反近代
次の記事が下書きのまま保存されてしまっていたのに気づいた。
手直しして、あわてて投稿。
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こちらのエントリ で、 「 反近代 anti-modern 」 に触れるのを忘れていた。 「 留意点 」 の三つめに並べておくべきだったのに・・・
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カサノヴァははっきり書いていた。
宗教の脱私事化は、反近代 ( アンチモダン ) の現象として理解することもできない (邦訳、290 頁)
こちらのエントリ 半ばあたり、二つを箇条書きにしてあるところ、後者の一文に 「 (分析レベルにおいて) 」 と書き添えた。
これで何が言いたかったのか というと、こういうことだ。
公共性、動員などを特徴とする 「 宗教ナショナリズム 」 「 原理主義 」 、およびその他の 「 公的宗教 」 は、 しばしば 「 反近代 」 を自ら任じている。
言いかえれば、自らを 「 反近代 」 として表象し理解し、ときにそれを確信している。
さらに言いかえれば、当の運動/現象をになう当人たちは 自分たちの生き方や問題意識を、「 反近代 」 という言葉/観念をもちいて、 ぼんやりとであれ はっきりとであれ、 書き語り、理解している、あるいはしようとしている。
そして、そうしたご本人たちの言葉や態度は、しばしば分析者/観察者をミスリードする
ということである。
「ミスリード」というのは ほかでもない。
ご本人たちの 「 反近代 」 が 本当にどこまで徹底したものになりえているのか、、、 「 近代 」 という おおよそ訳のわからぬ巨大な複合物に対して 反対を挑むというのが、 掛け声どまりになってはいないか ―― こうした問いを、分析者/観察者が発しづらくなる
ということです。
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