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2006年1月18日 (水)

政治学はちゃんと

前便 にいただいた大田さんからのコメントへのお返事である。

ところで 大田さん> こんなところでなんですが、S先生、T先生流れで 翻訳をば 大田さんにお手伝いいただけるとうかがっていますが、、、間違いないでしょうか? そろそろ詰めていかないといけませんねぇ。 すいません、僕が忙しくしてて、仕事をにぎり込んでしまっています。

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大田さんよりは、二つのご指摘をいただきました。

本エントリでは、一つ目について お返事をいたします。

  1. 政治学はちゃんと 宗教のことを論じてきたのではないか、、、 

まずご確認いただきたいのは、 「 政治学の領域においても 「 宗教 」 に関する認識が欠如している 」 とは、私 「 断言 」 などしておりません。

政治学は宗教について多くを語っているだけでなく、 非常に厚いオリジナルな蓄積 をもつ ―― このことを、私も完全に認めるものであります。

さらには、最近 いくつかの新しい展開がはじまっていることも、わずかながら 知っています。

たとえば、政治理論の古典を自分で勉強しなおさねばならなかった僕にとって、梅田百合香さんの近著 『 ホッブズ政治と宗教 ― 『 リヴァイアサン 』 再考 』 ( こちら @アマゾン ) などは 期待大の作品です。 お金がなくて 買えなくて 未読ですけどねぇ。 

なお 付言すれば、そういったレベルに限っていえば、 宗教学にも政治について論じてきた伝統がないわけではありませんね。 たしかに心もとない系譜であったかもしれませんが、 宗教社会学の重要な分野として、すくなくとも70年代までは、大きな関心がそこにはあったのだ、と了解しています。

全くのコトバ足らずでしたが、、、僕の不満は ちょっと違うところにあるのです。

すなわち、、、80年代以降、とくに21世紀に入って 従来型のパラダイムが有効でなくなった のではないか、、、ということです。

実際、現代宗教論 ( とくに、いわゆる宗教復興論 ) において、宗教と政治の関係を 従来の政教関係 ( 正確には、国家=教会関係 ) の延長で、 あるいは自由論の延長で論じたもので、 深く納得できたことが 僕にはありません。

また、 勉強が足りないだけなのかもしれませんが、 政治学系の先生方や友人に 参考文献を求めても、なかなかこれといったものに出会えたことも、 残念ながら 今のところ ありません。

さらに、 とくに現代の世界情勢に鑑み、 宗教についてどのように語ったらよいか、、、政治学関係の集まりで、そのような戸惑いのコトバを 僕はこれまで何度も投げかけられてきました。

言うまでもなく、これを僕は 「 宗教学、情けないぞ! 」 という叱咤の嘆きとして聞いているわけです。

このような現状理解から、宗教学のみならず、政治学に対してもキビしいコトバを吐いたわけなのです。

間違っているでしょうか・・・? 正直、僕にもまだよくわかりません。

僕の勘違いや無知があれば、ぜひ教えてください。

これは心からのお願いです。 徒手空拳、孤軍奮闘の期間が長すぎて、 ちょっと視線が曲がり、視野が狭まりはじめているかもしれませんから・・・

これからも どうぞ宜しくお願いします。

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コメント

いつもながら、ご丁寧なレスポンスをありがとうございました。お仕事の件も、近藤さんのペースにお任せいたしますので、よろしくお願いいたします。

以下、私自身も勉強中の事柄ですので、アイディアのみを素描いたします。先に論じたように、政教分離のあり方は各時代・各社会でさまざまであると思いますが、近代的な政教分離原則の直接的起源を考えた場合、それはやはりフランス革命にあったと思います。それ以前のフランス社会はいわゆるアンシャン・レジーム期であり、絶対王制のもと、専制君主が聖俗の領域を一元的に統括していました(王権神授説や、ガリカニズムという国家教会主義)。これに対してフランス革命は、国王ルイの首をはねるとと共に、国家が世俗的領域の統治に限定されるべきことを求めたわけですね。

フランスで発生した近代的な政教分離原則は、その後にヨーロッパ各国へ、さらには世界各国へと「輸出」されることになったわけですが、ここで問題になったのは、それら各国が必ずしも内発的な動機によってこのような制度を受け入れたわけではないということです。日本を例にとれば、明治政府は天皇主権というほとんど「近世的」な絶対王政的政治体制をとりながらも、法的制度のレベルにおいて信教の自由と政教分離原則は拒否できないという矛盾を抱えることになりました。こうして、天皇が明らかな聖性を帯びながらも、国家神道や天皇制は宗教ではない、というある種の歪(いびつ)な枠組みが構成されることになったわけで、このような歪みは現在も基本的に解消されていません。そしてこのような歪みは、近代的諸制度の「輸入」が遅れた国々、特にグローバリズムという経済的な膂力によって国内秩序の安定性が脅かされている国々においては、いっそう深刻なものとなります。今日のイスラム主義の台頭とは、基本的にこのような枠組みで理解できないでしょうか。

政治・経済・法における近代的諸制度の「輸入」と、それによってもたらされる「歪み」は実にさまざまなパターンがあり、しかも「歪み」を抱えた国同士が常に相互干渉し続けているわけで、分析が困難であることは確かだと思いますが、政治と宗教の関係を語る土壌や蓄積が全くない、というのはやや極論ではないか・・・というのが、私自身の感想です。

近藤さんの論の発展の途中で、少し口を挟みすぎたかもしれません。今後の展開に期待しております。

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