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2006年8月29日 (火)

世界宗教者平和会議

なんだか忙しくて うっかり忘れていたが、 そうそう 京都ではいま 「 世界宗教者平和会議 第8回世界大会 」 が開かれている ( 今日 閉会 )。

マスコミの取り上げもかなり大きくて、驚いている。 「 宗教 」 「 平和 」 ( ひるがえって 「 戦争 」 「 紛争 」 ) となると、今の日本では本当に関心が高い ―― そのことの表れだろう。

1970年に 第1回大会が やはり京都で開かれた。

ところで、、、 IAHR もそのようなものだったが、リンクしているのだろうか。 IAHRの方では実行部隊の一員をやっていた僕だが、そういった話は聞いたことがないが・・・

さて、、、 正直、この会議は評価がむずかしい。

悪口を言うのは 簡単だろう。

こんなんやってもしょうがねぇよぉ・・・(黒笑)

何の役に立つんだよ・・・チッ・・・

偽善じゃねぇのぉ・・・・?!?!

しかし、これは言っても仕方のないことだ。

こういう動きをちゃんと応援していかないといけない。 だって、どんな理由や正当化論理があるにせよ、殺し合いを奨励するたぐいの宗教者は、誰もほしくないから。

下記メモの3点目、ご参照ください

<メモ>

  • 小原先生の初発レポートは こちら
  • 同会議 日本委員会のHPは こちら
  • より分かりやすいプロファイルは、むしろ こちら で見ることができる。 これは、あの有名な Rel Net の1頁である。 主幹兼代表の 三宅善信さん は、金光教の教師であられると同時に、世界宗教者会議の評議員でもいらっしゃる。 同会議の活動とは、要するに こうした方々の日々の積み重ねにこそ意味、実態がある。 世界大会そのものは、要するに 「 祭り 」 なんだろうから。 こういうところから、こうした大会の意義を考えていきたいのものである。

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01A 宗教学」カテゴリの記事

01B 宗教政治学」カテゴリの記事

コメント

三日間参加して、けっこう体力を消耗しましたよ。発表もしていないというのに・・・。
僕も出来るだけ、こういうイヴェントはポジティヴに捉えようと思っています。

カワセさん>

お疲れさまです。お元気ですか。しばらくお会いしてませんね。

三日間!!さすがです。 あえて「収穫」云々とは聞きません。 おそらくは「参加意義あり」系かと。

しかし、これは嫌味でも何でもありません。 四の五の言わず、こういうのを素直に受けとめたい、と思っとるわけです。

わたしがいま居候をしている研究所ではまったく話題になりませんでした。曲がりなりにも日本において宗教対話(研究)の最前線を走ってきた研究所なのですが、この事実をすでにわれわれはこうした「イベント対話」を卒業したとみなすべきか、あるいは知的怠惰にいつのまにか陥ったとみるべきかは難しい問題です。ことに内部にいる人間にしてみれば。。。

わたし個人としては、参加すること自体にも意義があると思います。大会が素材的に新しいものに欠けるとしても、そこに参加することで自分のなかで熟しつつある発想が芽を出す契機になることはありましょう。

以前アジアの神学者が集まる会議(インドネシア)に出たことがあるのですが、日中の会議では平和や解放をめぐって淡々と話は進んでいったのですが、夜に一杯やりながら話したときは、ナショナリズム丸出しでしたねえ。日本のような先進国で会議やる場合と、発展途上国で開く場合では、ゲニウス・ロキのはたらきでなんか違うような・・・このへん、この大きな会議ではどうなんでしょうねえ(小泉さんは招待されたのかね、それとも押しかけてきたのかね、実際のところ)。

それにしてもなんでこうもキュングは人気なのか。ようわからん。

追伸です。近藤さんと三宅善信さんが並んでいる姿を想像しただけで、一人爆笑したわたしでした。濃いぃねえ。ごめん。

近藤先生、GREG先生、読者の皆様

朝起きてニューズを横目で見ながら、まずメールを確認。急ぎの返信を済まして、はやる心を抑えて(!)このブログに至れば場は大騒ぎ。

さて、例の会議ですが、恒例(会議が高齢)になるにしたがい駆け引きをしたり権威に利用される恐れがあります。そうでない限りは、私も今のところ平和の一翼を担っているなら(「もし実際そうなら」という意味)悪いことではないと思います。しかし、宗教者の真剣勝負(「刃物」の真剣の意味ではありません)の場であって、宗教「学」者の真剣勝負の場にはなりえない気がします。

と言うと、不遜な言い方になるのでしょうが、「学者が学を占有している」といった批判は素直に受け取ることができません。プロとアマが対話をし、心を通じ合いお互いに学びあうことはできますが、真剣勝負はできないのです。プロとプロ同士の真剣勝負は、時に刃物で切りあう様相を帯びますが、憎しみが沸くことは稀です。議論の土台となっている血の滲むような(大袈裟!)お互いの修行(学問的修行)を尊敬するからです。

そういったプロとプロの真剣勝負の過程(結論など出ないのが本物勝負)ないし結果なら、古典的で恐縮な理論ですが、「情報の二段階理論」の第一ステップとなって、学問の社会還元が進むと思います。学者の占有にはなりません。むしろ「有名人」という不思議な権威だけが、空っぽ頭の(またやったスミマセン Miriam 先生)ジャーナリストに利用されることを恐れます。

GREG先生、

「キュング」と聞いて寝ぼけ頭にはちょっと分かりませんでした。ちょっと関連のページを開いてみたらアーラやっぱりあの Hans Küng !!! GREG 先生、おっしゃるとおりどうしてでしょう? 私は彼の70年代のイカサマ仕事に噛み付いたことがあります。(もちろん面と向かってではなく、著作で。)自分の周囲、多分ドイツ語とフランス語圏の仕事だけを見て、英語圏の仕事を無視した偽データで結論を急ぐような人でした。しかし、私が知らない面ではいい人なのかも知れませんね。「権威が嫌い」と言うのが好きな「権威」者だと思っていたのですが。カトリックの空気の通りをよくした一人に数えられるのかも知れませんが、Karl Rahner などの働きのほうが素晴らしかった気がします。

旗が変わったことについて。
確かなことは、彼らの中にも合法的な移民とそうでない者がいます。非合法(密入国)の人たちの中にはドラッグその他の犯罪と深く関わる者も多く、それを苦々しく思うラティーノ移民も少なくありません。しかし、非合法入国の多くのラティーノは何時か合法的資格を得ようと努力しているわけで、星条旗は憧れであり、憎しみの対象ではありません。(滞在後無犯罪であれば、弁護士費用と申請費用、それに不法滞在期間の罰金を払えば、本当は永住権取得が可能な法システムになっています。このことは、あまり知られていません。費用はそれぞれ家族の数と不法入国の事情で違いますが、国への申請費用などは日本の高い印紙代と比べると意外と安いので驚くと思います。ともあれ、このような努力をした人が、棚から牡丹餅で権利だけ貰おうとする輩を快く思うはずがありません。)

ついでながら、アメリカには本国での宗教的弾圧を逃れてたどり着いた人が多いため、宗教的に違っていても争いは稀です。飛行機で今来た一世だけでなく、エリス島に何世代か前に着いた人たちでも、星条旗にはそういった思いがあります。(もちろん歪みは存在しますが。)

近藤先生、

Mastery の訳語ですが、了解しました。あのアサハラの空中浮遊(これは勿論いかさまですが)も心身統御。しかし、統とか御とか字面が怖い。印欧系言語もセム系言語も、「知る」とは「関係する」こと。強権的コントロールではなく、(知り尽くして)自由自在に利を図ることですね。そこではたと、日本語等では「心身」なのに、英語やドイツ語では「身心」が普通の語順、何か、、、(と、近藤先生風「、、、」で終わる)。それではまた、

早々

Mark W. Waterman, Ph.D.


Dear Warterman-san,

懇切丁寧なご返信ありがとうございました。

近藤さんへのご返信に割り込ませていただくと、わたしも宗教者と宗教学者とを混同せず、それぞれの場を育てることは大切だと思います。と同時お互いが相手の仕事を知っていることもまた必要でしょう。そのリンケージ(のすくなくとも重要なひとつ)が弱体化していることはやはり心配です。

たとえばわたしはキリスト者であるとともに宗教哲学・宗教思想を学んでおりますが、遠藤周作も悩んだような日本人とキリスト教という相克をいまだに抱えており、それが学びの推進力になっています。ちょっと古臭い人間ですね。ところが、いま大学部の神学部をみても、洗礼を受けている学生は少なく、また大学側も神学からキリスト教学(文化的な存在としてのキリスト教)に重心を移しつつあります。わたしは決して自己の立場を特権化するつもりは毛頭ありませんが、やはりさびしい気がしています。結局自分にできることは、宗教者と宗教学者をつなぐセミプロ風の媒介者かなあと思う今日この頃です。日陰者かもしれませんが。

キュングに関しては、まさにWatermanさんのご意見に同意します。たしかに彼の思想の源泉は独仏のヨーロッパに限られているようですね(量的には膨大ですけど―ちなみに共同作業の成果)。わたしは彼がすでに問題提起を深める道を断念してしまったように見え、それが困りものだと思うのです。断定というかたちで解答というか正答に自己同一化してしまった。いわば教祖化したわけですね。彼こそいってみれば道化的な振る舞いをできる能力も立場ももっているのになあ、とこうした事態を残念に思っているしだいです。

ヒスパニック系移民たちの旗についてはお蔭様で大いに学びました。単純化した自分の不明を恥じるばかりです。もうすこしミクロな視点を確保する必要がわたしにはあるようです。セミプロの「プロ」のほうをもうちょっと鍛えねばなりません(道遥かにして茨に満ちております)。恥しい思いをすることもよい勉強になります。ともかくありがとうございました。

切れ者であることをよくよく存じ上げあげているGREG師匠と(私が「師匠」と呼ぶ唯一の方です)、切れ者であることがあまりにありありと分かる Dr. Waterman のやり取り、おもしろいですねぇ。

大人の会話、、、って感じです。

近藤先生、GREG先生、皆様

寝そびれてしまいました。明日がつらい。理由は、近藤先生ご推薦の三宅善信氏のブログで同志社大学神学部長森孝一氏の「宗教対話の課題と展望」を読み唖然とし、同大学の神学部のウェッブサイトを覗き、またまた呆然となり、GREG先生が日本の神学部の事情を書いて教えてくださったことなどを思い出したからです。

このコメントの直接の対象は、近藤先生のこのエントリーに関わるのですが、多少の逸脱はご容赦ください。

私は、パウロのごとく面と向かっては至っておとなしい者ですが(cf. 新約聖書第二コリント10章1節)、普通のアメリカ人より嫌味な英語が書け(テニヲハがおかしいことはありますが)、多分、普通の日本人より日本語が正しく書けると思います。それなら、日本のこともよく知っているかというと、そうではないということを、またまた思い知らされました。

日本の神学が危篤!

まず、小さなデータ。

同志社大学神学部の専任教員は9人でした。内訳は旧約聖書系2名、日本キリスト教史2名、アメリカキリスト教史1名、キリスト教思想ないし哲学1名(これはGREG先生の専門分野ですね)、そしてイスラム学がなんと3名。

アメリカキリスト教史担当が森学部長ご自身です。私は、森先生の仕事は知っていました。いくつか読んだことがあり、よく調べていらっしゃると思った記憶があります。この先生のおっしゃる「待つこと」をしないのが根本主義者だというのは、言いえて妙。同感です。

しかし、キリスト教は、リベラルとファンダメンタルしかいないような、単純化した図式はいかがなものでしょうか。森先生がこの近藤研究室(ブログ)にいらして直接答えてもらえればありがたいのですが。近藤先生、迷惑ではありませんよね。

そして、森先生は、今はイエスが「史的」人間であるというのが定説で、キリスト(油注がれた神)だというのは根本主義者だけであり、両者の対話は成り立たないと述べられました。

ご自分でもリベラリズムとかファンダメンタリズムという名称だけでは誤解されることを懸念されてはいますが、世界のほとんどの仏教徒は「史的」釈迦は如来(神)であると信じ、ムスリムはアラーを神と信じている訳ですから、キリスト教徒のみならず、仏教徒もイスラム教徒もみな根本主義者というのが大まかな森先生の図式となってしまいます。

さて、新約学者は本当にイエスをキリスト(神)と思わないのが大勢でしょうか。イエス(Jesus でなく勿論 Yes)であり、ノーです。第一、プロの新約学者は、このようなつまらない問題設定をいたしません。

「ほとんどの」プロの新約聖書学者と言い換えてもいいのですが、本質は同じです。新約学者の集まりは、アンブレラ(傘)学会であるUnited Bible Societies ほか、日本の新約学会等たくさんありますが、森先生ご専門のアメリカには、会員が6千人を超えるSBLがあり、会員の半数は新約学を主専攻ないし副専攻とする学者と思われます。日本からも30人ほど参加されているはずです。

私も博士課程の前段階(日本で言う博前とは違います。博後の前段階。)を終える試験では歴史哲学を副専攻に取りましたが、執筆段階で新約学を副専攻にしましたので、SBLの会員です。このSBLは毎年、日本の宗教学者も多く参加しているAARと合同で年会を開きます。毎年11月で、今年はWashington, D.C.で開かれます。今読んでいる方でいらっしゃる方もいますね。

ところで、私はリベラルでしょうか、それともファンダメンタリスト?

対話をするしないで言うとSBLの会員は全員リベラル(liberalist? 大体この英語は何でしょう)になってしまうのでしょうが、イエスをキリストとすることになるとかなりの会員がファンダメンタリスト!

実際は、先年亡くなられたFunk博士の主催するJesus Seminar という極左(森先生の用語では「最左翼」)グループは、ほぼ全員確かにキリストとは信じていないでしょうね。聖書にある事項を、カラーボールで投票して「結論を急ぐ」乱暴な人たちですが、このセミナーの正会員(fellow)資格をご存知ですか。原則、博士号を持つ者に限られるそうです。因みに、本年5月、日本聖書協会の招きで来日した James M. Robinson と John Dominic Crossan はこのグループの正会員です。これは、いわゆる「最左翼」なのに、知らない人は本流だと思ってしまうでしょうね。

極左の数は氷山の一角以下もいいところで、もちろん同数の極右もいるでしょう。大多数はどちらにも付かず、またイエスはキリストかどうかといった漠然とした議論などしないでしょう。

宗教者の対話と宗教学者の対話は違います。
上記の極左であろうが極右であろうが、学会という場では対話が成り立っています。私は極左ではありませんが、この春は(とても寒かった)Jesus Seminar の fellowでいらっしゃるDr. M が主催する地方学会に出て仲良くやってきましたし、よせばいいのにその先生の下で論文を書いている日本人学生に役に立つ(本当です)助言をしてきました。

内心なんでこんな先生の所にと思ったのですが、今回の森先生の記事を読んでなるほどとも思いました。Dr. M は非常に保守的な大学を出たのですが、ハーバードのKoester (Bultmann の弟子と言えばわかりやすいでしょうか)の所で「左」になったそうです。もっとも、私の3人の師匠の一人もKoesterの弟子だが、不肖の弟子だったのかなあ、、、。


ただし、森先生のおっしゃるような対話なしが、先生の調査された80年代には、学会と称するところでも起こり、私の3人の師匠の一人(Koester の弟子ではありません)はその学会を(森先生風に言えば)リベラルのかどで追い出され、著作は一種の焚書的扱いを受けました。このことは、英語版Wikipedia でこの先生の名前を引くと出てきます(誰が書いたのか、あまりよくまとまった記事ではないので内緒にしたいのですが、どうしてもという人には教えます)。

しかし、これは純粋な学者の集まりではなく、宗教家の混じったものでした。そして、80年代は正にファンダメンタリストがTVなどのメディアと結びついて、飛ぶ鳥落とす勢いでした。これは森先生のお書きになったとおりですが、今はかなりこういった流行は廃れ、落ち着いているようです。

再び小さな統計。

なにしろ、同志社大学には専任の新約学者がウェッブページを見た限りではいらっしゃらないのですから、こういった話題はあるのでしょうか。神学部なのに新約学者がいない!

確かに、アメリカでも大きな神学大学院(Divinity School)は、博士課程になると、神学というより宗教学の様相を帯びてきます。ハーバードの40人ほどの専任教員のうち新約学者は1割で、イスラム学者、仏教学者、アメリカインディアンの宗教学者など多様なfacultyを備えています。エールも30人ほどのうち1.5割程度が新約学者。小さな神学部は2-3割も新約学者がいることがありますが、それは若手がギリシア語やアラム語などの授業までさせられているからです。

それにしても、新約聖書の学位論文はもう同志社から出ないということでしょうか。

日本の新約学が危篤!
そして対話もない。

嗚呼、日本の新約学、
Dr. Goro Mayeda はもう亡くなってから久しいが、Dr. Kenzo Tagawa, Dr. Sasagu Arai, Dr. Takashi Onuki, 最近オックスフォードから帰られた Dr. Atsuhiro Asano、あなた方の名前は海外で知られているのです。答えてください。

森先生もドーゾ。
近藤先生、かまいませんね?

朝が近いので、ワインは止め(運転できない)、お茶(狭山茶)と梅干を口にして寝ます。

皆様おやすみなさい。

Mark W. Waterman, Ph.D.

追伸

徹夜してもちゃんと7時に起き、昼はリトル東京でランチ、昨晩プリントをした森先生の日本文を眺めていて、あらら、森先生は「解放の神学」が今最も盛んな研究だとおっしゃる。おかしいなあ。専門の(私の本当の専門は神学原論)立場からはブームの去った思想運動なのに。

解放の神学は、ローマで学んだペルーのカトリック司祭・神学者 Gustavo Gutiérrez を代表として、共産主義的傾向のある南米から世界に及んだ運動ですが、60年代の第二バチカン公会議の開放(解放ではありません念のため)政策も幸いし、70年代には世界の心ある神学者にも支持され、さまざまな影響(良くも悪くも)を与えました。しかし、今では性、人種、貧困などを巡るそれぞれの社会・政治運動に吸収され、神学としての求心性はないと思います。(日本にはあるのかも知れませんが。)

しかし、データ、データ、データがないと、、、。

晩御飯の後、

早速、私の所属する図書館(もうどこか分かった人もいるでしょう)を調べることにしました。この図書館は神学書に関しては、西海岸の拠点図書館なので新しい本なら(悲しいかな、東海岸のような歴史がないので古いものは弱い)たいてい手に入る。えーと、「解放の神学」と、、、。キーワードを入れると出てくるは出てくるは、その数460冊。スゴイねー、こんなに持ってる。英、独、仏、勿論スペイン語、更に、韓、中、あっ日本語の本もある!

簡単な統計。これを年代順に並べます。

1971-1980 81冊 始まったばかりですからね。
1981-1990 208冊 ウァオー ブームだねー。
1991-2000 151冊 下火かな。
2001-2006 20冊 あらら、5年しか経たないといってもこれではね。

皆さん、森先生と私と、どちらを==ますか。

森先生の言うリベラルも実はよく分からない。どうも内容からすると、我々専門家の言う liberal Protestantism のような気もするのだが、それなら姉崎の東大宗教学科創立の頃の理念であり、百年以上前のもの。神学思想の流れを著作の流れで見ていると20年から30年でいろいろなブームがある。(学問にもブームがある。)

例えば、森先生が出されている二人の名前のうち、橋本滋男先生のプリンストンでの博士(Th.D.)論文は、1960年代のブームでした。従って、手堅い、専門的な論文だったと思います。尊敬します。題は、The Function of the Old Testament Quotations and Allusions in the Marcan Passion Narrative で、内容はマルコ伝14-15章の聖句の旧約聖書の影響を検討したものです。現在、我々英語論文屋の99.99パーセントは Markan と綴るのですが、橋本先生のは Marcan !!! (これも時代の反映です。)

それにしても日本は、人文科学の分野なら学問的プロより有名人が教授になるらしい。有名人が本を書くと売れる。アマとプロの区別がつかない、というよりアマチュア天国の日本。大体、教授の学歴さえ公開していない大学が多い。普通は学歴などどうでもいいのですが、大学教授に学歴がなかったら無免許運転ではありませんか。「イエス伝」物などは、確かに昔から欧米でも素人が書いた。ただし、読むほうも小説だと思って読んでいる。ところが日本では、聖書の素人が書いているのに、教授が書いたから「本当のことを書いている!」。噴飯!!!

再び、統計。

笠原某著「==逆説==」はよく売れたらしいが、東大図書館も東神大図書館も買わなかった。5年後、彼が荒井献らと同種の本を同じ出版社から出すと、東大図書館も東神大図書館も買った。(少しは、日本も分かっているのかな。)

無名のプロ(何の、、、)

Mark W. Waterman, Ph.D.

追伸の追悔

プロとかアマとか、字面から傷つく読者もあったかなと悔いています。言ったことを取り消すつもりは毛頭ないのですが、対話には思いやりも必要で、若い学生相手なら細心の注意は肝要。

夕食後、送られてきてからほって置いた学士会会報7月号(859号)を見ていると、清成忠男先生が、「教養教育の再構築」という題で、短いながら役に立つ情報を載せておられる。まさに「教養なき専門家(プロのこと)、瑣末化した専門家は手に負えない」時代になりました。

清成先生は、もちろん日本の大学教育の教養(これぞ本当の「リベラル」)教育の改革と充実について述べておられるのですが、アメリカについて次のように書いています。

伝統的なリベラル教育はアメリカの強みであり、わが国の教養教育より質が高いといわれ続けてきた。それを、さらに「アメリカの前途」のために強化しようというのである。(p19)

その背景は、清成先生を読んでいただくとして、日米の教養教育の顕著な例を一つ取り上げたいと思います。(宗教学とも関係します。)皆様、日本の医師育成教育はアメリカに比べて短い促成栽培であることをご存知ですか。ご存知の方が多くいらっしゃると思いますが、念のために申し上げます。

アメリカの教養教育

日本は、俗に言う医進課程2年の教養教育を終えて4年間の専門教育を修了すると医学士になります。しかし、この学位名の英語表記は慣例的にM.D.すなわち doctor of medicine です。日本から来る医学部医学科卒業者はM.D.と名乗っても日本の出身大学お墨付きですから咎められません。(本当は学歴詐称ですよね。)他方、アメリカでは、学部の生物学系で4年間の教養教育を<かなりの好成績>で卒業し、学士号(B.S.)を得た者が4年間の医学大学院(Medical School)に行き、修了してはじめてM.D.です。ところで、(日本もここは同じですが)この段階の医師はまだ general physician、専門家 specialist になるには更に数年の修行が必要です。なお、医の倫理は学部教養教育に含まれています。

すでにお分かりのように、アメリカの大学4年間は、要するに教養教育の4年間であり、かつて2年間の教養部(教養学部)教養課程が、がんばれば1年で片付きそうな中味の薄い日本の教養教育とは根本から違っています。しかも、日本の大学4年間には教職免許などの単位も含まれたりする訳ですから、純粋な教養教育の中味は更に薄まります。

本当はアメリカでも、学部4年の中味が大学の質と格であると考える人は少なくありません。だから、学部4年はマンモス化したアイヴィーリーグではなく、伝統のある小大学、例えば Amherst, Wellesley (女子大), Williams などに入れるのを好む親御さんもいます。

問題はあります。アメリカの教育は、門地によらない meritocracy(適訳考えてください)の夢を育てるはずが近年は東部brahmin(適当に訳してください)の独占。金持ちでないと立派な教養教育を受けることができないとの批判。しかし、これは言いすぎだと思います。貧乏人でも東大に入れるように、貧乏人でもあのバカ高い学費のハーヴァードに入れる道はたくさんあります。アメリカの多くの州で公立は高等学校まで学費は只。カリフォルニア州は本当に何もかもタダ。お陰で勉強しない生徒も多く、卒業試験に受からない。

カリフォルニア州には高等学校の卒業試験があり、受からないと単位が揃っていても中退になります。日本には博士課程中退なんてわんさかいますが、カリフォルニア州には高校中退が多くなったので、能無し教育委員会に梃子を入れる法案が先日通りました。立役者はロスアンゼルス市長、メキシコ移民の子、Mr. Villaraigosa(ヴィヤライゴーサと発音)です。アメリカには敗者復活の道も多く、その気があるかないかです。Mr. Mayor 自身、高校で挫折した後、UCLAを出て法律家になっています。(そう言えば、僕は挫折の連続だ。)この市長は民主党のはずですが、教育改革といい、飛行場労働者の最近のストへの毅然とした態度など、あれっ、本当は隠れ共和党?

優れたアマが優れたプロ

これもアメリカの制度ですが、GPAという学業成績のポイントが大学院入学の要のひとつです(他に適正試験など)。教養教育で優れた成績を修めた者が専門教育を受ける(大学院に行く)資格です。かくして、優れたアマが優れたプロを作る素材となります。ただし、プロの学位には職業学位と学術学位があり、大学教授は今では博士の学術学位が必要条件です。(法学で言うと、J.D.は博士の学位ですが、法律実務家の学位であり、修士号であっても学術学位であるL.L.M.のほうが上にランクされています。LLMからはそのままPh.D.あるいはPh.M.という中間学位を経由してPh.D.となります。)余談ですが、UCLAなどにはPh.D.を終了直前で flunk out した学生用にPh.D.そっくりの略号の学位を名乗らせています。(優しい心遣いだな。)直前での落第は千差万別で、論文に強力な反対者がいて通らなかったというかわいそうな人もいますので、実力のある人も多いと思います。日本でこの学位で教えていらっしゃる実力者もいます。

さて、私の前のコメントで気になっていたことですが、「学歴がない」とは学歴の「記載がない」ということで、教授のプロファイルに学歴がないのは大学の案内としては欠陥案内です。ひょっとして本当に学歴のない無免許教授が教えているのかと勘ぐってしまいます。どこで教養教育を受けたのか、プロの教育ないし修行はどうだったのか。教授のそんなことも調べずに大学院に行く学生はアメリカなら稀でしょう。

「学歴だけがイッチョ前」でも仕方がないとして、学歴のない先生がプロまがいを育てる日本は、大本が教養教育にあったのかもしれませんね。

Mark W. Waterman, Ph.D.

Dear Warterman-san,

森先生はじめかの諸先生方から、たとえこのブログではないとしても、なんらかの応答があればいいですね。

さてWartermanさんの刺激的で鋭敏な感性に満ちたご論考に触れて、わたし自身ふと思いついたことをメモ代わりに記しておきたいと思います。お許しください。

わたしの場合、きわめてありふれた超世俗的な日本人家庭で生まれ育ち、成人洗礼でこの世界に入ってきた人間なので、いわばモダン(?、、、「左派」という言葉は学史的にも理解できるのですが、いまではあまり千三滴ではないかも)なキリスト論には慣れていました。こういった対立軸はデフォルトで設定されていたというか。。。

神学も学として理性に立脚した営みですから、世俗的とはいえども世の常識を理性的に理解して、なんとかそれを消化しようという営為が現れてきても可笑しくはありません。イエスをキリストと認めない方向性もここに位置するのでしょう。

しかしこうした傾向が突出している場所というのはいまだ少ないのでは。日本はその例外的な場所かもしれません。それはひとつに日本が非キリスト教文化圏なので、一種の(混乱含みの)実験場として自己理解されている面や、あるいは過剰適応的にあまりに西洋的(つまり自分で考えることなくコピーで安心してしまった)な歴史に対する意識的・無意識的な反応が影響している面が関係してくるでしょう。

わたし自身はキリスト教信仰の根本精神をあまりに軽く捨て去ってしまうような「イエス非キリスト説」に全面的に与する気はまったくありません。と同時に、日本の知的風土からは従来のイエスはキリストかいなかという視点そのものを相対化あるいは止揚する視点獲得への実験を歓迎したいという気持ちもあります(それをポストモダンといってしまえば身も蓋もありません)。

たとえどれだけ成功しているかといえば心もとないにせよ、たとえば滝沢克己から八木誠一に至る場所論的神学には、そうした古典的相克とは違う一面を描写予覚したいという願いが垣間見られ、わたしはそれを正当に評価したいと考えています。こうした成果はやがて英訳されるなりして、真価を問われていくことになりましょう。

また宗教家と宗教研究者の住み分けも合理的だと同意できると同時に、やはりわが身を省みても微妙な点を否定できません。また両者の関係も時代によってかなり揺れ動くものでしょう。中世・近世期のヨーロッパでは宗教はキリスト教に特化し、両者の関係はいまの医者と医学者の関係に類するのかもしれません。いまは文学(創作者)と文学者(研究者)くらいに離れている?他方、物理なのではこういった区別そのものが成り立ちませんね。実験屋と理論屋の違いがそれに相当するのでしょうか。

個人的には、いわゆる「左派」的な発想に理解を示しながら、「にもかかわらず」両者を超える次元に期待を持ちつつ、従来の正統の流れに留まっていくつもりです。あるいは意地悪く言えば、まともな「左派」が育つようにあえて「悪魔の代理人」的に留まるというか。白黒つける論争よりも、逆説にたえるなかで自分あるいは自分を含む身近な社会のなかで熟してくるものに魅力を感じるようになっています。わたしはもう宗教家になってしまったのでしょうか。

まあ、そもそも信条のたぐいを見ても非合理なほうが時代経過の疲労に耐えうるようですから、非合理、超合理的に行くしかないか。。。

以上、あくまで個人史にもとづく自己理解です。他人様に開陳するようなものではなかったかもしれず、ゆえにけっして一般化するつもりはありません。ただ、日本のような社会ではこうしたパターンが結構ありうるし、まさそれを拒絶してしまえば、面白みが失われてしまうような気がします。やはり神学も理性以外の情意を備えた人間の営みですし。

また、ご指摘になった日本の神学界のおける「遅れ」ですが、これは周回遅れのランナーともいえる特徴でしょう。遅れたものの優位性を活かせるような遅れならばよいのですが、無知ないし開き直りではだめですね。結局それぞれの流行が問題意識を提供する先にたる普遍的課題が明瞭でないからでしょう。もって自戒の念としたいと思います。

ちなみに同志社の博士課程には歴史神学コースしかなかったのでは(かつはそうでした)。つまり聖書学などは「外」で取って来いのが基本姿勢なのでしょう。こうした姿勢が聖書学(さらには教義神学さえも)を「敬して遠ざける」結果になったことはたしかでしょう。わがカトリックでは、むかしから聖書学はいまいちです(聖書は信仰の源泉として最重要でありつつも唯一のものではありません)。。。

教養(ことに庶民の教養)に関しては身体的な要素が重要だったので、学校での教養「教育」はどだい最初から無理が多いのだと思います。わたしも長年教養教育の教員だったので、悩みが深いです。ちなみに日本では博士学位はあまり役に立ちません。よって学位の細かい区別も意味がないようです。それよりもよい大学(東大のような)を出ることが大切です。わたしは田舎の私立大で学位を取得したのですが、学長自身から「うちみたいなところで学位をとっても、そんな人間なんか用無し」といわれた経験があります。

ではこのへんで。いろいろ自問自答する切っ掛けを与えてもらい感謝しています。わたしのようなチンピラではなく、もっと責任重大な人から応答があればいいですね。ではでは。

GREG先生、

本当に丁寧で真摯なレスポンスをありがとうございます。おそらく偉い方からの反応はないでしょうし、あったとしても先生のように正面からの反応にはならないおそれがあります。先生からのメッセージが、この近藤先生のブログの読者に資することを願っています。

先生からのレスポンスに更に申し述べることはありません。しかし、自分がコメントしたことに対して更に説明したいことは、次の2点です。

問題としたことの一つは、何々「神学」の研究というとき、往々にして「神学」とは無関係のものに「神学」と名づけることです。

解放の神学も神学であった頃は別にして、神学と銘打っても神学とは縁もゆかりもない論考が神学であろうかということです。キリストの使信との関係がなくなれば、単に政治学的・社会学的論考となってしまいます。キリストの使信の中で、キリストの使信の外で、キリストの使信に沿って、キリストの使信に反して、etc. キリストの使信との関係で性の問題であろうが、人種の問題であろうが、しっかりと論じられて初めて「神学」となるでしょう。

Cf. “Theologie ist Nachdenken über den Glauben und damit Nachdenken über den als gültig anerkannten Wharheitsanspruch der christlichen Botschaft.” Ferdinand Hahn, Theologie des Neuen Testaments, Bd. 1, Mohr Siebeck, 2001, St. 1.

そうですか、同志社は歴史神学だけですか。知りませんでした。もともと聖書学の博士課程はないのですね。外で取って来い、とは内部で教育するfacultyが元々存在しないということですね。分かりました。外で取ってくるレベルはどの程度なのか気になります。現在のアメリカの場合は、聖書学専攻のMAかMDivが必要条件のようで、ギリシャ語とヘブル語の両語の修士段階の成績が原則Aか悪くともA- が歴史神学に進めるようです(学校により差はありますが)。

ところで、アメリカの神学部にくる日本からの若者を見ていますと、とくに牧師の子息で経済的にも恵まれた方々ですが、聖書には興味がないようです。聞くと、聖書の勉強はもう終わった(!?)と言います。博士を取って帰るんだというので、何を勉強するのですかと聞くと、キリスト教教育とか比較文化のほうが面白いし、語学の必須条件がいやなのでそっちにするそうです。サポートしている教会員の方々が、坊ちゃんは(あるいはお嬢さんは)イエス様の勉強をして帰るのだと信じているのでしょうに。


学びに聖書が基本であっても、確かに聖書だけではありません。ところで、日本ではやたらと非正典研究(偽典という差別的な用語を嫌ったケスター先生らの用語)が盛んですが(近くに日本から来て非正典で論文を書いている人がいます)、正典そのものに真剣に取り組んだうえで正典成立の歴史をみる見方と、非正典が悪意をもって隠されたと勘違いして取り組む場合とでは、成果のほどが甚だしく異なってくるでしょう。時間が掛かっても正典にある程度取り組んでから非正典研究に進まれることを願っています。

ここで学位を取っても何の役にも立たない、とは何という言葉であるかと憤りを覚えます。また、何という学問事情か。アメリカでも確かにどこで取ったかは気にする人もいますが、アクレディテーションという相互審査があるので、どこで取っても同じという了解もあります。それよりも学位は免許であってその後の運転のほうが大事になってきます。(私も本業の書き物をしなければ、・・・。)

二つ目、宗教者と宗教学者の区別ですが、アメリカでもどこでも確かな区別はなく、宗教学者の多くは宗教者でもあります。ただし、宗教者は必ずしも宗教学者ではありませんよね。自分で理解している宗教学者の役割は、後世のためにも論考を残すこと、そして現世に対しては理性的なオピニオン・リーダーであることだと思っています。このオピニオンリーダーは、ジャーナリストの対極にあるべきだとこの頃考えています。宗教者あるいは宗教学者がジャーナリストになることを憂いています。

GREG先生、本当にありがとうございました。八木氏と故滝沢氏については、機会があったら個人的感想を申し上げることがあるかもしれません。
読者の皆様、ここまで読んでくださって感謝します。
大家の近藤先生、ご迷惑をお掛けしていませんか。ともかく、ありがとう。

Mark W. Waterman, Ph.D.

Wartermanさんからのメッセージはとても励みとなりました。ありがとうございました。

 先日、なにげなくテレビを見ていたところ、懐かしい岡本太郎(「ゲージュツは爆発だっ!」の画家・彫刻家)が出ていました(もちろん昔の番組の再放送)。「いま、だれもが気に入られよう、気に入られようとしている。そんなことじゃだめなんだ。嫌われようとも自分の道を進むんだ」みたいなことを言っていました。

 聞きようによってはじつに青臭い言葉でしょうけど、やはり彼の表情と口調から出てくると、その言葉に真理の力が感じとれますね。ここをご覧になっている方々への励ましとして、ちょっと書き込んでおきます。
 研究者(もちろんどんな職業、立場でもよい)なら、飼いならされずに尖がってまいりましょう。予定調和的な「正答」ではなく、破壊的な「問題提起」を! ではでは。

WCRP8についてご紹介いただきありがとうございます。WCRP8の関わる(ずっとWCRPに関わってきた)者として、本大会に対するコメントを『神道フォーラム』9月号に、『原理主義者を対話に引っ張り出す』(http://www.shinto.org/isri/jpn/forum/forum11/miake.htm)と題して、掲載してますので、ご一読いただければ幸いです。

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