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2005年12月26日 (月)

独善からの脱却

ちょっと間が開いてしまいましたが、 前便 の続報です。 ちゃんと書こうとしていたら、どんどんどんどん 長いものになってしまいまして、、、すいません。 お返事御無用につき、どうぞご容赦ください。  > 粟津さん

========

粟津さんは こう書きおこしておられました。

「自らの宗教的背景や価値観の客観視」 も必要な課題であるかと思います。

宗教は世界観であり、その意味でやはり一種のイデオロギーでもあるから、それを(意識的に)研究に紛れ込ませてしまってはフェアではないと思うからです。

「無宗教」を標榜する研究者のパラダイムへの批判は、前便に書いたとおりなのですが、 ここで粟津さんの念頭にあるのは、次の二つの種類の方々だとお見受けします。

  1. 特定の信仰を表明なさっている方による宗教研究の場合
  2. 自覚をもたないまま 特定の宗教の価値観と世界観に導かれている方による宗教研究の場合

2)の場合を入れたのは、「意識的に」 というコトバに 粟津さんが括弧付けされているからです。

それでは まず、1)の場合について:

「無宗教」 「世俗主義」 「 (ポスト) 啓蒙主義」 ではなく、教義 と呼ばれるような強い価値観や世界観をもった人、つまり 信仰者 であることが自他共に認められている人が 宗教研究をおこなうとき、、、

  • その人はどのような立場で研究をなしえるのか
  • その人の研究はどのように評価されうるのか
  • その人は誰に向かって、なんのために研究をおこなっているのか

これについては、実は 私は 責任ある立場からの発言 ができません。 というのも、私は特定の信仰を有しているものではないからです。

正確に言い直させてください。 特定の信仰をもちたいと思っていた20代の私は 自分なりの 求道 をおこなってきました。 自分で言うのもなんですが、それはとても真剣な態度でした。 しかしついぞ 人生を決定づけるような団体なり教義なりに 私は出会うことがありませんでした。 その結果、私は 学問の立場を意図的に選択しました。 それは、通俗的な意味での 非宗教的 ないしは 無宗教的 な生から、宗教に関わったり 関わらなかったりする、個人的な問題や 公共的な問題に対して、発言をしていく、ということを意味します。 そうした 回心 の体験を経て、現在の私は ここにこうして文章を書いているわけです。

特定の教団内での自己批判と自己相対化、有体にいえば 独善からの脱却 ―― 上のような立場をとる私には、これはとても好ましい傾向だ、と思われます。 それがどれだけ大変な作業であるか、 どれほど根本的なジレンマであるか、よく存じ上げているつもりです。 しかしそれでもなお そうした 穏健化 は 多元性をいよいよ増しつつある現代社会において、強く求められるものだと 私は確信しています。

ですから、そうした道をすすむ方々を (あくまで外部者としてではありますが) 私はぜひとも応援させていただきたい、と思っております。

しかし、ここでふと思い至るのですが、私の応援など 本当は必要ない のかもしれません。 というのも、学問の内部ではいまだに、自省と自己批判が中心的な規範として機能しているからです。 それができない人は、学会内では おのずと (いつの日か必ず) きびしい立場に立たされることになりましょうから、 私個人がなにかを言ったり行なったりする必要は、ないのかもしれません。

とくに宗教学は、 神学批判 を基盤としておりますことから、 自宗教の絶対視にもとづく研究に対して きわめて冷淡な処遇をくだします。 そのことを私は経験から知っています。 この規範は宗教学に最も根源的でありますから、易々と消え去りそうにはありません。 (東大宗教学のもっとも若い世代を見ていても、やはりそうです)

しかしながら (と、ここで再度 話を反転させねばなりません・・・) ここでも再び、「誰のための研究か」 という粟津さんの問いが生じるわけですね。 すなわち、、、

  • そもそもの初めから、実は 学問の世界が培ってきた価値観に対して あまり大きな敬意をもっていない方たちが 研究をおこなう場合
  • 有体にいえば、あくまでも教団内の特定サークル向けの知的作業が 「研究」 という名のもとになされている場合

それをどうすればいいか、ということです。

これについても、やはり私は 責任ある発言 ができません。 各教団の内部で、自省と自己批判という規範が (不可知論という誹りをなんとかまぬがれて) 根づくこと、、、 ただただそれを外部者として願わずにはいられません。

ここで 「外部者」 という自己規定が 単なる逃避や回避でないことは、もはやおわかりいただけるかと存じます。

そうした規範の根づきによって失われる、健全なる狂気 もございましょう。 それはたしかに惜しむべきことであるかもしれません。 ですが、それならばせめて、信心の狂気が健全さを失ったとき、そのエネルギーの奔流を効果的におし留めたり、水路づけたりすることができるような、言説上、制度上の仕組みを 各教団にはご用意いただきたい、と願うばかりです。

そうした用意は、意図的に作りあげたり、特定のグループが作り出したりできるものではないでしょう。 教団の規模が大きくなればなるほど 自己編成の力学は複雑になりましょう。 これらすべての困難を了解しつつも、 私は上で述べたような願いを抱くものであります。 このレベルに関するかぎり、 私などの 応援 も いくらか意味をもつかもしれません。

========

2)の場合について:

すっかり長くなりました (というか、アホみたいに 長くなりすぎました)。

これは次便に書かせていただくことにいたします。

========

粟津さん>

本当に長い返事になって、なんだかもう すいませんの一言です。 本気で お返事御無用 でございます。

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