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2005年12月の記事

2005年12月31日 (土)

島田裕巳先生

昨日 ( 30日 )、 島田裕巳先生 にお会いした。 先生がいま所属しておられる (ただし まだ正式の所属ではないとのこと、、、身分証明書はもらっているというのに、、、なにやら難しいことがあるらしい) 東大先端研 でのお仕事を 手伝わせていただくかどうか、というお話、、、先生いわく 「 面接 」 ( 笑 ) みたいなものだった。

その内容はまだなにも確定していない。 だから、ここでお知らせできるほどのことはない。

のだけど、、、 先生から 38歳にもなって無職の僕 に対して、叱咤激励があった。 学問の世界だけにこだわらず、社会のニーズを見据えて、自分の人生を自分でつくっていけるように行動をおこさねばならない、ということだ。 さすがに あの島田先生にそう言われると、説得力があった。

人生相談のようになってしまった 今日の 「 面接 」 (笑)。。。 先生のおっしゃることはもっともだ、、、と、、、自分の人生についてあらためて考え直させられた年の瀬になった。

むむむむむむ・・・・・

<メモ>

島田先生のブログは こちら

バイクメ~~ン

宗教学をやっていると、宗教マンガ とか 宗教アニメ とかが気になる。

本当にたくさんの象徴やら言葉やら観念やらなにやらが、とっても宗教的で、なおかつ それがなかなかよいからだ。 サブカルチャーとはいうけれど、そのレベルの高さは もう皆が知っていることだ。

その手の作品はいくつも思いつくのだけど、 望月峯太郎 『 バイクメ~~ン ( 講談社、1990~91年、全4巻 ) なんかは、僕のお気に入りだ。 ( こちら @ アマゾン

そしてお気に入りの台詞は、、、月並みだけど、、、

ボニ~~~

お前・・・・は

やっぱり カッコイイッ!!

<メモ>

このマンガ、望月峯太郎さんの転機になった作品ではないだろうか。 望月ウォッチャーの方、どうぞ教えてください。

2005年12月30日 (金)

交通信号の倫理

いつも拝読し ときどきTBもさせていただいている川瀬さんのブログに こんなエントリ があった。 そちらと同様の関心を、ホアン・マシア先生先のエントリ でご紹介ずみ ) も表明なさっているので、ご紹介。

いわゆる 交通信号の倫理 、 赤だったらとまる。 青だったら、じゃあ線を引いて。 赤でも注意して信号を無視することがあるでしょう。 たとえば 子供を救うためにね。 逆に、青であっても、危ないから止まることもある。 そういう 交通信号のメンタリティ しかないと、[妊娠]一四日前だからなんでもいいと。 逆に、生命が始まって三ヶ月であっても、たとえば手術の途中で、ほっておけば母親も胎児も死ぬというような時には、もっとも厳しい伝統的な倫理学者でさえも、「 こういう時は出してもいい、これは中絶と呼ぶべきではない 」 と。 交通信号の線引きの考え方をもっていますと、なんでも許されるような操作と、何かの理由がある時でさえも、いや、もう始まってるからいけない、という両極端になる。 ( 『 現代宗教2003 』 国際宗教研究所編、東京堂出版、159頁: 強調引用者 )

( 正直 僕には最後の方の意味がうまくとれないのだが、まぁそれはさておき ) 生命倫理、、、というよりはむしろ、ご自身の言葉にしたがえば 「 生と死を見つめる哲学 」 ( 155頁 ) についての議論のなかでの発言である。 排他的ナショナリズム批判という川瀬さんの文脈とは異なるのだが、僕らがいま公的な問題について 頭を使うとき、なにをどう注意すればいいのか という点で、両者は共通している と思った。

上の引用文にすぐにつづけて次のように言われる。

このような話は、医療とか、生物だけの話ではなく、また、宗教だけではない。 そこに 哲学 のようなものの考えかたも入れたいですね。 交通信号、線引きのような考え方――今のデジタル時代の考え方ですね――、 [ 〇か ] 一しかないというようなこういうデジタル化した考え方ではなく、哲学 のものの考え方もする必要があるんじゃないか。( 同: 強調引用者 )

ここで 「 交通信号のメンタリティ 」 に対置される 「 哲学 」 なるものを、司会の 島薗進先生 はすぐに 「 生きていることの複雑性をそのままに受け止めるような考え方 」 と言い換えている ( 同 ) 。

僕も こうした考え方に賛成だ。 現時点では どう考えても、こうした複雑性の哲学で 決まりだ。

では次に、実践は? 

そこで 司会の島薗先生は、< 複雑なことを重視していると同意形成ができない > というお定まりの批判を紹介し、対談者の二人に意見を質すのである。 まずは マシア先生が応えて、両論併記 の重要性を説く。 次に 伊藤道哉先生討議プロセスの開示パブリック・オピニオンの収集・開示 の重要性を説くのである。

2005年12月29日 (木)

現代の説話

今日は バイト先の塾が休み。 二ヶ月ぶりぐらいで 美容室にいった。

待合所で 『 女性セブン 』 を読む。 楳図かずお先生 の 『 おろち 』 第1話 「 姉妹 」  が載っていてビックリ。 「名作コミックリバイバル」 と銘打たれている。

女性週刊誌にオカルト、占い系の記事が多いのは よく知られたことだが、まさか楳図先生でくるとは。 どういった経緯でこうなったのか、編集部にインタヴューしたいぐらいだ。

ところで、、、 久々に ( 小学生のとき以来? ) この作品を読んで、楳図作品は 現代の説話 なのだなぁ、と思った。 時代や場所などの舞台設定も描かれず、人物の内面語りもされないまま 次々と展開していくお話し。 これはやはり説話だ。

<メモ>

楳図作品で ぼくが一番すきなのは 『神の左手 悪魔の右手』です。(→ こちら @アマゾン

体験と理屈

こちらのエントリ への続報、、、というか 追加情報である。

========

先ほど電車のなかで読んでいた 『 現代宗教2003 』 ( 国際宗教研究所編、東京堂出版 )のなかから、 ホアン・マシア先生 の言葉。

宗教には理屈や考えることよりも 体験 が大事であり、それが根幹にあると私は思っています。 しかし、 体験 があった上で……あとで落ち着いて冷静に考える、わきまえるという面がないと、「 体験体験 」というように、原理絶対主義やイデオロギー化したり、熱狂して宗教のなで暴力を犯すということになる。 ただ、あまり理屈っぽく組織的に宗教のことを体系化しようと、非常に合理的になると、せっかくの 体験 も窒息してしまう。 その両極端を避けながら、体験 とよく考えることのかねあいをとるという立場に、いつも私は自分を置いています。(145頁: 強調引用者)

ここで言われているような 体験と理屈 の対比について、僕は 先のエントリ で 次のように書いた。

そうした規範の根づきによって失われる、健全なる狂気 もございましょう。 それはたしかに惜しむべきことであるかもしれません。 ですが、それならばせめて、信心の狂気が健全さを失ったとき、そのエネルギーの奔流を効果的におし留めたり、水路づけたりすることができるような、言説上、制度上の仕組みを 各教団にはご用意いただきたい、と願うばかりです。

僕が 「 健全なる狂気 」 と呼んだものを、マシア先生は、いかにも生の哲学を深く研究なされた方らしく、「 体験 」 と呼んでいるわけだ。

<メモ>

僕の 「 狂気 」 という言葉づかいは あきらかに 町田宗鳳先生 の影響による。

ご関心のある方は、町田宗鳳 「 ウラの共通感覚 」 ( 中村雄二郎・町田宗鳳 『 宗教: 21世紀へのキーワード: インターネット哲学アゴラ 』 岩波書店,1998年,22-29頁 ) をご参照ください。

  • 関係者の皆さん> こちらの論文、YONSHに載っております。

2005年12月28日 (水)

森はこうして消えていく

近所の森がひとつ マルッと バッサリ消えた

50m×150mぐらいはあっただろうか、きれいに整備された森だった。 白樺の一種なのだろうか、シュッとした細い幹が 間隔をおいて並ぶ。 樹高15mはあっただろうか。 ゆるやかな起伏の一番底には、水たまりを大きくしたような池もあった。 私有地で 立ち入りはできなかったけれど、いつもその横を歩いて通っていた。 お気に入りの場所だった。

それが 完全な住宅地になった。 池のくぼみはまっさらに埋め立てられ、郊外型住宅の基礎工事が開始されている。

工事はもう2~3ヶ月つづいていたのだけど、 今日あらためて 白々としたアスファルトの道が、かつての森のうえにズバリと通されているのを見て、 なんだか かなしい気持ちになった。 森はこうして消えていく

2005年12月26日 (月)

ホテル・ルワンダ #2

映画 「 ホテル・ルワンダ 」 の公開が年明けに決まったのを、またもや粟津さんのブログ、こちらのエントリ で知りました。

なんとも嬉しい。最近、忙しくて映画に行けていないが、これはなんとしても行かねば、行かねば。

<メモ>

こちらのエントリ も参照。

独善からの脱却

ちょっと間が開いてしまいましたが、 前便 の続報です。 ちゃんと書こうとしていたら、どんどんどんどん 長いものになってしまいまして、、、すいません。 お返事御無用につき、どうぞご容赦ください。  > 粟津さん

========

粟津さんは こう書きおこしておられました。

「自らの宗教的背景や価値観の客観視」 も必要な課題であるかと思います。

宗教は世界観であり、その意味でやはり一種のイデオロギーでもあるから、それを(意識的に)研究に紛れ込ませてしまってはフェアではないと思うからです。

「無宗教」を標榜する研究者のパラダイムへの批判は、前便に書いたとおりなのですが、 ここで粟津さんの念頭にあるのは、次の二つの種類の方々だとお見受けします。

  1. 特定の信仰を表明なさっている方による宗教研究の場合
  2. 自覚をもたないまま 特定の宗教の価値観と世界観に導かれている方による宗教研究の場合

2)の場合を入れたのは、「意識的に」 というコトバに 粟津さんが括弧付けされているからです。

それでは まず、1)の場合について:

「無宗教」 「世俗主義」 「 (ポスト) 啓蒙主義」 ではなく、教義 と呼ばれるような強い価値観や世界観をもった人、つまり 信仰者 であることが自他共に認められている人が 宗教研究をおこなうとき、、、

  • その人はどのような立場で研究をなしえるのか
  • その人の研究はどのように評価されうるのか
  • その人は誰に向かって、なんのために研究をおこなっているのか

これについては、実は 私は 責任ある立場からの発言 ができません。 というのも、私は特定の信仰を有しているものではないからです。

正確に言い直させてください。 特定の信仰をもちたいと思っていた20代の私は 自分なりの 求道 をおこなってきました。 自分で言うのもなんですが、それはとても真剣な態度でした。 しかしついぞ 人生を決定づけるような団体なり教義なりに 私は出会うことがありませんでした。 その結果、私は 学問の立場を意図的に選択しました。 それは、通俗的な意味での 非宗教的 ないしは 無宗教的 な生から、宗教に関わったり 関わらなかったりする、個人的な問題や 公共的な問題に対して、発言をしていく、ということを意味します。 そうした 回心 の体験を経て、現在の私は ここにこうして文章を書いているわけです。

特定の教団内での自己批判と自己相対化、有体にいえば 独善からの脱却 ―― 上のような立場をとる私には、これはとても好ましい傾向だ、と思われます。 それがどれだけ大変な作業であるか、 どれほど根本的なジレンマであるか、よく存じ上げているつもりです。 しかしそれでもなお そうした 穏健化 は 多元性をいよいよ増しつつある現代社会において、強く求められるものだと 私は確信しています。

ですから、そうした道をすすむ方々を (あくまで外部者としてではありますが) 私はぜひとも応援させていただきたい、と思っております。

しかし、ここでふと思い至るのですが、私の応援など 本当は必要ない のかもしれません。 というのも、学問の内部ではいまだに、自省と自己批判が中心的な規範として機能しているからです。 それができない人は、学会内では おのずと (いつの日か必ず) きびしい立場に立たされることになりましょうから、 私個人がなにかを言ったり行なったりする必要は、ないのかもしれません。

とくに宗教学は、 神学批判 を基盤としておりますことから、 自宗教の絶対視にもとづく研究に対して きわめて冷淡な処遇をくだします。 そのことを私は経験から知っています。 この規範は宗教学に最も根源的でありますから、易々と消え去りそうにはありません。 (東大宗教学のもっとも若い世代を見ていても、やはりそうです)

しかしながら (と、ここで再度 話を反転させねばなりません・・・) ここでも再び、「誰のための研究か」 という粟津さんの問いが生じるわけですね。 すなわち、、、

  • そもそもの初めから、実は 学問の世界が培ってきた価値観に対して あまり大きな敬意をもっていない方たちが 研究をおこなう場合
  • 有体にいえば、あくまでも教団内の特定サークル向けの知的作業が 「研究」 という名のもとになされている場合

それをどうすればいいか、ということです。

これについても、やはり私は 責任ある発言 ができません。 各教団の内部で、自省と自己批判という規範が (不可知論という誹りをなんとかまぬがれて) 根づくこと、、、 ただただそれを外部者として願わずにはいられません。

ここで 「外部者」 という自己規定が 単なる逃避や回避でないことは、もはやおわかりいただけるかと存じます。

そうした規範の根づきによって失われる、健全なる狂気 もございましょう。 それはたしかに惜しむべきことであるかもしれません。 ですが、それならばせめて、信心の狂気が健全さを失ったとき、そのエネルギーの奔流を効果的におし留めたり、水路づけたりすることができるような、言説上、制度上の仕組みを 各教団にはご用意いただきたい、と願うばかりです。

そうした用意は、意図的に作りあげたり、特定のグループが作り出したりできるものではないでしょう。 教団の規模が大きくなればなるほど 自己編成の力学は複雑になりましょう。 これらすべての困難を了解しつつも、 私は上で述べたような願いを抱くものであります。 このレベルに関するかぎり、 私などの 応援 も いくらか意味をもつかもしれません。

========

2)の場合について:

すっかり長くなりました (というか、アホみたいに 長くなりすぎました)。

これは次便に書かせていただくことにいたします。

========

粟津さん>

本当に長い返事になって、なんだかもう すいませんの一言です。 本気で お返事御無用 でございます。

2005年12月23日 (金)

系譜学の仕事

粟津さん>
お返事がおそくなりました。すいません。

こちらのエントリ に頂戴したコメントへのお返事を書いていたら、思いのほか 長いものとなりましたので、 僭越ながら こうして新たなエントリを立てさせていただくことにしました。 どうぞご了解くださいませ。

========

「無宗教」というイデオロギー/世界観について、宗教研究者がつとめて自覚的であるべきだ、というご意見に 私も大賛成です。

もちろん ここで問題となるのは、単に宗教学の問題ではありません。 近代学問の諸制度と諸規範が 「世俗主義」などをはじめとする特定のイデオロギー的配置のうえに 現になりたっている、という事実こそが真の問題です。 宗教学の場合、それが 神学批判という形で とくに明瞭になっているわけですね。

近代学問を成立させてきた/いる、そうしたイデオロギー上の基盤 (もっともそれらしいコトバを あえて一つ選ぶなら 「 (ポスト) 啓蒙主義 」 となりましょうか) を対象化することは、 系譜学の仕事 となるわけですが、 ご存知のように これはとても険しい試みです。 根源的な自己批判をおこなうわけですから、 失語症、ニヒリズム、反動的保守主義 などを結果してしまうわけです。

ちなみに、私自身は 失語症に悩まされました。 幸い、私は 南アジアという具体的な「事例」を得ることで、その危機をかろうじて脱することができました。

こうしたことの全てをわきまえつつも、 私は 「系譜学の試みは、いま 学問に真摯に向かい合おうとする者にとっては必要不可欠なものである」 と確信するものであります。 とても険しく、出口の見えない道ではありますが、それに真正面から取りくむ方を尊敬し応援しつつ、私もまた 自らの南アジア研究のなかに それを投影させていきたい、と願っています。

<メモ>

脱構築的批判理論と 対象学的方法論との 「緊張関係」、 および両者の結びつきが 個々の「事例」において そのときどきに結晶化するしかない との指摘については、 こちらのエントリ で紹介した 『宗教研究』 IAHR特集号所収の 深澤英隆 報告 (とくにその第四節 「若干の考察」 ) を参照。

2005年12月21日 (水)

脱・脱俗

前便 への追伸である。

『宗教研究』(第345号)で紹介されている、渡辺学先生 の発言 ( の 山中弘先生 による要旨紹介)。

ブランチ・デヴィディアン事件に対するアメリカの宗教学者の経験とオウム真理教事件に対する日本の宗教学者の経験とはまったく対照的だったように思う。 前者は新宗教運動の諸問題の適切な扱いを大衆や政府に表明してその見識を示したのに対して、後者は面子を失ったばかりか、マスメディアの激しい批判から大学の職を失ったものもいた。 私の印象では、日本の学界では、一方で、世俗的な学者が反カルトになりがちであり、原理主義的な宗教者もまたそうであったが、他方で、私も含めてリベラルな宗教者 [ママ] は沈黙を守りがちだった。 オウム真理教事件は、宗教の共感的な理解や解釈学的な再構成をめざす立場にあった宗教学者にとっても、かなりトラウマ的な経験だった。 (34頁)

この一節がどうも心にのこった。

宗教学者が社会的責任や使命を自覚して、道徳的ないしは社会的実践として、状況介入的な発言をおこなうべきときがきている――このIAHR特集号では、そうした認識が繰り返しかたられている。 渡辺先生の上記発言も、そうした文脈のなかで語られたものだ。 そして、そうした関心を 私も共有するものである。 

日本で宗教学を専攻しようとする人は、そもそも 「浮世離れ」 したい欲求が強いかもしれない。 良くも悪しくも、日本で宗教を研究するということは、これまで そのようなもの だったかもしれない。 政治やら経済やら、社会のしがらみやらからぬけ出た場所を得ること、すなわち 「 脱俗 」 ―― この観念こそが 日本における「宗教」なるものを、強く規定している、と言えるかもしれない。 宗教とは、要するに 俗なるものであるべきはないし、宗教のそういうところが好きだから、それを研究してみようか なんて奇特な考えをもつことがある、というわけだ。

それはそれで、とてもよく理解できる。

しかし今、そこから何らかの離脱をしなければならないのかもしれない。 脱・脱俗 の思想と制度が必要なときがきているのかもしれないのだ。

たとえば、宗教学の学生は、どんなに古い過去の、どんなに遠く離れた土地のことに興味があったとしても、あるいは 個人の心の動き、神秘体験などに関心をもっていたとしても、いくつかの 現代的で公的な課題 について かなり明確な認識をもつことを、自らの規範とせねばならないのかもしれない。

それは たとえば 次のような課題だ。

  • 首相の靖国神社参拝は 違憲か合憲か
  • 妊娠中絶は どのようにして正当化されうるのか
  • カルト問題への法的対処は どのようなものであるべきか
  • 暴力を正当化する教義を どのように評価するか

こうした課題を専門的に研究する者が 日本の宗教学界のなかから 一度に大量に輩出されるのは、現状では ほとんど期待できない。 また、そうした研究が 宗教学者に共通の義務であるとまでは 私には言いきれない。

しかし、大学、その他の機関で要請される宗教研究者の卵たちは、そうしたことを 心ひそかにでも 考えておくべきだ、考えておいた方がよい、とだけは言うことができる。 そして、彼女ら/彼らに、僕ら中堅世代は 上の課題を実際に投げかけてみるべきである。 おそらくは、そのような時が もうすでに訪れてしまったのだ。

<メモ>

この問題については

がとても充実している。 ご関心のある方、必読です。

IAHR特集号

不払いの学会費 を納めたので、『宗教研究』が三冊、一挙に届けられた。 電車のなか、風呂のなかで、それらに目を通す。 先ほど、その作業がおわった。

やはり熟読してしまったのは、 IAHR特集号 (2005年9月号/第345号)であった。 七つの全体会議、特別セッションの報告がなされている。 どれもこれも、報告者の先生方が実にしっかりとお書きになっておられ、とても勉強になった。

個人的にもっとも興味深いのは、やはり ユルゲンスマイヤー、アサド、マスザワ 各氏の基調講演と質疑応答の記録、および報告者(山中弘、澤井義次、深澤英隆各氏)のコメントだった。 

まごう方なき世界トップクラスの論者らによる議論ではあるが、これまで僕が書き上げてきたものや、考えてきたことから、あまりに遠く 先を行かれているという感想は、正直もたなかった。 もちろん不足ばかりの歩みではあるけれど、すでにたどり着いている場所や、行くべき方向に 大きな間違いがないことを確認できた。 「 宗教政治学 」 という自己規定も、決してアホらしいものではなかろう、と (→ こちら )。

<メモ>

『宗教研究』 は 日本宗教学会 の機関誌です。

心霊写真

一昨日、生涯二枚目となる いわゆる 「 心霊写真 」 を見た。

オカルト少年として育ち、「霊体験」ならそこそこにある僕ではあるが、この手の写真の実物を手にとるのは、実は二度目なのだ。 宗教学者としては、多いのやら少ないのやら・・・

一枚目は、携帯の写メでとられたもの。 夜の公園で女の子が明るく ウサギ耳ピースをしているところに、青白い光が のたうつようにして たちのぼっている。 はっきりと人の形をしている。

一昨日の二枚目は、女子中学生が二人、船だろうか 何か乗り物のうえで、並んでピース・サイン。 その上に、写真の画面の半分以上を覆うように、オレンジ色の光がおおう。 それが、どこからどう見ても、完全に 男の子のドアップの顔 なのだ。

宗教学の専門家として言うのだが、これが 「 霊 」 の仕業なのかどうなのか、僕は知らない。 ただ、気持ちのよい写真でないことはたしかだ。 思わず、お祓いのひとつもしたくなった。

このブログ、無料サービスで開いているんで、写真が一切載せられない。 ここでお見せできないのが残念である。

2005年12月18日 (日)

ごまかされたい人々

いつもお世話になっている粟津先生のブログに、なんとも深くうなずくエントリがあった (→ こちら )。 靖国参拝は 「心の問題」 だとする 小泉の強弁 に対する批判である。

僕がなにも言い加えることはない。 ただもう、粟津先生にハゲシクドーイである。

一言だけ、先生も当然お分かりのことを言い添えるなら、 「ごまかし政治」は ごまかされたい人々 がいるからこそ 成り立つのだ、ということ。

ポピュリズムがどんなに隆盛になろうとも、エリート批判をエリートが口にするのがどんなに当たり前になろうとも、 言うべきことは言わねばならない。 高圧的になりたくはないし、衝突が好きなわけでもないけれど、やっぱり そういうことは必要なのだ、と思う。

<メモ>

粟津先生> 遅々のレスで どうもすいません。

国際政治事典 今度こそ

国際政治事典 今度こそ 出ました。 (前便は こちら

お値段、2万1千円!! とてもじゃないが、個人では買えませんね(笑)。 どこかで見かけたら、どうぞお手にとってみてください。

<メモ>

私未見ながら、 こんなの もあるようですね。

下衆な思想

行きつけの台湾料理屋での出来事。

========

夜12時。 僕はひとりで砂肝のピリ辛炒めを食べていた。

一人のオヤジが入店し、僕の背後に座る。 年のころ50過ぎ。 サラリーマン風ではない。 中小企業の社長かなにか、そんないでたちだ (まぁ、そりゃそうでしょぉ。平日の夜中12時に、餃子で焼酎をかっくらいはじめたんですから)

そのオッサンが、店員に向かって大声で話し始める。 馴染みの客のようで、先日話題にしたという後輩のことをまず口にした。

ほら、この前話しただろぉ。中国人の女とくっついたって奴。

「中国人の女」という言い方に、すでに下衆なものを感じる。 ここは台湾料理屋なのだ。 しかしまぁ、それぐらいなら、と思う僕。 口の悪いオッサンはどこにでもいるものだ。

突然、話がクワガタの話になった。 その後輩とテレビを観ていたら、ニュースで問題にされていたのだという。

なんだかよぉ、外国のクワガタが日本中で増えてるんだってよ。 ほら、台湾とかフィリピンとかあっちの方から、でっかいクワガタとか輸入されてんだろ。 あれが逃げ出してよぉ、日本のクワガタとできちまって、大変なんだってな。 日本のクワガタがいなくなるって、連れが言い出してよぉ。

ふむふむ、たしかにそうらしいなぁ、とうなずく僕。

そんで俺は言ってやったんだよ。 「なに言ってんだ。お前だって血ィ混ぜてんだろうが」ってな。 がっはっはっは。

厨房には二人の中国人コック。 日本語も少し分かる。 「中国の女」 「台湾やフィリピンのでっかいクワガタ」 「混血」 、、、でかい声で騒ぎ立てるオヤジ。

こういうのはやっぱりダメだ。 このオッサンが、そういう発想を、そういう言葉で表現するのには、なにか一定のプロセスがあったのだろう。 今日その場所でそんなことを言うのには、彼には彼なりの事情もあるのだろう。 自分が口にしていることが、どこまで攻撃的なものなのか、それすら気づいていないかもしれない。

しかし!! その全てにも関わらず!! こんな 下衆な思想 は、やっぱりダメだ。 それを理解しようとしてはいけない。 大学の先生だからって偉そうにしたいのではない。 ただもぉ、ひとりの近代的ヒューマニストとして、それは聞くにたえない雑言だった。

========

ナショナリズムと生物学的人種主義が、こんなにもみっともなく、攻撃的に混じっているのを、僕ははじめて耳にした。 インドではそういう経験はときどきある。 日本でははじめてだった。 (あっ、、、 よく考えたら 「はじめて」 ではないか・・・)

2005年12月 8日 (木)

ユルゲンスマイヤー

1週間もなにも書かなかった・・・ 書きたいのだが、またもや 怖いほどの忙しさ !! 主に 生活のための諸々の仕事・・・ くそうっ・・・

近況報告だけしておきますと、 カサノヴァの精読を終えまして、ユルゲンスマイヤー の読み直しをやっております。 こうした読書のねらいはあるのですが、それはまたいつか。。。

2005年12月 1日 (木)

popular religiosity

前々便 で、カサノヴァの近代主義的な議論からは どうしても「民俗」のレベルがぬけおちることになる 、と書いた。

ずっと精読している この 『近代世界の世俗宗教』 で、「民俗」 と関連が深そうな概念として目立つのは、 popular religiosity である。 第5章「ブラジル」のところに頻出する概念で、津城さんは 「 民間の宗教性 」と訳出している。

しかしカサノヴァは、最後までけっきょく 「民間の宗教性」 そのものを主題化することはない。 彼の議論で、それは ただひとつの資源 ――すなわち  「国家」 「政治社会」 「市民社会」 などのレベルが担う 正当なる 「公共の討議」 に与えられた ひとつの資源―― であるかのようだ。

「アフロ・ブラジリアン宗教」 という範疇も登場するのだが、 それも主題化されることはない。

こうした点は、前々便 でも書いたように、たしかに不満が残るのだ。

明確な近代主義の立場

前便 で、カサノヴァの 『近代世界の公共宗教』 が 「 明確な近代主義の立場 をとっている」 と書いた。

カサノヴァ自身の言葉でいえば、その近代主義とは 「 リベラリズム 」 ではない。 「リベラルの壁」 という表現が この本では繰り返しもちいられているが、それは 宗教と公的領域を絶対的に隔てようとする壁のことだ。 その「壁」が 経験的にも、思想的にも 無根拠であることを示すのが、カサノヴァの議論の要点である。 したがって、 カサノヴァは 「リベラル」 ではない

しかしカサノヴァは、ハーバマス的な近代合理主義者ではある。 そのことは たとえば、アメリカのカトリックについて論じる章の結論部に出てくる 次のような概念によくあらわされている。

  • 公的討論 (邦訳 261頁)
  • 合理的な公的討論、論争上の倫理 (同)
  • 開かれた合理的な討論 (同 264頁)

これらはいずれも、同定された実体概念であると同時に、 規範的に措定された価値概念 でもある。 これらのものは、カサノヴァにとって、多元化という「近代化」の本質を形づくるプロセスにおいて確保された公共性確定の場として 正当化されうる 事実上唯一の選択肢 なのである。

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