん 僕もそれに 全面的に賛成だ)。 その論証こそは この本の全体が行っているところであるから、納得できない方は ぜひとも その全体を通読してみてほしい。 いずれにせよ、 この文脈であらためて、 この本が 「 近代世界の公共宗教 Public Religions in the Modern World 」 と題されていることを 想起すべきである。
2)
現代宗教論において 「 宗教復興 」という問題設定をした場合、あまりにもしばしば、上で箇条書きした二つの傾向が 混同されてしまう。 「復興する宗教」というあいまいな観念が、それを呼び込んでしまうのだ。
しかし、これらは はっきりと区別された方が より豊かな現代宗教論が書けるように思われる。
たとえば、『現代宗教 2005』(→ こちら 、 こちら )に載った イアン・リーダー先生 の論文は、そのお手本だと思う。
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