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2005年12月21日 (水)

脱・脱俗

前便 への追伸である。

『宗教研究』(第345号)で紹介されている、渡辺学先生 の発言 ( の 山中弘先生 による要旨紹介)。

ブランチ・デヴィディアン事件に対するアメリカの宗教学者の経験とオウム真理教事件に対する日本の宗教学者の経験とはまったく対照的だったように思う。 前者は新宗教運動の諸問題の適切な扱いを大衆や政府に表明してその見識を示したのに対して、後者は面子を失ったばかりか、マスメディアの激しい批判から大学の職を失ったものもいた。 私の印象では、日本の学界では、一方で、世俗的な学者が反カルトになりがちであり、原理主義的な宗教者もまたそうであったが、他方で、私も含めてリベラルな宗教者 [ママ] は沈黙を守りがちだった。 オウム真理教事件は、宗教の共感的な理解や解釈学的な再構成をめざす立場にあった宗教学者にとっても、かなりトラウマ的な経験だった。 (34頁)

この一節がどうも心にのこった。

宗教学者が社会的責任や使命を自覚して、道徳的ないしは社会的実践として、状況介入的な発言をおこなうべきときがきている――このIAHR特集号では、そうした認識が繰り返しかたられている。 渡辺先生の上記発言も、そうした文脈のなかで語られたものだ。 そして、そうした関心を 私も共有するものである。 

日本で宗教学を専攻しようとする人は、そもそも 「浮世離れ」 したい欲求が強いかもしれない。 良くも悪しくも、日本で宗教を研究するということは、これまで そのようなもの だったかもしれない。 政治やら経済やら、社会のしがらみやらからぬけ出た場所を得ること、すなわち 「 脱俗 」 ―― この観念こそが 日本における「宗教」なるものを、強く規定している、と言えるかもしれない。 宗教とは、要するに 俗なるものであるべきはないし、宗教のそういうところが好きだから、それを研究してみようか なんて奇特な考えをもつことがある、というわけだ。

それはそれで、とてもよく理解できる。

しかし今、そこから何らかの離脱をしなければならないのかもしれない。 脱・脱俗 の思想と制度が必要なときがきているのかもしれないのだ。

たとえば、宗教学の学生は、どんなに古い過去の、どんなに遠く離れた土地のことに興味があったとしても、あるいは 個人の心の動き、神秘体験などに関心をもっていたとしても、いくつかの 現代的で公的な課題 について かなり明確な認識をもつことを、自らの規範とせねばならないのかもしれない。

それは たとえば 次のような課題だ。

  • 首相の靖国神社参拝は 違憲か合憲か
  • 妊娠中絶は どのようにして正当化されうるのか
  • カルト問題への法的対処は どのようなものであるべきか
  • 暴力を正当化する教義を どのように評価するか

こうした課題を専門的に研究する者が 日本の宗教学界のなかから 一度に大量に輩出されるのは、現状では ほとんど期待できない。 また、そうした研究が 宗教学者に共通の義務であるとまでは 私には言いきれない。

しかし、大学、その他の機関で要請される宗教研究者の卵たちは、そうしたことを 心ひそかにでも 考えておくべきだ、考えておいた方がよい、とだけは言うことができる。 そして、彼女ら/彼らに、僕ら中堅世代は 上の課題を実際に投げかけてみるべきである。 おそらくは、そのような時が もうすでに訪れてしまったのだ。

<メモ>

この問題については

がとても充実している。 ご関心のある方、必読です。

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コメント

こちらのエントリーにはハゲドウです。
蛇足ながら、もうひとつ加えるならば、「自らの宗教的背景や価値観の客観視」も必要な課題であるかと思います。
宗教は世界観であり、その意味でやはり一種のイデオロギーでもあるから、それを(意識的に)研究に紛れ込ませてしまってはフェアではないと思うからです。研究者も人間なので、イデオロギー・フリーの人はいません。無宗教というのも世界観の一種でしょう。それゆ、自分のイデオロギー(あるいは立場性)を明示的に扱うべきなのだと。(「読み手」という問題にもなるのですが)

長らくごぶさたしております、ハワイに留学中の竹村初美です。

「脱・脱俗」ということば、心に突き刺さりました。このターム、最近悶々と感じている思いを言語化してくれたかも、と思ってます。以下、長々とした自分語りと愚痴をお許しください。あんまりにも身につまされるところがあったので、つい書かずにいられませんでした。

近藤さんが「脱・脱俗」を説いている今このとき、私の天秤は、「脱俗」のほうに傾いてしまっております。「脱俗」、つまり自分の審美的な悦びを満たすための研究に、気持ちが惹かれてしまっているのです。脱俗の態度とは、近藤さんがおっしゃっているように、公的な課題からの逃げです。それが分かっていても私はいま、目の前にある「脱・脱俗」の課題から逃げたくってしかたがない。

そもそも私はハワイ先住民ナショナリズムを勉強をするという「脱・脱俗」なテーマを携えてハワイに来ました。しかし、「脱・脱俗」な研究をする、ということは、「大声で語られる単純で平板な物語」を聞き続けなければならない」ということでもあるのです。少なくとも、ハワイ研究の分野ではそうなります。というのも、この政治=文化=宗教=スピリチュアル運動は、「犠牲のポリティクス」あるいは「無実のポリティクス」の型にはまったストーリーを語ることになりがちなのです。実証的な裏づけを欠いていることも珍しくはありません(※)。近現代ハワイ「学」は、こうした語りに覆い尽くされています。
(※ここではまた、資料の性格についてのあるややこしい問題があるのですが、はしょります)

一方で、ハワイ古典学というジャンルがあります。留学してきてから、私はその美しさと深さにすっかり「うっとり」してしまいました。こっちに、芳醇なテキスト群から成る「美しい古典ハワイ」がある。それに対し、平板なテキスト群から成る「美しくないハワイ」がある。――これは単純すぎるアンフェアな二分法であるかもしれません。私はおそらく、前者をロマン化し、後者を必要以上に嫌っているのです。でもやっぱり、気持ちは前者のハワイに惹かれてしまう。

ここでのポイントは、私はハワイ先住民運動の政治的ポジションは正しい、と思っていることです。であるからこそ、彼らの語る平板な物語に「NO」と言えないでいる。(つまりハワイアン・ナショナリズムって、戦略的本質主義の教科書的な事例なんです。)『政治的』に正しく、『事実』としてはしばしば正しくなく、物語としては平板で学問的悦びを与えてくれない。こういう話を、かれらは話し続ける。私はそれを、「つまんないな」と思いながら、聞いている。聞いているだけであって、言挙げする勇気は出ない。しかも、どう言挙げするのが政治的に正しいことなのか、分からない。

こういう状況に、ちょっと倦んでしまったのです。そんなとき、他方に目を転ずれば、美しい古典ハワイの世界がある。

「脱俗」の態度が倫理的でないことは、むろん分かります。サイードは『文化と帝国主義』の中で、西ヨーロッパにおけるギリシア古典研究史について、たしかこんなことを書いていました。「ギリシア古典を読んで古代共和制社会に思いをはせつつ、かれらは現代のギリシアの政治状況にはてんで無関心だった」。私は昔のこういうギリシア学者に近づいているのでしょう。まずいことです。これは逃避だ、とは思います。と、思ってはいるんだけど……

今の悶々を言葉にしてみると、こんな感じです。―― ハワイ研究において「脱・脱俗」の道をとるということは何か? ナショナリストの単純で平板な物語を聞かされたうえで、それに対し「YESかNOか」の態度表明を迫られることなんだろうか? いや、決してそうじゃないはずだ。それを乗り越える道はあるはずなのだ。だが、現状はどうだろう。現状のハワイ研究の世界は、Yes/Noの二択以外を許さない。それ以外のあり方を許さないほどに、現場の議論は硬直してしまっている。これじゃ、あんまりにもつまらないじゃないか。

ハワイというフィールドの性格のせいもあるでしょう。近藤さんのフィールドであるヒンドゥー・ナショナリズムや、立田さんの研究されているパレスチナ問題は、直截的な暴力、ときに人の生き死ににすら関わる問題です。だから、「脱・脱俗」して社会正義の問題に向き合わねば、という思考が力強く働くのは、とてもよく分かります。ですが、ハワイの場合、暴力は、もっと間接的な「植民地主義の平和的暴力」(フランツ・ファノン)というレベルにとどまるのです。美しい「脱俗」のハワイを捨ててまで、「脱・脱俗」へと突き動かされる――という感情的な高揚を、私は感じることができないでいます。

うわ、完全に愚痴になってしまいました。しかも超長いうえに近藤さんのコンテクスト(現代日本の宗教学者と公的課題への態度表明)からずれまくってる! ごめんなさい。

ともあれ、「脱・脱俗」ということば、今なお心に刺さっております。この問題のヒントを探すべく、今後も拝読させていただきますね。

竹村さん>

コメント どうもありがとうございます。 うれしかったですよぉ! ブログのやりがいがあるってなもんです。 それにしても、よく拙ブログを発見されましたねぇ。 ありがたいことです。

さて、
「脱・脱俗」について ここまでまっすぐな反応が返ってくるとは 「想定外」 でした。 (想定外 は、今年の流行語のひとつですが、ハワイでもそのことは ご存知?) もちろん、これはうれしい驚きでした。

脱俗の研究を 僕は 「逃げ」 だとは思っておりません。 上のエントリにも、そのようなことは書いていません。 この点、まず最初に どうぞご注意ください。

脱俗の美学は 当然あってよいものだ、と僕はおもっています。 これはマジです。

たしかに、かつての若かった僕は、脱俗の研究が 同時に脱倫理的であることに、心底 違和感をかんじておりました。 肉体的な吐き気をすら もよおしていたものです。

しかし、今では そうでもありません。

そういう立場は もちろんありうるし、あってよいのだ、と。 それを 一方的、一律に 「ダメ」 と言うことこそ、脱倫理的な態度なのだ、と僕は思うようになりました。 考えてみれば、当たり前のことです。

遠い土地での 遠い昔のことを、美しく語らうこと。 それ自体を 僕は否定しません。 そういうことって 人間にはあるよなぁ と思います。

竹村さんのおっしゃるとおり、 僕の場合、インドのヒンドゥー・ナショナリズムという研究対象が それをゆるしません。 また、宗教学のなかに 「脱・脱俗」 の同志がほしい、とも強く思います。 しかし、それは 僕の一方的な事情であり、願いでありますよね。

そういう なんとも切れ味の悪い立場を いまの僕はとるようになっています。 これはイヤミでもなんでもないのです。 ごく素直に、そういう風に思っているのです。

ただし、次の点だけは はっきり言わせてください。 すなわち、、、 これからの宗教学者は 社会的な要請、そして学会内の圧力として 公的な事柄への認識をただされることが 格段におおくなるだろう、、、 ということです。

だから、実際の研究において なにをやるのかとは別に、僕が例示したような課題についての自らの立場を つねに定めておかねばならない、定めておいた方がよい のです。

これだけは、一種の未来予想として 申し上げておきます。

========

本当に苦しいところにたどりついたご様子。 とっても身につまされました。 きっと 必ず 落ち着きどころはございましょう。 それまで どうぞお機張りあれ、と祈っております。

とりあえずのお返事でした。 なにかまたあれば、ぜひ。

近藤さん

とても丁寧なお返事、ありがとうございます。うれしく拝読しました。

このブログは、Googleでなにかを検索していたときに偶然みつけました。「近藤光博のブログ」とあるのを見て、「おお」と目を見張りましたよ。(「想定外」はニュースサイトで見ましたのでどうにか知ってます。ただ、日本のテレビはずっと見ていなくて、プチ浦島太郎状態かもしれません。この間、知人に電話で「ねえねえ、マツケン・サンバって、どんな感じ?」と聞いたら呆れられました)

「逃げ」と誤読してしまった件、ごめんなさい。自分がわだかまりを抱えていた問題だったので、予見をもって読んでしまったようです。あの後もう一度エントリを読み、この点確認いたしました。

宗教学が公的な問題への認識を問われることが格段に多くなるだろう、というのは、まったくそのとおりだろうと思います。特に私の場合、オウム事件の起きた翌月に大学に入学し、当時の駒場の空気を吸って過ごした世代です。自分が宗教学というものを初めて知ったとき、宗教学はまさにこの問題を厳しく突きつけられている只中にありました。

「脱・脱俗」ってしんどい、文学部なんだし私はちょうちょを追っていたい、そもそも私は臆病だから人とことを構えたり、大声で議論しあうのがいやなんだ、ぽかぽかのベランダでいつまでもリリアン編んでいたいんだ……という気持ちが、正直に言って自分の中には強くあります。そういう気持ちが自分のなかで支配的なのは確かだけど、でも宿題はやらなきゃ。と、ご返答を読んであらためて思いました。

ブログ、いつもためになるエントリをありがとうございます。これからも拝読させていただきます。(ところで『ホテル・ルワンダ』、こっちでだいぶ前に見て、その後アメリカ人、セネガル人、ケニア人といっしょに感想を語り合う機会がありました。たいへんお忙しいご様子ですが、近藤さんがあの映画をご覧になったらどういうご感想をお持ちになるんだろう、と思ってます。)

せっかくですので、こちらでお返事します。

(僕のメールアドレスは 以前と変わっておりません。インフォウェブのやつですが、、、もし紛失なさっていたら お知らせください。別便にて ご連絡いたします)

僕個人のことを話させていただければですね、 よーーーくご存知のように、基本的に 体育会系のマッチョイズムがあるんですよ。 我ながら辟易するのですが、 なんというか、社会にドスンと居座ってやりたい、という意味での、ですよ。 なんだか そういうのが どこかにあるんですねぇ。 (そもそも イテンリ的ではないんですねぇ・・・恥)

だから、僕の場合、かつてはむしろ 学問をやりつづけることに 居心地のわるさを感じていたものでした。 学問は本当に、本当に楽しいけれど、こんなことやって 「なんの役に立つ」 のかな、、、と。 ( 「役に立つ」 というのが もはやズレちゃってるわけですが、まぁ そこはおいといて)

僕の個人史が形づくった そんな基本性質と、ヒンドゥー・ナショナリズムの事例研究が、 「脱俗」傾向の強い宗教学という場で 出会っちゃった、、、 要するに、ただそれだけのことなのです。

先日、Sさん(タオ)にも、「コンドウくんなんて、政治学 行ってたらよかったんじゃないの?」 と指摘されました。

それはたしかにそうかもしれません。 ですが、、、宗教が 人間にとって とても大切な次元に触れている、という直観は これまた、僕には幼少時代からありましたものですから、 なかなかそうはいかなかった、というのが実状です。

そんなこんなで、ハワイの陽光のもと、テラスでリリアンを片手に、スンヤリと居眠りなんかしちゃってる竹村さんの姿も、 僕はやっぱり尊いと思うのです。

追伸:

本気で言い忘れました。 お返事御無用です。 お気遣いありませんように。

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