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2006年6月の記事

2006年6月30日 (金)

宗教復興とグローカル化 (4)

すっかり間が空いてしまったが、前便は こちら

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きっかけは I 助教授 ( 創価大学 ) のコメントだった。

お名前を出してよろしければ、ぜひにご連絡をくださいませ > I 先生

私なりに要するに・・・

「 ヒンドゥー 」 を多数派として一枚岩につくりあげようとする 「 ナショナリスト 」 のことが、グローバル化論のなかで うまく議論できないのは、 むしろ当然のこと ではないか。

I 先生のこうしたご主旨の発言が、僕には メカラウロコ であった。

「 国民 」 の多数派であること ( あるいは、多数派形成により 「 国民/民族 」 を実体化し強化しようともくろむ人たちであること ) 、ナショナリストであること ( すなわち、国民国家へのコミットメントを強く強く有する人たちであること ) ――

僕の研究対象のそうした性格からいって、グローバル化論がうまく議論できないのは、 あらかじめ決まったこと ではないか、というのである。

なるほど!! 正解はいつもごく簡単なところにあるものだなぁ、と思った。

グローバル化の流れを多方向へと分散させ、その力の収斂をあいまいにしてしまうような水準、 「 ローカル 」 と 「 グローバル 」 の間にあってその両者のあらたな結合と活性化に水を差す 「 ナショナル 」 なものの強大な生命力 ――

ヒンドゥー・ナショナリズムはむしろ、第一義的には これらに対応する現象/運動とみなすのがよかろう。

これが 僕にとっては 本当にあたらしい発見 であった。

なにを当たり前のことを、とおっしゃる方もおられよう。しかし、 ウニャウニャ している頭 は、往々にして単純なことを発見できないものなのだ、、、と言い訳 ( 恥 )

2006年6月29日 (木)

資本主義スピリチュアリティ

前便 にて 「現代人」 という言葉を、 括弧づけして使った。

それを 「現代先進国の都市インテリ・エリート」 と言いなおすことで、 かなり含意をもたせたつもりだったが、もっとちゃんと規定した方がよいことに気づいた。

きっかけは、 今朝 (28日朝) 手にした 『宗教研究』 348号 (2006年6月、日本宗教学会) 所収の、 次の書評を読んだことだ。

  • 芳賀学 「Jeremy CARRETTE and Richard KING, Selling Spirituality: The Silent Takeover of Religion (169-74頁)

芳賀先生 の評から いくつかの部分を引用する。

彼ら [筆者ら] の見解では、 「現代に優勢なスピリチュアリティ (capitalist spirituality)」 とは、 産業資本主義が宗教をひそかに乗っ取って倫理性を排除し新たなラベルをつけて売り出した商品群であり、 それゆえ、 他者や政治への関心が希薄な反面、 自己実現や功利的な関心が濃厚で、 現状適応のみを生み出す施行制御システム (≒ イデオロギー) の中核を担う存在であるという。

170頁

企業資本主義が人々の思考を制御するために再編集した (= repackaged) 宗教が 「スピリチュアリティ」 として流通する現状

171頁

現代の 「スピリチュアリティ」 は、新自由主義という政治的状況や企業資本主義のグローバル化という経済的状況との関連で読み解かれており、 その結果示された 「現代の資本主義システムのイデオロギーとして換骨奪胎された (= 焼き直された) 宗教」 という把握にも説得力を感じる。

172頁

「スピリチュアリティ」 [は] 現代社会のイデオロギーであり、 孤立した消費者である個人に絶えず市場での商品購入を通じてその精神的不足を埋めさせようとする

173頁

一読明瞭なように、 スピリチュアリティ批判、 精確には 資本主義スピリチュアリティ への批判を展開する本であるらしい。

僕はかつて ハードコアなニューエイジャー だった。 そんな本ばかり読み、 推奨されている実践はなんでもかんでも試してみた。

しかし、 ある時期から そうした世界への関心が 綺麗さっぱり無くなってしまった。

なぜそうした変化が僕に起こったのか、 必ずしも明確ではないけれど、 上の芳賀先生の評に示されているような、 時代や境遇に限定される不自由さ を、 若かりし僕は感じとったのかもしれない、 と思う。

結論――

前便で 「現代人」 を 「現代先進国の都市インテリ・エリート」 と規定するだけでは 不十分だった。

新自由主義と企業資本主義のグローバル化の尖兵となっている、現代先進国の都市インテリ・エリート」 というべきだった。

あらためて、、、

そして もちろん!! 僕もそんな 「現代人」 のひとりである。

<メモ>

  • See here @ Amazon JP or here @ Amazon US for Jeremy CARRETTE and Richard KING, Selling Spirituality: The Silent Takeover of Religion.

2006年6月28日 (水)

ワクワクすることを追いかける

AERA に 「 シナプスのつぼ 」 という小さなコラムがある。

有名人 ( セレブ?笑 ) が人生で出会った一冊の本を紹介する、というコーナーだ。

2006.7.3 号では 須藤元気さん がフィーチャーされていた ( 82頁 ) 。 聞き手は原賀真紀子さん。

これがとても面白かった。

須藤さんは 知る人ぞ知る スピリチュアル系格闘家 である。 『 幸福論 』 という本を、ご自分で書いてらっしゃるほどだ (→ こちら @アマゾン ) 。

ここで 「 スピリチュアル 」 とは、要するに ニューエイジとか精神世界とかのこと。 「 霊性 」 と訳されてきたが、最近ではカタカナ表記が普通だ。専門家は、島薗進教授が考案した 「 新霊性文化/運動 」 という概念を用いることがある。

そんな工藤さんが紹介している本は 『 バシャール 』 。 スピリチュアル業界の大人気作品である。 (→ こちら @アマゾン。ただし、工藤さんが読んだのは、もっと古い版のものであるらしい

皮肉ったり、揶揄したりしているのではない。 本当にこのコラムは面白かった。

わずか半頁の短いコラムなので、全文を引用したいところだが、著作権がうるさそうなので、部分的に引用する。

悶々と悩む自分自身に納得できなかった23歳ぐらいのころ、 「 ワクワクして生きる 」 というメッセージが、数年前に読んだときよりも、意味のある言葉としてすーっと入ってきた。バシャールという宇宙人と本当にチャネリングができるとか、できないとか、それはむしろどうでもいいことだった。

高校生になって格闘技を始め、やがてプロになった工藤さん。肉体は訓練で強くすることができたが、精神面が思うようにいかない。

どうすれば成功し、プロになって稼げるのか。成功哲学のハウツー本を読んだ時期もある。悩みながら強さを追究するうちに、 「 パワーゲームに入り込んでいってしまった 」 。

自分自身のネガティヴなイメージに打ち克つことが、本当の強さ。それには自分を変えなければならない。この本は、そのことに気づかせてくれた。頭で考えすぎず、ワクワクすることを追いかける。これを実践したら、物事がうまくいくようになった。

このコラムが面白いと思ったのには、宗教研究のひとつの対象として、というのはある。 しかし、それだけではない。 「 ワクワクすることを追いかける 」 というメッセージが、僕自身にも 非常に強く迫ってきたのだ。

本当にそうだなぁ、、、と思う。 ワクワクすることを追いかけるのが 一番なのだ。

チャネリングについて、僕は研究対象以上の興味をどうしても もてない。しかし、そこにあるメッセージは とても力強いものだ。

スピリチュアル業界の盛況は 「 現代人 」 ( 精確にいえば、現代先進国の都市インテリ・エリート ) の心の問題、生活の問題に密着しているからこそだ、と思う。

スピリチュアル知識人とは程遠い僕も、もちろん!!そんな 「 現代人 」 のひとりである。

<メモ>

2006年6月27日 (火)

死 ・ 破壊 ・ 笑い

生死や破壊をメディアでみて、カタルシス――

それって ドウナノカナ・・・と思う。 ましてそれが、映画や漫画のような娯楽になってくると、複雑な思いが どうしてもする。

こんなんでいいのかなぁ・・・ 俺ってなんなんだろう・・・ いつからこんな奴になったのかなぁ・・・ あぁそうか、小学校低学年で もうそうだったなぁ・・・ こんなんでいいのかなぁ・・・

正論を言ってしまえば、やっぱり!!そういう娯楽は 正しくない のでしょう。

正しくない、、、正しくない、、、

そう思いつつ、これまた正直なところ言ってしまえば、そういう映画や漫画を 僕はやっぱり好き なのである。

この辺りが全然整理できていない。

映画 『 デッドコースター 』『 ターミネーター3 』 を観て、大笑いした僕。もちろん、映画館で笑っていたのは僕と連れのふたりだけ。

ネット上のコメントは どうも生真面目なものが多いけど、こちらの二作品、明らかにお笑いだと思う。 製作サイドも どこかで、あるいは意識して、お笑いをやろうとしているでしょう。 

いったい これってどういうことなんだろう?

僕が 人でなし なだけなのかもしれない。でも、それだけではないかもしれない。

死 ・ 破壊 ・ 笑い には何かしら とても大事なリンクがあるように思えてならない。

でも、それが何なのか、まだわからない。

<メモ>

  • 死や破壊が関係するのは、笑いだけではない。爽快感 もまたそうだ
  • 死や破壊の暴く力、、、暴かれるなにか、、、その辺りが関係していそうだ
  • そして このリンクは、僕らの暴力と非暴力につながっている、間違いなく
  • 死と破壊が 単なる商品ではないような、どこかギリギリの場所・・・
  • メディアと情報と資本制の現代において、そこを見極めなくちゃいけない

2006年6月26日 (月)

-30kg !!

映画 『 マシニスト 』 をレンタル。

クリスチャン・ベイルの激ヤセ ( -30kg !! ) で話題になった作品。 映像の美しさも特筆に価する。

とっても好きな映画だ。

大傑作ではないけれど、監督とスタッフ、役者たちの気合の入り様がとてもよい。 こういうのだったら、お金を払っても観てみたい、と思わせられる。

観なおしてみて、 「 あぁ・・・ここにこんな伏線が・・・ 」 という作品、僕は大好きである。 しかし、そういうのは大概 意気込みだけが空回りしていて、観ていていやな気分がするものだ。

その点、この作品は ゆっくり二度目が楽しめた。 「 はいはいはいはい、、、なるほどね 」 ってなもんだ。こういうのは、監督や編集の 「 才能 」 だと思う。

サスペンスを見慣れている人には、結末はすぐわかるだろう。まぁ言えばオーソドックスな落とし方である。感情移入もどこにしたらいいのか、わからない。 また、いまの若手監督の作品らしく 「 なんでもかんでも上手すぎる 」 のが、鼻につく人もいるかもしれない。

しかしまぁ そういうのは言いっこなしだ。

とりあえず観たらどうかなぁ、、、と思います。

<メモ>

  • この映画、かなりヒットしたそうですね。バタバタとしたスピード感をもたされば、もっともっとヒットしただろう。 もちろん そんなのはゼンゼン必要ないんですけどね
  • 睡眠不足のときは 避けた方がよい映画。ゆぅったり・・・ゆぅったり・・・してます
  • ヒッチコックやポランスキーを思い出すという こちら の感想、僕も同じです
  • アマゾンの 「 カスタマーレビュー 」欄、 private231 さんの評 は正鵠を射ていると思います・・・が、なぜか現時点で、「 参考になった 」 投票でゼロ票。これはいただけません

2006年6月23日 (金)

そうしたところのやるせなさ (2)

前便 からの完全連続投稿です ( もともと一つの文章を二つに切りました )

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榊原氏のような考え方、行き方に 親近感をおぼえる人は多かろう。 ( 本ブログの読者はそうでもないだろうが、なんと言っても 多かろう!!)

一方、小川忠さんのスタンスは これとはかなり違う。

日本から帰ってきた多くのインド人の友人が、日本で受けた小さな親切や高潔なプロ意識、責任感の強さについて語る。 そうした数字で表せない財産を日本社会はまだまだ蓄積している ( 214頁 ) 。

日本社会について語った文章だが、ここで言う 「 数字で表せない財産 」 なるもの、これへの感性の高さこそが、小川さんの本の要になっている。

ちなみに、榊原氏の本は、小川さんの別の論文 ( IT関連のもの ) を引用しているが、小川さんの 「 優しさ 」 、あるいは 「 人間くささ 」 には言及していない。

どちらが良い悪いではなかろう正解、不正解ではなかろう

ごく図式的に言ってしまえば、要は バランスの問題だ。

たとえば、 高橋英彦 『 インド発、国連職員の日々 』 ( 日本放送出版協会,1995年 ) は次のように書いている。

国や地域の経済規模の拡大が問題解決の万能薬ではないにしても根幹を癒す特効薬であることは疑う余地がない。わが国のような先進工業国の政府援助とともに企業の投資や技術移転がこの分野で多大の貢献をしてきたことも間違いない。

 その一方、それだけでは真の解決にはならない問題が山積しているのも事実である。平和と社会治安の維持、人口問題への対応、人権の尊重、教育レベルの向上、健康への配慮などについて官民による国際協力が求められているのだ。 ( 14頁 )

実際、優等生的な正解があるとしたら こんなものになるだろう。

<経済開発 → 社会開発 → 人間開発 → 開発倫理> という 例の国連的軌跡を想起のこと

そして問題は、そうした諸要素のからみ合いのなかで、 「 わたし 」 はどこに立って、なにをするか、である。 ここにこそ、この種の問題 ( 終極的には 開発倫理 の問題 ) の根底がある。

私 近藤はどうだろう・・・・・・

上記バランスのイメージを保ちつつ、小川さんの 「 ヒトくささ 」 に深ぁぁい共感をおぼえる ――

今の僕のスタンスは 到底!!そうした域を出るものではない。

あまり ミットモヨイものではないが、正直 そんなものである。長々としたエントリを書いたが、結論はそんなものである。

それでも、この問題には ずっと真剣に悩んできたし、これからも悩んでいきたい、と思うのだ。

<おわり>

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<メモ>

  • 「 開発倫理 」 で日本語頁をググってみたが、驚くほどヒットしない。専門的な頁は皆無!!こんなにも認知されていないコトバだったとは・・・
  • 一方、 「 development ethics 」 をフレーズでググってみたら、7万件オーバーのヒット。この違いは大きい!!

2006年6月22日 (木)

そうしたところのやるせなさ (1)

インドにはたくさんの 貧困や困窮 がある。もちろん日本にもあるが、インドには おそらく質量ともに数段きびしい 貧困や困窮 がある。 だから、日本人がインドに行くということは、別の種類の、普段は気づかないままでも許されるような種類の 貧困や困窮 を目の当たりにするということだ。

そしてもちろん、インドは貧困と困窮 だけ の地ではない。 素敵なことや素晴らしいこと が これまたたくさんある。

そんなインドとちゃんと付き合おうとするのは、思いのほか 大変である。

哀れみでも蔑みでも、讃えでも侮りでもない立場 ―― むしろ、自分が 「 誰 」 なのかを 考え直させられる体験 ―― それがとても大事なのだと思う。

インドだけではないだろうが、いわゆる 「 第三世界 」 についての見聞とは、 そうしたところのやるせなさ が大事なのだと思う。

とまぁ、、、こんな書き出しをもってきたのは、、、

こちらのエントリ で紹介した 小川忠インド 多様性大国の最新事情 は、とっても優しい本である

と言いたかったから。

この種の問題に 「 正解 」 なんてないだろうが、小川さんのこの本は 彼なりに出したひとつのスタンスが、優しい優しいそのスタンスが 明確にあらわれていて、感銘をうける。

それがどういうものかを言う前に、 もうひとつ別の 「 明確なスタンス 」 を紹介しておこう。 対照例を先に示しておこう、というわけ。

すなわち、、、

こちらのエントリ で紹介した 榊原英資インド IT革命の脅威

「 明確なスタンス 」 という点では こちらも何ものにも負けてはいない。

この本 ( 著者は榊原氏だけとなっているが、実際には 榊原氏を含め3名の人がこれを書いた ) のスタンスは これ以上ないくらいスッキリしている。

インド国民経済の浮揚、 「 パイ 」 の最大化、マクロ経済指標の改善、滴下理論、雇用創出、教育の推進、先端科学技術、金融、、、 古典的な近代化論 の実際的効用を 「 情報化 」 「 ネットワーク化 」 が進む現代において主題化すること

これが著者らのスタンスだ。

ここから容易に想像されるように、そこには ヒトたる 「 わたし ( たち ) 」 が

・・・ 念のために申し上げておきますが、ここでの 「 ヒト 」 とは、文学部的/人文諸学的な感性によって想像されるような 「 ヒト 」 のことです。 そんなものがどこまで重要なのかとの異論はございましょうが、ともあれ、榊原氏の本には そうした意味での 「 ヒト 」 が

登場することは ない

政策を提言したり策定したりする者、企業活動に参与したり賛同したりする者 ( 引退組、予備軍を含む ) ―― そのような 「 仕事 」 をこなす人、あるいはそういう仕事人が関心の的としている人口 ―― これらが、この本でいう「 わたしたち 」 であり、また 「彼ら 」 である。

そして 「 日本 」 とは、かつて アジアの雁行型発展の先頭をきっていたのが、やや後退しはじめたという、そのエコノミーである。

そうした 「 私たち 」 「 日本人 」 にとって、インドは あらたに選択されるべき外交・貿易上の戦略パートナーである。 インドの 貧困や困窮、素敵なことや素晴らしいこと に、この本が触れないということではない。しかし、それはごくごく周辺的な言及にとどまる。

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<長くなったから、ここで切ります。次便につづく>

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<メモ>

  • 本便に関連するのは こちらのエントリ です
  • ニュースによれば、榊原氏は 2006年4月から 早稲田大学インド経済研究所の所長に就任している模様 (→ こちら ) 。しかし、同研究所のHPがどうしてもみつからない

2006年6月21日 (水)

宇宙開闢の歌

こちらのエントリ につづけて・・・

辻直四朗インド文明の曙 』 ( 99-100頁 ) よりの引用

[ 注: ルビは一部を省略、他を括弧内に示した。ママの括弧もある。漢数字はアラビア数字に変えた ]

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宇宙開闢の歌 ( 10・129 )

1 その時 ( 太初において ) 、無もなかりき、有 ( う ) もなかりき。空界もなかりき、そを蔽う天もなかりき。何物か活動せし、いずこに、誰の庇護の下 ( もと ) に。深くして測るべからざる水 ( 原水 ) は存在せりや。

2 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識 ( 日月星辰 ) もなかりき。かの唯一物 ( 創造の根本原理 ) は、自力により風なく呼吸せり。これよりほか何物も存在せざりき。

3 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。一切宇宙は光明なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつありしかの唯一物は、自熱の力によりて出生せり。

4  最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意 ( 思考力 ) の第一の種子なりき。聖賢らは熟慮して心に求め、有の親縁を無に発見せり。

* 後の文献と比較して考えれば、展開の順序は、唯一物 ―― ( 水 ) ―― 意 ―― 意欲 ―― 熱力 ( 瞑想・苦行により体内に生ずる熱で、創造力をもつ ) ―― 現象界 、となる。

5 彼ら ( 聖賢 ) の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者 ( 能動的男性力 ) ありき、展開者 ( 受動的女性力 ) ありき。自存力 ( 本能・女性力 ) は下に、衝動力 ( 男性力 ) は上に。

6 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言し得る者ぞ。この展開はいずこより生じ、いずこより来たれる。諸神は宇宙の展開よりのちなり。しからば誰か展開のいずこより起こりしかを知る者ぞ。

7 この展開はいずこより起こりしや。彼 ( 最高神 ) は創造せりや、あるいは創造せざりしや。最高天にありて宇宙を監視する者のみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。

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超有名な詩歌ですが、なかなか全文を目にすることもなかろうと思い、ご紹介しました。

辻先生 の解説に曰く

宇宙がいかにして生じ、誰に創造されたかの問題は、次第に [ リグ・ヴェーダの ] 詩人の関心をひくにいたった。 最初は建造或いは出産になぞらえて神話的に扱い、その業績をもろもろの神格に帰して讃歎するにとどまった ( 91頁 ) 。

時代の進むにつれ、宇宙創造の勲業を一身に担い雑然たる神界に君臨する最高神、或いは、万有の本源として宇宙開闢の初頭に立つ唯一絶対の根本原理を探求する傾向が強まった ( 92頁 ) 。

そして、上の讃歌は、 「 宇宙の展開を、絶対の唯一物、中世の根本原理に還元し、創る神と創られる世界との対立や間隙を一掃し、リグ・ヴェーダの哲学詩人の到達しえた最高峰を示している 」 ものとして、高く評価されています ( 98頁 ) 。

2006年6月20日 (火)

パクチーがいっぱい

僕には臭覚がない。においを感じない。10年前、脳外科手術をした後遺症だ。

突然 なにを言い出したのか というと・・・

においがないから、南アジア料理の本当のよさがわからない、ということ。

「 南アジア料理 」 = いわゆる 「 インド 」 料理

そんな僕の話ということで 了解のうえ 聞いていただきたいのだが・・・

最近 はじめて皆さんに 心底お勧めできる 「 インド 」 料理屋 をみつけた。

ダバ・インディアこちら @ぐるなび

「 ダバ 」 はおそらく 「 ダーバー 」 。街道沿いの村の食堂、、、みたいなのをイメージさせる言葉だ。

南インド料理屋 である。

インドや南アジアに詳しい人なら皆 口をそろえることと思うが、日本人に合うのは 絶対!!南インド料理である。

ふつう日本で 「 インド料理 」 というと、ナーンとかタンドゥーリー・チキンとか、みな北インドのイスラーム的料理ばかりだろう。これは油を中心とした料理で、日本人の胃腸にはどうも重い。実際、僕もデリーなどで 夕飯に北インド料理を食べると、ほぼ100%の確率で その夜、胃痛になやまされる。 見事なぐらい 毎回

南インド料理は 水をベースにしている。主食は米だ。だから、日本人にも食べやすいのだろう。

しかし、日本にはほとんど 南インド料理屋がなかった。 「 アジャンタ 」 はあったが、もうひとつだった。 ダバ・インディア は本当にいい線いってる。 現地の味にそっくりだ

ぜひ一度 おためしいただきたいなぁ、と思う。

<メモ>

  • パクチーがいっぱい 入っている。嫌いな人も多いだろう。パクチー抜きを注文するとよい
  • マサラ・ドーサが本当においしかった
  • ベジ・ミールもいけてた
  • 南インド人 ( 多くは インド人だろう ) のお客がいっぱいいる。そこからも、この店のレベルの高さがわかる。見たところ、この手のお客さんたち、フォークとナイフでお上品に食べていた。しかし、僕らはそんなこと気にしないで、ばしばし!!右手で食べてほしい。ちょっと下品なぐらいガッツクのが、一番おいしい食べ方だ、と思う
  • 店内はとてもキレイ。 「 ブルー・シティ 」 ジョードプールをイメージしたというが、どっちかっていうと、メキシコ料理屋みたい
  • それから、床がやたらとすべる。高いヒールをはいた女性は、どうぞお気をつけて
  • 食べ物屋の紹介 ・・・ 前便は こちら

2006年6月19日 (月)

宗教復興とグローカル化 (3)

前便は こちら

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グローバル化理論について 勉強不足、、、わからない、、、 と書いてきた。

しかしもちろん、何もわかっていなかったわけではない。

前便に書いた 三つのQ は、典型的な ( 大方 単純素朴な) グローバル化理解をなぞったものだ。 つまり、なぞれる程度なら、僕にも僕なりの理解があったのだ。

その他にも、少なくともふたつ わかっていたことがある。

  1. グローバル化は画一化ではない。 ローカルなものは かえって活性化される。 そして、こうした二局面に注意をうながすため、 「 グローカル化 」 というコトバが提出された。
  2. グローバル化は 国民国家を 必ずしも弱化させない。 前便で 「 Q: グローバル化は国民国家を 相対的に弱化する? 」 と書いたのは、わざとである。 また、前便<メモ>に記した 粟津さんご紹介の議論も、 ほんとうは 知らなかったわけではない。

僕が本当にわからなかったのは、 

ローカルを活性化し、国民国家を温存する過程 を 何故に わざわざ 「 グローバル化 」 と呼ばなくてはいけないのか・・・・

その意味で、それは 近代化 ・ 国際化 ( internationalisation ) の延長 にすぎないのではないか・・・・

ということなのでした。

ここが どうしてもスッキリしなかった・・・ のだけど、6/9の研究会 では そこに風穴をあける視角を得ることができました。

<つづく>

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<メモ>

長い前置きは 本便でおしまい。

ひっぱりすぎ、とのご感想もありましょうが、ともかく 僕の ウニャウニャ感覚 をお伝えしないかぎり、 「 新しい発見 」 というときの 「 新しさ 」 がお伝えできない、と思ったのでした。

そのため、うっとぉしい程の連続投稿になりました。すいません。

いよいよ!!次便から 僕の得た新しい知見、、、をご紹介していきます。

2006年6月18日 (日)

ヴェド・メータ 『 ガンディーと使徒たち 』

日本女子大学で ガンディーと非暴力 についての講義をもたせていただいている。 (→ こちらのエントリ 参照 )

そこで先週、次のようなプリントを配った。

本ブログにTBをはっていただいている 植村昌夫さん の翻訳本を、ぜひ紹介したいと思ったからだ。 

こちらからもTBをはらせていただきます> 植村さん

プリントには、この訳書を読むにあたって注意してもらいたい点を、次のように示した。

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ヴェド・メータ 『 ガンディーと使徒たち: 「 偉大なる魂 ( マハトマ ) 」 の神話と真実 植村昌夫訳,新評論,2004 ( 原1976 ) 年,20頁より.

[ 注: 同上書の表題中 「 マハトマ 」 は 「 偉大なる魂 」 にふられたルビである。本ブログにルビ機能がないので、括弧内にて示した ]

ガンディーが残した数万の著作と演説に展開されている彼の思想の核心は、貞潔と清潔を通じて、人間のあらゆる精神的肉体的欲求と機能の統御を通じて、個人と社会の衛生の追求を通じて、神を求めることであった。

[以下、近藤のことば]

※ 上の引用文について

  • ガンディー思想の全体を非常によくまとめた文。 これだけ手際よいまとめを、私はほかに知りません。 ひとつひとつの言葉 ( 概念 ) をよく吟味しながら、理解するとよいと思います。

※ 上の訳書について

  • この翻訳は、とてもよくできています。 お勧めの一冊。
  • ただし、翻訳はどこまでも翻訳です。 たとえば、上の引用分中で 「 著作 」 とあるのはミスリーディングです。 原語を確認していませんが、おそらくは writings かなにかでしょう。 しかし、ガンディーには著作と呼べるものは1冊しかありません。 2部に分かれている自伝を入れても3冊です。 writings は「書き残したもの」、さらにその後の 「 演説 」 は 「 語ったもの 」 ぐらいの意味にとるべきでしょう。
  • また、 「 衛生 」 という言葉がありますが、これもミスリーディングです。 こちらも原語を確認していませんが、おそらく hygiene や sanitation ではなく ( いずれも医学的な言葉 ) 、 health でありましょう。 だとすれば、それは単なる 「 衛生 」 なのではなく 「 健全さ 」 という意味ももっているわけです。
  • 他にもあります。 「 貞潔 」 はブラーフマーチャリア Brahmacharya 、すなわち性的禁欲を中心にした禁欲の行全般を、そして 「 清潔 」 は浄 'subha; 'suddhi 、すなわち霊的にケガレのない状態を、それぞれ含意するでしょう。 つまり、古代から連綿とつづく南アジア思想を背景にして、これらの言葉は読まれないといけない、ということです。
  • もう一つの注意点。 この本は、ガンディーとその 「 使徒たち 」 の、隠された暗部をあばく著作です。
  • これだけ読むと、ガンディー思想というよりもガンディー 「 現象 」 というものが、インドでなぜあんなにも急速に衰退してしまったのか、よく分かります。 また、ガンディーという人が取り組んだかなり独自な、悪く言えば 「 奇人的な 」 行動が分かります。
  • しかし、もちろんガンディーはそうした面だけで尽くされません。 彼の人生と思想の偉大さとの対比のなかで、この本は読まれるべきでしょう。

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以上が 学生さんにお配りしたプリント ( 一部 ) でございました。

<メモ>

ガンディーについての前便は こちら

2006年6月17日 (土)

ヤマとヤミーの対話

こちらのエントリ で紹介した 辻直四朗インド文明の曙 (101-2頁) より・・・

リグ・ヴェーダの対話讃歌 のひとつ。 オモシロ。翻訳も秀逸。七五調。

[ 注: ルビは一部を省略、他を括弧内に示した。ママの括弧もある。漢数字はアラビア数字に変えた ]

「 ヤマ 」 とはもちろん 閻魔大王のことである。 (→ こちらこちら 参照 )

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ヤマとヤミーの対話 ( 10・10 )

ヤマは死者の王、死の道の開拓者。本篇は双生児ヤマ ( 語義は 「 双生児 」 ) とヤミー ( その女性形 ) との対話に託し、人間の繁殖の起原に触れつつ、詩人は不倫のそしりを避けて結末をあいまいにしている。

1 ( ヤミー ) 遙けく遠き海越えて、去りし友 ( ヤマ ) をも動かして、友の務めにいざなわん。地界の末を思いつつ、賢き者は父のため、孫生み育て残すべし。

2 ( ヤマ ) 友の務めといいながら、同じ血筋のはらからが、妹背 ( いもせ ) 契るはなが友の 許さぬ願い、おそろしの アスラの子ら ( ヴァルナ神の配下 ) は勇ましく、天を支えて地を見張る。

3 ( ヤミー ) この世に人は汝 ( な ) れ独り、跡目望むはわれのみか、神の心もまた同じ。かたくな捨てて 汝が心、われになびけて背の君の 深き契りを結べかし。

4 ( ヤマ ) かつてためしのなきことを、いかでか今に許すべき。おもてにまこと語りつつ、かげにひがごと囁くや。 われらが父はガンダルヴァ、水の乙女を母とする、これぞこよなきわが由緒。

 ヤマの父は普通ヴィヴァスヴァットとされる。水の乙女は、半神族ガンダルヴァの配偶たる水精アプサラスを指す。

5 ( ヤミー ) われらが胎 ( はら ) にあるうちに、すでに夫婦 ( みようと ) と定めしは、あらゆる形造りなし、生気をこむるトゥヴァシュトリ ( ヤマの母サラニウーの父 ) 。誰が違 ( たが ) わんその掟、神も許せし妹背仲、天さえ地さえ知るものを。

6 ( ヤマ ) この世の始め誰か知る、誰が見たりし、今ここに誰か告げ得んその秘密。ミトラ、ヴァルナの神の則 ( のり ) 、気高く浄く世をしるを。みだらの妹よ、 神の子を 言葉たくみにいつわるや。

 第2詩節に見えるアスラの子ら。

7 ( ヤミー ) ヤマにこがるるこのヤミー、つもる思いを添伏 ( そいぶし ) の、なさけの床に契りなん。心も身をもまかせては、廻る車の輪のごとく、仲むつまじくたわむれん。

8 ( ヤマ ) 神のめつけは束の間も、休むことなく見めぐりて、眼 ( まなこ ) を閉ずるひまもなし。みだらの妹よ、われをおき、あだし男にいいよりて、廻る車の輪のごとく、仲むつまじくたわむれよ。

9 ( ヤミー ) 夜と昼との分かちなく、恋しきヤマにかしずかん。くまなく照らす日の神の眼もしばしくらまさん。見よ天地 ( あまつち ) も妹背仲、ヤマの恥じらう契りさえ、いとわず堪えんこのヤミー。

10 ( ヤマ ) 聞くもうたてきはらからの 恥ずべき契りいとわざる 末世もいつかめぐりこん。汝れが腕 ( かいな ) に牡牛なす 男 ( お ) の子抱きしめわれをおき、あだし男と契れ、妹。

11 ( ヤミー ) 弱き乙女をいたわらず、情を知らぬ兄やある。女子 ( おなご ) の務めゆるがせに、血筋ほろぼず妹やある。乱れ心も恋ゆえに、くどく言の葉ききわけて、妹背の契り結べかし。

12 ( ヤマ ) 妹背の契り結ぶまじ。おのが妹 ( いもと ) を妻とせば、われあしざまにそしられん。恋のうま酒われをおき、あだし男とくみかわせ、兄はかなえじ汝が願い。

13 ( ヤミー ) 心おくれしヤマあわれ、汝れが心の深なさけ、求めて得ねばままよまま。馬の腹帯、蔓草 ( つるぐさ ) の、木にまくごとくあだしめが、汝れのからだを抱きしめん。

14 ( ヤマ ) 離れじものと蔓草の、木にまくごとく汝が寄れば、あだし男は汝れを抱く。おくるなさけの露しげみ、かえすも同じ深なさけ、たのしき妹背契れかし。

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以上です。 オモシロですよねぇ・・・

2006年6月16日 (金)

宗教復興とグローカル化 (2)

前便は こちら

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グローバル化理論について、僕がどのように グニャグニャした 感覚をもってきたか、当日の発表レジュメから 結論部 ( 一部 ) を 補足のうえ 再録してみましょう。

もちろん!!そうしたグニャグニャ加減は、僕の勉強不足 のせいなわけで・・・

あえて!! 薄っぺらな理解 を披瀝してみた理由は、前便に書いたとおりのところです。

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Q: グローバル化は国民国家を 相対的に弱化する?

A: インドではそうでもない

インドにおいて ネイションと国家はいずれも 最重要の制度=実在である

  • ナショナリスト運動のすえ建国されたインドにおいては、ナショナリズムと国家への忠誠心は 支配的な政治文化である
  • インドでももちろん 「 グローバル化 」 は進展しているが、そのプロセスにおいては 実際上も政策上でも 国家の介入と主導が不可欠である

Q: グローバル化は 「 トライバル 」 な、あるいは 「 エスニック 」 な紐帯を強化する?

A: インドではそうでもない

独立インドの政治文化において正統的なのは、 「 民族 」 としてのネイション理解

  • ネイションを 「 国民 」 と理解しうる ( しようとする ) リベラルの立場は、インドにももちろんある
  • もちろんあるが、きわめて少数。 都市インテリの 「 左派 」 に限られる
  • つまり、インドの公共性は 全然リベラルではない

私的領域はもちろん、公共領域においてすら 宗教は尊重されてきた

  • 独立インドの世俗化は 表面的なものにとどまった

インド国民の私的、公的生活は、大半、地縁と血縁でがんじがらめ

独立インドでは ずっとそんなんだったのだから、いまさら グローバル化でどうのこの、グローカル化でなんだかんだ、、、と言われたって、ピンとこない

Q: 遠隔地ナショナリズムが とくに活性化した?

A: そういう面はたしかにある。 しかし・・・

ヒンドゥー・ナショナリズム理解にとって、そして
独立インドの政治経済・社会の変容過程の理解にとって
それがどれほど重要かは 大いに疑問

   ↓

むしろ そんなんじゃなくて、、、

  • 低開発、不平等、不正に満ちたインドの状況
  • ナショナリスト国家たる縁起
  • 宗教、エスニシティの変わらぬ影響力

これらが 独立インドの政体HNの勢力拡大・維持 を説明する

   ↓

近年の情報化/ネットワーク化としてのグローバル化は そこに付け加わった新ステージではないのか・・・

  • 例えば、IT開発にきわめて積極的なインド人民党
  • しかし、これはIT企業の大成長期に たまたま インド人民党が政権与党であったため
  • 90年台初頭の経済自由化の開始期には 「 反グローバリズム 」 が強かった
  • 今や その力関係は完全に逆転
  • インド国民国家の発展が第一目標であり、グローバル化がそれに有効なら、それを追求する ―― ヒンドゥー・ナショナリストとは 結局 そういう人たちなのだ

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とまぁ こんな感じで

既存のグローバル ( グローカル ) 化理論 を インドとヒンドゥー・ナショナリズムの事例に、どういう風につなげたらいいのか、、、

ぜんぜん見通しが立っていなかったわけです。

<つづく>

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<メモ>

  • もうお一人の発表者だった粟津さんのブログ、 こちらのエントリ ご参照
  • そこでご紹介いただいた訳書では、僕の ウニャウニャした疑問など、綺麗さっぱり 議論されずみ ということのようです。
  • ねっ!! だから 勉強不足だ って言ったでしょ ( 恥 )

2006年6月15日 (木)

駄作

映画 『 ダ・ヴィンチ・コード 』 を観た。 駄作 だ。 眠かった。 実際、ねた。

もぉ これについて僕が言うべきことはない。

小説は読んでないが、もともと期待ゼロ。 こちらこちら ご参照ください。 

<メモ>

「 同志社大学 神学部 オープンコース 」 の 公開講演会 「 『 ダ・ヴィンチ・コード 』 を読み解く 」 は面白かった。 小原克博先生 のブログ、 こちらのエントリ からお入りになるのがお勧め。

4冊目の現代インド本

去る 6月2日、 「 オモシロ現代インド本 」 というエントリを立てた。

昨年10月27日、 「 お勧めの現代インド本 」 というエントリを立てた。

このリストへの追加として、、、

単に 「 オモシロ 」 ではない 「 お勧め 」 現代インド本として 次の本を ご紹介。

小川忠インド 多様性大国の最新事情 角川書店 ( 角川選書 ),2001年.

聞くところでは、そっち業界では 「 オガチュー 」 の名でとても有名だという著者。 他にも著作はあるが、上の本は とくによいなぁ、と思った。

気づいたことを 列挙しておこう。

①  Japan Foundation のデリー駐在所所長として、「 印日文化交流 」 の達成、課題、見通しを 等身大に描いている 。 「 ならでは 」 の話しが たくさん聞ける。 いずれも興味深い。

②  自分の体験と印象を 研究書など 「 大学型知識 」 とすり合わせている。 ( 実際、本書の大きな部分が、有名なインド人学者の研究の要約で占められています ) アカデミズムがいつも優秀・・・なんてことは 決して!! ありません。 しかし、真剣に南アジアに向き合おうとしている地域研究者のことばは、もっと尊重されてよいと思う。 インドのように 先行理解 ならぬ 先行誤解 がたんまりとある地域を知ろうとするときは、なおさらそうだ。 その意味で、 オガチューさんのとった行き方は とても有効だ。

③  インド人としてインドに生きることの大変さを、「 かわいそー 」 という同情でも、 「 やっぱりねぇ 」 という蔑みでもない、 微妙な立場から できるだけ そのままに抉り出そうとする。 オガチューさんが立ちえた場所についていえば、その試みは十分に成功している、と評価できる。

④  そしてそこから、現代日本の姿を 批判的に とらえなおす。

以上、4冊目の現代インド本 紹介でした。

2006年6月14日 (水)

開発と開発学

開発と開発学 に関心がある

と 公言しているので、それがどういったものか、ときに問い合わせを受ける。

専門家ではないので、包括的な答えをあたえることはできない。 けれど、たとえば

http://www.fasid.or.jp/index.html

をご覧になると、開発学の方向性のひとつがわかると思う。

ただし!! よくよくご注意いただきたいのだが、、、

きわめて自己反省的な この分野は、多様な方向へと拡散している。 それらのベクトルは、互いにクリティークをくりだしあいながら、茫漠としたひとつのまとまりを なんとか保っている。

その知的努力は 本当にすごい。

現場とアカデミズム、官と民と学、ローカルとナショナルとグローバル、人文諸学と社会科学と理系学問、などなどなど、、、

日本の大学関係者がいま取り組みつつある 多くの重複領域は、この業界では むしろスタート地点である。

そんな見方も ありだ。

2006年6月13日 (火)

分厚い交渉経験

佐藤啓介さん のブログ 「 pensie_log 」 こちらのエントリ を介して、 内山田康先生 のHP 「 人類学的断片... 」 にたどり着いた。

こちらのサイト、頁数は少ないのだけど、いずれも興味深く拝読した。

とくに面白かったのは、 田中雅一先生 の著作をとりあげた 書評論文

ところで、、、

人類学者に対し 僕はつよいコンプレックスをもつ。

諸般の事情で、フィールドにどっぷり漬かりこんだ研究が、これまでできていない僕は、インド人の生活との 分厚い交渉経験 をもつ方々が うらやましくて仕方ない。

たとえば、上記書評論文のなか、 「 私はこのような経験から、キリスト教徒やイスラーム教徒に比べるとヒンドゥー教徒のほうがよその宗教に対して開放的であるという著者の主張には賛成しない 」 ( 13頁 ) なんて立場表明の、なんと力強いことか・・・

インド・ジモティの生活感覚 をより深く強く了解できる、人類学者をはじめとする方々――そうした方々の知見を拝借しながら、 また それを損なわないように、僕のささやかな経験を加味して、相当気を使って インドについて言ったり書いたりする、、、それが 僕の南アジア研究のスタンス である。

こうしたスタンスは 特殊であるからこそ、重宝がられたりもするが、自分としては やはり満足できない。 いつか マイ・フィールドをもつ日がくるといいなぁ、、、

<メモ>

佐藤さんのブログはもちろん、宗教哲学系として 疑いなく 日本最高峰のもののひとつであるからして、いつも慎重に読んで 勉強させていただいている。

お世話になってます> 佐藤さん

2006年6月12日 (月)

宗教復興とグローカル化 (1)

前便 からの続報です。

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グローバル化 ( グローカル化 ) 理論 が、、、いつも引っかかっていた。

大事なのは分かるけれど、インドのこと 、とりわけ ヒンドゥー・ナショナリズムのこと をどうしてもうまく説明できない、、、と感じていたから。 

現代世界の都市インテリ・エリート について それはよく当てはまるだろうけど、、、 「 第三世界 」 については どうなんだろう、、、 そんなものが 「 いまの、これからの世界 」 の姿だと言われたって、どうもピンとこない、、、理論の立て方が間違っているのか、、、「 グローバル化/グローカル化 」 なる概念自体がぐにゃぐにゃなのか、、、いやいや、僕の理解が間違っているのか、、、一体どういうことなんだろう、、、

そんな感覚をもっていた。

これは7年前からの感覚であった。 「 宗教と社会 」 学会 の第7回学術大会 ( 1999年 ) でのシンポジウム 「 グローバル化とアイデンティティ・クライシス 」 で発表をしたとき以来のことだ

(→ こちら より 「 過去の学術退会 」 参照。ただし、大会の詳細は未記載 )

あの時は、既存のグローバル化理論に対する 僕の強烈な違和感 を、上手に伝えられなかったように思う。 だからこそ、その後 グローバル化論をぜんぜん勉強しなかった。いやな気分がして、意図的に避けてきた。 はっきり言えば、、、トラウマになっていた。

今回、 グローカル化研究会 での発表を引き受けたときも、だから グローカル化について論じるつもりは 全然なかった 。 インド内在的な文脈の紹介をして、質疑応答のなかで なにか出てくればいいなぁ、、、と思っていた。 もぉ、参加者の皆さんだよりだぁ、、、と。

しかし、レジュメを作っていくなかで、 「 それでは あんまりだ 」 との思いを強くし、 思い切って この不勉強なままの違和感 を吐き出すことに決めた。

僕はもぉ、、、こんなにも ワケワカンナイ 状態におちいっております。

そんな告白をするつもりで、 「 宗教復興とグローカル化 」 という大テーマを掲げることにした。

そしたら この目論見は大当たり。 新しい視点を 僕は得ることができた。

<つづく>

2006年6月10日 (土)

本当に新しい発見

昨日 グローカル研究会で発表をさせていただきました。 (→ こちら

レジュメが出来上がったのが 朝の7時半。 2時間だけ寝て、八王子に急行した。

平日の午後、雨のなかだったにもかかわらず、来てくださった方々には 心よりお礼を申しあげたい。 ありがとうございました。

また 「 グローカル研究会 第4回研究会 」 だけだと思い込んでいたが、 「創価大学社会学会 2006年度 第1回講演会 」 も兼ねていた。

そういえば、係りの加藤さんから その旨ちゃんとお知らせいただいていたような気がする。 それなのに、うっかり失念。 関係者の皆さま、大変失礼しました

発表自体は 正直、これまで何度かやったものの焼き直しであって、 自分としては ほとんど達成感がない。

学生の皆さんは 勉強になった、とおっしゃってくださっていた・・・ それはそれでよかったが、集まっていただいた先生方には 面目ない気持ちでいっぱい・・・すいません・・・

しかし、私個人についていわせていただければ、今回の研究会で 本当に新しい発見 があった。 会場からのコメントを受けて、今までどうしても上手く処理できなかった 「 グローバル化 」 論について、新しい方向性がみつかったのである。

次便以降、 そのことを書いていきたい。

とりあえずのお礼とお詫び、そしてご報告でした。

<メモ>

Hさんが来てくれていたのは、本当にうれしかった。 なんでも本ブログで研究会のことを知り、わざわざ 「 あの 」 八王子キャンパスまで来てくださったそうだ。 ありがとね。スペイン 勝つといいねぇ・・・

建設プログラム

こんなサイトがある (→ こちら )。

ガンディーの言葉を集めた ある小冊子 『 建設プログラム 』 の全訳だ。

こちらのエントリ で 僕は ガンディー思想を4点にまとめた。 「 建設プログラム 」 とはその第2点 ( 文明論 ) と 第3点 ( 社会改革 ) に対応するものである。 自らの社会活動の総称として 彼自身が選んだのが 「 建設プログラム 」 という名である。

ちなみに 非暴力闘争は 「 サティヤーグラハ 」 と名づけられた。

「 サティヤーグラヒー 」 とは 「 サティヤーグラハを行なう人 」 の意である。

こうした資料の全訳が ネットで読めるというのは、なんともありがたい。翻訳にちょっと注文があるけれど、 「 仮訳 」 ということであるから、ヘタなツッコミは よす。

興味のある方も ない方も ぜひお読みいただきたい文章です。

2006年6月 9日 (金)

ヴェーダとIT企業

思うところあって、新書ばかり 読んでいる。

こちらのエントリ で紹介した次の本、12~3年ぶりに読み直している。

  • 辻直四朗インド文明の曙 』 岩波新書,1967年

辻先生、その 「 まえがき 」 に曰く

インド研究のいかなる時代、いかなる分野に志すにしろ、関係の粗密の程度に従い、多かれ少なかれヴェーダの知識を欠くことは許されない ( i 頁 ) 。

まったくその通り、、、と痛感する。 とくに僕は、ヒンドゥー・ナショナリズムなんてのをやっているので、南アジア古典の知識・教養の不足 に しばしば心底悩まされる。

今さら 印文印哲の研究者にはなれないので、 独学で学んだサンスクリット超初歩 を足がかりに、少しでも知識を仕入れていくしかない、、、 大変ではあるけれど、これはとても楽しい作業だ。

さて、辻先生の言葉が とくに心に残ったのは、並べて読んでいるもう一冊が、たまたま次の本であったからだ。

  • 榊原英資インド IT革命の脅威 』 文春新書,2001年

90年代末以降のインドIT産業の振興ぶりは、ここであらためて述べるまでもない。日本での注目も大だ。

この状況、インドに渡ってみて 肌では実感していたが、ちゃんと本で確認していなかった。そこで手始めに、まだ読んでいなかった同上書を手に取ったというわけ。

こんな本を読みながら、3500年前の祭式書のマントラに興奮したりもする―― ヴェーダとIT企業 、、、 これが僕の接しているインドだ。

2006年6月 8日 (木)

リンク

本ブログ 「 リンク 」 として 「 宗教研究 」 というのを新設しました。

「 Kuro-san: RSS Reader 」 と、そこにまだ網羅されていないサイトをいくつか。

いずれも力あるサイトばかり。勉強になります。

ブロークバック・マウンテン

最近 いくつか映画を観た。 ブログ更新自粛中にも。

ナイロビの蜂 』 、、、とってもよかった。 『 ホテル・ルワンダ 』 、、、やっぱりすごかった。 ともに アフリカ だってところが、なんともまた、、、

それぞれ感想を書いておきたいところだけど、、、ここではとりあえず

 『 ブロークバック・マウンテン

撮影、美術、キャスト、監督、脚本、、、もう完全に一体化しているのね。あれは映画のひとつの完成形だと思う。 完璧なんだよなぁ、とにかく、、、 職人芸というか、天才芸というか、ものすごいものを観ちゃったなぁ、と思う。 端々にまで注意が行き届いた、漏れのない映画。

テーマはもちろん 「 ゲイ愛 」 である。そこばかりが注目されがちだけど、途中からは そういったことはどうでもよくなってきた。 これはひとつの 「 愛 」 の映画である、と。

お気に入りの理由のもうひとつは、政治的に強烈なメッセージをもっていながら、それを一切語らない、描かない、、、というところだ。 そのメッセージとはすなわち、アジア人監督が今のアメリカでカウボーイの同性愛を描くという、その行為が表すところのことだ。 このメッセージは 一切直裁に描かれることがない。 それがまたシブい!!

まだ観てない方は ぜひ!! 今年最高の一本です。

<メモ1>

<メモ2>

『ブロークバック』 、Sさんと観にいった。Sさん、カウボーイ・スタイルで登場。昼日中の銀座でひっくり返った私。さすがですね。。。

2006年6月 7日 (水)

キレーーーに食べてほしいな

月心居 という精進料理店が 裏原宿、表参道側にある。

もう10年も前、最初に連れていっていただいたときは、まだまだお客がついておらず、予約も簡単にとれた。

こんなにすごいのに、どうして人気が出ないのかなぁ・・・

そんな疑問も いまや氷解。 連日満員 のご様子である。

店主の棚橋さん は常々 日本のお客さんが増えないことを嘆いておられた。 しかし、とくにここ半年、日本人の方がたくさんおみえになるようになった、とのこと。 健康志向から 訪れる方が増えた、という感触をもってらっしゃるらしい。

繁盛しているのは喜ばしいことだけど、 以前のように 店主とゆっくりお話しできなくなったのが とても残念。

食べ物は好みだから、どこのお店が一番というわけにはいかない。 まして 僕は料理評論家ではない。

そんなんでも、、、 東京で 僕が心底お勧めできる食べ物屋が二つある。 そのうちのひとつが 月心居 である。

学生さんや新卒サラリーマンが気軽に行ける値段設定ではないけれど、 機会をつくって ぜひに行ってほしいなぁ、と思うお店である。

<メモ>

  • 本当にお腹いっぱいになる。すごい量がでる。 できれば、朝食、昼食抜きで挑むべし。 ハンパナイから。
  • 精進料理の作法は知らぬが、大声での会話、喫煙はそもそもすべきではない。お酒は飲める。
  • 加えて、できれば 一皿一皿 洗鉢して キレーーーに食べてほしいな 、と思う。 それぐらいの価値があるし、料理とは 本来 そんな風にいただきたい、と思うからだ。
  • 月心居を僕は 料理店ではなく お寺だと思っている。 お客さんさえはければ、しつらえの仏壇にしっかり手を合わせるようにしている。 ( 仏壇の前にもお客さんの席がある )
  • とくに作法をとやかく言われることはないけれど、日本の精神文化と料理文化に対する こちらの心意気がためされる場所なんだと心得ている。 ( 店主が一々ためすわけではないですよ。僕が勝手にそう思ってるだけ )
  • これまで隠れ家的に使わせていただいてきたが、店主はテレビや雑誌に頻繁に出ておられるし、ネット上での情報もかなりある。 そこで 拙ブログでもご紹介することにしました。
  • なお、店主には こんな著作 もあります。近藤未見にて失礼。

2006年6月 6日 (火)

ガンディー思想

good エントリ 「ガンディー入門の決定版」 あわせてご覧ください
【追記 100201】

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「マハトマ」 の尊称で有名な M・K・ガンディー

僕の修士論文 実は ガンディー思想 の分析でした

その後 ガンディーの論文はあまり書いてはいませんが

まぁ 地道に研究だけはつづけています。

さて、ガンディーは膨大な量の言葉をのこしました

彼の全集は分厚いものが なんと 百巻 もでています

いまは DVD版あり

ネットでも全文読める 100131追記

この分量は世界最大級でありましょう

これだけデカくなりますと、なかなかその全容がつかめません

そこで 今の日本人の関心に沿って 全体をまとめあげるなら

次の4点になるかな、と 僕は思っています

  • 宗教思想
  • 非暴力
  • 文明論 (いわゆる開発問題など LOHASな関心)
  • 社会改革 (カースト問題など)

この四つに整理すると、僕らの頭には入りやすく、なおかつ

ガンディー思想をかなりもれなく網羅できると思います

なお、宗教思想を最初にあげたのは

彼の思想は もうどこまでも徹底的に 宗教思想なのだ

その意味では

「宗教思想」 だけが大項目で、あとの三つは中項目だ――

ぐらいに考えているからです。

【メモ】

(1)

今年度前期、日本女子大学で ガンディーの非暴力 についての講義をもたせてもらっている。 後期には、世田谷市民大学で 同様の講義をもつ予定。 ガンディーの話をさせてもらえるのは、本当にうれしい。

(2)

後便 「ガンディー入門の決定版」

こちらもあわせて ぜひに! ご覧下さい 【100131記】

2006年6月 5日 (月)

【ビブリオ】 インド哲学チョー入門

九州大学のインド哲学史研究室のサイト、、、 「 新入生のための研究室ガイド 」 というページがある (→ こちら ) 。

そのトップ、、、 原田泰教 さんが、学部新入生の皆さんのために 「 読んでおきたい本 」 5冊を紹介している。

  • 『インド思想史』 東京大学出版会
  • 『インド思想史』 中村元、 岩波書店
  • 『インド文明の曙』 辻直四朗、 岩波新書
  • 『はじめてのインド哲学』 立川武蔵、 講談社現代新書
  • 『古代インドの神秘思想』 服部正明、 講談社現代新書

インド哲学チョー入門 ということで、ここに紹介させていただきます。

僕もあらためて勉強しなおします。

2006年6月 4日 (日)

リュックサック

お金に余裕がないというのに、、、 ここリュックサック を買ってしまった。

夏の散歩が これで少しは楽になる、、、 よかったな リズ

<メモ>

リズ については こちら 参照

原理主義というコトバを私なりに

かつて 「原理主義」という言葉には注意が必要だ、というエントリ (→ こちら ) を書いたところ、いろいろな方から反応をいただいた。 

それに対して、お返事をなにも書かないでいました。 申し訳ありません

遅ればせながら、こちらの新エントリでお応えすることにいたします。

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私は こちら の論文 ( 86-87頁 ) で、 原理主義というコトバを私なりに 四重の広さで定義してみました。

  • 原義 ・・・ 聖典の無謬性/直解主義と千年王国思想の結合
  • 狭義 ・・・ 失われた理想の過去に直接由来すると観念される知識と実践に、唯一無謬の真理性と真正性と正義を付与する傾向
  • 広義 ・・・ 宗教と政治経済・法曹・知識技術の一致/調和への断固たる志向
  • 比喩的用法 ・・・ 対話を拒否ないしは回避する、独善的で攻撃的な傾向

さて、こうした概念規定をおこなうに際して、要点は少なくとも三つあります。 繰り返しになりますが、、、あらためて、、、

  1. コトバは自由に使う場合 ( 日常語 ) と、ちゃんと定義して使う場合 ( 用語 ) がある。 「 原理主義 」 はいま、ちょうどその境にある。 用語としての 「 原理主義 」 というのも ちゃんと鍛えていったらよい。 もちろんその場合、日常語としての 「 原理主義 」 が ダメだ ということにはならない。
  2. ただし、 「 原理主義 」 はきわめて侮蔑的なコトバであるので、それで誰かを名指しするときには、とても慎重になった方がよい。 本当にひどい人や集団がその名で呼ばれるのはかまわないけれど、 コトバの使い方によっては そうでない人や集団まで 一緒くた にされてしまうことがある。

2006年6月 3日 (土)

インドって本当に広いなぁ

辺境といえるかどうかは別にして、インド滞在中 僕はインドの東北地域に行ったことがある。

「 北東諸州 」 と呼びならわされる地域、、、ミャンマーと国境を接する地域で、インパール作戦で日本軍がなだれこんだ インパールやコヒマがある地域、、、と言えば、お分かりの方もいらっしゃるだろう。

インパールはマニプール州、コヒマはナガランド州、それぞれの州都だ。その二つの町を訪れたのである。

インドの州区分 こちら 参照。

マニプール、ナガランドはいずれも 「 部族民 」 地域である。

このときの旅の思い出は またいつか書くこともあろう。

ここに書いておきたいのは、もっともっと単純なことだ。

それは、インドは バカミタイニ 広い・・・ということ。

たとえば、僕は タミル・ナードゥとケーララに行ったことがない。JKにも、ミゾラムにも、トリプラにも、メガラヤにも行ったことがない。アルナーチャルには行きたくても、なかなか行けない。N先生がインド一の場所とおっしゃっていたシッキムにも行ったことがない。チャッティスガール、ジャールカンド、こちらも未踏破だ。

州の名前だけ言っても こんなだから、郡や県になれば ほとんど行ったことがない。あるはずがない。

インドって本当に広いなぁ

2006年6月 2日 (金)

オモシロ現代インド本

お勧めの現代インド本 」 ということで かつて こんなエントリ を書いた。

そのリストに加える、、、まではいかないけれど、、、もう一冊 オモシロ現代インド本 をみつけた。

NHK取材班・岡田正大 『 NHKスペシャル 神秘のインド大紀行 神々の台座・デカン高原 天空の王国・ザンスカール 』 日本放送出版協会,1991年.

長たらしい表題はご愛嬌。 要するに、岡田さんが中心で書いた 『 神秘のインド大紀行 』 という本なわけです。

岡田さんについては 後述。

この本、街角の古本屋で見つけた。表題だけを見て、怒るつもりで手にした。学生さんたちに 「 浅薄なインド観 」 の代表として紹介するつもりで。

「 神秘 」 なんて・・・まぁ・・・私たち地域研究者には・・・ちょっと・・・

だが、中身はぜんぜん違った。

インドの辺境を二つ、紹介した記録だった。その辺境こそ、長たらしい表題に含まれるデカン高原と、ザンスカールである。

「 デカン高原 」 のどこが秘境なんだよ!! 

事情通のあなた の叫びが聞こえてきます。もちろんこれは、ネーミングがひどすぎるだけのこと。NHK取材班が赴いたのは、旧マディヤ・プラデーシュ州の東端、最南東端 ( 現チャッティスガール州 ) の部族民保護地域なのです。ここに入ったことのある日本人は、ほとんどいないはず。 

「 デカン高原 」 とあるのは、少しでもキャッチーな言葉を使おうとする マスコミ人のならいなのだ と思われるのです。

一読 とても面白い。僕も知らなかったことが、分かりやすく 読みやすく書かれている。初期の人類学者の著作は ちょうど こんな読み物だったのだろう。

「 お勧め 」 までいかない理由は、地域研究者として見過ごしにできない 誤認があるからだ。

「 ヒンズー語 」 なんてのは まだよい。これは明らかに、分かってて書いている。一般の言い方にあわせようというのだ。

しかし、インドでは何千年も前から牛が食べられなかった、、、みたいな記述を読むと、、、フーー、、、ため息が出る。 とてもではないが、そんなことは言えない。食べられにくかった、、、ぐらいのことだろう。牛肉の忌避が ここまで広範に規範となったのは、おそらく19世紀前半のことであり、たかだか200年弱の伝統だ。

小谷先生の本 参照 (→ こちら @Amazon )

言いたいことは他にもあるけれど、まぁ 揚げ足とりになるだけなので、よす。とにかく面白いのだから、読んでみる価値はある。

ポイントは、もちろん!! 「 辺境 」 からのインド・ウォッチ。 通俗的なインド理解の浅薄さに 誰もが気づくだろう。 

<メモ>

  • 『 神秘のインド大紀行 』 に言及している 興味深い文章として こちら
  • 岡田ディレクター、、、 「 やらせ 」 等々の問題が浮上したムスタン取材のチーフだったようだ。残念なことだ。イケイケドンドンのディレクターのようにお見受けするが、、、さて 『 神秘のインド大紀行 』 の方は どこまで信用して読んだらいいものか。。。面白い本なだけに、こういう余計な騒動は惜しまれる。

2006年6月 1日 (木)

○○遺跡

近所の駐車場の脇に 木製のくいが一本 立っている。

道路との境に いきなり 堂々と。

高さ1メートルちょっと、 白いペンキ塗り。

細々とした字で 黒々となにか書いてある。

それを読んでみる。

○○遺跡

○○には 僕の住む町名がはいる。

そのくいは、そこが弥生時代の遺跡であることを示す。

見事な森が ある日ばっさり消えてなくなった――

そんな話を こちらのエントリ で書いた。

○○遺跡はそのすぐ脇にある。

今は砂利敷きのその駐車場、、、

背後にはコギレイナ建売住宅が数件、、、

ゴムタイヤが踏み敷く その地面は まぎれもなく弥生の土である。

僕は今日もその上を歩く。

近代性とはなにか

非常勤で授業なんぞをやっていて、 ときどき聞かれる問いがある。

近代性とはなにか・・・

もちろん!!この問いに対しては、いろいろな偉い学者さんが

ちゃんとした解答をもう用意してくれている

しかし、いつもどうも納得しきれなかったので

僕なりに答えを出してみた

近代性とは 「人間主義、 個人主義、 合理主義」 に支えられた観念と制度の体系である、 と

  • 神から人間へ ( 人間主義 )
  • 集団から個人へ ( 個人主義 )
  • 感性から理性へ ( 合理主義 )

こうした三種の価値観シフト (認識論的には、 人間、 個人、 理性の概念化と定位 ) が

近代性をもっともよく特徴づけるのではないか

逆から言えば、 神なき個々人の理性中心主義 こそが

近代性の極致ではないか、、、  そんなように考えているわけです

ちなみに、 上の三つのシフトはちょうどその順番で

西欧に起こったのではないか、 と見通しをつけていたのですが

西欧の哲学史・心性史を実際にたどってみると

そこまできれいには 流れていかないみたいですね

【100121記】

いや しかし、 やっぱり けっこうキレイな流れがあったのかも

と 推測されることが その後、 わかりました

この点については 後便 「近代精神」 ぜひ参照くださいませ

しかし、 である

上の僕なりの答え、、、実は 国家論 が入っていない

そこに国家論を入れると、 とたんに 簡単ではなくなってしまう

小杉泰先生 は次のように述べる

「近代国家」 とは何かを問うならば、 領域主権国家・国民国家・世俗国家と概括することができる。 領域主権国家は一七世紀半ばのウェストファリア体制によって確立されたが、 これは領土を持つ国家を主権の主体として、 宗教を主権の主体から閉め出すものであった。 ヨーロッパでは、 三〇年戦争などの宗教戦争を経て、 宗教は政治から次第に分離し始めたのである。 それでもまだ、 領土を持つ主権国家であるだけならば、 絶対的君主を主権者として運営されることも可能であった。 しかし、 フランス革命を経て、 その主体は国民でなくてはならなくなった。 国民国家システムの成立である。 さらに二つの世界大戦を経た現代では、 国家の存立基盤は民族自決権であることが確認されているから、 たとえ擬制でも国民を主体としなければ、 国家は認知されえない。 民族自決権が国家の源泉であることは、 宗教的な権威によって国家権力を認証する理論が必要でないだけではなく、 国民国家にとって有害であることを意味する。 世俗国家とは、 そのような国家である。 近代国家は、 かくして、 主権・国民・世俗性を主たる属性とするようになった

小杉泰 「 宗教と政治―宗教復興とイスラーム政治の地平から 」 ( 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄(編)『岩波講座 宗教1 宗教とはなにか』岩波書店,2003年,241-72頁所収 ) 247頁.

主権 ・ 国民 ・ 世俗性」 と 「人間 ・ 個人 ・ 理性」 、、、

この二組の問題系を 僕はまだ上手に接合できないでいる

<メモ>

  • 小杉先生については、 このブログですでに紹介させてもらっている ( たとえば こちら
  • 上記論文、、、 僕の論文を引用してくださる数少ないもののひとつ。 ありがとうございます。 もうなんだか 普通にうれしいです
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