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2005年12月23日 (金)

系譜学の仕事

粟津さん>
お返事がおそくなりました。すいません。

こちらのエントリ に頂戴したコメントへのお返事を書いていたら、思いのほか 長いものとなりましたので、 僭越ながら こうして新たなエントリを立てさせていただくことにしました。 どうぞご了解くださいませ。

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「無宗教」というイデオロギー/世界観について、宗教研究者がつとめて自覚的であるべきだ、というご意見に 私も大賛成です。

もちろん ここで問題となるのは、単に宗教学の問題ではありません。 近代学問の諸制度と諸規範が 「世俗主義」などをはじめとする特定のイデオロギー的配置のうえに 現になりたっている、という事実こそが真の問題です。 宗教学の場合、それが 神学批判という形で とくに明瞭になっているわけですね。

近代学問を成立させてきた/いる、そうしたイデオロギー上の基盤 (もっともそれらしいコトバを あえて一つ選ぶなら 「 (ポスト) 啓蒙主義 」 となりましょうか) を対象化することは、 系譜学の仕事 となるわけですが、 ご存知のように これはとても険しい試みです。 根源的な自己批判をおこなうわけですから、 失語症、ニヒリズム、反動的保守主義 などを結果してしまうわけです。

ちなみに、私自身は 失語症に悩まされました。 幸い、私は 南アジアという具体的な「事例」を得ることで、その危機をかろうじて脱することができました。

こうしたことの全てをわきまえつつも、 私は 「系譜学の試みは、いま 学問に真摯に向かい合おうとする者にとっては必要不可欠なものである」 と確信するものであります。 とても険しく、出口の見えない道ではありますが、それに真正面から取りくむ方を尊敬し応援しつつ、私もまた 自らの南アジア研究のなかに それを投影させていきたい、と願っています。

<メモ>

脱構築的批判理論と 対象学的方法論との 「緊張関係」、 および両者の結びつきが 個々の「事例」において そのときどきに結晶化するしかない との指摘については、 こちらのエントリ で紹介した 『宗教研究』 IAHR特集号所収の 深澤英隆 報告 (とくにその第四節 「若干の考察」 ) を参照。

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