白色
オーラが見られるという女性と たまたま出会う。
僕は 白色に灰色がちょっと混じっているのだそうだ。
白色 の意味は、 「 なにものにも揺るがない強い自分 」 というようなことだそうだ。
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オーラが見られるという女性と たまたま出会う。
僕は 白色に灰色がちょっと混じっているのだそうだ。
白色 の意味は、 「 なにものにも揺るがない強い自分 」 というようなことだそうだ。
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こちらのエントリ への補足です。
話題はぜんぜん違うことなのですが、宗教政治学 にとっては大事なポイントだ、と思うので、別エントリにして書かせていただきます。
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先のエントリで書きましたところを敷衍しますと、僕もカサノヴァも 次のように言っていることになります。
原理主義者や宗教ナショナリストの皆さん、あなた方は真剣に生き、それを 「 反近代 」 という言葉で表現なさっていますね。
しかし、それはしばしば間違った自己理解ではありませんか。
言い換えますと、
あなたご自身よりも 僕の方が あなたのことを よりよく分かっているのですよ
と、こういうわけです。
お気づきのように、こうした立場は、いかにも社会科学者らしい (人類学者的な 繊細さを欠いた) 傲慢 な言い方です。
ここで問われているのは、言明の正しさをめぐる哲学 ( 真理性問題 ) に他なりません。
認識論的には、ここに正解はなかなか見出せないでしょう。 「 知ること 」 の究極的な無根拠 があからさまにされています。
しかし、、、
僕はここで真理性問題に拘泥したり、最終的な沈黙を守ったりといった行き方を ( それはたしかに誠実な態度ではありますが、あえて ) とらないでおこう、と思っています。
その理由は、原理主義者や宗教ナショナリストの言葉や態度が、諸命題の単純な断定によっているからです。
そして、そうした断定の連続により、彼ら/彼女らは 広範な共感と支持をえているからです。
これは、政治的で論争的な場なのです。
認識論的に、あるいは現象学的存在論のうえで、どれだけ不誠実であっても、歴史形成に直接かかわろうとする者たちの言葉と態度を、僕は研究対象に選んでいるのであって、そこではときに反省不十分な、ときにアドリブの発言や態度が要求されているんだ、と考えています。
これは なにも抽象的な話ではありません。
僕は 研究のためにヒンドゥー・ナショナリストの人たちと接することが多いわけですが、 普段は 聞き手 に徹します。 これは、予断をまじえず、まずは相手のことをちゃんと理解するという、僕が受けてきた学問上の訓練を反映しています。
しかし、ここには 実は微妙なズレがあります。
つまり、 ちゃんと話を聞くというのは、必ずしも最良の手段ではない のです。
そのことに気づいた僕は、ある時期から 彼らへの反論を明確に口に出すようにしました。
すると、彼らはむしろ うれしそうにするのです。
日本人で こんなに自分の意見を言う奴ははじめてだ
なんて、嬉しそうにいわれたのも、一度や二度ではありません。
こうした実際の交流の場を、論文や高等発表の場でも、僕はなんとか再現できないか、と思っています。
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ふと不安になる・・・
当ブログ、皆さんに本当に読んでいただけているのだろうか。
就職が決まったら カウンター ( 有料 ) 設置
と心にきめているから、一体どれほどの方に訪れていただいているのか、実のところ 僕には皆目わからない。
オフラインではときどき
読んでますよぉ とか
あのペースで更新よろしく とか
読者けっこういるでしょぉ とか
声をかけていただくことがある。とても勇気づけられる。
一方、TBやコメントは さほど盛んではない。
僕があまりに忙しい、忙しいと書くから、気をつかっていただいているのかもしれない。
あるいは、内容が難しすぎるのかなぁ、、、と思ったりもする。
しかし、もともと本ブログの開設は、ハードな研究系ブログがほとんどないことを残念に思ったのがきっかけ。
だから、こんな硬い内容を嬉々として書いているのであって、難しいことを少しでも分かりやすく書くこと ―― これこそが身上とも思う。
読者の皆さん、いかがなものでしょうか。
何か意見や感想があれば、ぜひぜひお聞かせくださいませ、オン、オフいずれでも。
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ガンディーに関する新刊書が 最近また少しずつでている。
ネット上での感想や講評をながめていて、 とてもとてもとても大事な翻訳 が ほとんど知られていないのに気づいた。
これはマズイ!! ということで、ご紹介。
訳者はいずれも 田中敏雄先生 である。
1の本は、ガンディー唯一の単行書 ( ほどの長さをもった論文 ) である。長崎暢子先生が注目なさっている一冊ということで有名。
( なお、「 ヒンドゥ・スワラージ 」 というカタカナ表記は誤解を招く。 「 ヒンド・スワラージ Hind Swaraj 」、すなわち 「 インドの自立/独立 」 である )
2~5の本、これら4冊でガンディーの自伝である。 ( ただし、死ぬ20年前に書かれたものだから、晩年のガンディーの事跡は書かれていない )
2&3、4&5でそれぞれ別のシリーズになっている。つまり、もともとは3冊の本の全訳が、上の5冊というわけ。
2&3が子ども時代から書き起こし、途中の南アフリカ時代のことが4&5で書かれている。インド帰国後のことが、2&3で語られるという構成。
日本での普及版はいずれも、これら4冊を混ぜて編集しなおしたもの。しかも英語からの翻訳である。
さて、、、 この訳業は 本当に偉大なのです。
なぜなら、ヒンディー語文学の専門家であられ、南アジアの歴史と文化に精通した田中先生が、ガンディーの母語であり 原稿が執筆されたグジャラーティー語から訳出したものだからです。
注: ガンディーは自ら ヒンディー語や英語になおされた 『 ヒンド・スワラージ 』 と 2部の 『 自叙伝 』 に目を通し、手直しをしました。しかしやっぱり、原著はグジャラーティー、と言えます。
訳者による用語解説や背景説明も すばらしい。
これ以上のものは、日本語ではありえません。
ガンディー読むなら まずこの本から!! と全幅の信頼をもって申し上げます。
閑話休題、、、
93年だったと思うが、田中先生がデリーの拙宅にお泊りになったことがある。
あの頃から、この訳業をずっとなさっていた。
ガンディー ( ガーンディー ) のコトバは やっぱり 「 ですます調 」 で訳さないとダメですよねぇ
などという話をしたのが なつかしい。
<メモ>
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最近、 スピリチュアルもの の投稿がやたら多いが、またも・・・
7月1日放送の Nissan Candy Bandy ( @ J-WAVE ) で、スピリチュアルというコトバが話題になっていた。
番組後半の Bandy Talk のコーナー。ゲストは今井栄一さん。ホストは高城剛さん
うろ覚えで恐縮だが、僕が印象にのこったのは こんな話・・・
「 スピリチュアル 」 というコトバは、どうもなんだか使いたくない。わざわざそんなコトバを使わなくても、それはいつどこでも誰にでも分かり、生活できるものだから
たしか今井さんがそういう考えを口にして、それに高城ホストが乗っかった、と思う。
この自然さ!! 当たり前加減!!
スピリチュアルなものがすでに浸透している、、、というよりは、 スピリチュアルなもののリーダーたろうとする人たち の、このゆるぎない確信、底抜けの快活さ!! そして、この ほがらかな断定のカリスマにより水路づけられていく 「 社会=経済 」 !!
これに強く印象づけられた。
<メモ>
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知り合いより、市民運動への協力依頼をうけた。
「 枚方の障害児教育を発展させる会 」 という。
同会の名前でググってみたが、ヒットなし。このエントリが ネット上で初の言及となる模様。
平成18年3月で廃校となった枚方西高校を、 養護学校 として再出発させたい 、というのが、その活動の趣旨であるという。
私の知り合いというその方も、家族に 自閉症の子どもさん をかかえている。たしか小学4年生のはずだ。 現時点ではほとんど問題なく ( 独自の苦労はあっても、家族の支えあいのおかげで 「 問題 」 なく ) 生活ができているのだそうだ。
しかし、障害児には高卒の資格をとらせてあげることは、本当に難しいのだそうだ。家族の悩みは大きい。 養護学級の過密化というカベもある。
運動は始まったばかりである。
第一歩として、手記集 を発刊したいとお考えのようだ。
以下、いただいたチラシの文面を転載します。 (下線・強調ママ)
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まず、皆さんの思いや願いを文章にしていただき、関係機関の方々や議会の先生方などに読んでいただくことによって、養護学校建設実現への第一歩を踏み出しましょう! ( その後 署名運動も展開したいと思っています )
たくさんの方々の手記 ( 思い ・ 願い ・ 要望など ) があると、私達の熱い心情を知っていただくとともに、府民の声も高まっていることと認められます。
一人でも多くの方にご協力をお願いしたいと思います。
―― あなたの子どもにとって すてきな養護学校とは どんな学校でしょうか
今の厳しい現実、今困っていること等を、 そのまま文字にして訴えてください。
私達の子どもには 養護学校が 今すぐ 必要なのです!!
短い文章でも、ひとことでも 結構です。 ( もちろん、長い文章は大歓迎です )
それぞれの切実な思いや願いが、一枚一枚の手記に重みを持たせることと思います。
そして、私達の熱い心情が、養護学校建設実現の礎となることを確信しています。
是非、ご協力よろしくお願い致します!!
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チラシでは、このあとに連絡先 「 わかたけ 」 の住所、電話等が書いてある。
しかし、こちらはどうも個人のお宅のようなので、ここに記すことはよす。
ご関心のある方は、私近藤までご連絡ください。
<メモ>
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次の記事が下書きのまま保存されてしまっていたのに気づいた。
手直しして、あわてて投稿。
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こちらのエントリ で、 「 反近代 anti-modern 」 に触れるのを忘れていた。 「 留意点 」 の三つめに並べておくべきだったのに・・・
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カサノヴァははっきり書いていた。
宗教の脱私事化は、反近代 ( アンチモダン ) の現象として理解することもできない (邦訳、290 頁)
こちらのエントリ 半ばあたり、二つを箇条書きにしてあるところ、後者の一文に 「 (分析レベルにおいて) 」 と書き添えた。
これで何が言いたかったのか というと、こういうことだ。
公共性、動員などを特徴とする 「 宗教ナショナリズム 」 「 原理主義 」 、およびその他の 「 公的宗教 」 は、 しばしば 「 反近代 」 を自ら任じている。
言いかえれば、自らを 「 反近代 」 として表象し理解し、ときにそれを確信している。
さらに言いかえれば、当の運動/現象をになう当人たちは 自分たちの生き方や問題意識を、「 反近代 」 という言葉/観念をもちいて、 ぼんやりとであれ はっきりとであれ、 書き語り、理解している、あるいはしようとしている。
そして、そうしたご本人たちの言葉や態度は、しばしば分析者/観察者をミスリードする
ということである。
「ミスリード」というのは ほかでもない。
ご本人たちの 「 反近代 」 が 本当にどこまで徹底したものになりえているのか、、、 「 近代 」 という おおよそ訳のわからぬ巨大な複合物に対して 反対を挑むというのが、 掛け声どまりになってはいないか ―― こうした問いを、分析者/観察者が発しづらくなる
ということです。
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ヨミウリ・オンライン で検索しても出てこないのだが・・・
7月3日付け読売新聞、国際面の 「 ワールドビュー 」 というコーナーに、「 穏健イスラムが語る改革 」 という記事がのっていた。記者は 寺田正臣さん ( アメリカ総局長 ) 。
マレーシアの元副首相・蔵相であった アンワル・イブラヒム氏 とのインタヴュー記事だ。面白かった。
記事によれば、アンワル氏は、「 マハティール政権下の98年に職権乱用・異常性行為で逮捕、解任され 」 、「 2004年9月に釈放されたものの公務への復帰の道は閉ざされたままである 」 。 現在は、米ジョージアタウン大学の客員教授。 同大 「 イスラム・キリスト教徒和解センター 」 在籍。
内容は、お定まりの ムスリム自己責任論 である。
以下、アンワル氏の発言を記事より引用。 (括弧づけママ)
イスラム諸国は自分たちの手で社会を変えて行かねばならない。米国や英国が ( 民主化などで ) 注文をつける前に動くべきである。教育、男女格差の解消、自由社会の実現などの改革は外からではなく我々自身の義務なのだ
準備がまだできていないとイスラム教徒は言う。しかしそれは違う。 ( 多くのイスラム諸国が独立してから ) もう50年もたっているではないか。2世代、3世代にわたって我々は何をしてきたのか
つまり、「 穏健ムスリムが語る改革 」 のススメ である。
なるほど納得させられる。ここで述べられているのは、たしかにその通りといえよう。ムスリムが果たすべき責任はたしかにある。
しかぁし!!
ぜひとも注意しておかねばならないことがある。
それは、 ムスリム自己責任論は、ムスリム自身が語るときにだけ有意味だ 、ということである。
僕らが、この記事に溜飲を下げて
そうそう そうそう!! まずは連中がしっかりしないとなぁ・・・
などと言ってはいけない。
問題は、極度に政治的で、歴史的である。当事者にもどうにもならない構造的矛盾や心理的ジレンマがある。
ましてや、いわゆるムスリム諸国とイスラーム表象には、 「 大国 」 の恣意的で、利己的な介入と干渉が、大規模かつあけすけな形で、ここ50年間ずっと繰り返されてきたのだ。
このことを思えば、部外者が外側から自己責任をもとめることが いかに不実、不誠実であることか。
読売新聞と寺田総局長が、どのような意図で この記事を執筆、掲載したかはわからない。しかし、そうした配慮は 記事の文面には皆無 である。
いわゆるイスラーム問題の混迷ぶりに うすうす気づきつつある日本国籍保持者たちが、このような記事で、責任を当事者にだけ押しつけて スッキリしよう なんて、考えたりしないだろうか。
それが心配。
歴史と政治と宗教の複雑さに堪えうるような、粘りづよい知性を養うこと・・・
それが、 国際政治における成熟 ・・・ というものだろう。
えっ?! そんなこと興味がないって?!
では、ハヤリコトバでもって 言い直しましょう。
そうしないと、日本の国益 がかえって損なわれてしまうのではありませんか。
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7月3日付け読売新聞、 こちらの記事 を読み、事態の深刻さにあらためて戦慄した。
日本では、捨て/迷い犬猫が 年間 38万匹弱 殺されている 、というのだ。
38万!!
僕は 動物愛護にそんなに熱心だとはいえない。動物が好きだし、大切にしたい、と思っている。そんなどこにでもいる輩だ。
その程度の僕でも、この数字の異常さは寒気をもよおすに十分。ひどい話だ。
<メモ>
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捨て犬・捨て猫 半減目標…環境省が愛護指針に
環境省は、捨て犬や捨て猫を2017年度までに半減させる目標を立てた。動物愛護行政のよりどころとなる「動物愛護管理基本指針」に盛り込む。
2004年度の集計によると、捨てられたり、迷子になったりして保健所などに引き取られた犬は18万2000匹で、猫は23万9000匹。新たな飼い主が見つかった場合を除き、9割以上が殺されている。
捨て犬捨て猫が増える理由として、<1>衝動買いして捨てる飼い主が多い<2>不妊去勢措置の不徹底で子犬、子猫が増え、飼いきれなくなる<3>名札などの普及率が低く、迷子になっても所有者を見つけられない――などが挙げられる。
同省は先月から、ペット販売業者対し、飼育の注意点や不妊去勢手術の必要性、捨てた場合の罰則などを買い手に説明することを義務づけている。また、所有者情報を入れたマイクロチップをペットに装着するよう呼びかけている。
ただ、決定的に有効な対策はなく、地道に訴えるしかないという。
(2006年7月2日21時16分 読売新聞)
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先日、 「 資本主義スピリチュアリティ 」 というエントリを書いた。
そこで言いたかったのは、スピリチュアル・ブームは、 グローバルな企業資本主義 の拡大、ないしは 新自由主義経済理論 のグローバルなヘゲモニー獲得 という事態に対応している、ということだ。
こうしたことを指摘するとき、僕が 「 皮肉ったり、揶揄したりしているのではない 」 のは、その前のエントリ に書いたとおりだ。 僕自身、そうした世界のなかで、たしかに スピリチュアルなものの癒すチカラ を必要としている。
さて、本論である、、、
上のような意味での現代社会において、癒しやエンパワメントは 必ずしも スピリチュアルなものからだけもたらされる とは限らない 。
そのことを明確に示すインタヴュー記事を、 『 AERA 』 ( 2006.7.3 号 ) でみつけた。
この号の AERA はなかなか面白かった。すでに こちらのエントリ で一つのコーナーを紹介したが、実は またもう一つ別に 紹介したい記事がある。後日!!
下着通販会社 「 ピーチジョン 」 野口美佳社長をとりあげた、人気コーナー 「 現代の肖像 」 である ( 63-67頁 ) 。 ライターは清野由美さん。
記事によれば、PJ の顧客リスト数は300万人、年商は160億。当期利益19億円を 無借金で!! 実現しているとのこと。
社長自身が広告塔になるという PJ の企業戦略・・・ AERAによる勤労女性 ( 笑 ) のターゲット化・・・ こうしたことは先刻承知である。 承知のうえで、のっかっていこうと思う。
以下、引用です。 (ルビ省略)
20代でわけもわからず始まった結婚生活と怒涛の仕事は、男性社会が女に強いる理不尽の連続だった。仕事で生じる責任は同じなのに、女の自分は一方で炊事や洗濯、育児を支えねばならない。そして、そこに少しでも不備があれば、口を極めて罵倒される。仕事では上司、私生活では夫。そんな正二 [ 前夫、野口正二氏 ―― 引用者注 ] に象徴された理不尽は、愛情と憎悪、理想と現実という二極をあざないながら、長い間、野口をふたつに引き裂いてきた。 ( 67頁 )
こうしたところをくぐり抜けて、 「 立身出世 」 を果たした野口社長。
ここまでだったら、 「 女一代記 」 みたいなノリでおしまいだ。
しかし、この記事のクールなところは、ちゃんと次のような問題に言及しているところだ。
とはいえ、今の野口のライフスタイルが、突出した経済力に支えられていることは間違いない。それをそのまま、女性の理想像に敷衍してもいいものか。 ( 同 )
この問いに対して、記事は野口社長自身の考え方を示す。
「 私が切り開いているのは金儲けではなく、自分自身の考えで自由に生きていい、という価値観。それが広まれば、女性はもっとラクに、女のまま、社会になじんでいける。ただ、開拓者には経済力が必要で、たまたま私がその役目に生まれた。後に続く人は、私のようにがむしゃらに稼ぐ必要はない 」
「 開拓 」 はまだ道半ばだ。自分が自由になったら、今度は社員が自由になってほしいし、そこから日本全体、世界全体に自由が広がってほしい。だからこそ、動けるうちに稼ぐと、ハラを決めたのだ。
カネは自由の基礎である 。 チカラは自由の足場である。 金力は救いである 。
こんなところを考えないと、世界の姿は見えてこない、と思う。
<メモ>
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前便は こちら
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① グローバル化は 第一義的には、経済の問題 である。
すなわち、後期資本主義に内在的な力学と機構にしたがって生じる、地球規模での資本統合とその投下・増殖・回収のプロセスである。
このように経済を決定的な基盤とみなすのは、政治や文化や意識のレベルにおけるグローバル化が、経済 ( 資本主義 ) のグローバル化によって先導されている、との観察にもとづく。
具体的には、おそらくは70年代後半から80年代にかけて、資本の地球規模での流動化と再編成、および 移民労働者の ( 絶対数というよりは むしろ ) 本国送金の増加がおこっている、と予想される。
これはもちろん、経済学者さんたちがすでに調べているだろうから、僕も日本語で読めるものをちょっと勉強すれば、何らかの見通しが立つだろう。
② グローバル化は、したがって、近代化の延長・深化というよりは、まずもって、近代資本主義の発展段階のひとつ である。
地球史におけるグローバル化段階の新規性は、このような意味でたしかに認められる。 そしてそれは、おそらく 「 グローバル化論とは語られねばならないものだ 」 という、多くの人たちの実感により証しされる。
私たちが今生きているのは、まさにそのようなハイパー近代の資本制の世界である。
③ グローバル化は ナショナルなものを弱めもするが、強めもする 。
各地域の政治文化・政治体制、および資本制のあり方によっては、グローバル化が ナショナルなものを媒介とせざるをえない場合がある。
インド国民国家は、その典型である。
④ グローバル化は したがって、国際化 ( internationalization ) の過程を断ち切りはしないが、撹乱する 。
ネイション ( 国民/民族 ) と国民国家 ( ほとんど全ての近代国家 ) 、およびナショナルなものは、グローバル化のなかで新たな力を獲得する。 それらは消え去らない。 むしろ いつまでもしぶとく生き残って、グローバル化によって最も大きな恩恵をこうむる企業資本主義 ( 多国籍企業やオフショア企業体 ) を悩ませる。
⑤ 近代化/国際化からグローバル化へ、という変化において、真に新しい性格をもった変化は、 「 情報化 」 および 「 ネットワーク化 」 である。
近代資本主義の発展の一段階、と上に書いた。 しかし、90年代後半以降からは、いわゆる IT とその商業化、および国家によるインフラ整備があいまって、グローバル化には独自のツイストが加えられている。
この段階は、言葉の真の意味での 「 グローバル化 」 である。 また、情報化がネットワーク化を伴うことから、それは 「 ローカルなもの 」 の再活性化を引き起こす。
すなわち、ごく小さな ( 地理的にはローカルな ) 個人なり集団なりが、情報化とネットワーク化をインフラ ( = 下部構造 ) として、新たにチカラを結集するようになりつつある、ということ。 たとえば、新らしい社会運動や 少数民族の横の連帯 など。
⑥ 情報化・ネットワーク化としてのグローカル化は、したがって、 国民国家に挑戦する 。
これは、第二次世界大戦後、漸次的に確立していった 「 国際の inter-national 」 秩序に対して、チカラの再配分、チカラ構造の再構築をもとめる。
国民国家は、それに対して、多方面での対応をする。
======
ポイントはまだ他にもあろうが、とりあえず 思いついたものだけ、6点でした。
では、こうした見通しが、独立インドとヒンドゥー・ナショナリズムの理解にとって、どのような意義をもつのか。 インドや 「 ヒンドゥー原理主義者 」 は、上のようなグローバル化論のうえで どのようなものとして理解されるか。
<次便につづく>
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前便は こちら
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インドにおけるナショナルなものの強大なるプレゼンスと、その再活性化 ( 具体的には、ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 ) を、グローバル化という文脈のなかで整合的に読みきろうとする ―― そうした立論自体が、間違っていた。
解けない問題を 勝手に立てていた。
3+2=6 これはなぜか? みたいな立論だった。
これが 私が I 先生のおかげで 新たに獲得した立場である。
では、あらためて、、、
グローバル ・ ナショナル ・ ローカル という図式をもとに、「 ナショナル 」 なものを グローカル化 ( グローバルなものとローカルなものの直接的結合と活性化 ) の撹乱要因、阻害要因ととらえる――
ここでのミソはおそらく、ナショナルとローカルをはっきり分けてしまうこと である。 こうすることで、グッと見通しがよくなる。僕の見方では、「 情報化 」 と 「 ネットワーク化 」 という、グローカル化の真に新しい段階が、これによって、より理解しやすくなる。
こうした立場から得られる見通しを、より仔細に検討してみよう。
先に言い訳させてもらいます。
以下の検討は、専門家でもなければ、ちゃんと勉強もしていない者が記した 単なる備忘録、よくてせいぜい 初期作業仮説 であるからして、 チャンチャラオカシイ という突っ込みは、もぉなんというか・・・ 無し!! でお願いします。
僕は、僕のなかにある グローバル化論に関するトラウマ を払拭したいがために、思索のこうした途中段階を吐露しております。 これは、自己心理療法なのです。
とまぁ 言い訳はこれぐらいにして、、、
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<以下 次便>
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