交通信号の倫理
いつも拝読し ときどきTBもさせていただいている川瀬さんのブログに こんなエントリ があった。 そちらと同様の関心を、ホアン・マシア先生 ( 先のエントリ でご紹介ずみ ) も表明なさっているので、ご紹介。
いわゆる 交通信号の倫理 、 赤だったらとまる。 青だったら、じゃあ線を引いて。 赤でも注意して信号を無視することがあるでしょう。 たとえば 子供を救うためにね。 逆に、青であっても、危ないから止まることもある。 そういう 交通信号のメンタリティ しかないと、[妊娠]一四日前だからなんでもいいと。 逆に、生命が始まって三ヶ月であっても、たとえば手術の途中で、ほっておけば母親も胎児も死ぬというような時には、もっとも厳しい伝統的な倫理学者でさえも、「 こういう時は出してもいい、これは中絶と呼ぶべきではない 」 と。 交通信号の線引きの考え方をもっていますと、なんでも許されるような操作と、何かの理由がある時でさえも、いや、もう始まってるからいけない、という両極端になる。 ( 『 現代宗教2003 』 国際宗教研究所編、東京堂出版、159頁: 強調引用者 )
( 正直 僕には最後の方の意味がうまくとれないのだが、まぁそれはさておき ) 生命倫理、、、というよりはむしろ、ご自身の言葉にしたがえば 「 生と死を見つめる哲学 」 ( 155頁 ) についての議論のなかでの発言である。 排他的ナショナリズム批判という川瀬さんの文脈とは異なるのだが、僕らがいま公的な問題について 頭を使うとき、なにをどう注意すればいいのか という点で、両者は共通している と思った。
上の引用文にすぐにつづけて次のように言われる。
このような話は、医療とか、生物だけの話ではなく、また、宗教だけではない。 そこに 哲学 のようなものの考えかたも入れたいですね。 交通信号、線引きのような考え方――今のデジタル時代の考え方ですね――、 [ 〇か ] 一しかないというようなこういうデジタル化した考え方ではなく、哲学 のものの考え方もする必要があるんじゃないか。( 同: 強調引用者 )
ここで 「 交通信号のメンタリティ 」 に対置される 「 哲学 」 なるものを、司会の 島薗進先生 はすぐに 「 生きていることの複雑性をそのままに受け止めるような考え方 」 と言い換えている ( 同 ) 。
僕も こうした考え方に賛成だ。 現時点では どう考えても、こうした複雑性の哲学で 決まりだ。
では次に、実践は?
そこで 司会の島薗先生は、< 複雑なことを重視していると同意形成ができない > というお定まりの批判を紹介し、対談者の二人に意見を質すのである。 まずは マシア先生が応えて、両論併記 の重要性を説く。 次に 伊藤道哉先生 が 討議プロセスの開示 と パブリック・オピニオンの収集・開示 の重要性を説くのである。
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