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2009年5月の記事

2009年5月31日 (日)

中沢新一の「宗教」概念 (2/2)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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師曰く

 よろしいか? 「宗教」 なる言葉のこうした曖昧さゆえ、 同じ人間がそのときどきの気分で、 正反対の意味で 「宗教」 を持ち出すことがある。

 たとえば、 何か常人の及ばぬ美徳を見せた人物がおれば、 世人はその者の崇高な心を 「宗教」 的だと言って褒めそやす。 他方、 馬鹿げていて危険なことを奉ずる集団を見つけると、 それに対しても 「宗教」 的というレッテルを貼る。

 「説法家」 自身の言葉遣いも一定していない。 ある者は 「宗教 が大事だ。 迷い多き俗世の知恵ではダメなのだ」 と言う。 別の者は 「正しい宗教 が大事だ。 間違った宗教 ではダメなのだ」 と言う。 さらに別の者は 「真実が大事だ。 人間が勝手に神頼みしている 宗教 ではダメなのだ」 と言う。

 言いたいことは似たり寄ったりなのだが、 最初の者は 「宗教」 を真実の意味で、 最後の者は 「宗教」 を誤謬の意味で使っておる。

 よろしいか? 「キリスト教は宗教ではない」 と主張する者もあるんじゃぞ (キリスト教は真理だから宗教ではない)。 また 「禅は宗教ではない」 という主張もよく聞かれる (禅は人間の深い現実を示すだけのものだから、 何かを教え込む宗教ではない)。 近年スピリチュアリティーを提唱する者の中には、 それを宗教には非ずと言う者がある (スピリチュアリティーは人間個人が見出す事実だから、 社会制度が押しつける宗教ではない)。 「宗教」 という言葉はいかに嫌われておることか!

 それでいて今もなお世人は、 何か人生の深い真理なるものもまた、 「宗教」 の語で呼び続けているんじゃ。

 なんという混乱ぶりであろう!

『一Q禅師のへそまがり〈宗教〉論』 192-3頁 (傍点は太字で示した。ルビは省略した)

このマトリックスのなかで、 中沢先生による上のような宗教概念使用が

どこに位置づけられるかは、 一目瞭然であろう

インド大衆宗教画の世界

こちらのエントリ で報告した研究会にて

ご出席いただいた 臼田雅之先生 よりポスターをいただいた

インド大衆宗教画の世界 ―― あでやかな石版画の魅力

展示会である

ネットで検索してみたが、 まだ情報はあがっていないようだ

大変綺麗なポスターが刷り上っており、 それもいただいた

掲載できないのが残念だが、 とりあえず 展示会の詳細を書き抜いておきます

  • 会期: 2009年6月22日 (月) ~ 7月10日 (金)
  • 時間: 月~金 9:30~16:30  土 9:30~15:30 (日曜閉室)
  • 場所: 東海大学 湘南校舎 3号館 4階 文学部展示室 
  • 「コレクターとの談笑の場」 「チャイ・サーヴィス」 などもあるそうだ

問合せ先: 東海大学文学部アジア文明事務室 ℡ 0463-58-1211 内線 3025

とあります

ぜひ行ってみたい、 と思います

臼田先生、 杉本さん> どうもありがとうございます

2009年5月30日 (土)

中沢新一の「宗教」概念 (1/2)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢先生は 宗教学会の動向に 背を向けていらっしゃる

それも仕方のないことだなぁ、、、 と思う

宗教学会を背負って立つのでもなんでもないが

宗教学の理論的展開に 大いに注目している ―― そんな僕が

勝手に! 中沢先生の 「宗教」 概念の使用に 注目したいと思う

ということで・・・

『精霊の王』 (講談社, 2003年) より抜粋

一番最後のところに 「宗教」 というコトバが出てくる

(3) そういう後戸の場所は、 特別なところにしつらえられているばかりではなく、 心を澄ませて直観してみれば、 それがいたるところに遍在しているのが見えてくる。 絶対転換が瞬間瞬間に発生して、 「ある」 の世界がつくりだされている現場は、 ここにもあり、 あそこにもあり、 私たちの中にも、 それはたえまなくおこっている。 だから 「ある」 の世界は自分の中に絶対的な根拠をもっていない。 それは 「空」 であり 「無」 である滞在空間の中から出現しては、 消滅しているわけだから、 「ある」 は 「空」 「無」 に包み込まれていると表現することも可能だ。 そういう心がけをもって日常を生きてみると、 世界の様相はがらりと一変していくだろう。 ひとことで言えば、 世界は 「幽玄」 のつくりをしているのである。

(4) そのような幽玄としてつくられている世界の仕組みを表現するのが、 芸能なのである。 芸能の徒は、 後戸を自分の表現の舞台に選び取った人々であるから、 「ある」 の表世界をつくっている価値や権力とは異質な原理に、 忠実に生きることができなければならない。 たとえ権力者に愛好されても、 自らは権力からは無縁の空間に生きていることができなければならない。 それに、 幽玄は 「真理を立てる」 ような行為とも無縁であるから、 宗教 にも哲学にも染まることがない。 いわば 「非僧非俗」 のままに、 存在の後戸に立ち続ける人でなければならない。

『精霊の王』 257-8頁 (宗教を太字で示したのは、 引用者)

中沢先生は、 その数多い論考において

「宗教」 というコトバを多様な仕方で用いる

それは、 現代日本の通例にしたがった用語法である。 すなわち

何かよいものを指すためにも、 何かイヤなものを指すためにも

ごく内面的な事象を指すためにも、 ごく外在的な事象を指すためにも

「宗教」 という語は使われるのである

上の引用は、 そうした多用な (ほとんど支離滅裂な) 用語法の一例だ

そこでは、 根源的で、 真に生命的な 「幽玄」 との対比で

「宗教」 なるものが措定されている

「染まる」 という表現は、 「宗教」 があまり嬉しくないものであるかのような

印象を与えることだろう

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で、、、 こうした宗教概念の使用法を どう位置づけるか

こちらのエントリ で紹介した 「一Q禅師」 に登場いただこう

<つづく>

世俗の思想家たち


タイトルに惹かれて 購入したら、 大変! 面白い!

経済学の勉強は コンスタントにつづけてきたが

これは 読み物としても最良 の部類だ!

定価 \1,575- は 相当 お買い得 だと思います

多くの方々にオススメしたい本です

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宗教学に関心のある方へ>

表題の 「世俗」 という語にひっかかるだろうが (僕のように)

例のああいう議論 は 一切出てこない

原題は The Worldly Philosophers ですから

「世俗の」 と訳されているのは Worldly という語

この概念そのものが分析され展開される・・・ ことはありません、 一切

地上に足をつけた考察 (341頁)

といったぐらいの意味でしょうか (ここでの文脈は 天文学との対比です)

しかし、 ここには間違いなく、 <宗教と資本主義> の問題

あるいは、 <宗教と資本主義と近代性> の問題が論じられていますから

私たちの 例の関心 にとっても、 大いに役立ちます

2009年5月29日 (金)

形而上学と思想史

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢思想は形而上学であるのは、 もう明らかだ

ここで僕が 「形而上学」 と言うとき、 もちろん 必ずしも悪い意味ではない

間違いなく 「危険」 ではあるけれど、 即 「間違い」 「悪」 ではない

そのような形而上学は、 中沢思想において 思想史へと展開する

実証的史学ではないけれど、 これもまた思想史である

宿神 (シャグジ) 的思考は、 もともと緑したたる列島の自然とともに発達をとげてきた。 しかもその来歴は、 おそろしく古い新石器的思考 (野生の思考) にまで食い込んでいる。 この思考は諸存在をダイナミックな変身・変容の過程としてとらえている。 そこではもとより非情と有情の区別があろうはずはなく、 植物的な存在層を動いていた力=意識は、 なめらかな斜面を滑るようにして、 動物的な存在層で活動する力=意識に姿を変え、 そのまま連続的な変身過程をとおして、 人間の意識活動の中で動きはじめるのである。 [本覚論における] 「草木成仏」 などは、 本来のシャグジ的思考からすればあたりまえのことで、 それを仏教哲学が肯定しはじめたという事態が、 芸能の徒に本覚論に対する深い関心を呼びおこすことになったのだろう。

『精霊の王』 118頁 (ルビは括弧内に示した)

ご覧のように、 中沢先生の歴史記述は 「比喩」 を多様する

単なる修辞ではなく、 存在の深部様態の表現そのものである 「比喩」 ――

ここら辺りに グズグズ解決されないままの問題がある

Janis's Summertime

<ただ好きな音楽を紹介するだけのコーナー>

もぉ 解説不要のヴォーカリスト

凄まじい、、、です

ベスト盤もあれですが、 やっぱり 『パール』 なのかな・・・ ↓

Janis Joplin - Janis Joplin's Greatest Hits - Summertime Janis Joplin - Pearl

2009年5月28日 (木)

生命と意識の源泉、あるいは超空間

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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エリアーデにおける 「別のもの、 あるいは超歴史的なもの」 ――

こちらのエントリ でとり上げた論点です

これを 中沢 『精霊の王』 (講談社, 2003年) から 補足しておきます

 「宿神」 や 「シャグジ」 の背後にも、 それとよく似たマトリックス状の動きをはらんだ超空間が働いているのを、 わたしたちはすでに何度も確認してきた。 この超空間のことは、 ニライのような概念ではっきりととらえられてはいない。 しかし、 そこには胞衣の保護膜によって守られた存在の胎児が夢見をもどろみ、 はちきれんばかりの強度がみなぎり (その力は現実の世界にほとばしりでては荒神となり、 発酵した液体に宿っては陽気と乱行を発散させる酒となる)、 律動をはらみ、 変化と変容へのはげしい衝動に突き動かされている。 そこはまた生命と富の貯蔵庫でもあって、 いっさいの 「幸」 や 「福」 はこの超空間からの贈与として、 人間の世界に送り届けられるのである。

 「宿神=シャグジ」 的な超空間と現実の世界は、 薄い膜のようなもので隔てられていて、 二つの異質な領域が境界をなくしてしまうということはおこらない。 そのかわり、 この境界膜のところでは、 たえまなく 「転換」 の過程が繰り広げられている。 そのおかげで、 現実の世界は計算のできないもの、 予測のできないこと、 現実の枠をはみ出ていく過剰したもの、 ようするに生命と意識の源泉からの力を、 受け取ることができるのである。

『精霊の王』 162-3頁

このトポロジカルな 「空間」 の存在観/存在論・・・

これとの距離のとり方は、 思想のポジショニングを測定する基準のひとつだ

夫なんていらない

最新号、、、 ではなく 前々号の AERA より

非常におもしろい記事が載っていた

目次では・・・

最後に笑う 「バリュー女」

働く女は子を持つと夫が内なる敵に、 母に踏み台にされる子どもの復讐

で、 実際の記事のタイトルは・・・

夫捨て最後に笑うバリュー女

女の価値は結婚と出産と離婚で上げる

AERA, 2009.5.25, pp. 73-6

煽り文には次のようにある

仕事も経済力もある。 いとしい子どももいる。

さまざまなバリューで箔をつけた女たちがふと気づいた。

もしかしたら、 夫なんていらないかも。

ライターは 小林明子さん (編集部)、 平松明子さん のイラストが記事を飾る

さて、 内容だが・・・

ダメ夫がいて、 しっかりした妻/母がいる。 妻は愛想をつかしている

お父さん? もともとそんな人いない。 百歩譲って家族を養う人をお父さんと言うなら、 年収が580万円ある私がその役をすればいい。 ママ友だって子どもの目の前で夫の文句ばかり言っている。 子どもがいるからこそ、 離婚すべきじゃないの? 日に日にその思いが強まっている

73頁

つまり、 「人生プランに離婚という選択肢を加えた」

そんな女性たちのレポートである

この先もずっと我慢して夫にストレスを溜めるぐらいなら、 子どもと2人のほうが心穏やかに暮らせるかも。 もっと素敵なパートナーが現われるかもしれない。 そんな未来を想像しつつ、 とりあえず 「離婚貯金」 を始めると、 すうっと気持ちが軽くなった

74頁 (ルビは省略した)

芸能人のライフコースが、 どうやら現代日本の女性たちのロールモデルになっているようだ

黒田知永子、 安室奈美恵、 竹内結子、 ともさかりえ・・・・・・。 出産によって確立されたママ芸能人の地位は、 離婚でも揺るがない。 むしろ、 イキイキして見える。 結婚でアゲ、 出産でアゲ、 自ら決別を選び、 子どもを養えるだけの力を証明してさらにアゲ。 いまや結婚、 出産、 子育てを経た離婚は、 女のバリューを上げる一過程かのようだ

同 (ルビは省略した)

子連れ離婚で女をアゲようとする人に刺されるクギは二本

まず・・・

そんな 「最後に笑う女」 になるために必要なのは、 まずは経済力だ。 母子世帯の平均年収は213万円で、 一般世帯平均の4割に満たない。 不況で夫からの養育費もあてにできない。 離婚前からある程度の経済力を担保できる仕事を持っていなければ、 過酷な生活が待っている。

ふたつめ・・・

さらに、 『女は何を欲望するか?』 の著書がある神戸女学院大学の内田樹教授はこう警告する。 「自分の生き方の正しさや自分らしさを証明する手段として子育てや離婚をすべきではない。 子どもを手段にすれば、 いつか子どもに復讐されるでしょう」

同 (ルビは省略した)

もちろん女性はいつも大事なことを知っている

ライターの小林さんは次のように書く

そんなリスクを薄々感じながらも、 夫が 「夫」 でなくなることに希望を託す

<夫が夫でなくなるという希望> ・・・

男子は 本当に真剣に考えなくちゃいけない

そして、 女子大の教員としての僕は、 女性から 「希望」 を奪うことはできない

結婚という制度はさておき、 男女の結びつきは 哺乳類にとって生物学的必然である

そこが、 ズルリズルリと 変形しつつある

その機微を 若い人だけでなく、 僕ら上の世代もしっかり把握しなくては!

他にも、 紹介したい事例がいくつか載っている記事だった

ぜひお手にとってみてください。 損はないと思いますよ

2009年5月27日 (水)

ヴィジョンと実証、直観と証明

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢思想における 「ヴィジョン」 と 「実証」 ――

こちらのエントリ にて触れた論点です

これについて、 『精霊の王』 (講談社, 2003年) から補足したいと思います

こうして、 『明宿集』 の冒頭で、 金春禅竹は 「翁」 の本質をまずは 「存在」 そのものとしてとらえることからはじめて、 和歌と性愛の技にひめられた転換の力にまで説き及んで、 「翁」 なる概念の本質にデッサンをあたえた上で、 本論に入っていく。 日本の自然と観念世界を渉猟して、 「翁」 と同じ構造を発見するたびに、 ここにも 「翁」 の構造があるとの裁定を、 つぎつぎに下していくのだ。 その様子はまことに小気味よく、 しかしそのために後世の学者たちからは 「強引なこじつけ」 やら 「ペダンティズム」 やらの批判を受けることになったのであるが、 私は逆に、 そこに金春禅竹の思考の類例のない強力な一貫性を見いだして、 むしろ驚嘆と賛嘆の感情におそわれるのである。

『精霊の王』 184-5頁

ここで中沢先生は、 「小気味よく」 とか 「強力な一貫性」 などの語を使って

ヴィジョンと直観の理性を 称揚している

しかし、 この抑制のきいた表現は、 意図的に選ばれたものだろう

中沢先生による金春禅竹への評価は もっともっと激情的なもののはずだ

中沢思想を 「こじつけ」 や 「ペダンティズム」 として批判するのは

まことに常套的だ

それは 完全なる的外れではない!

しかしそれは、 中沢先生が提起している議論のレベルとはずれている

そして、 この 「ずれ」 こそは 思想全般の中心的な課題である!

(中沢思想は、、、 ではなく、この 「ずれ」 は!)

今日の宗教の諸相

<買う本>

  • チャールズ・テーラー 『今日の宗教の諸相』 (岩波書店, 2009年5月)

原著の書名もわからないので・・・ せめて 

岩波書店の紹介ページより

神的な秩序も国家の規範も, 一切の拠り所なくさまよう孤独な魂 ── 今日の精神の深層をいかに位置づけるべきだろうか. 20世紀初頭の名著 『宗教的経験の諸相』 との対話/対決を手がかりに, この課題に挑戦する .宗教が呼び起こす生の現実と, 再編されようとする共同性の次元と, 二つの課題の交点に精神史的現代の顔を浮かび上がらせる.

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/7/0225700.html

ジェームズのあたり、、、 ということで、、、 なんとなくわかる

これはぜひ! 買って読みたいと思う

【メモ】

テイラーつながりで(笑)

Mark C. Taylor, After God (Univ. of Chicago Pr., MAR 2009) も気になっていて、 読もうと思っています

2009年5月26日 (火)

ビートルズと旅するインド

井上貴子さん のご著書、 こちらのエントリ で紹介した

そして、 また別の本をいただきました

  • 『ビートルズと旅するインド、 芸能と神秘の世界』 (拓殖書房新社, 2007年)

わざわざ郵送していただき、 ありがとうございます> 井上さん

内容紹介として、 井上さん自身の言葉を引用します

 本書はビートルズとインドとのかかわりを話しのきっかけとして、 インドの音楽や舞踏などのさまざまな芸能とそれにかかわりの深い神話や宗教について語る本である。 だから、 ビートルズをタイトルに掲げてはいても、 インドと関連しない事項については何も語っていない。 一方、 インドが少しでもかかわってくれば、 そこからどんどん話しを広げていき、 インドの実際の芸能や宗教に深入りして開設することを目的としている。

 世にビートルズ本は多数出回っており、 インド音楽や宗教思想とのかかわりにも言及されているので、 それは、 ビートルズ・ファンばかりでなく広く一般に共有された常識になっている。 しかし、 その点を具体的にまとめて論じたものはほとんどない。 ビートルズ・ファンは必ずしもインド音楽を専門的に勉強しているわけではないし、 インド音楽の専門家がビートルズに詳しいとは限らない。 だから、 このあまりにも常識化しているテーマを本書で掲げるのも悪くはないと思った。

「はじめに」 3頁

本論からも、 ちょっと書き抜きです

自分のためのメモなのですが、、、 実は

ここで語られる事柄にもとづき、 井上さんと共同研究できないか、、、

なんて話を ボンヤリしている最中なのです

 インドといえば神秘の国と思う人は多いだろう。 ほかならぬ私自身、 なんとなくおもしろそうだという安易な気持ちからアメリカ留学をやめてインドに行ってしまったのも、 ビートルズをはじめ欧米の若者がインド音楽の魅力やインドの神秘にとりつかれて旅立った話に惹かれたからである。 イギリスによるインドの植民地支配とキリスト教徒の関係について研究したイギリス人の学者ジェラルド・スタッダート=ケネディは、 「ヨーロッパのオリエンタル・ルネッサンスは、 インド文明を、 主に宗教と宗教体系を中心に組み立てられた社会という点から規定した」 と述べている。 ヨーロッパは、 自らがキリスト教によって規定されていると考えていたから、 そのようにインドを捉えたのか、 それとも、 自らは宗教に規定される社会ではない、 あるいはそうではなくなったと考えていたのか。 どちらかといえば、 後者の方が近いだろう。 いずれにせよ、 ヨーロッパは最初からインドに神秘を求めていたともいえそうだ。

 「オリエンタル・ルネッサンス」 と名づけられた時代は、 十八世紀から十九世紀、 オリエントに向けてヨーロッパ人の自己発見の旅が盛んになった時代である。 彼らは、 ときにはインドの神秘に感嘆すると同時に、 迷妄を嫌悪した。 壮麗なタージ・マハル廟や石造りの大寺院、 膨大なサンスクリット語文献に記された深遠な哲学を賛美する一方、 身体に自ら苦痛を与えることによって解脱に近づこう、 あるいは神秘的な合一を体験しようとする行為、 いわゆる苦行などは野蛮な迷信にとりつかれた人間のすることだとみなした。 インドでは、 偉大な文明はすでに過去のものとなっており、 現状は堕落し、 一向に進歩しないどころか、 衰退していると考えたのである。 彼らの考える進歩の参照枠は、 科学と合理主義に基づくヨーロッパの文明であり、 それはインドをはじめとする非ヨーロッパ諸国への急速な進出によって裏書されていった。

 ビートルズは、 当の進出を積極的に推し進め、 広大な植民地の帝国主義的支配に支えられた、 大英帝国と呼ばれる十九世紀で最も強大な国家となったイギリスからやって来た若者たちである。 彼らは、 かつての植民地で遅れた国だとみなされてきたインドに何を求めたのだろうか。 彼ら自身の日常とは異なった何かをインドに求めてはいなかったか。 本国の生活とは対極にあるものを求めてはいなかったか。 そして、 インドで非日常なるものに出会って感嘆しなかったか。 しかし、 彼らはいつでも日常に戻れる安心感をもってインドを訪れたように思える。 それは私も同じかもしれないが。

「第一章 旅のはじまり――ビートルズの時代」 15-17頁

西洋における東洋の思想への傾倒は、 音楽と同様にサイケデリックの時代にはじめて起こった潮流というわけではない。 むろん、 「あこがれのインディア」 には長い歴史がある。 しかし、 直接的な影響は、 一七八四年、 カルカッタに設立されたベンガル・アジア協会を中心にサンスクリット語の原典研究が盛んになり、 その翻訳がヨーロッパに流通するようになってから高まった。 ロマン派の思想にもインド哲学の影響が刻印されている。 ドイツの哲学者ショーペンハウアーがラテン語訳の 『ウプカネット』、 すなわち、 「ヴェーダ」 の最終部門である 「ウパニシャッド」 に相当し、 一元論的な梵我一如の思想を説いた文献を読んで、 その影響の下に自らの思想を形成したことは有名である。 一方、 インド人の側もヨーロッパの近代的な知識を取り入れて宗教社会改革をおこなうようになった。 英領インド帝国の時代は激しい社会変動の時代なのである。

「第四章 ビートルズ、心の旅」 80頁

Kちゃん、 F先生、 O先輩、 Mさん、 Tさん、 Iさん などに

これから徐々に声をかけさせていただこうと思っています

オモシロイ研究に発展すればいいなぁ、 と

スリランカの現状 090521

前便は こちら

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  • 4/21  「ス」 軍、 最後の侵攻作戦開始
  • 5/16  「ス」 大統領、 LTTEに軍事的勝利を宣言
  • 5/17  LTTE、 敗北宣言
  • 5/18  「ス」 国防省、 内戦終結宣言
  • 5/18  「ス」 国防省、 LTTE議長の遺体を確認
  • 5/19  「ス」 大統領、 全土制圧宣言

対話と和平の可能性はあった。 国際社会も尽力してきた

停戦協定を結んでは破りの繰り返しが、 ここ20年ほど続いてきた

どちらが協定を破ったとか、 どちらが悪いとか、、、

もはやそういうことは言えないほど、 互いの関係はねじくれていた

もともとの原因は、 シンハラ仏教ナショナリズムの過激化だ

もう60年以上も前のこと・・・ スリランカ建国はその上に成った

タミル人の権利はたしかにひどく侵害されてきた

そこから、 LTTEのような組織が生まれてくるのは避けられなかったろう

しかし、 LTTEは タミル人も多く殺した。 つまり、 同胞を!

LTTEに反対したり、 異論を唱えたりすれば、 民族の大儀への裏切りとみなされた

タミルの過激派同士の対立は 当然 流血の繰り返しだ

タミル人たちには、 家族や親戚や友人が 殺されたり痛めつけられたり

暴行をうけたり、 家財を失ったり、、、 そんな記憶がこびりついている

若者の絶望は いつも命を捨てる戦士たちを生み出してきた

シンハラ人だってそうだ。 どれだけの人が 憎悪を抱えてきたことだろう

戦争は公式には終わった

武力紛争はしばしば、 徹底的な弾圧により やっと安定する

殺しつくしたところで、 少数派はやっと黙り込むのだ

敗残の少数派である スリランカ・タミル人たちは 戦々恐々としている

内戦の終結を喜んでいる写真がメディアを飾っているとしたら

それは 大概 シンハラ人のものだろう

26万人といわれる避難民たち、、、 廃墟と化した3分の1の国土、、、

この残骸のうえに 新たな歴史と生活が築かれていく

南アジア研究者の端くれとして、 何かできないか、、、

本当に苦しいのだが、 いつもこの苦しみに苛まされるのだが

やっぱり 僕にはすぐ動くことができない・・・

2009年5月25日 (月)

中沢新一の唯物論 (追記1)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢思想の強さの秘密、、、 その一つは 「唯物論」 にある

こうして私たちは、 プラトン哲学の後戸の位置にコーラの概念を発見するのである。 この概念は、 極東の宿神=シャグジの概念との深い共通性を示してみせるのだが、 それはおそらく、 かつてこのタイプの存在をめぐる思考が、 新石器的文化のきわめて広範囲な地域でおこなわれていたためだろう、 と考えるのが自然ではないか。 コーラという哲学概念のうちに、 私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取ることができる。 西欧ではいずれこのコーラの概念を復活させる運動の中から、 現代的なマテリアリズム (唯物論) の思考が生まれ出ることになる。 その意味では、 マテリアリズムそのものが哲学すべてにとっての 「後戸の思考」 だと言えるかも知れない。

『精霊の王』 (講談社, 2003年) 272頁

言うまでもないことだが、 ここでの 「唯物論」 は 「史的唯物論」 とは違う

むしろ 「物質主義」 「物質論」 としての マテリアリズムである

それはむしろ、 ナチュラル・サイエンスの物質観に近い

そしてまた、 「モノ」 の存在論に近い

【メモ】

こちらのエントリ『緑の資本論』 をお勧めしたが

中沢本で、 もうひとつお勧めなのが 上の 『精霊の王』 です

ちょっと繰り返しが多くて、 モタモタ感が出ているのが残念ですが

また、 民俗学的、 日本古代史的には 相当反論があるでしょうが

まぁ、、、 オモシロイです

少なくとも、 <ザ・中沢思想> お好きな方は ぜひどうぞ

インド総選挙 2009 分析2

連載 「インド総選挙 2009」 最近5便

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2009年5月19日付け朝日新聞 (朝刊) の社説にて

インド総選挙のことが取り上げられた

http://www.asahi.com/paper/editorial20090519.html
(リンク切れ御免、アサヒですから・・・)

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インド総選挙 ―― シン政権が担う重い責任

 5年ぶりのインド総選挙で、国民会議派を軸とする与党連合が過半数に迫る議席を獲得した。与野党接戦という事前の観測を覆す勝利だ。

 04年から政権を率いるシン首相(76)の続投が確実となった。

 インドでは、独立闘争以来の国民会議派と、ヒンドゥー至上主義のインド人民党(BJP)が長く拮抗(きっこう)してきた。だが最近は、地域小政党や左翼政党が勢力を伸ばし、大政党はそうした中小政党と連立しなければ政権を維持できない不安定な状態が続いていた。

 今回もその傾向が強まると予想されたが、国民会議派は545議席のうち単独で200議席以上を確保する見通しだ。中小政党との連立は変わらないが、基盤は格段に強くなり、安定した政権運営が可能になりそうだ。

 さまざまな要因が絡まっての結果だが、結局のところ、貧困対策を重視してきたシン政権の実績と姿勢が評価されたと見るべきだろう。

 BJP中心の前政権は市場経済化を推し進め、結果として貧富の格差が広がったと批判されていた。世界経済危機の波が押し寄せる中で、国営企業の民営化や規制の緩和などに慎重だったシン政権の経済政策が、有権者に安心感を与えたのではないか。

 米国と原子力協定を結ぶなど対米関係を劇的に改善し、中国とも良好なつながりを築いてきた。こうした外交面での手腕も評価されたに違いない。

 選挙戦で国民会議派は、ネール初代首相、第2代のインディラ・ガンジー首相らを生んだ「ネール・ガンジー王朝」の4代目、38歳のラフル・ガンジー氏を将来の指導者として前面に立てた。これも、古い政党のイメージをぬぐう大きな効果があったようだ。

 インドの周囲を見回してみれば、イスラム過激派の攻勢にさらされるパキスタンやアフガニスタン、内戦に揺れたスリランカ、軍政が続くミャンマー(ビルマ)など、いずれもきわめて不安定な状況にある国ばかりだ。

 この地域に人口11億人のインドが、安定した民主主義国家として存在する意味は大きい。シン政権には引き続き、南アジア地域の安定のために建設的な役割を果たしてもらいたい。

 情報技術産業などを中心に高度成長を続けてきたインド経済だが、世界経済危機の波は押し寄せている。07年に9%台だった国内総生産の伸びは今年、5%程度となる見込みだ。

 だが、中国とともに、世界経済を回復させる牽引(けんいん)役としての期待は高い。貧困対策と同時に、より開放的な経済への改革を続ける必要がある。

 地球温暖化対策や自由貿易体制の強化などでも、新興国のリーダーとして担うべき国際責任は大きい。安定した政権基盤を生かして、大胆な指導力を発揮すべきだ。

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(1)

さまざまな要因が絡まっての結果だが、結局のところ、貧困対策を重視してきたシン政権の実績と姿勢が評価されたと見るべきだろう

とあるが、 前便 にも書いたとおり、 この言明には注意が必要

(朝日の論説委員は おそらく そのことが分かっている)

たしかに、 会議派連合の前政権は 支持された

しかし、 それは 議席数ほどではない。 得票率にこそ、それは表れる

(2)

BJP中心の前政権は市場経済化を推し進め、結果として貧富の格差が広がったと批判されていた

とあるのは、 その通りだろう。 ただし

インド人民党 (BJP) の 「ヒンドゥー・カード」 が もはや

全国的なアピールを失ってしまったという点も、 強調されてよかろう

(3)

また、 「第三勢力」 「第四勢力」 と称した 諸政党、 諸派

この台頭が 確固たるものになっていること―― これも強調されるべき

80年代半ばから、 この潮流はあった。 それがなかなか実を結ばなかった

今回も議席数としては、 パッとしない

しかし、 低カースト、 不可触民の諸政党、 地域政党などの台頭

これこそ、 インドの政治/社会の深いところの変化を表す

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

2009年5月24日 (日)

シュナの旅

重版されつづけているのを聞いて、 素直にうれしい本――

  • 宮崎駿 『シュナの旅』 (アニメージュ文庫, 徳間書店,原1983年)

2008年6月出版のものを買ったのだが、 なんと69刷!

アマゾンのレビューも54件ついて、 星五つ!

超ロングセラーで、 最高の評価を得ているわけですね

僕が この絵本と出会ったのは高校時代

『カリオストロ』 で完全にこの映像作家にやられていた、 鹿児島の高校生の僕は

近所の <オタク・ショップ> (の先駆け) で、 この本を買った

この世界観と絵にやられて (絵の上手さは 今更言うまでもない)

周囲の友人に宣伝しまくったものだ

中途半端な 「ワル」 でありながら、 オタク文化に傾倒していた青春時代――

ほろ苦い思い出のひとつだ

「売り買いによる自由でなく

剣にかけて あなたの誇りのために戦った

あなたは自由だ」

こんなベタな台詞に 今でもグッとくる

カッチョイイです

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アラフォーのオッサンになって読み返してみたら

その文章の上手さと、 世界観の根みたいなものに あらためて感じ入った

1983年5月10日付け 「あとがき」 の一部を書き抜いてみます

 この物語は、 チベットの民話 「犬になった王子」 (賈芝・孫剣冰編 君島久子訳 岩波書店) が元になっています。 穀物を持たない貧しい国民の生活を愁えたある国の王子が、 苦難の旅の末、 竜王から麦の粒を盗み出し、 そのために魔法で犬の姿に変えられてしまいますが、 ひとりの娘の愛によって救われ、 ついに祖国に麦をもたらすという民話です。

 現在、 チベットは大麦を主食としている世界唯一の国ですが、 大麦は西アジアの原生地から世界に伝播したものだそうです。 だから、 王子が西に向かって旅をしたという内容は歴史と符号しています。 ただし、 この民話は本当にあった出来事というより、 チベットの人々が作物への感謝を込めて生み出した、 すぐれた物語と考えるべきでしょう。

『シュナの旅』  頁数なし

いかがでしょうか

僕にとって発見だったのは、 20数年後に買いなおしてしまうほど

記憶の深いところに刻み込まれていたこの本が

「民話」 と 「チベット」 に根をもつ、、、 ということでした

「民話」 すなわち <神話>、、、 「チベット」 すなわち <インド>、、、

(20世紀前半まで、 欧米人は チベットを <インド> の一部と観念していました)

これはまるで、 僕が 宗教学者に

しかも インド研究の宗教学者になるのを予告していた本ではなかったか――

そんな風に思ったのでした

<宮崎駿論> というジャンルはありますが (僕はほとんど読んでません)

この絵本はあまり取り上げられていないように見受けられます

宮崎駿のかなり深いところに到達できるし

<インド> と <神話> の真髄に触れることもできる

そんな一冊なのかもしれません

(授業で使ってみようかな・・・)

YUKI's JOY

<ただ好きな音楽を紹介するだけのコーナー>

いかにも日本人が作ったにふさわしい

いかにも日本人が歌うにふさわしい、、、 そんな歌・・・

なんじゃないかな、 と 発表当初から思っていた

だから、 このビデオを作った人が Japanimation のザッピングで一貫させたのも

すごくあたってるなぁ、、、 と思う

最初 YouTube で見つけたとき、 ビックリした

いずれにせよ、 名曲!

2009年5月23日 (土)

【報告】 インドの世俗主義

こちらのエントリ にて ご案内していた研究会が終了しました

参加者は、 私も含め 8人

2時過ぎから4時半まで 休みなしで、 ミッチリ! 議論しました

大変勉強になりました

力尽きて、 中途半端なレジュメになってしまったこと

参加者の皆さんに お詫び申し上げます

本日お配りしたレジュメ ―― 下記よりDLできます

「インドの世俗主義」 文献表も入っています。 ぜひどうぞ

http://sites.google.com/site/aurabuddhiprakash/Home/happyou--kouen

次回の月例懇話会の予定 ――

6月20日前後、 次の本の書評会をしようと思います

南アジアに興味のある方、、、 だけでなく、 宗教に興味のある方も

ぜひぜひ ご参加ください m(_ _)m お待ちもうしあげております

  • 外川昌彦 『宗教に抗する聖者: ヒンドゥー教とイスラームをめぐる「宗教」概念の再構築』 (世界思想社, 2009年)

銀河と迷路

<好きな歌を ただ紹介するだけのコーナー>

違います ほっしゃん。ぢゃありません

茂木欣一さんです

東京スカパラダイスオーケストラ - HIGH NUMBERS 東京スカパラダイスオーケストラ - 銀河と迷路 - Single

2009年5月22日 (金)

別のもの、あるいは超歴史性

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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こちらのエントリ の コメント欄にて 僕はまた偉そうなことを

エリアーデと中沢では もちろん違いますよね

でも、根本的なビジョンは やっぱりかなり近いものがある、 というのが

僕の理解です

それは、境目のない世界の現前を体験する・・・ということ

その至上の価値を 強調する・・・ということ です

このレベルを「根本的」と呼んでおります

このことを エリアーデの発言の側から 補足しておきます

常に超歴史性は歴史性の中に、 異常は通常の中にカムフラージュされていると私は思います。 オルダス・ハクスレーはLSDの引き起こすヴィジョンについて、 <至福視覚> のように話していました。 そのとき彼には、 ヴァン・ゴッホに有名な彼の椅子が見えていたのと同じように、 ものの形や色が見えたのでした。 この灰色の現実が、 この日常が、 ある別のもののカムフラージュであることはたしかです。 これは私の深い確信です。

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社, 2009年) 170頁

中沢先生ファンであれば 一読瞭然!

あまりにも エリアーデ的な中沢なのです

【再掲】 インドの世俗主義

明日 (23日) 午後3時 午後2時 より、 研究会で発表させていただきます

場所は 日本女子大学目白キャンパス です

アクセスマップはこちら ⇒ http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html


どなたでも参加になれる研究会です

お時間のある方、 ぜひお越しくださいませ

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宗教学にとって 「世俗主義」 (secularism) が問題、、、

というのは しばらく前から 気づかれていた

アサドの翻訳は、 その気づきを 確定するものだった

しかし問題は、 世俗主義の問題とは どのような問題か 、、、 ということだ

この点を明確に指摘するのは、 意外と 難しい

こんな感じになる

  • そもそも 西ヨーロッパの歴史のなかから出てきた、 完全にヨーロッパ的な 世俗主義なんてものが
  • 政治理論の用語として 普遍的に通用させられてきて
  • さらに それが各地域で 独自に それなりの定着をみてきた、、、 のだが
  • いまや その根本範疇である 宗教と世俗とが 「鏡像関係」 (こちら 参照) にあること
  • つまり 世俗を確立するための宗教なるものが、 じつは 世俗によって確立されているという 入れ子状態にあること、、、 が明らかになりつつある

これは 相当 複雑な情況なわけだ

こういうとき、 文系学問がやるべきことは 個別具体的な事例を 調べてみる――

これに尽きる

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ということで、 東大の東洋文化研究所の 羽田正先生 のグループが中心になって

シンポジウム 「21世紀世界ライシテ宣言とアジア諸地域の世俗化」

が 08年11月28日に開催された

僕は 同僚の 伊達聖伸さん に声をかけていただき、 そこで発表をさせていただきました

インドのセキュラリズムの行方――インド憲法、ガンディー、ヒンドゥー・ナショナリズム

伊達さん>  いつもいつも 本当にありがとう。 あなたのおかげで、 僕は ホントに救われてます

このエントリ、、、 僕のペーパーの宣伝でもあるのですが

上のサイトから リンク先をどんどんサーフしていただきたい、 というのが主旨です

このシンポジウムの成果と、 それを主催する東大のこのグループの仕事に ご注目いただきたいのです

とっても有意義な研究が コツコツ と積み重ねられています

【メモ】

上記ペーパーを増補改定したものを 下の研究会 (5/23 @日本女子大学 ) で発表させていただけることになりました

小さな集まりです  どなたでも参加いただける、 インフォーマルな集まりです

どうぞお越しくださいませ

<詳細は 以下>

続きを読む "【再掲】 インドの世俗主義" »

2009年5月21日 (木)

詩的真理の基準

解釈学の知識の真理 (詩的真理) の基準は何か ――

ロケは、 この問題の現われを次のように語る

われわれは、 知る行為を通じて、 知っていることを変化させます。 そうしてわれわれの知識によってわれわれ自身も変わります。 終わりなき解釈学

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社, 2009年) 170頁

エリアーデ 曰く

ですから、 一つの根本的な意味です。 そうしてこの根本的な意味にほかの意味が付着していくでしょう。 宇宙樹が 「十字架」 の意味作用を受け取っているとき、 それはインドネシア人には明白ではありません。 しかし、 もしあなたが彼にこのシンボルはキリスト教徒にとって再生を、 新しい生命を意味するのだと説明してあげれば、 インドネシア人はほとんど驚かず、 なれ親しんでいる何かを見出すでしょう。 「樹木」 または 「十字架」、 それは死と再生の同じ神秘にかかわります。 シンボルはいつでも開かれています。 そうして私の解釈そのものも、 今日の位置研究者の解釈であることを忘れるわけにはいきません。 解釈が完了することは決してありません。

同 171頁

この問答は、 意味の学問が直面する問題を 明確に浮かび上がらせる

固定化されない知識、 ゆるやかなつらなりとしての認識 ・・・

これは、 近代のパラダイムに張りつきつづける影だ

つまり、 この問題を 私たちは解決できないままでいる

(解決済み、 解決不要、、、 そう考える人が どれだけメジャーだろうと!)

この間を グリグリと こじ開けていく道は なくはない、、、 と思う

男性の腹から胎児

<今日の注目記事>

ちょっと前の記事ですが、 単純に ハッとさせられました

僕のなかの いろいろなイマジネーションが刺激されます

ココログのネタ提供に まんまとのせられて・・・ しゃくですが・・・

下記リンクより ご覧くださいませ

リンク: 男性の腹から胎児見つかる.

2009年5月20日 (水)

石器時代の暴力

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢先生 曰く

神話の思考は、 流動的知性=無意識の働きを直接に反映してつくられたものであることによって、 人間に深い思慮と動物や弱者にたいする思いやりのある態度を生み出すことができたのです。

『対称性人類学 カイエ・ソバージュⅤ』 119頁

人間と動物のあいだには、 同質の本質が共有されているのですから、 狩猟民たちはそういう自然をモノとして扱おうとしませんでしたし、 乱獲や破壊を抑える心理的ないし思想的な歯止めが、 人の心の中には厳然として存在し、 偉大な働きをおこなっていたのです。

同 152頁

人間と動物のあいだには神話的思考が発見した対称性の関係があるために、 狩猟民の世界には動物の乱獲もおきなかったし、 動物たちの暮らしている領域をみだりに人間がおかして、 彼らの生存を危うくするなどという危険が発生することもまれでした。

同 154頁

これに対して、 馬場悠男先生 は、 次のように書かれている

一万一五〇〇年前にカナダからアメリカ大陸を南下しはじめたアメリカ先住民は、 わずか一〇〇〇年たらずのうちに南アメリカの南端まで拡大した。 その過程でマンモスや大ナマケモノなどの大型動物をつぎつぎと絶滅させ、 その有様は、 「電撃戦」 とまでいわれたほどだった。 日本列島でも、 更新世末期にナウマンゾウやオオツノシカが絶滅したのは、 気候変化よりも人間の影響が強かったと推定されている。

馬場悠男 「ヒトの攻撃性と食人」 国立歴史民俗博物館監修、 福井勝義 ・ 春成秀爾編 『人類にとって戦いとは1 戦いの進化と国家の生成』 (東洋書林,1999年) 35-36頁

この歴史記述は、 なんと中沢先生のものと異なっていることだろう!

暴力に関する言明に付された価値としては 正反対だ!

馬場先生の理解を受けいれる人には、 中沢先生の理解は

とんでもなくロマンティック なものにしか聞こえないだろう・・・

こういう点は、 ちゃんと批判されなくちゃいけない!

【メモ】

もう一つ、 中沢思想のなかで私が見つけた

批判すべき (批判可能な) 点・・・

Supersonic

<ただ好きな音楽を紹介するだけのコーナー>

「毒」 があるくせに明るく 元気、 そして 「プロ」 らしい曲が好きです

Jamiroquai - Synkronized - Supersonic

2009年5月19日 (火)

エリアーデとレヴィ=ストロース

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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こちらのエントリ にて、 エリアーデと中沢の 「根本的」 同質性を指摘した

しかし、 中沢先生はあまりエリアーデ先生のことに言及しない

まとまった論考は (あるのかもしれないが) 見たことがない

どうしてだろうか ・・・

この疑問への答えにはならないだろうが、 エリアーデによる 次のような

レヴィ=ストロース評は 覚えておいていいかもしれない

要するに、 私に実り豊かと見える <構造主義> とは、 諸現象のあるまとまりの本質について、 それらの意味の根拠となる原秩序について問うことで成り立つ構造主義です。 私はレヴィ=ストロースに作家として大いに敬服していますし、 すばらしい精神と見ています。 しかし彼が解釈学を拒否する限りにおいて、 私は彼の方法をほとんど利用できません。 宗教史家ならば、 どんな主張をもっていても ――マルクス主義でも心理主義でも―― 、 第一の義務は、 まったく、 ある聖現象の本来の <意味作用> をとらえ、 その歴史を解釈することだと考えるものです。 ですから私には宗教史学者がレヴィ=ストロース流の <構造主義> で何ができるのか、 分からないのです。

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社, 2009年) 184頁

レヴィ=ストロースこそ、 エリアーデの言う 「実り豊か」 な構造主義者なのだ!

中沢先生なら そう言うだろう

インド総選挙 2009 分析1

<コンドウの分析>

インドの選挙は、 単純小選挙区制だから とにかく大事なのは 得票率!

たとえば、 1999年のとき、 会議派は 91議席しかとれなかった

当時の得票率は、 28.1%

今回の選挙では 単独で205議席を獲得したわけだが

得票率は、 28.6%。 つまり、 0.5pt しか上げていない

要するに、、、

友党間での選挙協力がうまくいったこと

他党および他連合で票割れや不調和があったこと など

選挙戦略、戦術の要因が きわめて大きい ということ!

ここ十数年のインドの選挙戦は いつもこれなのです

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会議派が大勝したことで、 対パキスタン政策に動きがある可能性

昨年11月の 「ムンバイ襲撃事件」 後、 すっかり悪化したきりの両国関係

一気に和平に向かうことはないだろうが

対パ強硬路線のインド人民党が大敗を喫したことで

マンモハン・シン首相は より自由な政策判断ができるようになろう

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/137/20090519/738/tnl-analysis-mandate-gives-singh-freer-h.html

インド総選挙 2009 速報5

日本でも 大きく注目された 「不可触民」 「アウトカースト」 の政党 BSP

会議派連合 (UPA) への 無条件支持へ ――

党首 マヤワティ (Mayawati) 女史が明言

BSP (大衆社会党) の獲得議席は 21

ただし、 同党が得票率を大きく伸ばした選挙区もある

同党の未来はまだまだ閉ざされたわけではない

また、 いわゆる 「第三勢力」 「第四勢力」 でも 議席を伸ばした党がある

下記記事であがっているものとしては、 JD(U),  BJD,  DMK,  AIADMK,  Trinamool Congress,  TDP,  RLD  and  National Conference

地域政党の台頭は まだ続いている

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/20/20090519/1419/tnl-bsp-to-give-unconditional-outside-su.html

http://in.news.yahoo.com/32/20090518/1054/tnl-no-seats-but-increased-share-for-bsp_1.html

http://in.news.yahoo.com/20/20090518/1419/tnl-regional-parties-reap-good-harvest-i.html

勝ち馬に乗ろうとする 各党、 各派が さまざまな動きをしている

選挙後のインドではおなじみの光景・・・

各党派の思惑が入り乱れているが、 しばらくの後に

閣内、閣外の友党が 定まってくることだろう (これも おなじみの・・・)

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/139/20090519/816/tnl-new-government-begins-taking-shape.html

ベートーベンと坂本龍一

<ちょっと嬉しかったこと>

ベートーベンの凄まじさを教えてくれたのは ユダヤ系カナダ人のLM君だった

クラシックの素養ゼロの僕にとって、 これは最高の入口だった

先日 J-WAVE を聞いていたら、 坂本龍一教授 曰く

ドビュッシーと出会う前までよく聞いていた。デパートで楽譜も買いました…

「OTOAJITO」 こちら 2009.5.9 放送分

紹介されたのは ピアノ・コンチェルトの3番 でした

思わぬリンクの発見で、 ちょっとした喜び を感じた ―― というお話し

【メモ】

教授に関する前便は こちら

また、 番組で教授が紹介した Nico Muhly の 「Quiet Music」 はとてもよかった (・∀・)イイ!

2009年5月18日 (月)

神話のイデオロギー作用

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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神話のイデオロギー的作用は、 もちろん疑いもない

神話の力を華々しく、 確信的に語る中沢新一は

この点をどう考えているのだろうか

おそらく白熊たちの主張は、 こうでしょう。 かつて人間と動物の間には、 対称的な関係がなりたっていた。 もちろん人間のほうが技術の力でまさっているから、 どうしたって現実には対称性などは実現できなかったけれども、 まだ優しい心を失っていなかった人間たちは、 神話や儀礼を通じて、 人間と動物との間に対称的な関係を取り戻そうと努力を重ねていた。

『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』 (講談社, 2002年) 31頁

あるいは、 次の段落

また神話的思考は人々がまわりの世界にいつも対称性を回復しようと試みている社会の中でなければ、 本来の能力を発揮することはできません。 そうでない社会の中で、 神話の形式が利用されますと、 いまある社会の秩序を正当化したり、 権力者にとって都合のいい話がつくられることになりがちですが、 それでは神話の本来の能力はひどく歪められてしまいます。 神話はむしろいまある秩序はかりそめのものであって、 いつかは滅びていくものであること、 権力はどんなものもつかの間のものでしかなく、 ジャングルの緑や砂漠の砂に覆われて消えていくはかないものであることなどを、 教えようとするものです。 そういう神話がすなおに生きることのできる最適の環境と言えば、世界にとりかえしのつかない非対称が発生することをつねに恐れている、 対称性の社会をおいてほかにはないでしょう。

同 36頁

あるいは、 次の段落

こういうとき、 神話は現実の残酷さをカムフラージュするために、 こんなことを言い出しているのでしょうか。 いや、 そうではないと思います。 イヌイットでも誰でも、 狩人たちは自分たちのしていることが動物の殺害以外のなにものでもないことを、 よく知っています。 しかし、 彼らを突き動かしている神話的思考にとっては、 同じ残酷の現実が、 別の意味を帯びて、 高貴な喜びに輝いているようにとらえられています。

同 82頁

さらに次のようにつづく

熊が人間とひとつにつながっている世界の 「詩的な層」 においては、 日常の意識がとらえているのとは別の過程が進行していて、 その層に踏み込んでみると、 動物も植物も鉱物も水も風も、 ありとあらゆるものが一つの全体を呼吸しているのが理解され、 残酷と友愛が同居し、 現実性と詩とが結びあいながら、 「贈与の霊」 がその全体性を動かしている様子を、 ありありと実感されているのがわかります。

同 83頁

これらの言明では、 たしかに 「根拠」 は示されていないのだが

目配りだけはちゃんとされている

この目配りこそ、 中沢思想への批判をいつも難しくするものだ

インド総選挙 2009 速報4

公式の選挙結果が 発表された

  • 会議派連合 (UPA): 261 (うち会議派単独 206)
  • インド人民党連合 (NDA): 159 (うちインド人民党単独 116)

善戦が予想されていた 「第三勢力」 (こちら 参照)は 80議席どまり

うち 「不可触民」 「アウトカースト」 の政党 BSP は 21議席

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/139/20090517/816/tnl-congress-wins-206-seats-bjp-finishes.html

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

星降る夜に

<ただ好きな歌を紹介するだけのコーナー>

3:10 から ・・・ これがホントの グルーヴ!

ウネッてるからねぇ、 会場が!

なかなか これは・・・ よいです

東京スカパラダイスオーケストラ - 星降る夜に - EP

2009年5月17日 (日)

流動的知性とは (3/3)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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ここで僕が言いたいのは、 <中沢思想は実証的ではない> とか

<仮説にもとづく印象論にすぎない> などという

当たり前のこと なんかではない

そうではなく、 中沢思想では、 実証なんてものには、そもそも

さほどの重要性も与えられていないのだ

中沢先生には 答えは もう見えている。 明確な答えの像――

それにそぐう学説が 一つながりの文章で表現されているのが

中沢思想なのだ

というわけで、 中沢先生は堂々と次のように言うのである

折口信夫についての評である

 いまの学者たちには、とてもこんな大胆な考えはできません。 そんなこと、 いくら古典をしらみつぶしに調べても、 どこにも書いてありません。 どんなにしても、 それを実証することができないからです。 しかし、 折口信夫は自分の考えに、 相当な自信を持っていました。 すぐれた詩人でもあった折口は、 文化というものの本質は 「ポエジー (詩)」 であると考えていましたから、 現実のものとしてあらわれた文化は、 どんなものでも自分が実現したいと考えている 「ポエジー」 の本質を、 そのまま表現することなどできていない、 つまり現実化できていない、 ということがよくわかっていたのでした。

 かつてあったものを、 そのものとしていくら研究したところで、 「ポエジー」 としての文化の本質にはたどりつくこができないでしょう。 それよりも、 現実の中にとりあえず実現されてあるものをよく見て、 そこからそれが 「あるべきであったもの」 を取り出すことのほうが、 ずっと意味があるのではないでしょうか。 こういう 「ポエジー」 の精神にみちた学問を、 もういちどよみがえらせてみようではありませんか。 荒唐無稽がいつか真実に変わるような学問。 人間を本当の意味で豊かにする知性とは、 そういうものでなければならないと、 私は信じます。

『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』 (講談社, 2002年) 166-67頁

かように 中沢新一思想は ヴィジョンである

中沢先生自身は、 「イメージ」 「直感」 などのことばを使うが

とくに氏らしい観念は 「秘密」 であろう

隠されてあるけれど、 たしかな実在の真理としての 「秘密」――

「実証」 の手続きを、 中沢先生は知らないわけでは無論ない

「科学」 のエロティシズムを直観する思想家であるからして

ゴリゴリの理詰めの議論にいくらでも付き合うことができる――

そうした学者らしい学者にもなりうる人物だ

しかし、 彼の思想では 「秘密」 のヴィジョンがすべてを圧倒する

だから、 実証の確度は あくまでも 添え物なのである

(修辞としての、 意匠としての、 スタイルとしての実証・・・)

ちなみに、 次のような言葉もある

資本主義は発達すればするほど、 流動的無意識という現生人類としての私たちの本性に接近していくことになるでしょう

『カイエ・ソバージュⅤ 対称性人類学』 (講談社, 2004年) 105頁

インド総選挙 2009 速報3

選挙管理委員会からの正式発表:

  • 会議派連合 (UPA) の議席数は 261
  • 連邦下院総議席数は 543、 うち今回の改選は 541
  • 過半数には 11議席およばず

【メモ】

参照記事

http://www.indianelections2009.in/news/2009/05/17/2009-lok-sabha-election-results-tally-2/

一部に UPA 262議席との報道も

<個人的な関心からの メモ>

グジャラート州の選挙区、 26中25の結果:

  • インド人民党 15 (+1)
  • 会議派 10 (-2)

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/20/20090516/1419/tnl-bjp-wins-15-seats-in-gujarat-congres.html

http://in.news.yahoo.com/20/20090516/1419/tnl-bjp-win-15-congress-ten-in-guj-count.html

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

美術は違いを超える

<今週のAERA> なんだか、こんなコーナーもできそうだ

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AERA の 姜尚中先生 の連載 「愛の作法」 ――

第89回 「美術は違いを超える」 より

「芸術が人生に及ぼす意味」 について

政治や宗教だって人生に大きな影響を与えるかもしれません。 でも、 思想や信仰が違うだけで起きる争いごとは絶えないのも事実です。 その点では音楽や美術は人種、 民族、 階層の違いを超えて人の感情に訴えるものがあります。 長らく学んできた政治学よりも芸術のほうが人間社会に潤いをもたらす。 特に、 絵画の奥深さに触れるようになって、 その思いが募ります。

AERA 2009.5.18 号, 40頁

2009年5月16日 (土)

流動的知性とは (2/3)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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コリン・レンフルー による、 「心のモジュール性」 仮説への批判 ――

かなり説得力がある ・・・

しかし、 最近の神経科学からはホミニドの脳の 「モジュール性」 を支持する証拠はあまり見つかっておらず、 モジュールの壁を破るのに、 ホモ・サピエンスへ移行するとき遺伝子がどのように変化する必要があるのかも、 まだわかっていない

『先史時代と心の進化』 (小林朋則訳・溝口孝司監訳, ランダムハウス講談社, 2008(原2007)年), 142頁

むしろ、 ロビン・ダンバー 『ことばの起源』 で論じられているような

進化論的アプローチの方が通説になっているのだそうだ

今では通説として、 完全な文法構造を持った言語が発達したことで、 狩猟採集者の集団は環境に適応する上で非常に大きな利点を得たと考えられている

『先史時代と心の進化』 143頁

人類の誕生とその歴史において レンフルーが重視するのは

むしろ別のことだ。 すなわち

種形成段階において、 人類は 「新しい画期的な形での外界への関与」 をはたした

それは 「道具の使用開始や、 その後に始まる計画的な道具製作、 あるいは火の使用など」 のことだ、 というのだ (同144頁)

<つづく>

インド総選挙 2009 速報2

前の国会で最大野党だったインド人民党 (BJP) は、 今回の選挙での敗北を認めた

同党ジェトリー総書記 「獲得議席数は 予期に反して低かった」

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/139/20090516/816/tnl-bjp-has-accepted-the-people-s-verdic_1.html

前の与党連合 (UPA) の中核政党である会議派、およびその友党は、 インド各地で 今回の選挙戦での勝利を祝っている

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/139/20090516/816/tnl-congress-party-allies-celebrate-thei_1.html

定数545のところ、 各勢力の獲得議席数の見込みは・・・

  • 会議派連合 261
  • インド人民党連合 160
  • 各共産党およびその他諸政党のいわゆる 「第三勢力」 58

会議派連合の大勝利である

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/137/20090516/738/tnl-ruling-congress-alliance-wins-electi.html

「憲法では、 新政権の組閣は6月2日までに行わなければならない」 (AFP発の記事)

【参照記事】

http://www.afpbb.com/article/politics/2602966/4155213

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

インド総選挙 2009 速報1

ロイター発の記事によれば、 現与党である 会議派の連合 が勝利する見込み

しかも、 各左派政党からの支持を得なくてもすむ議席数となる模様

市場関係者は これを歓迎している、との由

【参照記事】

http://in.news.yahoo.com/137/20090516/738/tnl-analyst-view-congress-alliance-set-t.html

http://in.news.yahoo.com/137/20090516/738/tnl-snap-analysis-congress-alliance-head.html

日本語はこちら ↓ (AFP発の記事)

http://www.afpbb.com/article/politics/2602966/4155213

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

インド総選挙 2009 先行分析

今回の選挙に際し、 インド政治の行方に関心のある方>

http://search.sbisec.co.jp/v2/popwin/info/fund/report/9R311082_090407.pdf

「新生・UTIインドインフラ関連株式ファンド」 のレポート です

日印関係は 激変しました

「カントリー・リスク」 考慮のため、 こんなレポートが 即座に出されるようになったのですから

目次を掲げておきます

  • インドの議会制度・総選挙
  • 前回(2004年)総選挙
  • 現状
  • 主要政党①
  • 主要政党②
  • 想定シナリオ
  • ファンドのリスクについて①
    … 後略 …

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

インド総選挙 2009 写真

今回の選挙の様子を 写真でご覧になりたい方>

http://www.afpbb.com/middle/1594/2602374

「AFPBB News」 の トピック 「インド総選挙」 の頁です

現時点では、 もちろん 投票の様子までしか載っていません

今後、 記事数はいくらか増えていくと思われます

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

インド総選挙 2009 速報サイト

今回の選挙の開票速報をみたい方>

関連ニュースのコンパイル (速報性高し 英語) →

ざっと見たかぎり、 このサイトが よさそうです

こちらのエントリ にも あわてて追加しておきました

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

インド総選挙 2009 BBC

「BBCワールドニュース インド総選挙 開票速報を放送!」

http://www.news2u.net/NRR200948860.html

上記 「News2u.net」 の記事では、 次のふたつの番組が 紹介されています

番組名: BBCニューススペシャル インド総選挙
放送日時: 5月16日(土) 後4:00~5:00

====================

番組名: ワールドニューストゥデイ・スペシャル インド総選挙
放送日時: 5月16日(土) 深1:00~2:00

日本で BBCは 各ケーブルテレビ、 スカパーなどにて視聴可能!

私は、 残念ながら 本日午後は仕事で外出

深夜の放送しか見ることができません・・・ ご関心のある方、 ぜひ!

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

インド総選挙 2009

本日(5月16日)、 インドの連邦下院 (Lok Sabha) 総選挙の開票がおこなわれます

(投票は13日に終わっています)

連邦下院は、 日本でいえば衆議院にあたるもので

国権の事実上の最強機関です

この選挙について、 日本語で読める速報は

僕の知るかぎり、 ありません。 ので、 とりあえず・・・

【追加】 関連ニュースのコンパイル (速報性高し 英語) →

「インド 総選挙 5月16日」 で Google ニュース検索 →

The Hindu の "Elections 2009" →

The Times of India の "Lok Sabha Elections 2009" →

Rediff News の "India Votes 2009" →

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第一党で 与党連合の中核である インド国民会議派 ・・・

第二勢力で ヒンドゥー・ナショナリスト政党のインド人民党 (BJP) ・・・

いずれも、 単独過半数獲得は ほぼ間違いなく できないでしょうから

ここ20年来の傾向どおり、 選挙後の連立形成がキーになります

インドのテレビ局がおこなった 複数の出口調査では

会議派連合が BJP連合に僅差で勝利し

その他の第三勢力も 100議席余り を獲得する見通し ・・・ とされます

たとえば、 こちら @Times of India

(ただし、 インドの出口調査は 当たらないことで有名です (笑) )

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「第三勢力」 のなかでも、 日本の報道は 大衆社会党 (BSP) に注目していますね

たとえば、 こちら @asahi.com (リンク切れ あります、 アサヒですから)

いわゆる 「アンタッチャブル」 「不可触民」 の政党です

最近、 大きく勢力を伸ばしつつあり、 今回も躍進しそう

キャスティングボードを にぎるのでは、、、 と言われております

はてさて・・・

前回 (04年)、 前々回 (99年) インド総選挙の分析 ↓

2009年5月15日 (金)

流動的知性とは (1/3)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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スティーヴン・ミズン 『心の先史時代』 (青土社, 1998年) は

「種形成段階」 を説明するべく

初期ホミニドにおける 「心のモジュール性」 という進化心理学上の仮説を示す

この説を 中沢新一先生は 全面的に支持して、 持論を展開する

たとえば、 『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』 (講談社, 2002年) 73-76, 78-79頁

この説は、中沢人類学のかなり大事な部分を構成する

どうやら、 現生人類の脳に発生した流動的知性が、 すべての鍵を握っているようです

同 199頁

このことを中沢先生は 「認知考古学」 から学んだのだという

現生人類の脳には、 特化された機能をもった領域の間を自由に動いていくことのできる流動的知性を発生させるニューロンの新しい組織化がおこったことによって、 いま私たちがもっているような能力 (象徴能力) が獲得されたと、認知考古学の研究は教えています。

同 189頁

「流動的知性」 論は、 『神の発明 カイエ・ソバージュⅣ』 (講談社, 2002年) の根本的議論であり

(とくに第2章 「はじめての 「超越」 」 を参照)

したがって中沢思想のもっとも重要な柱である

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しかし、 コリン・レンフルー のような認知考古学者は

「心のモジュール性」 の仮説をはっきりとしりぞけるのである!

そう! はっきりと!

<つづく>

70年代 日本のロック

井上貴子さん より 次の本を頂戴しました

  • 『証言! 日本のロック70’s』 (アルテスパブリッシング, 2009年)

本書は、 07年7月から10月まで毎月1回、 新橋のライヴバーZZで行なわれた 「70年代日本のロックを語ろう」 と題するトークショーの記録である。

井上貴子 「はじめに」 3頁

いざ開催してみると会場は満員、 ゲスト・ミュージシャンの皆さんもとても雄弁で、 毎回3時間以上にわたって盛り上がり、 お客さんからの評判もよかった。 ぜひ続けてほしいとの要望も強く、 当初11月の第5回で終了する予定だったが12月以降も継続るすることを決め、 08年3月から6月までさらに4回のトークショーを開催した。 本書にはそのうち第1回から第4回までを収めている。

同 4頁

 確かに、 いまやヒップホップなどに主流の座を奪われ、 ロックはすっかり 「様式美」と化している。しかし、 実は、 様式美こそ強し。筆者は、 ふだん大学で20歳前後の世代と接しているが、 類は友を呼ぶというか、 周りには、 いつもロック好きの学生たちが集まる。「ブルースについて」とか 「エレキ・ギターの歴史」 といったテーマで卒論を書く学生、 自作のCDを持ち込んできて意見を求めてくる学生、 オススメのCDを貸してくれと頼む学生 ・・・・・・ 彼らと一緒にバンドをやることもある。ある学生いわく、 大学の軽音サークルではヘビメタ・バンドをやる大学生が一番多いのだそうだ。そう、 あの単純さの中に秘められたパワーと歪みは、 今でも人を魅了し、 熱くさせている。

 ロックが誕生してから半世紀が過ぎた。その間、 世界はめまぐるしく変化し続け、 人々のライフ・スタイルも価値観も半世紀前とは大いに異なっているだろう。それでもなお、 決して失われることはない魔力がロックにはある、 と信じている。 だから、 20世紀を振り返る世代と21世紀を作っている世代とが、 今こうしてつながれるのではないか。

 本書が、 70年代日本のロックの熱気を少しでも伝えてくれれば、 企画者としてこんなにうれしいことはない。

同 5-6頁

 中学から高校にかけての、 ”プレ70年代ロック” の頃のことを考えていたら、 別の仕事で対談したローリーの言葉を思い出してしまった。 近所のロック好きのお兄さんにピンク・フロイドを聴かされて、 頭の中を ”サイケデリックなものが駆け巡った” そうだ。

 そのざわざわした感触は、 僕にも覚えがある。土屋昌巳が語った 「世の中が大きく変わるような予感」が、 ロックという音楽と共に、 ティーンエイジャーだった僕らを襲ったのだ。

 そんなにまで魅せられたロックの本質は何なのか、 なんていうことは考えたこともなかった。 ただ、 夢中で追いかけているうちに、 はっと気づいたらミュージシャンになっていた、 というのが、 正直なところだ。 恐らく、 参加してくれた方々はみなそうだと思う。

 ゴールデン・カップスの歌ではないが、 それで良いじゃないか。

 ロックとは所詮、 そんなもの。

 これを読んでくださった方々が、 ひとりひとりの ”自分のロック” を発見するヒントになってくれれば、 本書の目的は達せられたようなものだ。

難波弘之 「あとがき」 292-3頁

個人的には、 日本のロック in 70s に 強い思い入れはない

ただ、 現代日本のインド観を 大きく支配しているのは、 ヒッピー文化 ・・・

そのあたりから、 ボンヤリとした 興味はもっていた

こちらのエントリ など、 ご参照くださいませ

大変 面白く読みました!

【メモ】

井上さんは、 青弓社のサイトで 連載もしてらっしゃる

「ホラー狂のトラウマ映画論」

なかなかディープで、 いかにも井上さんっぽい! 面白い

ライヴバー ZZ は こちら

2009年5月14日 (木)

中沢新一の唯物論 (2/2)

<連載 中沢新一論> 前便 より つづく

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さてただし、 注意すべきは、 中沢 「唯物論」 は無神論ではない、 ということだ

いったいこのことは、 私たちに何を語っているのでしょう。 宗教は心の構造の深遠な表現であり、 それ以上でも以下でもない、 ということです。 しかも心の構造は人間のしゃべることばの構造によって決定づけられており、 「精神の考古学」 によれば、 このことばの構造はまた、 現生人類の脳におこった革命的なニューロンの組織替えの過程で出現した、 流動的知性の働きによって生み出されたのである。
 こう考えてみますと、 人間が完全な無神論でいることなどは、 原理的に不可能なことである、 と結論づけたくさえなってきます。 神々は長いこと人間の心の同伴者でしたが、 制度としての宗教が消滅するというような時代になったとしても、 現生人類としての心の構造が同じままであるかぎり、 この先もきっと、 心の構造の表現者であり隠れた同伴者であり続けるのかもしれませんね。

『神の発明 カイエ・ソバージュⅣ』 (講談社, 2003年) 155頁

あらためて 「唯物論」 への力強い言及を引用する

国家や経済のシステムの展開ばかりではなく、 宗教のような観念のシステムについても、 これを 「自然史の過程として」 研究することの重要性を力説したマルクスとエンゲルスの思想は、 この領域でいまだに有効性を失ってはいない、 と言えるかもしれません。 スピリットや魂 (たましい) にかかわる問題について、 「マテリアリズム (唯物論) 」 の視点を失うべきではないのです。 量子論のような物質科学が物質の領域で発見してきたことと、 神 (ゴッド) の問題のような心の領域の問題とは、 現生人類の脳にたえまなく 「スピリット的なるもの」 の発生している場所で、 必ずやひとつにつながりあっているはずです。 それを探求する科学こそ、 今世紀に私たちが早急につくりださなくてはならないもののひとつとなるでしょう。

同 117頁。 ルビは括弧のなかに示した

もちろん、 こうした 「唯物論」 を、 僕もきわめて大切なものと考えるのだ

宗教学と現代宗教は、 もっともっと真剣にサイエンスの知恵と切り結ばなくてはいけない

もっともっと大胆に、 サイエンスの宇宙観、 存在論、 生命論、 知性論を取り入れなければいけない

【メモ】

僕も以前 非常勤研究員としてお世話になっていた 南山宗教文化研究所 で、 「科学・こころ・宗教」 プロジェクト が進んでいる

とても意義ぶかい試みだ。 皆さん、 どうぞ一度ご覧ください

なお、 プロジェクトの中まとめとして 下の本があるそうだが (コンドウ未見)

市販はされていない。 注文は こちら から

  • P. L. スワンソン監修 『科学・こころ・宗教 ―― 科学から見る 「こころ」 の意義』 (南山宗教文化研究所, 2007年)

ガウリ・ヴィシュワナータン氏 講演会

お知らせです

ガウリ・ヴィシュワナータン (Gauri Viswanathan) 氏の講演会があります

「魔術的数学と近代性: S・ラーマーヌジャンの教育を編纂する」

関西の方で シンポなどをやられるのは知っていたが (下記メモ参照)

関東には来ないのかなぁ、、、 と思っていたところでした

嬉しいです。 ぜひ参加させていただこうかと

以下、 南アジアML "SAAF" より転載です

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ガウリ・ヴィシュワナータン (Gauri Viswanathan) 氏  講演会

日時: 2009年5月26日(火) 18:00~20:30

会場: 東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーション・ルーム1

(地図 http://www.c.u-tokyo.ac.jp/access/index.html

講演タイトル:

Gauri Viswanathan (Columbia University)

"Magical Mathematics and Modernity: The Editing of S. Ramanujan's Education"

司会: 本橋哲也、 粟屋利江

ディスカッサント: 小林英里、 井坂理穂

ガウリ・ヴィシュワナータン(Gauri Viswanathan)氏:

コロンビア大学の英文学・比較文学学科の教授。 専門は、 教育、 宗教、 文化、 19世紀のイギリスや植民地のカルチュラルスタディーズ、 近代諸学の歴史など。 主著に、 Masks of Conquest: Literary Study and British Rule in India (Columbia University Press, 1989); Outside the Fold: Conversion, Modernity, and Belief(Princeton University Press,1998) がある。 イギリスのインドにおける植民地支配を、 英文学や改宗問題などの新たな視点から分析した研究は、 幅広い分野の研究者に参照されている。 今回の講演では、 植民地期にイギリス人数学者によって 「発見」 された著名なインド人数学者ラーマヌジャンを題材としながら、 植民地支配と教育の問題が論じられる予定である。

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【メモ】

2009年5月22日(金) 17:00~19:00 

「オカルトの伝達: 文学的モダニズムにおけるポスト宗教時代の宗教」 

("Occult Transmissions: Religion after Religion in Literary Modernism") 

*講演は英語で行われます 

講師:ガウリ・ヴィシュワナータン(コロンビア大学) 

於京都大学人文科学研究所、本 館四階大会議室(4階) → 

スリランカの現状

スリランカ情勢が 緊迫している

2009年5月13日付け朝日新聞 (朝刊) も 社説でこの問題をとりあげている

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http://www.asahi.com/paper/editorial20090513.html#Edit2

(リンク切れ ご容赦。 朝日ですから・・・)

スリランカ内戦―人道危機と日本の責任

 20年以上続いてきたスリランカ内戦が重大な局面を迎えている。

 分離独立を求める少数派タミル人の武装組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)が政府軍の攻撃にさらされ、北部のわずか3平方キロメートルの地域に追い詰められている。

 そのLTTEは敗北を前に、まったく無謀な行動に出た。地元住民を部隊と一緒に行動させ「人間の盾」としているのだ。武装勢力の家族や支持者が一部いるとはいえ、大部分は強制されていると見て間違いあるまい。

 先月末には約10万人の住民が戦闘の合間にLTTEの支配から逃れた。しかし、国連の推定でまだ最大5万人もの住民が残されている。

 これまでに7万人以上の犠牲者が出ている。最近、仮設病院への攻撃などで住民が死傷したとの報道もある。ここで大規模な戦闘が起きれば、言語を絶する悲劇が起きかねない。

 LTTEの行動が人道上許されないのは明らかだ。即刻、住民の拘束をやめ、全員を解放しなければならない。

 政府軍も軍事作戦を中止し、住民を避難させる措置を取るべきだ。作戦を強行して犠牲者が増えれば国際社会の非難はむしろ政府軍に向かうだろう。また国連などの援助関係者の現地入りも認めなければならない。

 この人道危機を国際社会も見過ごしてはならない。かつてルワンダやスーダンの紛争で、状況判断を誤ったために大勢の犠牲者を出してしまった教訓を思い出すべきだろう。

 日本とノルウェー、米国、欧州連合(EU)の4者は、連携して紛争解決への道を探ってきた。ノルウェーは7年前に双方の停戦合意をまとめた。

 だがこの停戦合意は、LTTEによるテロ攻撃や政府の強硬姿勢への転換によって昨年崩れ去り、ノルウェーとスリランカ政府との関係は険悪になった。米国の関心も自らの利害が絡む他の紛争地域に向きがちだ。

 それだけに、スリランカへの最大の援助国であり、政府とのパイプを保つ日本政府の責任は重い。「人間の安全保障」理念に基づいた外交を実践するときである。

 政府は明石康・政府代表を最近、現地に派遣し、ラジャパクサ大統領と危機回避策を協議したが、合意は得られなかったという。

 ヒューマン・ライツ・ウオッチなど国際的な人権NGO4団体は麻生首相に異例ともいえる書簡を出した。日本が事態解決のためもっと積極的な役割を果たすべきだという内容だ。

 英仏両国の外相は先月、現地を訪問し、国連安保理が事態解決に乗り出すよう求めている。

 麻生首相は安保理外交をフル稼働させるとともに、中曽根外相を現地派遣するなどして事態解決に動くべきだ。

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インドの全国紙 The Hindu (タミル・ベース)の こちらの記事 には

戦線図 (戦線戦略要図) が載っている

2009年5月13日 (水)

中沢新一の唯物論 (1/2)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢新一先生の宗教論の強さは、 唯物論にある

たとえば数万年におよぶシャーマニズムの探求は、 より高度に洗練された瞑想の体系へと受けつがれて、 今日におよんでいる。 それは大脳と神経組織の内部でおこる量子論的な過程に踏み込んでいけるような、 いくつもの特別な技術を開発してきたが、 そのおかげで、 人間は瞑い光というものがどのような力能を持ち、 内在空間でどのような運動をくりひろげているのかを、 つぶさに観察することができるようになった。 その探求の結果は、 意外なことに、ニーチェの結論と同じものだった。 神は存在しない (エックハルトはこの体験から「無の神」という表現を得ている)、 超越としての神は存在せず、 ただ永遠回帰するモノだけがある

『緑の資本論』 (集英社, 2002年) 202-3頁

発表日時ではこれの後にくる、 次のような言明

ここで中沢先生が依拠しているのは、 スティーヴン・ミズン 『心の先史時代』 である

(『緑の資本論』 では 『心の考古学』 と書かれているのはご愛嬌。 なお、 「流動的知性」 論はかなり問題含みである。 別のエントリで論ずることにしたい)

高性能な汎用コンピューターの機能を獲得した人類の大脳は、 まわりの世界を正確に観察し、 分類をおこない、 それを複雑に組み合わせて、 自分たちの世界を合理的につくりあげていく能力を持つようになった …[中略]… その同じ大脳の構造が、 現実の世界の合理的な枠を超えて流動的に動いていく力への認識を発生させるのだ。 流動していくもの、 自分の能力で同一性の枠を越えて増殖をとげていくもの、 自ら生成変化をおこしていくもの、 それは文字どおり 「モノ」 と表現することしかできない力だが、 その 「モノ」 にはハウやオレンダやタマなどの名前が与えられて、 あたかも実在する力であるかのようにとりあつかわれ、 またそれをとりあつかう特別な能力をもった人々まで登場するようになる

同 43-44頁

あるいは、 人類史上はじめての一神教の神である 「ヤハヴェ」 はどこに 「ある」 のか―― 中沢先生は朗らかに断ずる

自分たちの大脳の中で生起している流動的知性の働きの中に

同 46頁

仏教的な、 とでも、 合理的な、 とでも形容してよい唯物論 ―― これこそが、 中沢先生の思索のかなり根底に近いところを形づくっている

「根底に近いところ」 というのは、 ほかでもない、 心理学や生理学にもとづく説明がむずかしい事象 (奇跡、超常現象など) の現前を、 中沢先生が認めていない … などとは、到底思われないからだ

【メモ】

『緑の資本論』 は 中沢先生の数ある著作のなかで 僕がもっとも好きなものです

一読の価値あり、 と思います

<つづく>

Riot in Lagos

たまには、 ただ好きな音楽を載せるだけ、 という

こうして紹介したら、 削除とかされちゃうかな・・・

心配だから、 積極的に 宣伝 宣伝

こちら ↓ のアルバム (1980年) にて 最初に発表された曲です

RYUICHI SAKAMOTO - / 04 - Riot In Lagos Riot in Lagos

2009年5月12日 (火)

連載 宗教学のための映画 序

大学で 「宗教学」 なんてのを 講じていると、 、、

お勧めの映画 おしえてください

と 質問をうけることが ままある

映画好きを公言しているので、 これまた なおさらだ

ということで、、、

「宗教学のための映画」 を連載してみようかな、 と思いたちました

YONSH (読んでおきたい宗教論) なんてのを作っているから

「宗教学のための映画」、 転じて Movies for Shukyo-gaku Students

「MOOSH」 なんてのを作れたらいいなぁ、、、 と思っています

蛇足ながら・・・ 上で Students とは 「(先生ではなく) 学生」 の意味ではありません。 ガクショウ (学生) ならいいですが、 要は 勉学を重ねるもの のことであり、 大学教員なんていう いかにもエラそうな者も そこには ガッツリ 含まれます

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まずは 「序」 として、 映画選びの基準みたいなことをば ――

と思っていたら、 次のような本をみつけました

  • 井上 順孝 (編) 『映画で学ぶ現代宗教』 (弘文堂, 2009年5月)

なんせ出たばかりで、 まだ手に取ってもいない

察するに、 年刊 『宗教と現代がわかる本』 にて 井上先生が執筆なさっている映画紹介のコーナーを拡充して

いろいろな方から原稿を寄せていただいたものなのだろう

早速買うことにしました

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僕自身の 「MOOSH」 は、 まぁ これを読んだ後に、 ボツボツやっていこうかな

ひと月

ご挨拶です

こちらのブログを再開して、 ちょうど一ヶ月が過ぎました

いろいろな方の励ましもいただき、 大変ありがたく思っています

とにかく速く書いて、 少しずつ書き溜める、、、 という方針で

なんとか30日! 

これからもどうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m

2009年5月11日 (月)

人々の精神に現前しているインド

こちらのエントリ からつづく

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なんだか・・・ エリアーデばかりで恐縮だが、 とにかく面白いので

また引用です

しかし今回は、 エリアーデその人! というよりも

20世紀初頭、 若きエリアーデが生きたルーマニアにおいて

インドなるもの」 が どう受け止められていたか、、、 その回想です

◇ 大学に入ったときの知的雰囲気はどんなものでしたか、 この時代の、 つまり一九二〇年から一九二五年にかけてのルーマニアの文化的雰囲気は?

◆ 私たちは当時 <大ルーマニア> と呼ばれていたものの文化から、 つまり一九一四年~一九一八年の世界大戦後の文化から生まれた最初の世代でした。 規制のプログラムのない、 実現すべき理想のない最初の世代。 私の父親の世代と祖父の世代には一つの理想がありました。 ルーマニアのすべての地方の再統合です。 この理想は達成されていました。 そこで私は 自由なプログラム をもたない最初のルーマニア人世代に属するという幸運に恵まれたのです。 私たちは伝統的源泉だけでなく、 つまり古典文化とフランス文学だけでなく、 ほかのすべてのものを自由に発見することができました。 私の場合、 イタリア文学と、 宗教史と、 その次に東洋 (オリエント) を発見したのです。 友人の一人はアメリカ文学を、 別の一人はスカンジナビア文化を発見しました。 私たちはジャック・バコの翻訳によってミラレパを発見しました。 すべてが可能でした、 お分かりですね。 ついに、 本当の出口を準備していたのです。

◇ 普遍への出口、 人々の精神に現前しているインド、 ブランクーシに読まれるであろうミラレパ・・・・・。

◆ ええ [後略]

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 28-9頁

「R」 は対話相手のクロード=アンリ・ロケ、 「E」 はエリアーデ

傍点を付された部分は 太字で示した。 ルビは 括弧内に示した

僕のような、 南アジア研究をやっている宗教学者 には、 大変興味深い記述なのです

皆さんにとっては、 いかがでしょうか?

【メモ】

この点にご関心がおありの方、 こちらのエントリ もご参照ください

宗教、階級、差別

<注目記事のフォローアップ> 前便は こちら

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http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20090508-567-OYT1T00068.html

豚全頭処分のエジプト、 養豚の少数派キリスト教徒は猛反発

2009年5月8日 (金) 00:34 YOMIURI ONLINE

【カイロ = 加藤賢治】 新型インフルエンザ (豚インフルエンザ) 対策として、 エジプト政府が始めた豚の全頭処分に対し、 豚を飼育する少数派のキリスト教一派コプト教徒が猛反発している。

 同教徒は、 豚を不浄とみなすイスラム教徒による差別だと訴えるが、 政府は 「飼育環境が不衛生で、 野放しにできない」 と処分を進めている。

 「感染者が出ていないエジプトで、 なぜ豚を処分するんだ」

 カイロ西部マンシーヤ・ナセル地区で、 豚約100頭を飼育する男性 (33) は、怒りをぶちまけた。 住民の大半は廃品回収業のコプト教徒で、 生ゴミで豚を飼育、 副収入にする貧困層だ。 3日には処分に反発する住民と治安部隊が衝突した。

 「新型」ウイルスは、 人から人にうつる型に変異しており、 感染拡大に豚はもはや無関係。 それでもエジプト政府は、 国内の推定30万~40万頭の豚を処分する計画だ。

 新型インフルエンザの世界的な広がりは、 日ごろから不衛生な豚飼育を駆逐する機会をうかがっていた政府に、 絶好の口実を提供したとの見方が広がっている。

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2009年5月10日付け 朝日新聞 (朝刊) から 補足する

エジプトで養豚は、 ごみのリサイクルと裏腹だ。 市街地で集めるごみを分別し、 残飯のみ豚に与えて飼育。 豚は食肉工場に、 分別した残りのごみはリサイクル業者に出荷する。 人口の1割と言われるコプト教徒のうち約3万5千人が、 この地区でごみ処理と養豚で生計を立てており、 1日にトラック2千台分のごみが運び込まれ、 約6万頭の豚が飼育されているという。

この事実が示唆するのは、 問題は 単純な宗教対立ではない ということだ

どういうことか・・・

宗教帰属にもとづく共同体と 階級・階層と 差別の社会構造とが すべて重なっているということ

<コプト教徒 = 都市最下層民 = キタナイ・ロクデモナイ連中 >

こんな等式が スンナリ成り立っていて、 しかも

その三つの項が、 すべて同等の重みをもっている ――

このことは、 僕がやっている インドの事例からも 十分推測できる

だから、 次のようなムスリム (男性イスラーム教徒) のコトバが

同じ記事のなかで紹介されていたとしても

それに とらわれすぎはいけない! のだ

カイロ在住のイスラム教徒で退役軍人のムハンマド・ラシドさん(60)は、 「エジプトはイスラム国家。 そもそも豚を飼うべきではない」 と政府の全頭処分を支持する。

ラシドさんを苛立たせているのは、 もしかしたら、、、

<都市下層民 (スラム住民) のゴミ拾い> であり

その人たちが 図らずも体現することになってしまった体現させられている

エジプトという国の停滞と混乱であり

そんな国を作った 「政治家」 「官僚」 「知識人」 などなど、、、

であるかもしれない

繰り返す、、、 問題は 宗教ではない!

【メモ】

「コプト教徒 抗議 インフルエンザ 豚全頭処分」 でGoogle! →

2009年5月10日 (日)

根本的人間

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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旧石器時代 に人間の基礎的条件をみる視覚を、 中沢新一とエリアーデ先生は共有している

中沢先生が強い論拠を求める認知考古学は、 エリアーデの時代にはまだ十分に発達していなかったから、 論述の細密さは やや劣るのだけれども、

次のような エリアーデの言葉、 <根本的人間> の理念は、 中沢先生によく通じる

また長くなりますが、 すいません、 お付き合いください

しかし私はある種の原初的啓示が消滅しうるとは思いません。 もっともテクノロジカルな文明においてすら、 変わりえない何かがあります。 昼と夜、 冬と夏があるのですから。 樹木のない都市においてすら、 天体のある空があり、 常に星と月を見ることができます。 昼と夜、 冬と夏がある限り、 人間は変わりえないであろうと私は思います。 われわれは、 望まずして、 この宇宙のリズムに統合されているのです。 人は価値基準を変えることはできる ―― 夏、 夜、 種まきのような農民の宗教的価値基準は、 もうわれわれのものではない ―― けれども、 しかしこの光-闇、 夜-昼というリズムは常にあります。 もっとも非宗教的な人でもこの宇宙リズムの中で生きています。 彼はそれをとりわけ自分自身の存在の中に再発見します。 昼間の生活と、 それから夢を伴う眠り ―― 夢はいつも見ます。 もちろん、 われわれは経済的社会的構造という条件下にあり、 宗教的経験の表現は常に言語と社会という条件、 そうして利害関係という条件の下にあります。 けれどもこの人間の条件、 それをわれわれが身につけるのはここ、 われわれに諸々のリズムとサイクルが与えられているこの宇宙の中なのです。 われわれの人間としての条件、 それはこの根本的な条件から出発して身につくのです。 そうしてこの <根本的人間> 、 それは外見がどうであろうと <宗教的> と言うことができます、 なぜならば生命の意味づけにかかわっているからです。

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 155-6頁

エリアーデの引用は、 なぜか やたら長くなってしまいます・・・

近代的なものの萌芽

こちらのエントリ コメント欄での mozu さん とのやり取り

そのなかで、 僕はまったく偉そうなことを書きました

その先には、イタリアがありまして、14世紀の黒死病です

あれが、かなりヨーロッパ精神史に 変化を加えた、、、と見据えております

そして・・・

煉獄、メメント・モリ、、、 もちろん関係があろうかと存じます

しかしおそらくは、あのまったく圧倒的な死の現前にさらされて

イタリアを中心に、「自分」というものへの自覚が極度に高まったこと

それが、 <人間・個人・理性>からなる 後の近代性の発端になったのでは――

とまぁ そんなことを見通しております

西洋史のズブの素人である僕には、 もちろんアンチョコがあります

それは、 澤井繁男先生 の研究です

  • 『ルネサンス文化と科学』 (世界史リブレット28, 山川出版社, 1996年)

最初の章で 澤井先生は、 『神曲』 と 『デカメロン』 を比較されつつ、 こう書かれる

ダンテは想像力を最大限に駆使して、 地獄、 煉獄、 天国界を活写した。 この三つの界は私たちの目に現実にはみえぬものであるが、 ダンテの偉大なところは、 そういった世界を視覚的にじつにみごとにありありと現出させた点にある。 いわば建築的な視覚美ともいえるであろう。 それと同様にボッカッチョの描く世界も視覚的に優れているが、 描く対象が異なるのである。 彼は生きた人物が活躍する場としての、 つまり実質的な背景としての都市を、 そして農村を描き出す。 そこには奥行きのある実存感がある、 生身の人間社会といったものが再現されている。 それは 「はしがき」 冒頭の、 「苦しみ悩む者に同情を寄せるのは人間の道だ (・・・ 略 ・・・)」 という文を読んでもわかる。 ボッカッチョの関心は人間の世界にあり、 神の国にはないのである。 生の方向にあって、 死の方向にはないといえる。

11-12頁

ペストとか地震とか戦争の時代にあっては、 人間は生活を規制する法律を捨てるものであり、 通常では許されない歓びに耽るものなのである。 ボッカッチョはそういう場を利用して、 『デカメロン』 を成立させたのである。

・・・ [中略] ・・・

こうした社会 (作品の前提) においては前述のとおり価値は転倒しており、 なにものにも束縛されずに自在に人間を表現できたわけである。 そこで表出された人間、 および人間観は中世の社会のそれではもはやなく、 生身の身体をもった生き生きとした人間像なのであった。 新しい人間観 (ルネサンス的人間観) の登場である。

15-16頁

2009年5月 9日 (土)

宗教学の眩惑と危険

エリアーデは 自らの 「宗教史」 から生じる 「誘惑」、 「危険」 について語っている

少々長いが、 引用させていただきたい

そうしてこの儀礼の意味、 それは世界を再生させることです。 このことを発見すれば、 あなたは永劫回帰を発見したニーチェのように歓喜の叫びを上げることでしょう! というのは、 そこでもまた、 それは完全な自由への一つの招待だから。 だがなんという破天荒な自由を人はもつことができるのだろう、 そうしてこの自由に続くなんという創造性だろう!・・・・・。 ・・・ [中略] ・・・ それはいつも人生をまた始められること、 つまり私の創造性が確保されることを意味するのです ・・・・・。 <誘惑> を語ることができるのはこの意味です。 しかし堕天使ルシフェル的な危険もあります。 ある人間は長い瞑想とある儀礼の後に世界を変えられると信じているのをあなたが理解するならば、 そうして彼がその儀礼の後に世界の主に、 あるいは少なくともその村の主に本当になれるだろうと、 そこまで確信しているのはなぜなのかを知ろうと試みるなら [ママ: 引用者注] ならば・・・・・。 さて、 そこにもまた、 やはり絶対的自由すなわち人間の条件の廃絶の誘惑があるのです。 人間は限定された、 条件付けられた存在です ―― 一方、 神は、 あるいは神話的先祖は、 死すべき身体をもう持っていない精神は、 自由です!・・・・・ これらは、 たしかに、 誘惑です。 でも私は宗教史学者がカンニバリズムに、 あるいは狂宴や近親相姦に誘われるのだという印象を与えたくはありません。

エリアーデ  『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 161-2頁

この文章を、 私たちは 麻原に起こったこととして読むこともできるのだが

(実際、 エリアーデは、 マリリン・マンソン、 ハレ・クリシュナ、 超越瞑想 (TM)、 ムン・ソンミョン (統一教会)、 ラーマクリシュナ・ミッションなどなどの 「セクト」 と、 「ヒッピー現象」 の真っ只中で、 重要なグルの一人とみなされて、 生きていた ―― 同書 149-56頁 参照)

もちろんエリアーデは、 「宗教史学者」 (すなわち 宗教学者!)について言っているのだ

エリアーデは まだよかった、、、

この程度の糾弾ですむのだから、、、

でも、 現代日本の宗教学は、 ポスト・オウムの宗教学なのだ!

魚影の群れ

先日、 「魚影の群れ」 (1983年) を観なおした

監督は 相米慎二、 出演は 緒形拳、 夏目雅子、 佐藤浩市 など

錚々たるメンツに支えられ、 相米監督の情念が爆発してます

名作ですなぁ!!

未見の方は ぜひぜひ ご覧になってください

(エロ・グロなシーンが ちょっと出てきます。 あらかじめご注意ください)

【メモ】

YouTube に 全編がアップされているが、 当然 ぶつ切り

ぜひ! 通しで観ていただきたいです m(_ _)m

2009年5月 8日 (金)

ガンディーとエリアーデ

エリアーデが面白い ので、 読書メモを連続投稿してみます

内容的に、 <連載 中沢新一論> と かなりリンクします

ご興味のある方、 カテゴリ からご参照ください

====================

ガンディーの敬愛者は 当時のヨーロッパにたくさんいた

有名なところは ロマン・ロランだ

彼の評伝 『マハトマ・ガンディー』 は、 広い読者層を獲得した が、 それは

オリエンタルなもの、 インド的なもの、 神秘的なもの、 古代的なもの、、、 などに対して、 当時のヨーロッパ人が、どれだけの関心を もうすでに もっていたかを示す

ちなみに、 知識層だけでなく、 かなりの民衆層にも それは浸透していた

世界でいまも最もよく知られた宗教学者、 ミルチア・エリアーデもまた ガンディーに惹きつけられた若者のひとりだった、、、

ということを 今回はじめて知った

  • エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) より

ガンディーを見たこともあり、 声を聞いたこともありますが、 遠くからで、 よく聞こえませんでした。 そのころスピーカーもありましたが機能していなくて。 カルカッタで、 ある講演で、 非暴力デモのときでした・・・・・。 でも私は彼に感服しています ―― みんなと同じに。 私が携わっていたのはほかの分野でしたが、 彼の非暴力キャンペーンの成功にはおおいに関心を惹かれました。 もちろん私は一〇〇パーセント 反英 でした。 スワラジ の闘士に対するイギリスの弾圧に私は苛立ち、 憤慨しました。

74頁。 傍点が付された部分は、 太字で示した

インド留学中のエリアーデが見たのは、 (1930年 ということだから)

あの有名な 「塩の行進」 によって再びインドの民族運動の先頭に立った ガンディーの姿だった

政治に関心をもったのはインドに来てからです。 なぜかというと、 ここで抑圧を見たからです。 私は考えました。 「インド人はまったくもっともじゃないか!・・・・・」。 そこは彼らの国で、 彼らの求めるのはある種の自治でしかなく、 彼らの示威行動は完璧に平和的なもので、 だれを挑発することもなく、 自分たちの権利を要求していたのです。 しかも警察の弾圧は不必要に暴力的でした。 そのためにカルカッタで私は政治的不正を意識し、 同時にガンディーの政治活動の精神的可能性を発見したのです。 打撃への抵抗と無反撃を可能にするこの精神的規律。 それはキリストに等しいもので、 トルストイが夢想したものでした・・・・・。

76頁

対話相手の クロード=アンリ・ロケ が聞きなおす

◇ では無抵抗運動に心も精神も奪われたのですね・・・・・。

◆ 暴力的運動にも! たとえば、 私はある過激派の話を聞き、 もっともだと思いました。 いくらかの暴力も必要だということが私にはよく分かっていました。 でも結局のところ、 私は非暴力運動に非常に惹かれました。 次に、 それはただ並々ならぬ戦術であるだけでなく、 みごとな大衆教育であり、 自己統御を目指すみごとな民衆教育法でした。 まったく、 それは政治以上のものでした。 現代政治以上、 という意味です。

同。 「R」 がロケ、 「E」 がエリアーデ である

ガンディーに対するエリアーデの手放しの賛美、、、

この言葉は、 70年代半ばのアメリカにおいて吐かれたものだから、、、 つまり

アメリカにおける公民権運動や反戦運動や反核運動を背景として吐かれたものだから、、、

ちょっと 差っぴいて聞かれるべきだろう。

エリアーデが どの程度まで ガンディー主義者だったかはさておき

二人が共有した時空間には 大いに興味をかきたてるではありませんか!

中西学

プロレスが好きだ、、、 ってことを こちらのエントリ に書かせていただきました

身も蓋もないところが 好きなのです

ベタなところが 好き、、、 なんですねぇ

なかなか 分かっていただけないのですが、、、

めげずに、 IWGP チャンピオンになった 中西学 選手の言葉 ――

本当にどうしようもない人間ですから。 プロレスやってなかったら、 何をやっていいか分からない人間なんで。 17年間プロレス (界) にいれただけでも奇蹟みたいなものなんですけど。 せやけど17年間何を目標にするかと言ったら、 このタイトルを目標にしてきましたし。 馬鹿な男ですけど馬鹿な男なりに目指す物があったから、 ここまで来れたということ。 あと1人じゃ絶対できへんから、 力になってくれた人がいたということ。 それからファンの皆さんがあれだけ声援をくれて本当に …… いつ見捨てられてもしょうがない状況だったのに、 声が枯れんばかりに俺のことを応援してくれた。 そのお客さんにやっと応えられたという心境ですね。 やっぱりデビューの頃から応援してくれたお客さんがいますから。 応えられましたね、 本当に。 お世話になってる人に。 タイトル取ったのは嬉しいけど、 これからがキツイと思いますけど。 自分に十分今までの失敗を言い聞かせてですね、 17年ですけど18年、 20年、 30年目指して頑張っていきたいと思います。

2009年5月6日、後楽園ホールでの大会で、棚橋選手よりIWGPタイトルを奪取。 そのバックステージのインタヴューにおける発言

出典: 「スポーツナビ」

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/live/2009/2009050602/8.html

こういうコトバは、 なかなか聞けないんです

プロレス的な 「アレ」 がどうしてもありますからね

でも、 これは いいコトバです!

【メモ】

こっちの記事 なんかも・・・ 読んでみてください、、、 ませんでしょうか

2009年5月 7日 (木)

エリアーデの芸術人類学

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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次の一節が 中沢先生の 「芸術人類学」 のなかに含まれていたとしても

まったく違和感はない

われわれが現代美術を新しく豊かなものにすることができるのは、 民族芸術、 民俗芸術それ自体の創作物によってではなく、 むしろそれらの 「源泉」 を発見することによってである

エリアーデ 「ブランクーシと神話」 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 252頁

「ブランクーシ」 は奥山倫明さんの訳。 エリアーデ 『象徴と芸術の宗教学』 (作品社,2005年) からの再録だそうです

エリアーデと中沢新一、、、 違うところは 無論いっぱいあるのだが

(細密さの度合いでは、 むしろ中沢先生に分がある)

根源的なヴィジョンは ほとんど同じものだ、 と言ってよいだろう

そして、 これはもちろん! ヒッピーなニューエイジ/ニューサイエンス なのだ

エリアーデは そのグルとして、 中沢は 飽くことなきニューエイジャーとして

この流れを 現代日本にまで届けている

それに感応するのは誰か、、、 それは誰のためのヴィジョンなのか、、、

====================

【メモ】

中沢先生の 「芸術人類学」 は、 実にすばらしいネーミングだと思う

先生がなさろうとしていることの核心を、 ズバリ突く感じがする

もともと、 僕が中沢先生の再読をはじめたのは

僕が体系化したいと思っている 「宗教政治学」 (カテゴリ 参照) と

「芸術人類学」 が ちょうど入れ子状になっていて、、、 精確には

アプローチがちょうど真逆になっていて、、、 その点で

一番必要な勉強だと思われたからなのでした

そして、 その予感は正しかったなぁ、 と 今 思っているのです

<つづく>

子供の純粋

<AERA 2009.5.4-11> 記事紹介、 これでとりあえず打ち止めです

前便は こちら

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「子供の情景」 という映画の紹介記事 (78頁)

監督は、 ハナ・アフマルバフさん  二十歳の女性

「カンダハール」 の監督、 モフセン・マフマルバフ氏の次女さんだそうです

内容紹介を さらにかいつまんで ご紹介

学校を目指して歩く6歳の少女バクタイを、 タリバーンになりきった少年たちが囲み、 持ち物を調べる。 鉛筆の代わりに、 と持っていた口紅を見つけた少年は、 銃に模した木の枝をバクタイの頭に突きつけ、 年齢不相応の言葉を吐く。

「口紅は無神論者が使うものだ。 石投げの刑にする」

そして 帰り道。 タリバーンとくれば、、、 当然 米兵である

木陰から 「銃」 を手にした同じ少年たちが現れる。 今度は進駐した米兵に身を変えて、

「テロ犯め、 どこへ行く」

「うそつきの悪者だ、 死ね」

撃ち殺されたふりをする子供たち ―― セリフ

「バクタイ、 死ぬんだよ。 死ねばあとは放っといてもらえる」

「自由になりたいなら死ね!」

子供の純粋 とは、 まさにこういうことなのだろう・・・

====================

デリーに住んでいたころ、 近所に アフガン難民の一家が住んでいた

ソ連とのアフガン戦争の関連で、 祖国を逃げ出した人たちだった

何かのコネがあったのだろう、 一流住宅街の一軒家の二階を インド政府から供与されている、 とのことだった

おじさんとお兄さんには 職がなく、 日がな一日 ボンヤリしていた

生気をすっかり失った、 あの灰色の眼が 忘れられない

僕と アフガニスタンとの直接のつながりは、 これぐらいしかない

でも、 あの土地もまた たしかに僕の一部になっている

【メモ】

映画 「子供の情景」 ――

東京・岩波ホール、 大阪・大七藝術劇場 などで公開中 だそうです

公式HP は こちら

大学生はバイトをすべきか

<AERA 2009.5.4-11号 の記事紹介> やってます

前便は こちら

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内田樹先生 曰く

大学生は バイトをするな!

内田先生が 隔週連載されている 「大市民講座」 より (15頁)

新入生のオリエンテーションで、 先生は二つのことをお話しされたそうだ

  • できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように

「学生生活の基本的な心得」 その2は

  • できるだけアルバイトをしないこと

学生は 貧乏であれ! そうすれば、 キャンパスを 「遊弋」 するぐらいしかない

そうして、 「何か美しいもの」 「何か知的に高揚感をもたらすもの」 を得よ!

そのように無防備なまでに心身の感度を上げることを許す場こそ、 学校という空間が学生たちに提供できる最良の贈り物なのである

そっかぁ、、、 僕は アルバイト結構! というアドバイスをしてきた

僕自身、 キャンパスの外で学ぶこと があまりに多かったからだ

でも、、、 こういう考え方に触れると、 ちょっと考えなおしてしまう

どっちかなぁ、、、 どっちでもいいのかなぁ、、、

====================

関連のところで、 引用をもうひとつ

大学は教養を培うに足る場であることは確かである。 人生の途上のわずかにすぎない期間、 それはきわめて貴重なものであったことが思い返される。 自由の境涯とでもいうべき状況がそこにはある。 なにがしかの押しつけられる束縛はあるものの、 それを無視することができるのだ。 大学の用意する教養科目、 あるいは専門科目は教養の足しにはほとんどならないが、 大学での損得なしの人との出会い、 また書物との遭遇こそ、 教養を培う機会となろう。 それが自由の境涯における賜物である。 どこにでも誰にでも、 開かれた自由の境涯、 おそらく、 そのような場の最後の砦が大学なのだ。

川村邦光 「大学に教養はあるか」 『世界思想』 (特集 大学と教養) 2009春, 36号, 世界思想社, 2009年4月,30頁

そうだなぁ、、、 と つくづく思う

2009年5月 6日 (水)

生活のナマな手触り

こちらのエントリ で一部記事を紹介した 『AERA』 (2009.5.4-11 号)

アエラはもう5年ほど購読しているが、 なかなか面白い号だった

アエラ HP は こちら

立て続けで なんですが、、、 さらに三つほど 記事を追加させていただきます

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この号の総力特集は 婚活時代 だった

なかなかの迫力の特集だった

その目次を ここに掲げてみましょう (フォントなどもできるだけ再現してみます)

40代 vs. 20代 の婚活闘争

点滴打ちながら合コン、 世代超えて狙う年収600万男 ・・・・・・ 16

アラフォー 「ナナメ婚」 企業合併に学べ ・・・・・・ 20

婚活ビジネスで婚期を逃す

上野千鶴子「非モテ男ほど必要」×内田樹「婚活なんてしちゃダメ」 ・・・・・・ 30

土壇場で逃げない男子にする 「婚育4カ条」 ・・・・・・ 37

「産活」 体内時計 チクタク鳴る

夫より先に「父親」探し、7年越しの婚活は「でき婚」でゴール ・・・・・・ 39

これに 教育や介護の問題をあつかう キッツイ記事が並びます

「小児性愛」教師から子どもをこう守る ・・・・・・ 42

埼玉は日本最悪 「介護難民」 85万人発生 ・・・・・・ 45

清水由貴子 「いい人」 が陥った介護の孤独 ・・・・・・ 89

いかがですか?! この迫力が伝わりますでしょうか

ここに溢れかえる 現代日本の 生活のナマな手触り

哲学はいま こういうところから立ち上がるのではないでしょうか

この場所に届くコトバは 模索するに足るのではないでしょうか

====================

【追記】

AERA のこの号では、 上のような記事の真っ只中に、 ヒッソリと

ロシア軍 チェチェン 「終戦」 宣言の怪 ・・・・・ 80

なんて記事が 挿しこまれている

これがまた、 よいレポートなのです

筆者は 横村出 (よこむら いずる) さん 朝日新聞記者

こういう シッチャカメッチャカ な感じが 大変!よろしく 感じます!

中沢思想の成り立ち

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

====================

中沢新一先生の思想は 唯物論と形而上学の結合 である

それは いくつかのパートから構成されている

基盤的な思考枠組みは 人類史 である

この構想に、 認知考古学、 神話学、 心の哲学などの知見が吸収されている

その上に、いくつかの関心領域がある

  • 民俗学 (日本精神史)
  • 西洋思想史 (神学と哲学)
  • 構造主義人類学 (神話研究)

これらの領域のうえで、 各論が展開されており、 著作も複数ある

(そこが まったくスゴイところだ・・・)

====================

ポイントは 人類史 のところである

古代的なもの、 原初的なもの、 野生的なもの、、、

これらに関する知識と直覚から、 近代と現代を見通そうとする ――

そういった視野のことである

エリアーデが その種の視野を 完全にヨーガから得たように

中沢は、 それを チベット仏教から得た

その 「体験」 が、 結局は 先生の全業績を貫いている

====================

エリアーデとの比較 (まぁ ごく簡単な比較) は 次のエントリにて

<つづく>

2009年5月 5日 (火)

スラムドッグ$ミリオネア

【 授業こぼれ話 】

もう観たという学生さんの感想によれば

「勉強」 にはうってつけだが、 映画の出来としては ちょっと・・・

同様の感想を 別の機会にも聞いた

めったにない インド物メジャー映画!

傑作ではないのかもしれないが、、、 一人でも多くの方に観てほしい!

====================

未見のため、 感想はまた別の機会に

しかしその前に 『グラン・トリノ』 と 『ミルク』 を観てしまわねば! (南アジア研究者、、、 というよりは、 一介の映画好きとして!)

時間・・・ あるか?!

【メモ】

「スラムドッグ$ミリオネア」 で Google ⇒

公式サイトが なんだか つながらない・・・ そんなバカな・・・

松戸と柏 どっちが先?

あの頃は まさか自分が 柏=松戸圏に こんなにも長く拠点をおくとは・・・

4:57 から

2009年5月 4日 (月)

サヴェッジな音楽

野生 (savage,サヴェッジ) なものは もちろんいつでもすばらしいわけだが

最近の音楽で サヴェッジ (かつ ソフィスティケイティッド) なのといえば、、、

Underworld が 僕のなかでは一番!

ということで、 サヴェッジ感がよく出ているクリップをご紹介 Two Months Off

もうひとつ

ダンス・ミュージックっちゃぁ ダンス・ミュージックなんだけど、、、

やっぱり そこが受けてるんだと思う

要するに コンセプトがしっかりしてるんだなぁ、、、

聖俗二元論と人間本性

中村圭志先生の著書 『一Q禅師のへそまがり <宗教>論』 (サンガ, 2009年) より

編集  要するに、 ことば しつけくらしの全体で成り立っている伝統社会の仕組みを、 一律に 「宗教 VS 世俗」 と切り分けていくのは現実的ではないということですか?

一Q  切り分けが一切悪いというわけではない。 各地の伝統においても、 聖なるものと俗なるものとの二分法のようなものはある。 じゃが、 伝統ごとに、 土地ごとに、 時代ごとに異なるそうした切り分けを、 果たして一括して論じていいものか? という疑問が残るんじゃ。

編集  しかし、 現在 「宗教」 という言葉は便利に使われております。 「宗教」 と 「世俗」 とを画然と分かつことは難しいとしても、 世界中の人々が神を拝んだり、 修行をしたり、 お祭りをやったり、 死後の世界について考えたり、 何か似たようなことをやっているのですから、 「宗教」 という符丁を用いることには、 やはり意味があるのではありませんか?

一Q  それは確かにそうじゃ。 「宗教」 という言葉を無理に当てはめるのも問題じゃが、 それを使うなと無理強いすることにも意味はない。 要は 「気をつけよ」 ということじゃ。 「宗教」 概念は決して普遍的なものではない。 歴史の中で生まれた、 曖昧にして半ば偶然的な言葉である。 そういう意識をもって 「宗教」 について語られたい、 ということじゃ。

『一Q禅師のへそまがり <宗教>論』 184-5頁

「ことば」 「しつけ」 「くらし」 には傍点が付されているが、 上の引用では 太字として示した

聖俗二元論の否定 (精確には、 歴史構築主義による脱構築) は もはや、 ある種の定型句になっている

もちろんそれは 合理的である

ただし、 「聖」 「俗」 という概念を かなり (かなり!) 広くとってみれば、、、 つまり

近代的な聖俗二元論に この概念を限定しすぎないようにしてみれば

そのような発想自体は 相当古くから人間にはある、、、 と言えよう

ここまでは 一Q禅師も まったく認めておられる

問題は その 「古さ」 である

仮に! 人類史における神話的段階にすら それが見出せるということを、 認めるのなら、、、

聖俗二元論は (宇宙に ではなく) 人間に普遍的> という言い方も できることになる

このレベルの議論では、 歴史構築主義が無効化されてしまい

再び (あの忌まわしき?) 人間の性質に関する 「本質主義的な」 議論 (「人間本性」 human nature !!! ) が登場してくることになろう

このレベルの議論はまだ 一Q禅師のヴィジョンには入っていないようだ

はてさて、、、 この論点は どう料理されたらいいだろうか

【メモ】

上掲書について 前便は こちら

2009年5月 3日 (日)

イスラエル

臼杵陽先生が 新書を 上梓なさった

  • 『イスラエル』 (岩波新書, 岩波書店, 2009年)

「イスラエルはユダヤ国家である」 という言い回しは、 民族・エスニシティ・宗教・宗派などの観点から多様なイスラエル社会の現実を見えなくしてしまう。 だからこそ、このような多様な現実を見ていくという立場からイスラエルを考えていこうというのが、 本書の基本的なスタンスなのである。

しかし、なぜわざわざこのようなスタンスを取る必要があるのか。 それはイスラエルの多くの人びとが今後もずっと 「ユダヤ国家」 であり続けようと望んでいるからである。 イスラエルはユダヤ人のための国民国家でなければならず、 そのためにはユダヤ人がイスラエルで多数派を占めなければ 「ユダヤ国家」 という看板をはずさなければならなくなってしまう。

「はじめに」 iv頁

イスラエルを論じた本書の特徴は、 イスラエルが事実上、 ロシア系やエチオピア系などの多様なユダヤ人のエスニック・グループのみならず、 民族的マイノリティとしてのアラブ人をも包接するたぶんか主義に向かっていることを議論の前提にしていることである。 逆に言えば、 イスラエルのたぶんか主義的性格のゆえに、 イスラエル国民の多くはその反動として、 ナショナリズム的な行動をとる傾向にある。 ・・・ [中略] ・・・ したがって、 ユダヤ人内部のエスニックな多様性をもつイスラエルの現実を述べ、 民族的マイノリティとしてのアラブ人問題も 「ユダヤ国家」 の将来を考えるための素材として正面から取り上げた。

「あとがき」 223-4頁

====================

まだ読了していないので、 感想等は別の機会に

あしからず

間違いなく名著となっているでしょう!

【メモ】

同じく 臼杵先生の 『中東和平への道』 (世界史リブレット,山川出版社,1999年) も読みやすく、大変ためになった

宗教学の特徴

「宗教学の方法」 という授業をさせていただいている (こちら 参照)

最初は ちょっと とまどった

「宗教学の方法」 なんて、、、 学んだこともなければ、主題的に考えてみたこともなかったから

しかし、 こういったピンチは 得てして 最大のチャンスである

実際、 「宗教学の方法」 についての授業を草案するなかで、 僕の宗教学者の自覚とグレードは 多少なりとアップしたように思う

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Photo_2

授業では 右のような図を 皆さんにお配りしている

この図をもとに考えてみると、 宗教学には 「固有の方法」 と呼べるものがないのに 気づく

つまり、 宗教学者の研究方法は、 歴史学、 人類学、 社会学、 心理学 などと、 まぁ はっきり言えば 変わらない

宗教学の特徴は、 むしろ 「理論」 のほうにあるのだ、 と

方法を各自で身につけたうえで、 より一般的で理論的な問いに立ち向かう――

それが宗教学者なんだなぁ、、、 と思い至ったりするわけです

【メモ】

上の図には、 「論理操作」 が入っていない

つまり、 論理的な思考そのもののことだが、 これは いわば この図のバックグラウンド (地) を成している、 とご理解いただきたいです

2009年5月 2日 (土)

ZOKA

目白駅前にある コーヒーショップ 「ZOKA」 (ゾッカ) がお気に入りだ

とても美味い! のだが、 それほど有名でもない

なぜかな、、、 と思って調べてみたら、 そうか 店舗数が極端に少ないのだ

目白までお越しの際は ぜひお試しを

リンクは こちら ⇒ ゾッカコーヒー/ZOKA COFFEE

連載 宗教学こぼれ話 序

授業をいろいろさせていただいておるわけですが

とにかく大事にしているのは アドリブ感 ライブ感 です

本を読んだり、 テレビを観たり、 ネットサーフしたり、、、

勉強するだけなら いまやもう どんな風にだってできます

何も 大学にわざわざ行かなくても、 勉強はいっくらでもできる、、、

そういう世の中なわけですから、、、

大学でしかできない、 大学に 実際 行ってみなきゃ 体験できない ――

そんなものは何だろう と教員の立場で考えてみますと、、、

その一つは 授業というライブ だろう、 と思いつくわけです

ですから、 僕の授業は すべてが ワークショップ形式 です

受講者参加型 以外の 授業は、 やったことがありません

それによって、 安くない授業料に 少しでも見合うものを提供できれば ――

そう 願っているわけです

====================

授業中には 自分でも予想のつかない、 準備をしていなかった事柄に

たくさん言及することになります

中には 失言や問題発言もあり、 教務当局からのお叱りを受けたこともあります

関係各位、 何より 不快な思いをされた 受講生の皆さんには 大変申し訳ないことです。 すいません

言い捨てられた事柄はたくさんあり、 それはそれでいいのかな、、、 と

今でも思ってはおります。 それでこその ライブ である、と

ただ いくつかの発言は こうした場で公開してみてもよいのかな、、、 と

思ってみたりもするわけです

====================

ということで、、、

連載 宗教学こぼれ話」 をやってみよう と思い立ちました

思いついたときに、 なんとなく記事を書いてまいります

よろしくお付き合いくださいませ

<つづく>

2009年5月 1日 (金)

中締め

ご挨拶です

こちらのブログを再開して 3週間

月をまたぎ、 やっと ペースがつかめてきました

なんとか 一日一本のエントリを 続けたいと思っております

公開日時の指定をして、 夜12時過ぎ に更新されるようにしていきます

これからも どうぞよろしくお願いいたします

インドの世俗主義

宗教学にとって 「世俗主義」 (secularism) が問題、、、 というのは

しばらく前から 気づかれていた

アサドの翻訳は、 その気づきを 確定するものだった

しかし問題は、 世俗主義の問題とは どのような問題か 、、、 ということだ

この点を明確に指摘するのは、 意外と 難しい

こんな感じになる

  • そもそも 西ヨーロッパの歴史のなかから出てきた、 完全にヨーロッパ的な 世俗主義なんてものが
  • 政治理論の用語として 普遍的に通用させられてきて
  • さらに それが各地域で 独自に それなりの定着をみてきた、、、 のだが
  • いまや その根本範疇である 宗教と世俗とが 「鏡像関係」 (こちら 参照) にあること
  • つまり 世俗を確立するための宗教なるものが、 じつは 世俗によって確立されているという 入れ子状態にあること、、、 が明らかになりつつある

これは 相当 複雑な情況なわけだ

こういうとき、 文系学問がやるべきことは 個別具体的な事例を 調べてみる――

これに尽きる

====================

ということで、 東大の東洋文化研究所の 羽田正先生 のグループが中心になって

シンポジウム 「21世紀世界ライシテ宣言とアジア諸地域の世俗化」

が 08年11月28日に開催された

僕は 同僚の 伊達聖伸さん に声をかけていただき、 そこで発表をさせていただきました

インドのセキュラリズムの行方――インド憲法、ガンディー、ヒンドゥー・ナショナリズム

伊達さん>  いつもいつも 本当にありがとう。 あなたのおかげで、 僕は ホントに救われてます

このエントリ、、、 僕のペーパーの宣伝でもあるのですが

上のサイトから リンク先をどんどんサーフしていただきたい、 というのが主旨です

このシンポジウムの成果と、 それを主催する東大のこのグループの仕事に ご注目いただきたいのです

とっても有意義な研究が コツコツ と積み重ねられています

【メモ】

上記ペーパーを増補改定したものを 下の研究会 (5/23 @日本女子大学 ) で発表させていただけることになりました

小さな集まりです  どなたでも参加いただける、 インフォーマルな集まりです

どうぞお越しくださいませ

<詳細は 以下>

続きを読む "インドの世俗主義" »

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