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2008年12月の記事

2008年12月19日 (金)

近代とはなにか、近代性とはなにか

ついでに ウォーラーステインからもう一丁。

「近代」とは、資本主義的世界=経済のなかで発達した習慣、規範、実践のなにもかもをそこに放り込んで表現するための言葉である。 近代とは定義上、真の普遍的価値(ないしは普遍主義)の体現であるため、それは、単に道徳的善であるだけではなく、歴史的必然性であるということにもなった。 非ヨーロッパの高度文明には、近代、そして真の普遍主義へと向かう人類の歩みとは両立しないものがあるにちがいない、ずっとそうであったにちがいないというわけである。 ヨーロッパ文明――それは本来的に進歩的だとされた――とはちがって、他の高度文明はその発展の軌跡のどこかで〔進歩が〕凍結してしまい、したがって外部の力による(つまりヨーロッパによる)指導がなければ、どのみち近代へと自己を変革していくことはできないにちがいないということだ。 (イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義:近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』山下範久訳,明石書店,2008年,74頁.)

僕の考えでは、もう少し 近代としての特徴というものは、実在すると思うのだが、ともあれ とても参考になる一節。

近代性と資本制

久しぶりの、きわめて!久しぶりの投稿で、いきなりなんですが、メモの一部を切り貼り。

資本主義的な世界=経済の諸々の特殊性のひとつに、固有の認識論の発達がある。 資本主義的な世界=経済は、それがシステムとして機能しつづけられるための、鍵となる要素として、その認識論を採用した。 私がここに論じてきた認識論、モンテスキューが『ペルシア人の手紙』で指摘した認識論、サイードが『オリエンタリズム』であれほど激しく論難した認識論は、まさにこれのことである。 二項対立、特に普遍主義(それは、支配するものの側の諸要素に具現化されていると主張される)と個別主義(それは、支配されているものの側に帰属せしめられる)のあいだの二項対立を実体化したのは、近代世界システムにほかならない。 (イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義:近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』山下範久訳,明石書店,2008年,102-3頁.)

近代性と資本制 という ずっと悩んできた問題が ウォーラーステインの再読で、ちょっと切り口が見えたというお話です。

ここでのポイントとしては、私見では 「近代性」の根幹が 認識論にあるという。

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