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2006年1月の記事

2006年1月29日 (日)

世界のシェリフ

パレスチナでのハマス大勝、、、武装放棄拒否のニュースを聞きながら。

わけても軽視してならないのは、 犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、 自分の行為、 自分の行状を それ自体において 非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。 というわけは、 犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行われ、 そしてその場合は 「 よい 」 と呼ばれ、 何らの疚しさを感じることもなく行われているのを見るからである。 ( ニーチェ 『 道徳の系譜 』 木場深定訳、岩波文庫、95ページ、強調ママ )

具体的には、 「 警官や検事 」 が弄する 「 探偵・奸策・買収・陥穽 」、あるいは 「 刑罰 」 における 「 褫奪・圧制・陵辱・監禁・拷問・殺害 」 などのことである。

あぁ 世界のシェリフ よ、、、俄か靖国信者の宰相よ、、、

<メモ>

J-WAVE のニュース速報では ハマスは 「 イスラム原理主義組織 」 と言われていた。

杉谷滋 編 『 アジアの近代化と国家形成 』

久々の投稿、、、と思ったら、またもや 読書メモ。

まだまだ仕事と生活のペースがつかめなくて、、、忙しいだけ忙しいのに、、、自分でもどうしたもんだか、、、なんだか困ってます。

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先便 で書いたニーチェ 『 道徳の系譜 』 ( 今風に訳せば 道徳の系譜学 ) は、一昨日に読了。 いろいろ心に残るフレーズがあったので、いつか紹介したい。

いま読みはじめているのは、、、

杉谷滋 編 『 アジアの近代化と国家形成 ―― 経済発展とアジアのアイデンティティ ( 御茶の水書房、1996 )

奥付に 「 関西学院大学産研叢書 (20) 」 とあるように、同大学産業研究所の共同研究 「 アジアの中の日本 」 ( 1993~95年度 ) の成果をまとめたもの。

近所の図書館 に行ったら、借りたかった本がなかった、、、せっかく来たからと 他の書棚を物色していて みつけた本だ。

インドの政治史について、ちゃんとまとめなおさなくてはならず、政治学のアジア論を読みなおし、勉強しなおそうと思ったので、借りた。

偶然 手にとったわけだが、とても面白く読んでいる。 

せっかくなので、心に残った一節をご紹介。

最終章は 執筆者全員による座談会の記録になっている。 その中での 岡本仁宏先生 ( 関西学院大学法学部教授 @ 執筆者紹介 ) の発言より。

僕は文化接触の中身に対してどのような組み合わせや融合が新しいものを生み出すかを考えることがポジティヴなのではないかと思う。 ( 182ページ )

普遍性と特殊性、とくに西洋化と近代化 ( ないしは 資本化/産業化/自由化 など ) との関係についての議論のなかでの発言である。

まさしく同じことを、僕も こちらの論文 で書いた。 博論 (→ こちら 参照 ) を書く中で、このことに強く思いいたったのでした。

シンプルなアイディアではあるけれど、とても大切な視点だと思います。

2006年1月25日 (水)

電車&風呂 de 読書

まだまだ忙しく、腰をおちつけて なにかを書く、、、という精神状態ではない。 そこで、ちょっとした読書記録をば。

大田さん> ほったらかしで、スイマセン、、、

もちろん! 読書の時間というゼイタクは いまの僕にはゆるされない。

電車&風呂 de 読書 、、、なんだかもう慣れてしまった。

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こちら で触れた 津城先生の本は 10日ぐらい前に読みおわった。 結論部分は二度読んだ。 面白いことが分かったりしたので、いつか感想を書いてみたい。

こちら の機会に 大本 の方から直接いただいた 『 「 みろくの世 」 出口王仁三郎の世界 も一昨日に読み終わった ( 書誌情報は こちら ) 。 

A 様、I 様、S 様> ご本をいただき、まことにありがとうございました。大変興味深く読ませていただきました。僕が聖師のお名前をはじめて目にしたのが、中学生時代、学研の 『 ムー 』 においてであったことを思い出したりいたしました。また機会をみつけて、感想などを述べさせていただけたらと思っております。

並行して読んでいたのが ニーチェ 『 道徳の系譜 』 ( 木場深定訳、岩波文庫 ) 。 これは半分ちょっと読み終わった。

ライブドア・ショックの最中、ニーチェを読んでいると、あらぬ憶測を呼びそうだ。 本ブログでも、ことあるごとに 「自分はマッチョだ、マッチョだ、体育会系だ、体育会系だ 」 と言っているから、なおさら。

申しあげておきますが、 IT長者と 超人 とか、 証券取引法と 貴族道徳 とか、そんなテーマは一切ないですよ。 ないけれど、読んでいると やっぱりどこかで、この時事問題と共鳴して読めてしまうのも 正直なところで・・・

ちなみに、突然のニーチェ読みのねらいは、近代西欧における 「 人間主義 」 形成過程の結節点探し、、、 まだ上手に見つけられないでいますが、おそらくこの本あたりは 重大なポイントになっていたのだろうな、と。

2006年1月22日 (日)

ご飯を食べながら寝て

一気に とてつもなく 忙しくなってしまい、ニュー・エントリを書けないでおります。

昨日は、大人になってから初めて!! ご飯を食べながら寝て しまいました。

忙しさの原因は、なんてことありません。 締め切りを過ぎに過ぎた仕事が たまりにたまったというだけのこと。

昨年来の私生活の変化で すべての仕事の予定がおかしくなってしまっており、各方面には多大なご迷惑をおかけしている次第。 本当に 申し訳ございません。

最近になってやっと、拙ブログを楽しみにしてくださっている読者をいただきはじめたというのに・・・ こうして更新をおこたるのは、 我ながら残念なことです。

書きたいことは 山のようにあります。 しばし お待ちを。

2006年1月18日 (水)

政治学はちゃんと

前便 にいただいた大田さんからのコメントへのお返事である。

ところで 大田さん> こんなところでなんですが、S先生、T先生流れで 翻訳をば 大田さんにお手伝いいただけるとうかがっていますが、、、間違いないでしょうか? そろそろ詰めていかないといけませんねぇ。 すいません、僕が忙しくしてて、仕事をにぎり込んでしまっています。

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大田さんよりは、二つのご指摘をいただきました。

本エントリでは、一つ目について お返事をいたします。

  1. 政治学はちゃんと 宗教のことを論じてきたのではないか、、、 

まずご確認いただきたいのは、 「 政治学の領域においても 「 宗教 」 に関する認識が欠如している 」 とは、私 「 断言 」 などしておりません。

政治学は宗教について多くを語っているだけでなく、 非常に厚いオリジナルな蓄積 をもつ ―― このことを、私も完全に認めるものであります。

さらには、最近 いくつかの新しい展開がはじまっていることも、わずかながら 知っています。

たとえば、政治理論の古典を自分で勉強しなおさねばならなかった僕にとって、梅田百合香さんの近著 『 ホッブズ政治と宗教 ― 『 リヴァイアサン 』 再考 』 ( こちら @アマゾン ) などは 期待大の作品です。 お金がなくて 買えなくて 未読ですけどねぇ。 

なお 付言すれば、そういったレベルに限っていえば、 宗教学にも政治について論じてきた伝統がないわけではありませんね。 たしかに心もとない系譜であったかもしれませんが、 宗教社会学の重要な分野として、すくなくとも70年代までは、大きな関心がそこにはあったのだ、と了解しています。

全くのコトバ足らずでしたが、、、僕の不満は ちょっと違うところにあるのです。

すなわち、、、80年代以降、とくに21世紀に入って 従来型のパラダイムが有効でなくなった のではないか、、、ということです。

実際、現代宗教論 ( とくに、いわゆる宗教復興論 ) において、宗教と政治の関係を 従来の政教関係 ( 正確には、国家=教会関係 ) の延長で、 あるいは自由論の延長で論じたもので、 深く納得できたことが 僕にはありません。

また、 勉強が足りないだけなのかもしれませんが、 政治学系の先生方や友人に 参考文献を求めても、なかなかこれといったものに出会えたことも、 残念ながら 今のところ ありません。

さらに、 とくに現代の世界情勢に鑑み、 宗教についてどのように語ったらよいか、、、政治学関係の集まりで、そのような戸惑いのコトバを 僕はこれまで何度も投げかけられてきました。

言うまでもなく、これを僕は 「 宗教学、情けないぞ! 」 という叱咤の嘆きとして聞いているわけです。

このような現状理解から、宗教学のみならず、政治学に対してもキビしいコトバを吐いたわけなのです。

間違っているでしょうか・・・? 正直、僕にもまだよくわかりません。

僕の勘違いや無知があれば、ぜひ教えてください。

これは心からのお願いです。 徒手空拳、孤軍奮闘の期間が長すぎて、 ちょっと視線が曲がり、視野が狭まりはじめているかもしれませんから・・・

これからも どうぞ宜しくお願いします。

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2006年1月17日 (火)

宗教=世俗的近代性

以前、こちらのエントリ で、宗教政治学宣言 をした。 このブログにも 「 宗教政治学 」 のカテゴリを立て、関連するエントリを書きためてきた。 ( まぁ、ささやかなものですが・・・ )

今日は、ちょっとだけ踏みこんだ話をば。

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宗教学と政治学がほとんど全く ( 本当に!ほとんど全く ) 切り結ぶことのない現状 ―― これは、いまの世界情勢からしますと あきらかに異常です。 

正確に言いますと、 「 切り結ぼう 」 という努力は たくさんあるのです。 あるのですが、それはまだ始まったばかりで、成果はなんとも心もとない、という現状。

それはなぜか・・・ この問いが、本エントリの主題になります。

「 異常 」 というのは、現実の説明として、あまりに シドロモドロ、、、宗教学者は政治が語れず、政治学者は宗教が語れない、、、

実際問題、僕たちの社会と世界では、宗教と政治の境界がどんどん曖昧になっていっている。 なっているのに、それをどう考えればいいのか、誰もわからない、と。

どうしたらいいんだよっ?! という疑問は、当然あります。

そういう具体的な行動指針をもとめる声には、プロとしてぜひ応えていきたい。 しかし、その前に・・・

どうしてそうなのか?! という疑問を、まずは考えてみたい。

こうした理論的で哲学的な設問は、単に、私コンドウの趣味にすぎない、、、ということではありません。 そこには ある必然性があります。

僕の考えでは、宗教学と政治学のあまりに顕著な乖離は、 近代世界 の根本にある 聖俗二元論 のゆえなのです。

聖俗二元論とは、ちょっと分かりにくいコトバですが、、、要するに、、、

聖なるものと、俗なるものを くっきり分けて、僕らの世の中のすべてのことを、その二つのどちらかにふりわける、、、

はっきりさせられない事象は、その二つの 「 混合 」 ということですませる、、、

そういう考え方、 深ぁーーいところにある考え方 のこと。

政治は俗事であり、宗教は聖なること、、、この二つはきっちりと分け る方がよい 、 分け るべきだ 、分け なければならない 、、、僕らの日常生活では、そうした態度が当たり前になっている。 誰に教えられるわけでもないけれど、僕らは そういうものとして毎日を生きている。

この考え方/態度に対応する政治制度、社会制度が、 政教分離の原則宗教の私事化 なわけです。 宗教は決して政治と混ざらないこと、、、宗教は自分でやるのは構わないけれど、他人に干渉してはならないこと、、、

一人一人の心身の深いところにある考え方から、社会や政治の制度までが、きれいに 聖と俗に分離されている状態 ―― これが 「 近代的 」 と呼ばれ、無反省に (= いちいち考え直さなくてよい、当たり前のこととして ) よいこととされている。

したがって、一般には、近代性は世俗的なものと考えられていますが、実はそれは正しくない。

宗教と世俗を二つに分けるところに、近代性の本当の特徴がある。

だから、僕はそれを 「 世俗的近代性 」 ではなくて、 「 宗教=世俗的近代性 」 と名づけているわけです。

だから、学問の世界も、政治学と宗教学は別々にがんばっていけばよい、、、と。

二つの学問領域を橋わたしするというのは、こういうところから考え方を変えていかねばならない。 そうでないと、すごく底の浅い、単なる 「 結合 」 になってしまう。

ではあらためて、どうしましょうか・・・?

この問題が、ここでやっと出てくるわけですが、長くなってしまいますので、また別の機会に。

<メモ>

  • ここで書いたことは、この論文 で論じたことです。 そこで明らかにしたアイディアを、宗教政治学という枠組みに位置づけなおしたのが、上のエッセイです。
  • このエントリを書こうと思い立ったのは、昨日 ( 16日 ) 、島田先生と話をしているなかでのこと (→ こちら )。 昨年末にお会いしたとき (→ こちら ) にうかがっていた、先生の 「 宗教政策学 」 構想に刺激された。 宗教政策学について、先生は近々に論文をまとめたい、とおっしゃっていたので、そちらを待ちたい。
  • そして僕も 「 宗教政治学の可能性 」 とでも題した論文を、もう早めに書いてしまってもよいなぁ、と思った。 本エントリは、そのアイディアの初発メモになります。

2006年1月16日 (月)

先端研

島田先生のブログ、 こちらのエントリ ですでにお書きになってますので、 私もご報告。

本日、東大の 先端科学技術センター ( 通称?略称? 先端研 ) にて、島田先生とお会いしました。

こちらのプロジェクト での島田先生のお仕事をお手伝い、、、そのような仕事を この4月からさせていただけることになりそうなのです。 ( 本日、プロジェクト・リーダーの 御厨先生 にもご挨拶しました )

こちらのエントリ でほのめかしていたのは、このことでした。

簡単に言ってしまえば、 「 宗教とテロリズム 」、 「 宗教と政治 」 、、、その辺りの研究です。 残りの期間は2年だそうです。

僕の立場は 「 技術補佐員 」、 文系でいえば 「 非常勤研究員 」 のようなものだそう。

よい機会なので、ぜひがんばっていきたいと思う。

新日の未来

週ゴンを読む。 新日の未来 に思いをめぐらす。

もう数年前から来るぞ来るぞと言われてたことだけど、今度こそ本当に!転換期がやってきたのかもしれない。

どっちに向かうべきか、僕には分からない。ただ、会社としてお金のことさえ間違えなければ、きっといつかは良い方向が見つかるのじゃぁないかなぁ、とは思う。

そのためには、力道山以来の古い体質 ( とくに、興行がらまり ) を変えることが必須なのだろうが、、、ムムムムムム、、、そこが一番むずかしそうだ。

がんばれ!!色々と言いたいことはあるけれど、やっぱり僕は応援してるぞ!!

2006年1月15日 (日)

国際宗教研究所賞

昨日 ( 14日 ) 、国際宗教研究所 主催のシンポジウム 「 元気なのには理由がある!? ― 現場からみた信者育成の実践と課題 」 に参加しました。

シンポジウムの感想は 別に書きます。 実は、書いておきたいことが別にあって、このエントリを立てました。

シンポ終了後、第1回(財) 国際宗教研究所賞 (2005年度) の授賞式がありました。 私、ありがたいことに、その受賞者に選んでいただいたのです。

こちらの賞、「国際性」「現代性」「実証性」などを基準に、40才以下の 若手 の研究者、ジャーナリストなどに贈られるものとして、設立されました。

業界外の方> この業界では、38才の私も、堂々たる 若手 なのです。 まぁ、政治家は、50才、ときに60才でも若手ですが・・・

受賞対象の研究は、私の博論 「 宗教・ナショナリズム・暴力 ― ヒンドゥー・ナショナリスト運動のイデオロギーに関する研究 」 でした。 

ある先生にお勧めいただいて応募。 どうせダメだろう、他にも立派な研究はたくさんあるしなぁ、、、と応募したこと自体忘れていたのですが、そしたら受賞、、、という。

これは本当にうれしかった。 いいことがなかった昨年、年末に内定のお電話をいただいたときのうれしさをあらためて思い出します。 昨日の授賞式でも、ご参加の方々からあたたかいコトバをかけていただいて、またうれしかったです。

賞をもらった研究が 他の研究よりも優れているということは、 決してありません 。 賞なんかもらってなくても、すばらしい研究は 山のようにたくさん あります。 なぜこちらではなく、あちらの研究が受賞するのか??と首をかしげたくなる場合も、多々あります。 これは本当です。

僕は、たまたま運がよかっただけです。

ただし!! そうであってもなお、明らかなことがあります。

それは、 こうした賞は、非常勤講師として、PD (オーバードクター) として苦労している同輩や後輩たちにとって 力になるだろうなぁ、、、ということです。 

張り合いがない30代の研究生活に、よいアクセントができた、と。 もちろん!! 副賞30万 というのもはずせません!!

あらためて お考えいただきたいのですが、そもそも 賞とはなにか意味があるものなのでしょうか、、、

私の考えでは、それは結局 受賞者がその後 どんな身の振りをするか、、、で決まるものなのでしょう。

つまり、ある賞が単なる飾りではなく、 内容あるものとしての評価を得るかどうかは、受賞者がその後、どんな研究をおこなっていくか、、、そこにかかっている、ということです。

私は、この賞と、この賞に選んでくださった当該委員の方々に、恩義を感じていますから、 第1回の受賞者ということを肝に銘じて、まずは この博論を書き直して、本にして出版すること をがんばろう、、、と思ったのでした。

あらためて、関係者の方々、本当にありがとうございました。

最後に、私事ですが、ここまで僕を支えてくれた家族にも、心よりの感謝を申しあげます。ありがとう。

2006年1月13日 (金)

アイスマンの呪い

アイスマン 」 をご存知だろうか? 新手の アメコミ・ヒーロー ではない。 アルプスで見つかった5千年前のミイラである。

本日 ( 12日 ) 付け朝日新聞で、「 アイスマンの呪い 」 の話をしる。 ( → こちら 。リンク切れ御容赦) 

こちらのHP で調べてみたら、どうも去年の2月ぐらいにはもう報道されるぐらいに話題になっていたらしい。 日本では共同の配信を受けて、読売やヤフーが 先月30日に報じていたようだ。

こういう話を耳にすると、オカルト少年あがりの宗教学者 としては どうも血が騒いでしまう。 お亡くなりになった方、そのご家族と関係者の皆さんには申し訳ない気持ちは、もちろんある。。。 実際、呪いだろうとなんだろうと、人が急死しているわけですから・・・ ( こちらのエントリ も参照 )

このような倫理的な問題をはらみつつも、「 呪い 」 なんてコトバをエンタメ記号として感受してしまう回路が、60年代から80年代を日本で過ごした僕のなかには、もうすでに出来上がっているようです。

それにしても、こういう記事が 天下の大アサヒ国際面にデカデカと載っちゃうところがまたなんともすごい。 この日本のサブカルや民俗は、いかにミッチリと 霊的なもの で満たされていることか!! 

呪いの実在を真剣に確信している人は、日本ではかなり少数派だろう。 多くの人は、まぁそれはないだろうけど、、、という中途半端なところで生きているはずだ。 だからといって、ただ単に好奇心だけで、こうしたニュースを聞いているのでもあるまい。 その間のどこか、、、科学的合理性だけで支配されてはいない世界を、人々は同時に生きている、、、そういうことなのだと思う。

そうした世界が実際にあるのは、人々が頭がわるいとか、後れてるとか、かわいそうな虚偽意識だとか、、、おそらくそういう風に考えないのがよい。 そういう世界でしか呼吸できない心と体が、僕らなのだ。 

2006年1月12日 (木)

2005年の4冊目

2005年の面白かった本、こちら で3冊目を追加しましたが、、、またも思い出してしまいました。 2005年の4冊目 です。

  • ヴィンセント・クラパンザーノ 『 精霊と結婚した男 ― モロッコ人トゥハーミの肖像 』 ( 大塚和夫・渡部重行訳、紀伊国屋書店、1991、原1980 )

人類学のモノグラフの傑作をシリーズで読んでいこうと思い立って、信頼する人類学者の方におすすめを一冊だけあげてもらったのですが、その中の一冊。 紹介者はFさん。

正直申しあげれば、これを去年に読んだのか、一昨年だったのか、よく思い出せないのです。

しかし、こちらの本、通称 『 トゥハーミ 』 、ここ数年をとっても もっとも ガツン ときた一冊です。 衝撃の度合いからすれば、イギリスのオックスフォード滞在中に読んだ テリー・イーグルトン 『 イデオロギーとは何か 』 (大橋洋一訳、平凡社、1999) 以来のものでした。

とにかく!! この本はよかったなぁ !! 切なくて 美しくて 泣きそうになりました。

もちろん この本は、人類学、ひいては人文社会科学全般に対する理論的、倫理的な問題提起をしています。

それは実に 深刻で激烈な 問題提起です。つまり、第三世界、アフリカの一 「 狂人 」 の日常を、人類学者が 「 分析 」 することなく 「 記述 」 し、それをモノグラフとして出版、公開するということです。 そこには、深く考えるべき問題が、きわめて意図的に示されています。 しかし、それよりも何よりも 、、、

やはり芸術作品、文学作品として すばらしい、すばらしすぎる、と思うのです。

こんな本が書けたら、もう一生 なにもする気がおきないだろうなぁ。。。

<メモ>

あまりイメージを固定したくないので、控え目に言いますが、『 トゥハーミ 』 は 僕にはちょうど村上春樹の作品みたいに読まれたのでした・・・

  • ひねもじら乃太朗さんのブログ、こちらのエントリ から入って、カテゴリから 「 村上春樹 」 を選択。 僕などには とてもよく納得できる講評がのってます。
  • 内田樹先生のブログ、 こちらのエントリ では、村上好きの僕は力を得たものである。

倫理委員会

昨日 ( 11日 )、東邦大学医療センター大森病院の 倫理委員会 に出席。

年明けということで申請数が少なく、11件。 特殊な申請もなく、そろそろ審査のコツがつかめてきたので、積極的に ( しかし、あくまでも 「 外部委員 」 という立場を逸脱しない範囲で ) 発言をおこなってきた。

今回の11件、ひとつひとつが比較的よく練られていた。  これまでなら、本当にこれで申請がとおると考えているのか、、、、と首をひねってしまうものが数件はあったものだが、今回はそういったものはほとんどなし。 おかげで、いつも2時間で足りないところが、1時間半ちょっとで終了した。 

次回は3月8日に開催となる。 この委員会は、地味ぃーーな事務作業 ではあるけれど、僕にとって本当によい経験になっている。 来年も委員として参加させてもらえるのかなぁ。

<メモ>

この倫理委員会についての前便は、 こちら

2006年1月11日 (水)

宗教学の実践倫理

昨年末30日、 江原啓之氏 のテレビ特番 「 天国からの手紙 」 が放映された。 (→ こちら 、リンク切れ御容赦)

僕も好きな番組で、今回もビデオに録画して観た。

いくつかのケースが放映されていたが、僕がもっとも強い関心をもって観たのは、イタリア人のお父さんと その長女の方からの依頼だった。

これについて 分析的なことを書きたいと思う。

しかし、扱われている問題が問題なだけに、まずは 当のご家族の方々へのご挨拶 をしないわけにはいかない。

以下は、そのご挨拶である。 一方的な呼びかけであり、まったくの自己満足である。 しかし、宗教研究が倫理的な責任を担うべきポイントであるだけに、これを書かせていただく。

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まずは 僭越ながら、事件で大変な不幸にあわねばならなかったご家族ならびに関係者の皆様に 心からの衷心と同情の念をあらわさせていただきます。

宗教学者として真摯に申し上げますが、私は、江原さんがおっしゃるような意味での 「 霊 」 が、江原さんがおっしゃるような意味で 「 実在する 」 のかどうか、、、分かりません。 それについては 学問と宗教とのはざまにある宗教学は、明確なことを決して述べることができない、と私は思っています。

ただ、ご家族の方々の痛みの果てに、江原さんとの出会いがあり、お母さんや妹さんとの再会があったことは、できるだけよく理解したいと思っています。

そうした痛みを軽く見積もるつもりはありませんし、ましてや お亡くなりになった方々との交流という 「 聖なる瞬間 」 の意味を蔑ろにするつもりなど 毛頭ありません。

それはたしかに、科学でもなければ ドグマでもございませんでしょう ( ドグマ という言葉は、カトリックのご信者でいらっしゃる皆様には 特別の重みをもったものではないか と存じます ) 。 しかし、私たち宗教学者にとって、その出来事は 心からの尊重に値する 「 実体験 」 なのだ、とわきまえております。

私は このブログにおいて、皆さまがご出演されたあのテレビ番組について、コメントをさせていただきたい、と考えております。

どのような権利があって そのようなことをするのか、、、私も悩まないわけではございません。 しかし、単なる好奇心や野次馬根性から、そうしたことをするのではない、そのことだけは、どうかご理解いただきたいと願っております。

宗教について理解を深めたいと願う、一人の学究の徒として、またそうして得た理解を大学で講義する立場にいる、一人の教師として 、皆さんがあのテレビ番組で私たちに見せてくださった、ぎりぎりのところでのお母様と娘さんとの出会いを、考察の対象とさせていただきたい、と思うのです。

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やはり、なんだか虚しい独り言になってしまった。 関係者の方々からの反応が頂戴できればありがたいが 、それは望むべくもあるまい。。。

こうした自己撞着にもかかわらず、こうした逡巡は、素朴な 宗教学の実践倫理 として、とても大事なことだ。 その確信だけはある。 むむむ、、、やはりまた独り言に、、、、

年次改革要望書

いつもいつも申し訳ないが、またも粟津さんのブログ、こちらのエントリ にドキリとやられて、リンクをはらせていただく。

本当にお世話になっております。 > 粟津さん

アメリカ発、日本宛の 年次改革要望書 の話だ。 これは本当に問題なので、いつか書いてやろうとおもっていたら、粟津さんがちゃーーんとお書きになってくださった。

ここでもまた、僕がわざわざ付け加えるべきことはない。 ウィキの当該項目へのリンクも貼ってあり、参考文献も示されている。

ナショナリズム批判をおこなっている僕だって、こんな要望書が当たり前のように出され、それを政府が 唯々諾々と 拝領 している ( ように見える、、、実はそうではなく、政治家、官僚のなかに忸怩たる思いがあるのを、僕はよく知っている、知っているが、それでもやはり そう見える ) と

こんのやろぉ、、、米帝めぇ、、、、

とばかりに、僕のなかの、右だか左だかわからない、ナショナリスト感情がわきおこる ( 恥ずかしながら、基本的にマッチョな僕では、なおさらそうだ )。

平静、冷静に論評すれば、これは80年代以降のアメリカによる日本改造計画の一部だ。 バブル経済の発生と終焉も、こうしたアメリカの介入に原因があったことは、もはや周知の事実。 「 コーゾーカイカク 」 を突き動かす、非大衆的な動員としては、これは最大のもののひとつだ。

アメリカを悪にまつりあげて安心しようとは思わない。 しかし、アメリカのやり口 だけは ( それに乗っかろうと、乗っかるまいと ) ちゃーーんと知っておかねばならない。

<メモ>

粟津さんのブログ、上記エントリ は、実は こちらのエントリ の続報である。 そこでは、関良基さんの 代替案 というブログが紹介されている。 粟津さんも、そちらの関さんの論調にインスパイアされたとのこと。 僕も早速拝読したが、なるほど面白い。

2005年のもう一冊

2005年に読んだなかで心に残った本、ということで こんなエントリ を書いたが、 そうだ、三冊目があった!!と 昨晩 電車のなかで思い出しました。 あわてて追加です。

ということで、 2005年のもう一冊 はこちら。

  • ロラン・バルト 『 ミシュレ 』 ( 藤本治訳、みすず書房、1974 )

ある先生に薦められて読んだのだが、とてもよかった。 なんと言うかなぁ、とにかく衝撃的でした。 有名な本ということですが、なんともお恥ずかしい、、、知りませんでした。

これら三冊は、ホント お勧めです。

2006年1月 7日 (土)

憲政と民俗

2006・読み初めの本として 津城寛文 『 日本の深層文化序説 ―三つの深層と宗教 』 ( 玉川大学出版部,1995年 ) を選んだ。 ずいぶん前に買い求めていたのに、斜め読みしかしていなかったのだ。 例によって例のごとき現状にあっては、いずれにせよ 電車のなか、風呂のなかしか読書の時間はとれないのだが、 できるだけ頑張っていこうと思う。

この本のテーマは 「 民俗 」 。 「 日本の深層 」 に関する諸学説を整理していくなかで、民俗という問題がしめる位置を見定めようとする本だ。 

民俗 は 僕にとって宿題みたいなものである。 津城さんは 本書のなかでこう書いている。

支配のイデオロギーは 「 民衆の生活世界 」 や 「 民俗世界 」 のリアリティに根ざすことなしには受容されない ( 333頁、注12 )

本書は 「 民俗主義 」 という独自の概念で 島薗進教授 をとても高く評価しているが、 僕はそのゼミの出身者である。 島薗ゼミでは、「 普通の人々のささやかだが尊い日常生活 」 へのまなざしが いつも問われていた。 そこではじめて宗教学を学んだ僕が、 いまやヒンドゥー・ナショナリズム研究を専門とし、宗教政治学を掲げている。 (→ こちら、 とくに こちら

諸事情から、インドのヒンドゥー教徒の民俗に直接切りこむような研究が 僕にはまだできていない ( その手の研究には できるだけ目を通すようにしてはいるが・・・ ) 。 エリートの言説分析 が主な仕事である。

しかし、憲政と民俗 とのあいだで蠢いているのが、 ヒンドゥー・ナショナリズムである。 そのことを 僕は誰よりもよくわかっている。 また、ヒンドゥー教において 民俗がいかに重大な意義を帯びているか、 ここであらためて述べるまでもない。

憲政と民俗 ―― この落差が 僕の研究に独自の緊張感をあたえてくれている。 たしかにそうは思うのだけど、 やっぱりいつももどかしい。 だからどうしても、政治理論の書よりは この津城先生の本のようなものを手にとってしまうのだ。

民俗を研究するのはどうしたらよいか、、、 この積年の疑問に なにか答えが見つかればいいなぁ、と思う。

2006年1月 4日 (水)

ロマン主義

中学生からの質問シリーズ!! 

ロマン主義 って なんですか?

明治大正期日本の文芸運動のなかに出てくる 「 ロマン主義 」 のことなのだが、、、 そこで 北村透谷、島崎藤村、与謝野晶子、青木繁 などの名前を出して お茶を濁しては、 哲学科出身の名がすたる。

僕は こう答えました。

お金でもない。 理屈でもない。 直感とか感情とか、そういうのを大事にしていこうっていう考え方だよ。 

ロマンって言っても、 男と女の恋愛ロマン、、、じゃないからね。

<メモ>

  • 中学生からの質問シリーズ第一段は こちら
  • ロマン主義については、 こちらのエントリ でも述べたことがある。 ちょっと文脈は違うが。

2006年1月 1日 (日)

2005年の業績

昨年 2005年の業績 は 次のとおりでした。 うーーーん、まだまだだなぁ。 論文数が年間1本なんてのは 何年ぶりだろう・・・ 仕事量がとても少ない一年でした ( 反省 )。

<論文>

  • 「 宗教復興と世俗的近代: 現代インドのヒンドゥー・ナショナリズムの事例から 」 『 現代宗教 2005 』 ( 東京堂出版 )

<書評等>

  • 「 カースト 」 「 カシミール紛争 」 「 宗教紛争 」 「 ヒンドゥー原理主義 」 「 ヨガ 」 「 BJP 」 「 ヒンドゥー教 」 井上順孝編 『 現代宗教事典 』 弘文堂.
  • "Japanese Studies of Hindu Nationalism." In: the portal site "Gateway to Asian Studies in Japan" (アジア研究情報Gateway英語版) constructed by the Institute of Oriental  Culture, University of Tokyo.
  • 「 アヨーディヤー 」 「 インド人民党 」 「 ヒンドゥー・ナショナリズム 」  「 民族奉仕団 ( RSS ) 」 猪口孝・田中明彦・恒川惠市・薬師寺泰蔵・山内昌之 編 『 国際政治事典 』 弘文堂.

<学会等での口頭発表>

  • "Response" Presented at the Organized Panel "Rethinking Interreligious Dialogue: Challenges and Reorientations (1) From Conflict to Dialogue?" the XIXth World Congress of the International Association for the History of Religion (IAHR), Tokyo, 25 March 2005.
  • 「 インド大反乱とヒンドゥー・ナショナリズム: イデオローグたちの語りに注目して 」、第38回南アジア研究集会、共通論題 「 大反乱再考 」、2005年7月17日。
  • 「 コメント 」、日本学術振興会・人文・社会科学振興プロジェクト研究事業 「 地域研究による 『 人間の安全保障学 』 の構築 」 ( 代表者 黒木英充 )、日本学術振興会・人文・社会科学振興プロジェクト研究事業・領域Ⅱ-1・平和構築 「 ジェノサイド研究の展開 」 ( 代表者 石田勇治 ) の共催による国際シンポジウム 「 アジア・アフリカ ドキュメンタリー映画会議 2005: 暴力をみつめる眼: 排除の表象に、たじろがぬ表象を 」 第一日目の企画 「 失踪・排除・暴力: ゴーパール・メーノーンの世界 」、2005年9月23日。

<講演>

  • 「 インドの政治と女性: ヒンドゥー・ナショナリスト運動に焦点をあてて 」、千葉市女性センター 「 講座 世界の女性 インドの女性の今 暮らしと仕事を探る 」 第3回、2005年9月29日。

2005年の二冊

佐藤啓介さんのブログ、こちらのエントリ を拝読。 なるほど 年末ブログはこういうことをすればよかったのか、と気づきました。

ということで 早速 便乗 ( パクリ )。

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昨年はあまり本が読めませんでした。 それでも心に残っているのは、、、

  • 酒井隆史 『 暴力の哲学 』 ( 河出書房新社、 2004 )
  • 竹中千春 『 世界はなぜ仲良くできないの?― 暴力の連鎖を解くために 』 ( 阪急コミュニケーションズ、2004 )

せめて三冊 あげられるといいのですが、、、 ともあれ これが僕の 「 2005年の二冊 」 でした。

今年はちゃんと本を読む時間がとれるといいなぁ。

明けましておめでとうございます

本年が皆さまにとって どうぞ良い一年となりますように、心から お祈りいたします。

私事ではございますが、、、正直申しあげて 私にとって 昨年はあまり良い年ではありませんでした。 運気のめぐりが云々というよりは、自分でまだまだ出来ることがあったように猛省しています。

今年こそは飛躍の年となるよう、 また皆さんのお役に立てるよう、一念発起 がんばっていきたいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。

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