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2009年5月 4日 (月)

聖俗二元論と人間本性

中村圭志先生の著書 『一Q禅師のへそまがり <宗教>論』 (サンガ, 2009年) より

編集  要するに、 ことば しつけくらしの全体で成り立っている伝統社会の仕組みを、 一律に 「宗教 VS 世俗」 と切り分けていくのは現実的ではないということですか?

一Q  切り分けが一切悪いというわけではない。 各地の伝統においても、 聖なるものと俗なるものとの二分法のようなものはある。 じゃが、 伝統ごとに、 土地ごとに、 時代ごとに異なるそうした切り分けを、 果たして一括して論じていいものか? という疑問が残るんじゃ。

編集  しかし、 現在 「宗教」 という言葉は便利に使われております。 「宗教」 と 「世俗」 とを画然と分かつことは難しいとしても、 世界中の人々が神を拝んだり、 修行をしたり、 お祭りをやったり、 死後の世界について考えたり、 何か似たようなことをやっているのですから、 「宗教」 という符丁を用いることには、 やはり意味があるのではありませんか?

一Q  それは確かにそうじゃ。 「宗教」 という言葉を無理に当てはめるのも問題じゃが、 それを使うなと無理強いすることにも意味はない。 要は 「気をつけよ」 ということじゃ。 「宗教」 概念は決して普遍的なものではない。 歴史の中で生まれた、 曖昧にして半ば偶然的な言葉である。 そういう意識をもって 「宗教」 について語られたい、 ということじゃ。

『一Q禅師のへそまがり <宗教>論』 184-5頁

「ことば」 「しつけ」 「くらし」 には傍点が付されているが、 上の引用では 太字として示した

聖俗二元論の否定 (精確には、 歴史構築主義による脱構築) は もはや、 ある種の定型句になっている

もちろんそれは 合理的である

ただし、 「聖」 「俗」 という概念を かなり (かなり!) 広くとってみれば、、、 つまり

近代的な聖俗二元論に この概念を限定しすぎないようにしてみれば

そのような発想自体は 相当古くから人間にはある、、、 と言えよう

ここまでは 一Q禅師も まったく認めておられる

問題は その 「古さ」 である

仮に! 人類史における神話的段階にすら それが見出せるということを、 認めるのなら、、、

聖俗二元論は (宇宙に ではなく) 人間に普遍的> という言い方も できることになる

このレベルの議論では、 歴史構築主義が無効化されてしまい

再び (あの忌まわしき?) 人間の性質に関する 「本質主義的な」 議論 (「人間本性」 human nature !!! ) が登場してくることになろう

このレベルの議論はまだ 一Q禅師のヴィジョンには入っていないようだ

はてさて、、、 この論点は どう料理されたらいいだろうか

【メモ】

上掲書について 前便は こちら

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01A 宗教学」カテゴリの記事

コメント

  世俗が宗教の反対のものであるとしたら、プラトンが『ハイドン』で言語と論理を愛するようになって以来、どこかで否定され続けていたはずです。(宗教はこころのなかにあって正しく説明できるものではないので)しかし、ひとは神への恐れから表立った反抗をできなかった。

 科学が進歩して、コペルニクスの地動説がどうやら正しいらしいと人々に浸透すると、ある科学者たちが神に離反した。(大迫害に合いながらも)しかし、一般のひとたちにとっては、生活を神から遠ざけるほどの力はなかったので、地動説を全く信じなくないまでも、脱宗教の大きな流れにはならなかった。しかし、ダーウィンの進化論が信じられるようになると、明らかに「神の存在は怪しい」と思われるようになる。折しも資本主義の発達でひとと金の関係が密接になるにつれ、「神よりも大切なもの」の存在がひとのこころで大きくなっていった。

 しかし、科学にも金にも、宗教のようなひとの行動の規範になるような素質は備わっていなかった。宗教や道徳がこれまで担っていたのは、ひととしての社会のモラルを守ること。科学や金はひとの行動を決定づけるものの、ひとを地に足をつけて歩ける存在にするための重力のような役割をしてきたのは、宗教や道徳のような「説明のできないもの」の存在だった。ニーチェの言いたかったのは、それかな・・・って勝手に判断しています。

 世俗が経済用語だから納得できなかたんだ、っと自分なりに理解できました。それを踏まえた上で、あえて、日本の世俗化を丸山真男で説明したいと思いました(なぜか・・・)

yokosawa さん>
コメントのお返しが すっかり遅くなりました。 すいません

現代日本の「世俗的なるもの」 (=宗教でないもの) の制度と観念が、どのように出来上がったか、、、 いやさ そもそもそれがどのようなものであるのか、、、

それ自体、まだまったく解明されていません

プラトンからニーチェにいたる西洋思想史が、(yokosawaさんのまとめが当を得ているかどうかは別にしても) いったい 僕らの宗教=世俗の二元論と、どのように関連しているのでしょうか

このように、課題は二重になっているように思われるのです 

  まったく、そのとおりですね。宗教とか世俗とかいう言葉ができたことと、思想史を関連ずけることはできても、そこから宗教と世俗の本当のところを想像するのには無理があります。
 また、金(資本主義)が脱宗教化を加速したことは確かな気がするのですが、それが一体なぜなのかというと、たくさんの伏線があって、そう簡単に説明するのは無理でしょう。

 わたしはと言えば、そもそも『ハイドン』のことばと『聖書』のことばの違いって何だろうというところで、つまずいてしまいました。<信じることが真実では?>

 自働巻きの時計を想像してしまいました。― 人が動くと時間も動く。また、わたしがそおっーと持ち上げただけでも時間が動く。― 核心部分にはたどりつけるんだろうか・・・。
 

yokosawa さん>

現代日本における<世俗=宗教>の観念について、 今年の宗教学会で ちょっと発表をしてみようかな、、、 と思っています
というか、 そういう発表をします、と申し込みしてしまいました
観念といっても、 それこそ「観念的/理論的」な発表ではなく、
言説分析の手法でもって、少しでも具体的に この点を解明したいとねらっています

西洋思想史のなかで<世俗=宗教>の形成過程をあとづける――
この作業は、いま着々とこなされています
欧米の若い学者が一生懸命やっていますから、まずはあちらで
着実な成果が 数年以内に出されるでしょう
それは、おそらく すぐに日本語に訳されると思いますよ
そのとき、私たちの議論は、一歩も二歩も先に進むでしょう
(確実な基盤のうえで!!)

資本主義が<世俗>を形成してきた、、、というのは
まったく鋭い指摘です
(私の今年の演習のテーマは「資本主義と宗教」です!)
具体的には、都市ブルジョアと商人層が、まず「自由」を求めたのでした
おそらく17世紀末から18世紀初ごろの話です
「世俗化」のもともとの意味は、教会財産の没収(その意味での、民営化)だったぐらいですからね
さらにさかのぼれば、12世紀ごろ、利子の神学的正当化において、ローマ王権=教会に圧力を加えたのは、やはり商人層(および、それに連帯する貴族層)でした
このあたりの歴史も、これから徐々に明らかになっていくでしょう

「真実」とか「現実」とかいうコトバは、二つの事態を指示します
① いわゆる「現実」。生活、、、ってことであり、科学技術や、国家と法律などがそれに対応します
② 想像界、象徴界の「現実」。<信じたものが事実>というのは、この局面に対応するでしょう。しかし、「信」という概念よりも、「体験」や「現前」という概念のほうが、適当かもしれません。

こうした知的作業を丁寧にしていけば、、、 かなりのところまで行けると思います
そして、その成果は、意外と、、、いいところまで行くのではないか、、、とも思っております

トラックバックありがとうございます。
コメント欄含めてたいへん興味深い話です。
素人目で眺めているにフランスでは聖俗関係に関わる歴史研究を最近よく見るような気がします。
日本の聖俗関係の解明というのはこれからなのですね。
どんな仕事がこれから現われることになるのか楽しみです。


mozu さん>

コメント ありがとうございます
少しでも、楽しい読み物になっていれば、大変光栄です

フランスの研究は、たしかに かなり進んでいますよね
ただし、18世紀から19世紀辺りに どうも関心が集中しやすいように見受けられます
(それこそ、僕は フランス研究の素人ですが・・・)

おそらく問題は、16世紀から17世紀あたりであり、
大事なのは、イギリスとオランダ、もしかしたらスペイン、、、
ということになりそうです
その先には、イタリアがありまして、14世紀の黒死病です
あれが、かなりヨーロッパ精神史に 変化を加えた、、、と見据えております

しかし、こんなこと、、、 素人の僕だからこそ言えるのであって
専門の先生方、学生の方々の成果をまたねばなりません

====================

最後に、まったくの蛇足、老婆心やもしれませんが・・・
どうぞ、こちらにも TB を張ってくださいませ (よろしければ)

確かに近代に集中している印象があります。中世だと煉獄をめぐる議論などを想起しますが、
黒死病という点についてはメメント・モリと関連するのでしょうか。なんだかわくわくするようなヴィジョンです。

TB返しの件、どうも失礼いたしました。

mozu さん>

mozu さんは書きました:
=====
TB返しの件、どうも失礼いたしました。
=====
 ↓
いえいえ、そういった意味ではございませんでした
mozu さんの力の入った記事を できるだけ多くの方によんでいただきたく、
余計なことをお勧めしたものです
かえって、 失礼致しました

さて、、、
煉獄、メメント・モリ、、、 もちろん関係があろうかと存じます
しかしおそらくは、あのまったく圧倒的な死の現前にさらされて
イタリアを中心に、「自分」というものへの自覚が極度に高まったこと
それが、 <人間・個人・理性>からなる 後の近代性の発端になったのでは――
とまぁ そんなことを見通しております

  死と宗教は切っても切れないものなのに、たくさんの死を目前にして「自分」を自覚するっていうのは、ずいぶん自立した考え方だなぁと思いました。個人主義のなせる業か・・・。
 メメント・モリといえば髑髏ですが、ヨーロッパでは死や命の終わりの象徴。ところが日本では確か永遠の命の象徴です。(ラテンアメリカでもそうだったような気が・・・)昔出光美術館で髑髏の根付を見つけたときに教わりました。
 文化の違いと宗教観について説明するのも難しいですね。

 まずは基本からと思ってジャン・ボベロ氏の講演(「21世紀世界ライシテ宣言とアジア諸地域の世俗化」での)の『世俗化と脱宗教化』をじっくり読んでいます。おもしろいです。

yokosawa さん>

黒死病と近代性の件については、 別の記事を書いてみました
しばらくしたらアップしますので、 また感想など聞かせてくださいません
個人主義、、、 といえば そうなのかもしれませんが、、、
なんせ 14世紀のことですから、 むしろ
教会の権威、 終末と死後生のドグマからの解放、、、 その意味での
「人間」 「自由」 の問題としてとらえるといいのかな、と思っております

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