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2009年5月30日 (土)

中沢新一の「宗教」概念 (1/2)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢先生は 宗教学会の動向に 背を向けていらっしゃる

それも仕方のないことだなぁ、、、 と思う

宗教学会を背負って立つのでもなんでもないが

宗教学の理論的展開に 大いに注目している ―― そんな僕が

勝手に! 中沢先生の 「宗教」 概念の使用に 注目したいと思う

ということで・・・

『精霊の王』 (講談社, 2003年) より抜粋

一番最後のところに 「宗教」 というコトバが出てくる

(3) そういう後戸の場所は、 特別なところにしつらえられているばかりではなく、 心を澄ませて直観してみれば、 それがいたるところに遍在しているのが見えてくる。 絶対転換が瞬間瞬間に発生して、 「ある」 の世界がつくりだされている現場は、 ここにもあり、 あそこにもあり、 私たちの中にも、 それはたえまなくおこっている。 だから 「ある」 の世界は自分の中に絶対的な根拠をもっていない。 それは 「空」 であり 「無」 である滞在空間の中から出現しては、 消滅しているわけだから、 「ある」 は 「空」 「無」 に包み込まれていると表現することも可能だ。 そういう心がけをもって日常を生きてみると、 世界の様相はがらりと一変していくだろう。 ひとことで言えば、 世界は 「幽玄」 のつくりをしているのである。

(4) そのような幽玄としてつくられている世界の仕組みを表現するのが、 芸能なのである。 芸能の徒は、 後戸を自分の表現の舞台に選び取った人々であるから、 「ある」 の表世界をつくっている価値や権力とは異質な原理に、 忠実に生きることができなければならない。 たとえ権力者に愛好されても、 自らは権力からは無縁の空間に生きていることができなければならない。 それに、 幽玄は 「真理を立てる」 ような行為とも無縁であるから、 宗教 にも哲学にも染まることがない。 いわば 「非僧非俗」 のままに、 存在の後戸に立ち続ける人でなければならない。

『精霊の王』 257-8頁 (宗教を太字で示したのは、 引用者)

中沢先生は、 その数多い論考において

「宗教」 というコトバを多様な仕方で用いる

それは、 現代日本の通例にしたがった用語法である。 すなわち

何かよいものを指すためにも、 何かイヤなものを指すためにも

ごく内面的な事象を指すためにも、 ごく外在的な事象を指すためにも

「宗教」 という語は使われるのである

上の引用は、 そうした多用な (ほとんど支離滅裂な) 用語法の一例だ

そこでは、 根源的で、 真に生命的な 「幽玄」 との対比で

「宗教」 なるものが措定されている

「染まる」 という表現は、 「宗教」 があまり嬉しくないものであるかのような

印象を与えることだろう

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で、、、 こうした宗教概念の使用法を どう位置づけるか

こちらのエントリ で紹介した 「一Q禅師」 に登場いただこう

<つづく>

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