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2009年4月12日 (日)

追悼

あなたが亡くなってから、もう大分の時間がすぎました。

僕にとっても、この一年は とってもとっても大きな変化の時期でありました。

あなたなら、そんな僕を見て、厄年なんてことをおっしゃるでしょうね。 そして僕も、そんなこともあるのかなぁ、、、なんて のんきなことを考えていたりするわけです。

そんな情況にあるからでしょうか、日が経つにつれ、あなたの存在は 僕のなかで大きな意味をもつようになってきました。 折にふれ、あなたのことに思いをいたすことが増えてきたように思います。

存在の深い深いところについての 手触り感覚をもった人だった、と僕はあなたのことを思っています。

それがまだ表現されないうちに、あっさり逝ってしまわれた。

いま 僕があなたに送るコトバは、どうしても中沢新一になってしまうのです。

中沢先生について、あなたとお話ししたことはありませんでした。 あなたは何とおっしゃるでしょうか。

意外と、、、 評価なさったりするのではないか、、、 なんて夢想したりもします。

男の体をもったまま(なぜならキリスト教の神は男なのである)徹底的な従順さをつらぬくことによって、完全な女性化(フェミニザシオン)をめざしたイエス。彼はそれをとおして謙遜のたいせつさを教えようとした。「このオカマ野郎」。そう、彼はひとりのオカマとなることによってひとつの文明をつくりだしたのだ。「男」と「女性化をめざしていく男」によってつくられる世界。すべてがここから生まれる。 (中沢新一『幸福の無数の断片』河出文庫,河出書房新社,1992年,41頁)

ぼくはこの世界に未出現のものにつながりをもっている。その未出現のものをこの世界に出現させるために、そしてただそれだけのために、自分の人生はある。ほかのことは、たいして意味はない。実現されてしまった現在には、たいして関心がない。実現されなかった過去と、まだ可能性だけの未来にしか、ぼくは興味をいだくことがない。 (中沢新一『ミクロコスモス Ⅱ』四季社,2007年,194頁)

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コメント

 近藤先生、お久しぶりです。
 
 厄年の上に大事な方を亡くされて、踏んだり蹴ったりですね。おかけする言葉もございません(/_;)


 宗教について、あまり多く描きすぎるとすべてが嘘っぽくなりますよね。中沢新一しかり。アウトラインはすごく理解できるのですが、詳しく説明されるとみるみる理解が零れ落ちて、てのひらに残るのは、こびりついた砂だけって感覚になります。(私の勉強不足は否めないのですが…)こころにずっしりとした重みがある理解は、いったい何に隠されているんでしょう?はたしてそういった理解が宗教のなかに存在するのでしょうか。
 
 そういうことを考えるとき、ことばについて、ついになにも書き残せなったソシュールに気持ちが飛んでしまうのです。構築された理解を超える何か、「神の領域」としか言いようのないものの実態について、ひとは何を知ることができるのでしょうか。
 
 


u.yokosawa さん>
コメント ありがとうございます。
宗教を「論じる」というのは、まさにおっしゃるとおり、誰であってもむなしいもので、、、 宗教学者は だから随分因果な商売なわけです。
これは、中沢先生だけに限ったことではないなぁ、と思うんです。
それでも、その空しさを忘れられるような、語るべきことの衝迫を内側にもっているか、もっていないか、、、そのあたりで 多作と寡作の論者が 生まれてくるように思います。
中沢先生は、そこが特徴的なんでしょう。
==========
宗教学会として、中沢先生については、まともな論考がほとんど皆無であるのは、まったくご存知のとおり、オウム事件以降、以前にも増し増し増して、タブー視されるようになったからですよね。
ちょっとこのブログで 論じてみようかな、、、って思っています。
また訪問いただいて、ご意見など聞かせてください。
==========
【お詫び】
大変失礼なのですが、u.yokosawa さんというお名前で すぐにお顔を思い出すことができません。
何か、、、ヒントをいただけませんでしょうか。
本当に、本当にすいません。
(S大学の院生の方・・・?)

  
 先生のおっしゃるとおり、中沢氏が宗教について(というよりひとと宗教の関係について)わかりやすく納得しやすい形で指示していることはわかります。しかしそれは宗教の本質や起源、社会との関係といった、いままでの宗教学(がしてきたこと)とは違うジャンルに分類されてしまうのですよね。
 現代の「誤った資本主義病」の特効薬として宗教の存在は小さくない。でもそれを、たとえばローマ教皇が説いたとしても現在では意味をなさない。学問こそが突破口になるのかな…と感じているのです。でも、そうなると宗教学という学問自体の変革を意味してしまう。学問としての宗教の変革は望めるのでしょうか。それとも、それはありえないのですか。いままでしてきたとおり、これから出現するであろう宗教について、解説をしていくことが宗教学の役割なのですか?先生がおっしゃていたとおり宗教学は文学とは違うから。


ヒント 昨年度1年間教室で講義を受けていました。

u.yokosawa さん>
はいはいはい(*^-^) ヨコサワさんですね、わかりました
お元気ですか。昨年度は授業を大いに盛り上げていただいて、こちらこそお世話になりました。
今年は本校のほうには、いらしてないんでしょうか。お時間のあるときにでも、どうぞ遠慮なく 顔をお見せくださいませ。
==========
宗教学、、、という学問分野=アカデミー制度の帰趨はさておき、大事なのは「思索」そのものであるように思います。
つまり、ちゃんと 根源的に しっかりと考える、ということです。
想像力/妄想力すら、そこでは必要になるでしょう。
宗教学という分野=制度云々もありますが、 それをも含みこむ より総合的な「知性」の領域への、颯爽たる斬りこみ ―― これこそが、僕のもっているヴィジョンです。
そこでは、当然 宗教学も刷新され、活性化されるでしょう。

 あ゛~!先生に先にあいさつさせるところが実にわたしっぽいですよね…。大変失礼をいたしました。昨年度は大変、大変お世話をおかけいたしました。しつこい初歩的な質問に根気よくお応えいただいてとても勉強になりました。


 突然ブログが赤くなって、死人の話になっていたので少々びっくりいたしました。うちの上のいわく「犬が死んだ!?」っておい、犬に中沢新一はないだろう…ということでお邪魔してみました。
 
 今は卒業に向けて(残っちゃった単位を取るために)あくせくしていて、なかなか好きな勉強という訳にいかなくなっています。でも哲学と宗教はライフワークとしてやっていきたいと思っているので、またいろいろと教えてください。しかし、読んでる本が中沢新一と木田元だと…ミーハーの局地かも。

 

 

ブログのデザインは 季節感を大切に (笑) ときどき変えるようにしております。 しかし、、、「真っ赤」 を選んだとき、もしかしたら 何か 無意識的なもの がはたらいていたのかもしれません。
(無意識は、いつも 宗教的ですね。ほとんど神秘です)
===========
何なりと、ぜひまた お話しをきかせてください。
お忙しいでしょうが、 お待ち申し上げております。

近藤さん

 ごぶさた……でもありませんね。S先生の還暦のお祝いのときにお目にかかりました、研究室の後輩のHTです。

 このエントリ、書かれた直後に読みましたし、その後も何度か読み返していたのですが、コメントをつける勇気がなかなか出ないまま時間が過ぎました。


>そんな情況にあるからでしょうか、日が経つにつれ、あなたの存在は 僕のなかで大きな意味をもつようになってきました。 折にふれ、あなたのことに思いをいたすことが増えてきたように思います。

 ここのところ、「私もまったく同じだ」と思いながら読ませていただきました。今も故人の小さな言動の一つ一つを思い出すごとに、「あれはこういう意味だったのだろうか、ああいう意味だったのだろうか」と考えてしまいます。

 彼のことは、なかなか人とは話せません。生前の彼を知っていた人と思い出話を共有したいという気持ちはあるのですが、できないでいます。デリケートな問題を大量に抱えている人でしたから。亡くなった方のプライバシーって、どの程度尊重したらいいのか、なかなか見極めが難しいですね。本当なら近藤さんにも話したいなと思うエピソードがいろいろあります。

 故人はほんとうに、いろんなことを話してくれました。「あの話は私だけに打ち明けてくれたんじゃないかなぁ」と、自惚れたくなる気持ちもあります。でも、「ドラマ・クイーン」を自称していた彼のことなので、案外誰にでもホイホイ話してたのかもなぁ、と苦笑いしてしまうこともあります。

 さしあたって問題なくお伝えできるのは、次の二つです。一つ目は、彼は近藤さんに好感をもっていました、ということ。三人で映画を見に行ったときのことを何度も話していました。楽しい思い出になったようです。

 二つ目は、近藤さんの研究をうらやましがってていたこと。平和学という、明らかに人類の役に立つことをやっておられるからだそうです。「それに比べて僕のは……」とか、例によってグチグチ言ってました(笑)


 私はごく最近、近所の教会に通いはじめました。「折にふれ、あなたのことに思いをいたすことが増えてきたように思います」という近藤さんと同じで、彼のことをいろいろと話したい、考えてみたい、という気持ちがいまだに鎮まらないからです。ひとりでは重みに耐えられなくなった、ということもあります。ちなみに彼が生前非常にくさしていた、「白いレースのカーテンとか家につけちゃって、娘にピアノ習わせちゃうような戦後日本の教養主義プロテスタント」です(笑)。もし自分のなかで何かが固まり、時期がくることがあったら、教会の一員になることになるかもしれないとも考えています。


 二十代前半のころに研究室で彼や近藤さんと親しく言葉を交わすことができたのは、思い返してみれば幸運なことだったと思います。授業などでお忙しいようですが、近藤さんもお元気で。

HT (オタケ) さん>

コメント ありがとうございます

どうも いつも読んでいただいてるとは、、、
こんなブログをやっといてなんですが、やっぱりハズイですねぇ、、、

さて、、、
このエントリが書きたくて、ブログを再開しました
最近やっている中沢論も、故人のことがなかったら、やらなかったと思います
僕にとっても、大変思い入れの深いエントリです

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