以前、こちらのエントリ で、宗教政治学宣言 をした。 このブログにも 「 宗教政治学 」 のカテゴリを立て、関連するエントリを書きためてきた。 ( まぁ、ささやかなものですが・・・ )
今日は、ちょっとだけ踏みこんだ話をば。
========
宗教学と政治学がほとんど全く ( 本当に!ほとんど全く ) 切り結ぶことのない現状 ―― これは、いまの世界情勢からしますと あきらかに異常です。
正確に言いますと、 「 切り結ぼう 」 という努力は たくさんあるのです。 あるのですが、それはまだ始まったばかりで、成果はなんとも心もとない、という現状。
それはなぜか・・・ この問いが、本エントリの主題になります。
「 異常 」 というのは、現実の説明として、あまりに シドロモドロ、、、宗教学者は政治が語れず、政治学者は宗教が語れない、、、
実際問題、僕たちの社会と世界では、宗教と政治の境界がどんどん曖昧になっていっている。 なっているのに、それをどう考えればいいのか、誰もわからない、と。
どうしたらいいんだよっ?! という疑問は、当然あります。
そういう具体的な行動指針をもとめる声には、プロとしてぜひ応えていきたい。 しかし、その前に・・・
どうしてそうなのか?! という疑問を、まずは考えてみたい。
こうした理論的で哲学的な設問は、単に、私コンドウの趣味にすぎない、、、ということではありません。 そこには ある必然性があります。
僕の考えでは、宗教学と政治学のあまりに顕著な乖離は、 近代世界 の根本にある 聖俗二元論 のゆえなのです。
聖俗二元論とは、ちょっと分かりにくいコトバですが、、、要するに、、、
聖なるものと、俗なるものを くっきり分けて、僕らの世の中のすべてのことを、その二つのどちらかにふりわける、、、
はっきりさせられない事象は、その二つの 「 混合 」 ということですませる、、、
そういう考え方、 深ぁーーいところにある考え方 のこと。
政治は俗事であり、宗教は聖なること、、、この二つはきっちりと分け る方がよい 、 分け るべきだ 、分け なければならない 、、、僕らの日常生活では、そうした態度が当たり前になっている。 誰に教えられるわけでもないけれど、僕らは そういうものとして毎日を生きている。
この考え方/態度に対応する政治制度、社会制度が、 政教分離の原則 、 宗教の私事化 なわけです。 宗教は決して政治と混ざらないこと、、、宗教は自分でやるのは構わないけれど、他人に干渉してはならないこと、、、
一人一人の心身の深いところにある考え方から、社会や政治の制度までが、きれいに 聖と俗に分離されている状態 ―― これが 「 近代的 」 と呼ばれ、無反省に (= いちいち考え直さなくてよい、当たり前のこととして ) よいこととされている。
したがって、一般には、近代性は世俗的なものと考えられていますが、実はそれは正しくない。
宗教と世俗を二つに分けるところに、近代性の本当の特徴がある。
だから、僕はそれを 「 世俗的近代性 」 ではなくて、 「 宗教=世俗的近代性 」 と名づけているわけです。
だから、学問の世界も、政治学と宗教学は別々にがんばっていけばよい、、、と。
二つの学問領域を橋わたしするというのは、こういうところから考え方を変えていかねばならない。 そうでないと、すごく底の浅い、単なる 「 結合 」 になってしまう。
ではあらためて、どうしましょうか・・・?
この問題が、ここでやっと出てくるわけですが、長くなってしまいますので、また別の機会に。
<メモ>
- ここで書いたことは、この論文 で論じたことです。 そこで明らかにしたアイディアを、宗教政治学という枠組みに位置づけなおしたのが、上のエッセイです。
- このエントリを書こうと思い立ったのは、昨日 ( 16日 ) 、島田先生と話をしているなかでのこと (→ こちら )。 昨年末にお会いしたとき (→ こちら ) にうかがっていた、先生の 「 宗教政策学 」 構想に刺激された。 宗教政策学について、先生は近々に論文をまとめたい、とおっしゃっていたので、そちらを待ちたい。
- そして僕も 「 宗教政治学の可能性 」 とでも題した論文を、もう早めに書いてしまってもよいなぁ、と思った。 本エントリは、そのアイディアの初発メモになります。
最近のコメント