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2005年11月16日 (水)

西田哲学

朝日新聞の朝刊に 梅原猛が 「反時代的密語」 という 月一(ぐらい)連載をやっている。

昨日もそれが載っていた。 「 西田哲学 はロマンティシズムか」 と題されている。 その最後の二段落を 備忘録として書き抜いておく。 僕としては、京都哲学の(ひいては 戦前からつづく日本の言論界の)遺伝子、、、 というか 怨念 のようなものを、 強く強く思い知らされる一節である。

西田は、新しいロマンティシズムは自然科学の煉獄を経なければならないという。とすれば、それは東洋の知恵に学びつつ、また最近の自然科学の成果をもとり入れつつ、近代文明の自然征服の思想を徹底的に批判して、水爆あるいは環境破壊による人類の滅亡の危機を避け、人類の末永い安泰を図る哲学でなければならない。

西田哲学がそのような新しいロマンティシズムの道を行く哲学であったとすれば、私もその道を西田よりさらに遠く進みたいと思う。

梅原が 市井の日本人(とくに おじさん?) に 格段の人気のある「哲学者」であること。 この連載が 天下の大「朝日」でおこなわれていること、 などなど 僕らが ちゃんと考えるべき点は まだまだ多い。

もう一点。

このコラムで 梅原は、 西田の思索の生活を 次のようにまとめている。

彼は午前中の頭脳がさえている時間は専心思索をし、頭脳が疲れた午後の時間を読書にあてた。思索に疲れた西田が散歩した東山疎水沿いの道が、今は「哲学の道」として京都の名所になっている・・・

ここで梅原は 西田が朝から晩まで 哲学することができたように書いているが、 本当にそうなんだろうか・・・? なんだか うかつに信じられないけれど、 もしそうなら、 自分を ハンナ・アーレントになぞらえることで、 なんとか精神のバランスを保とうとしている 最近の僕などは、 こうした 生活の労苦をともなわない哲学には どこか空々しさを感じてしまう。 間違ってはいないのだろうけど、 当たってもいないのではないか・・・ そんな直感がはたらいてしまうのだ。 偏見だろうか。。。。 偏見だろうなぁ。。。。 

ただし、 思索と読書で生活がなりたってしまう哲学者は、 「マハトマ」ガンディーやマザー・テレサとは全然ちがうし、 (マルクスはさておき) 立派な社会主義者たちとも違う ―― それだけは たしかだ。

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