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2009年4月25日 (土)

思想の罪、思想家の責任

前のエントリ からつづく

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島田裕巳先生は 中沢先生に、 オウム真理教に関する説明責任を問うてらっしゃる

島田先生は つい最近、 自ら翻訳にかかわった 『タオ自然学』 の出版事情、またその受容と影響についてのフォローアップをなさっている

その種の説明責任を みずから果たしていこうとなさっているのだろう

ただ、 ヒンズー教の神、 シヴァ神のダンスというモチーフは、 カプラにこの本を執筆させる動機にもなったものだが、 どうしてもオウム真理教のことを連想してしまう。 オウム真理教の信者となった人間に、 『タオ自然学』 の影響があったことは間違いない。 その点を含め、 『タオ自然学』 が生んだもの、 影響を与えたものを、 今一度問い直す必要があるのかもしれない。

島田 「 『タオ自然学』 の三〇年」 渡邊 直樹 (編著) 『宗教と現代がわかる本〈2009〉 』 (平凡社,2009年),241頁

そして 中沢先生だが、 ご自身で 次のように述べておられる

麻原彰晃の座右の書というのは 『虹の階梯』 という本と (笑) 『富士宮下文書』 。

いとうせいこう・絓秀実・中沢新一 『それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド』 (太田出版,1995年),32頁

だから、 島田先生の要求は もっともなのだ

そう、、、 それはもぉ 全くもっともなこと だけれども・・・・・・!

中沢先生は今や、 語らないことを 主体的に 選んだのかもしれないなぁ、 と僕は思ってしまう

「真意をけっしてあからさまに言わない、表現することによって隠す」 (前掲)

対話のモラルと所作は 失われたのかもしれない

これは もちろん小さな問題ではない。 しかし、、、

このすれ違いについて 性急な意見は述べるべきでない、 と僕は思う

そこには 「思想の罪、 思想家の責任」 とでも呼ぶべき 大変複雑な 事情があると思われるからだ

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しかし一点だけ! 書いておきたいことがある

<つづく>

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コメント

 ものを書くものにとって、とくに学者や研究者には、自分の持つ信念みたいなものと、その信念と反対にあるものを常に持っているべきだ、とわたしは考えています。そうすることが、自分の書いたものを独り歩きさせたり、まったく意識しないところに直行してしまうことを防げるからです。(それがおもしろかったりすることもあるのですが・・・)

  宗教についてはこういったスタンスを保つことが非常に難しいですよね。そもそも度量が深すぎて、立ち位置の確認さえ危うい。そこが宗教学に課せられた重い荷物となるし、足をすくわれる原因にもなる。書けなくなるのは当然です。また、逃げ道を探すのも無理でしょう。でも、社会的に与える影響度合いをかんがみると、そのありようについて深く考察すること、反省することはそのつど当然必要になる。そこのところの(お二方の)、表現のしかたの違いなのかな・・・とおもっています。

  さて、今回わたしは『オウム真理教信者への手紙』というのを参考に読ませていただきました。(この資料大丈夫なのでしょうか?)そこでは、中沢氏がご自分の意見をわりとストレートにおっしゃっているようにおもいます。中沢氏がオウム真理教(麻原彰晃)に期待していたこと自体(ラジニーシのようなタイプのラジカルな宗教家の出現をねがうこと)は宗教学者としてはしてはいけないことだったのですか?


  まったく違う話題で恐縮なのですが、近藤先生の笑いのセンスについて。
 「鈴虫はゴーヤを食べると死ぬらしいよ」
 「えぇー!?水虫はゴーヤを食べると死ぬの!!さすがが大学の先生はものしりだね。ゴーヤか(鼻息)」
 そりゃすごいや・・・。  

yokosawa さん>

コメント ありがとうございます。

思想は破壊的な帰結をもたらすことがあります、 明らかに!
しかしながら、 それを生み出した思想家は どこまでそれに責任をもつべきなのでしょうか。
もちろん! 破壊のための思想を ねらって (!) 生み出した場合、 責任は明確です、、、 しかし、、、
思想というものの性格上、 そこが いつも 明確に確定できるわけではありませんよね。

だからこその 説明責任 という概念になってくるわけです。

科学的な発見や技術が まさにそういうことですし、
人種主義や進化論、 ドグマなんかも どこまでも 同じようなものです。

中沢先生についていえば、 『オウム真理教信者への手紙』 がいま手元にないので、 とりあえず 真正面からの応答は ご勘弁下さい。
ただし、 オウム事件直後、 いくつかのメディアで 中沢先生は、たしかにお考えを披露しておいででした。

島田先生は、 それをまったく不十分、、、 やや厳しくいえば まったく不誠実、、、と 判定されておられるわけです。

中沢先生によるラジニーシ論、 麻原論、 オウム論についても いま手元に資料がありませんので、 ご勘弁ください。
ただし、 ラジニーシについては、あまり知られていない事実を記させてください。
アメリカでの裁判沙汰は有名ですが、 渡米する前の彼は インドでも 大変な論争と騒動を巻き起こしていました。
それはそれは 深刻な 対立が そこにはありました。
現地のメディアや批判者は、 そうしてインドにいづらくなったので、 アメリカに逃げ出したのだ、、、 と解釈しているほどです。
(後に、 アメリカにもいられなくなって、 彼はインドに戻ってきますね)

ラジニーシが 「そもそも 根源的に 絶対的に」 悪である、、、 などと言いたいのではありません。
しかし、 社会の (この場合、20世紀半ばの印米両国の) 多数派にとって それが大変不快な、 そういう意味で 「害悪」であったことは、 紛れもない事実です。

中沢先生は、 これらのことを 完全にご存知でしょう。
その上で、 ラジニーシを期待する、、、 とおっしゃっているとするなら、 かなり確信犯的なわけです。
つまり、 確信犯的に 日本社会に 「野生」 による撹乱を 引き起こしたい、 と願っていた (いる?) ということです。

これを、 私たちは どのように評価すべきでしょうか。
私は もう少し、 暴力に対して 敏感になりたい、、、 と思います。

このことについては、 次便にて ちょっと論じたいと思います。

====================

スズムシ と ミズムシ は、、、 言われてみれば 似てますね(笑)

  いつも真摯なお答をありがとうございます。

  科学的な発見と思想家の説明責任を同じテーブルにのせることについては大変異論がございます。(そこが先生とわたしの徹底的な違いなのかも?)しかし、現実社会での自身の存在を無視して、思想世界と現実世界をつなぐものを拒絶することの罪について深く考えさせられました。また、思想世界と現実世界をつなぐ者の正体と存在意義について、もっと勉強しなくてはと感じました。

  ドグマについては、またじっくり教えを乞いたいとおもいます。(はっきりいってちんぷんかんぷん)


  「ほとんどのシステムには、複雑な関係とフィードバックループが関わっているため、突然の転換が生じるまで、どの程度の圧力がかけられるかを予測するのは困難だ。にもかかわらず、私たちはあらゆるシステムをあまりに単純に考えすぎる傾向がある。」

 ローワン・ゼイコブセン 『ハチはなぜ大量死したのか』 P234


注 水虫の話は実話です

yokosawa さん>
再コメント ありがとうございます

理系サイエンティストの責任、、、 ということについて 僕自身の考え方を 一度ちゃんとコトバにしてみたいなぁ、 と思いました

たとえば 量子物理学の発見と 技術開発について、 どのような社会的関係が最初から織りこまれ また社会へと還元され、 さらに 社会そのものを形成してしまうか、、、 とそんなことを考えています

M・セールや B・ラトゥールを 手に取ったのは、 もともと そちらの関心からでありました

まぁ ゆっくり 着実に考えていきたいと思っております

また ご意見を聞かせてください

  純粋な探究心(ちいさな子どもたちに「もっと、もっと」って見つめられたことはありますか?見知らぬ土地に行くはめになったとき、どれたけわたしの支えになってくれたことか!)を何者かが作為的に変質させていってしまう。それが商業主義なのか、自分のなかのなにかなのか・・・わたしにはわかりません。でも、そのなにかに対抗するための素養をひとは身につけなくてはならないのです。

  セールにあってハイデガーにないもの。小林秀雄がもってなくて大江健三郎がもっているもの。それを得るためにひとにはなにが必要か。

  以前お話したかと思いますが、わたしが宗教を勉強し始めたきっかけはそこにあります。もっとも自分探しは一生ものですから、それだけのためなんて胸を張っては言えませんが・・・。

  その観点からいえば、先生がなさろうとしている研究の成果が出てくださるとたいへん参考になるのです。ゆっくりなんておっしゃらずどうぞがんがん悩んでください。

  
 

yokosawa さん>
「セールにあってハイデガーにないもの。小林秀雄がもってなくて大江健三郎がもっているもの」 ――
これを ある個人が備えているとして、、、 その備わりは、、、

個々人の努力によるのでしょうか、
個々人の注意深さによるのでしょうか、

あるいは、、、 (これがポイントになりますが)
個々人の素養 (生まれつきの何か、運命)によるのでしょうか、
個々人がおかれた環境(家庭、階級、時代、クニ、ジェンダーなど)によるのでしょうか、、、

要するに ヒトが生きていく中で 周りに与える 大小の影響の 「責任」 は
どこに帰されるのか、、、 ということです

これはちょうど 法廷において犯罪の責任を特定するのと同じです
(ただし、 証拠主義は ほとんどの場合、 うまく働きません)
あるいは、 子の行状に 私たち親が 「責任」 や 「原因」 を探すのとも同じです

「責任能力の有無」 とは、誰が どんな基準にしたがって 決めるのでしょう?

この場所に、 「道徳」 を再定立しなければならないはずなのです
あらゆる交流において、 そのことが見いだされねばならない、 と思うのです

ささやかなこの人生において、僕は、 家庭生活や職場において そのことを追求しようとはしております
なかなか上手にはいきませんが、、、

  わたしがちいさなひとたちと接点を持ったのは、トータルで3年ちょっとなので、きちんと研究されている方に対して大変申し訳はない気持ちはあるのですが、彼らがちいさいながらも道徳心(道徳の概念がわたしのなかではまだ不確定なので、ここでは社会的な生き物として守らなくてはならないものを守る力とでもしておきます)というもの上にたっていると確信しています。ところが、小学生になってしばらくするとぶち壊して再構築する作業に入ってしまうのです。誰もが経験する人生の辛い辛い日々の始まりです。そうして中学生になってしばらくするまで闘いが続きます。そのときに何かしてあげることができたらと考えたのですが・・・


 「老人というほうが自然な年齢になって、私は確かに今、自分のやっている身体と心の働きの、少し先の情景が見えると感じることがあります。その力をきたえることが、子供から若者へ、娘へ、そして大人になっていく過程で、大切なものだと思います。
 そしてそれは、知識によっても作られますが、頭をガツンとぶつける痛い目を見る経験によってできた力こそ、本当に役に立つ、という父の言葉に同意するのです。」

   大江健三郎 『「新しい人」の方へ』 P26

 
 うーん、教育学部の先生ならだれもがおっしゃる経験学習。良い経験ができる環境を作って見守ることが大人の責務ですかね。その環境のうち、宗教のしてきた役割、今後宗教ができることを念頭に勉強していきたいと思います。

 水先案内ありがとうございました。


yokosawa さん>
いつも ありがとうございます

子供の(yokosawa さんの経験によれば、 およそ幼稚園・保育園までの子供の) 「純粋さ」 には、 たしかなものがあるように、 僕にも思われます

「道徳心」 のみならず、 「残酷さ」 も含めての 「純粋」――
それを 「人間本性」 と呼ぶかどうかは別にして、 大人の大半が失ったままのものが たしかにあるなぁ、、、 と感じるのです

人生の問題があるとして、 その解答は そこにもうすでにある、、、 と いつも思い、 いろいろなことの判断基準にしているところがあります

さて、、、 人間の発達過程に対して 宗教は かなり複雑なかかわりをしてきた、 していますよね
端的には、 良いことも 悪いこともある ってことです
そのこと事態は、 かなり自明なことのように 僕には思われます

僕が関心があるのは、 子供がもつ (すぐに失われるであろう) 何か、、、 と 「宗教的なもの」 との性質上の関係、、、 ということです

どうもそこには 大事なつながりがあるように思われるのです
「宗教的なもの」は 人間・社会・歴史の かなり深いところを ズルズルっと 流れてきているもののように思うからです

  たしかに、〝子どもたちの行動を決定する何か″の存在に悩んだことは数知れず、意思の疎通をはかろうと、赤ちゃんを見て念力を送ったこともあるほどです(笑)

 そこには宗教的なものの存在があるのかもしれない。けれど、それはけしてむきだしな感じではなくて、もっと知的であたたかな流れだと思います。(子どもたちの行動が粗野なので、根底にある感情もそう思われがちですが・・・)

 しかし、これはわたしの追求したい宗教の起源に通じるものに違いないと思います。もうすこし深く考えていきたいと思います。

  追加

 〝子どもたちの行動を決定する何か″によって生まれる力は、けして直線的ではなくて、純粋で散漫な光のようなものではないかと思うのです。こころの中心にからその光のようなものが溢れ出て、触れるものを吸収したり干渉したりしようと働く。でも、散漫なのであちらこちらからやってくる情報を脳では一気に処理しきれなくなってしまうのかも。それで、破壊が始まるのかもしれません。

 破壊は、小学生にぐらいになって一気に加速して、わたしが理解しやすくなった段階で、わたしの目に触れやすくなりましたが、実は一定量の情報を入手してしまったもっと早い時点から始まっているのでしょう。

yokosawa さん>
いよいよ、明らかに中沢先生的なアイディアと、、、
ほのかに中沢先生的なイディオム による対話になってまいりましたね

「連載 中沢新一論」 のなかの コメント欄としては、まったくふさわしいものだと思っております

私には、中沢先生ほどの強さで 本質主義的な宗教論 を語ることができません
それはやはり、危険(社会的に、歴史的に 危険)なことだと思うし、
自分には 本質なんてものが まったく直覚できていないとも思うからです

もちろん! この場合、そこに甘んじていようというのではありません
なんとか 言えることは、死ぬ前に ちゃんと言っておこうと決意しております

こういうブログをやるのも、そういう意志があるからです

   雪擁山堂樹影深
   檐鈴不動夜沈沈
   閑収乱帙思疑義
   一穂青燈万古心

 わたしの大好きな菅茶山の詩です。調子に乗りすぎていて、今日は午後からひどく落ち込みました・・・。(23歳の友人に「過ちはいくつまで糧になるのだろう」と尋ねたら「人生はいまや80年なんですよ」となぐさめられました。)
ご迷惑をおかけしました。

 でも、考えることはやめられないのです。昨日から、「自閉症の子どもの本当の理由に出会えるかもしれない」とか「脳が破壊するわけないから、海馬あたりに引っ込んでるに違いない」とか。いっそ「カラマーゾフ」か「詩経」にでも籠って反省会をしようかな・・・とおもっておりました。(ますますレポートは書けないけれど・・・)

 先生のなさっていることは、じつに誠実で正しいことなのですよ。直感で物事をきちんと語ることはできないのです。また、理由付けをすればするほどうそくさくなる。それでも語る価値はあるのでしょうか。

yokosawa さん>
そんなに落ち込んでおられたとは・・・

どうぞ、 僕のコメントが入っているからといって、 プレッシャーは感じないでくださいね (そういうことがあるとするなら)
お気軽に、 ご自分のペースで テキトーにご覧になってください

語る価値、、、 まさに そういうことですね!
結論からいえば、 そういうものは ない! といわざるをえないでしょう

だから 誠実に、 真っ当に コトバを選びたいと思うのです

  去年、先生の授業を受け始めたのと同時期に、わたしはあるお仕事に就きました。それは、経済のほんとうのところを知りたいという気持ちからでした。(日本商工会議所というところです)

 そこには、わたしと同じ年の女性で、本当にすばらしい先生がいました。そこで日本の経済を支えている中小企業の経営者たちを身近に感じながら、いろいろなことを勉強させていただきました。でもあんまり居心地がよかったのと、労働者サイドの情報が入ってこない(むしろ無視されている感も)ので、ぼちぼち移動するか・・・と思っていたら、年度が代わる頃、ほんとうに偶然にちいさいひとたちとは真反対のひとたちと接点を持つ、今のお仕事がころがりこんできまたのです。 (先生の最後の課題でもありましたね) わたしがそちらを避けてきた感は否めないので、むしろ絶好のチャンスと捉えてお受けすることにしました。

 はたして、そこは私にとってのパラレルワールドでした。地域のコミュニティーを下支えしているのは本当にお年寄りです。そこでは個性が爆発していました。今度の私の先生は、休日を返上して地域に入り込み、お年寄りの話を親身に(時には横目で)聞きながら、高齢者社会と戦うおじさんです。(前回とはすごいギャップ!)

 そんなことをしながら宗教を勉強することにわたしは意義を感じています。(宗教だけでなく、哲学や心理も)人間の中に見出せるから価値があるのです。そして、自分で感じた宗教を自分のものとしてとらえていきたいと思っています。たくさんの先生たちから吸収したたくさんの経験を中心において。

 と、ながながと何でこんなことを語ってしまったかというと、中沢先生の魅力は、なんといってもご自分が納得の体験をした上で語っている点かなぁと感じたからです。しかし、その情報源においてわたしとは180度のギャップが・・・。でも、それを踏まえて、中沢先生についてわたしが言うことの価値はあるのかなぁと。
 きっとご心配をおかけしたとおもいますが、自己判断、自己解決で申し訳ないです。(学生だから勘弁してね)

 それと、もう一つ。わたしがこんなことをしていられるのは、「まったく、うちの主婦は・・・」というのが、もはや口癖になりつつある誰かさんのおかげなのです。命を張って研究されている先生方とは雲泥の差があります。対話とおっしゃるなら、どうぞ批判的な目でみてください。
 

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