資本主義スピリチュアリティ
前便 にて 「現代人」 という言葉を、 括弧づけして使った。
それを 「現代先進国の都市インテリ・エリート」 と言いなおすことで、 かなり含意をもたせたつもりだったが、もっとちゃんと規定した方がよいことに気づいた。
きっかけは、 今朝 (28日朝) 手にした 『宗教研究』 348号 (2006年6月、日本宗教学会) 所収の、 次の書評を読んだことだ。
- 芳賀学 「Jeremy CARRETTE and Richard KING, Selling Spirituality: The Silent Takeover of Religion」 (169-74頁)
芳賀先生 の評から いくつかの部分を引用する。
彼ら [筆者ら] の見解では、 「現代に優勢なスピリチュアリティ (capitalist spirituality)」 とは、 産業資本主義が宗教をひそかに乗っ取って倫理性を排除し新たなラベルをつけて売り出した商品群であり、 それゆえ、 他者や政治への関心が希薄な反面、 自己実現や功利的な関心が濃厚で、 現状適応のみを生み出す施行制御システム (≒ イデオロギー) の中核を担う存在であるという。
170頁
企業資本主義が人々の思考を制御するために再編集した (= repackaged) 宗教が 「スピリチュアリティ」 として流通する現状
171頁
現代の 「スピリチュアリティ」 は、新自由主義という政治的状況や企業資本主義のグローバル化という経済的状況との関連で読み解かれており、 その結果示された 「現代の資本主義システムのイデオロギーとして換骨奪胎された (= 焼き直された) 宗教」 という把握にも説得力を感じる。
172頁
「スピリチュアリティ」 [は] 現代社会のイデオロギーであり、 孤立した消費者である個人に絶えず市場での商品購入を通じてその精神的不足を埋めさせようとする
173頁
一読明瞭なように、 スピリチュアリティ批判、 精確には 資本主義スピリチュアリティ への批判を展開する本であるらしい。
僕はかつて ハードコアなニューエイジャー だった。 そんな本ばかり読み、 推奨されている実践はなんでもかんでも試してみた。
しかし、 ある時期から そうした世界への関心が 綺麗さっぱり無くなってしまった。
なぜそうした変化が僕に起こったのか、 必ずしも明確ではないけれど、 上の芳賀先生の評に示されているような、 時代や境遇に限定される不自由さ を、 若かりし僕は感じとったのかもしれない、 と思う。
結論――
前便で 「現代人」 を 「現代先進国の都市インテリ・エリート」 と規定するだけでは 不十分だった。
「新自由主義と企業資本主義のグローバル化の尖兵となっている、現代先進国の都市インテリ・エリート」 というべきだった。
あらためて、、、
そして もちろん!! 僕もそんな 「現代人」 のひとりである。
<メモ>
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