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2009年5月 7日 (木)

エリアーデの芸術人類学

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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次の一節が 中沢先生の 「芸術人類学」 のなかに含まれていたとしても

まったく違和感はない

われわれが現代美術を新しく豊かなものにすることができるのは、 民族芸術、 民俗芸術それ自体の創作物によってではなく、 むしろそれらの 「源泉」 を発見することによってである

エリアーデ 「ブランクーシと神話」 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 252頁

「ブランクーシ」 は奥山倫明さんの訳。 エリアーデ 『象徴と芸術の宗教学』 (作品社,2005年) からの再録だそうです

エリアーデと中沢新一、、、 違うところは 無論いっぱいあるのだが

(細密さの度合いでは、 むしろ中沢先生に分がある)

根源的なヴィジョンは ほとんど同じものだ、 と言ってよいだろう

そして、 これはもちろん! ヒッピーなニューエイジ/ニューサイエンス なのだ

エリアーデは そのグルとして、 中沢は 飽くことなきニューエイジャーとして

この流れを 現代日本にまで届けている

それに感応するのは誰か、、、 それは誰のためのヴィジョンなのか、、、

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【メモ】

中沢先生の 「芸術人類学」 は、 実にすばらしいネーミングだと思う

先生がなさろうとしていることの核心を、 ズバリ突く感じがする

もともと、 僕が中沢先生の再読をはじめたのは

僕が体系化したいと思っている 「宗教政治学」 (カテゴリ 参照) と

「芸術人類学」 が ちょうど入れ子状になっていて、、、 精確には

アプローチがちょうど真逆になっていて、、、 その点で

一番必要な勉強だと思われたからなのでした

そして、 その予感は正しかったなぁ、 と 今 思っているのです

<つづく>

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コメント

  エリアーデをきちんと読んでいないので間違っているかもしれませんが、中沢先生とエリアーデでは中心にある表象が違うような気がします。
 
 中沢先生は宗教的なものの表象を、「内部視覚」による「内部閃光」というように表現されています。宇宙全体に広がるスピリットのイメージにはぴったりで、惹きつけられますね。

 一方、エリアーデの方は、天空、月、水、木というような自然の中にあって私たちがごく短かに接点を持っているもののなかから、宇宙的な広がりを持たせる表象であるように思います。

 そこには似ているけれど、全く違うにおいがします。

 わたしは、ひとのこころのベースにはだだっ広い空間にアースカラーの広がりがあるのではないかと思っています。それでは、いったいどこに中沢先生のおっしゃる「内部視覚」によって見える部分があるのかというと、それは脳内だと。要するに、わたしはこころと脳内を一致して考えられないのです。
 しかし、宗教のような「目にみえないもの」の存在を考えるとき、脳内にあるものと、それ以外のわたしの中のものの関連を考えることが必要な気がするのです。

 

 

yokosawa さん>

エリアーデと中沢では もちろん違いますよね
でも、根本的なビジョンは やっぱりかなり近いものがある、 というのが
僕の理解です

それは、境目のない世界の現前を体験する・・・ということ
その至上の価値を 強調する・・・ということ です

このレベルを「根本的」と呼んでおります

中沢先生が「内部閃光」の問題を 脳内のシナプスのスパークということで
解するのは、 先生の物質主義/唯物論への傾きをあらわすもの
ではないでしょうか

エリアーデの最大の弱点は 方法論です
実証主義的な方法論は どうも不得手のようですし
形而上学のような方法論(そういったものも あります)すらありません

いい意味ではない「解釈学」の立場に 徹底的にふみとどまった――
そのような天才だったようです

中沢先生は、かなり自覚的に それを解剖学や大脳生理学に拠った、
つまりは「認知考古学」的な知見を 大幅に採用しています
これは、方法論的には 非常に堅固になった、と評価できます

(ただし、認知考古学自体、まだまだ まったく不確定です)
(これについては、すでに別のエントリを書いてあります)
(後日、アップいたしますので、ぜひ感想をお聞かせくださいませ)

エリアーデの議論は、方法論の脆弱さのゆえだと思われますが
実に 単純な議論と結論になりがちです
<どこを切っても 金太郎飴>で、 要約すると いきなりつまらなくなる
細部にこそ 魂が宿るタイプの 文筆家です

(その意味では、とってもフレイザー的に思います)


  エリアーデにフレイザー。本当にどちらも物語のなかに自己の意識を込めて発するタイプの学者ですね。(こういうの流行ったのかな)わたしは、こういう人たちの根底にはやはりオットーを見てしまいます。(口では到底説明できない世界観!)
 あぁ、でも『金枝編』については、ほかのたくさんの人と同様に魅力を感じるので、いつかもっと違う次元のお話の中でお聞きしたいです。

 ところで、わたしは自分のこころのビジョンの個性と共通性について考えなくてはと思っています。(無理かなぁとは思いながら、学的に説明するためには、当然の行為として)その途中で、金沢大学の森雅秀先生にぶち当たりました。

 「・・・宇宙が神であるというのは、宇宙全体をひとつのまとまりとしてとらえ、それが神として顕現しているということです。これに対し、日本的な『神が宿る』というのは、全体は問題にされず、われわれのまわりのさまざまな構成要素に、神がひそんでいるという理解です。そこでは、宇宙全体の創造や持続、消滅などが意識されることはありません。基本的に、日本人は『宇宙』とか『全体』といった考え方が不得手な民族だと思います。われわれのまわりにあるのは、山や川や田んぼであり、それは漠然とした広がりはもっていますが、特定の構造をもっていません。別の言葉で言えば『自然』なのですが、自然は全体がひとつのまとまりをもたず、われわれと自然の関係もあいまいです。そう考えると、一元論を基本にする古代インドの梵我一如の思想などは、およそ日本人には理解しがたいものなのでしょう。むしろ、創造主を世界の外に置いているヨーロッパの思想の方が、日本人の世界観よりもインドに近いかもしれません。・・・」
(森雅秀先生のHP、インドと日本の仏教儀礼の比較研究、2008年10月23日の授業への質問・回答より)

 日本の思想とインドの思想について、よく理解できなっかたのでフォローをお願いできますか。

 中沢先生との比較のために森先生の「感得像と聖なるものに関する一考察」を読もうと思ってプリントアウトしました。日本の学者の比較も面白そうですよね。

 

オットーとエリアーデに 相当の影響を与えたのは
フレイザーということなのでしょうね

オットーとエリアーデということであれば、 やはりインド!
オットーならバクティ、エリアーデならヨーガですが
二人は、当時のヨーロッパの「インド的なもの」への傾きを
自ら体現するとともに、それを導きうながす 天才であったのでしょう

森先生の議論は、とても興味深いです
(お恥ずかしながら、存じ上げませんでした)
「獲得像と聖なるもの」、 僕も読んでみます。ご紹介ありがとうございます

一点、yokosawa さんの引用部分だけでみるかぎり
どうしても気になったことを 指摘させてください

森先生は、しっかりとした美術史家で哲学者でいらっしゃいますので
上の断章への批判はいたしません
一般論としてお聞きください

「日本の」という観念の問題です
仏教や神道の教学、神学の世界では、まさに「ひとつの世界=神」という
巨大な形而上学が 縦横無尽に 展開されてきました

それはおそらく、キリスト教神学にも匹敵するもので、 しかも
「日本の」民衆レベルの感性と 無関係ではないでしょう

神道に関しては、『神道の逆襲』 が とにかく名著です!
仏教なら、 天台教学についての入門書を ちょっと紐解くだけで十分!

このあたりの整理が、まだよくできていない現状があります

  お答えいただいてありがとうございます。
 
 たしかに、「ひとつの世界=神」に対応して日本の神の序列については、天照大神を筆頭に順位も決まっている感じはしますが、だからといって民衆にとって天照大神が一番かというとちょっと違う感じがします。(以前高千穂で夜神楽を見ましたが、神様に対して非常に人間的な、パロディーを演じさせたりしますね。そこではわたしは天照大神の権威みたいなものは感じられませんでした。)

 「基本的に、日本人は『宇宙』とか『全体』といった考え方が不得手な民族だと思います。」 ―その裏には個に対する日本人独特の感覚があって、神の序列でさえ取っ払ってしまうほどのパワーがあるのだろうなっと感じました。

 「感得像と聖なるものに関する一考察」もすごくおもしろく読ませていただきました。森先生の研究の手法と論述には、うーんと唸らされるものがあります。ここでは、あまりに脱線しすぎる気がしますが、また研究法なんかを教えていただく機会があったらぜひ解説していただきたいです。とりあえず、近藤先生にここで教えていただいたことをB6カードに整理しようと心に決めました。

 話を戻して、森先生の「『見ること』による救済ーチベットの死生観ー」も中沢先生の色彩感を念頭に読んだのでおもしろかったです。「特別なものや非日常的なものを見ることは、本来、人間の根幹にかかわるもっと切実なものだったはずだ。」本当に・・・。

お願い 本当に申し訳ないのですが、私のインドに対する知識(宗教・思想・ヨーロッパとのかかわりなど全て)が、とうとううちの上に教えてもらうほど乏しいことが判明してしまいました。「一元論を基本にする古代インドの梵我一如の思想」って何でしょう?
 

yokosawa さん>

現代日本(はっきり言えば、1960年代以降の世代)において
たしかに、神仏の統合的世界観は 実感しづらいものになっています

(僕も、個人的には まったくそのとおりです)
(森先生の断章に書かれてあったことは、「僕の」個人的経験に合います)

しかし、そのことと 「日本の」精神の 特質・・・とは、まったく別の話です

「個に対する日本人独特の考え方」 ・・・ この日本人を
20世紀後半以降の 一部世代、 というのなら、 そうであるかもしれません

しかし、 千数百年の歴史のなかの 「民衆」 がどうであるかは・・・
まだまだ わからないことだらけ、というのが せいぜいのところでは

====================

「一元論を基本にする古代インドの梵我一如の思想」 ――

この表現を読むかぎり
「梵我一如」 についての、ごく簡単な思想紹介で言われていることで
十分だと思います

いくつかのサイトを検索してみてくださいませ

むしろ、僕がお伝えしたいのは
インド思想は いつも一元論が中心とはかぎらない! ということです

梵我一如を極端に重視するのは、19世紀初頭以来の
ヨーロッパ発オリエンタリズム(俗流)の影響です

前田先生の『インド的思考』は この点を明確にしてくれます
二元論と一元論との論争対立、、、 という観点から
インド思想史を まとめようとするお仕事です

僕なんかには、こちらのほうが よっぽどしっくりきます

  歴史的な観点からものを見る大切さについて、忘れてしまっていたようです。確かに、ひとが受け継いでいくものと取り去っていくものについては、そう簡単に解明できるものではないですね。

 大急ぎでインド思想の元になるヒンドゥー教について、自分なりにまとめました。
 梵(ブラフマン)と我(アートマン)について。宇宙と自己。ブラフマンとアートマンが同一のものであるというのが梵我一如で、ヒンドゥー教のもとになる考え方といわれている。<それを仏教が考えないことにした(「無記」・「捨置」)というのが面白いと思いました。>
 業(カルマ)はひとが行うあらゆる行為で、いかなる行為も潜在的に業として蓄積されて、人間の運命、生き方、何になるかなどを決定する。(「輪廻」)
絶対者であるブラフマンと永遠不滅のアートマンが合一することによって解脱の境地に到達して輪廻から解放される。

 ヒンドゥー教はドグマを持たないといわれるほど包括的で、その内に哲学、神学、社会制度、生活様式、生活習慣等々が含まれる。(この部分ではユダヤ教と似ていて、民族宗教といわれる)
 開祖がなく、回心や改宗といったものはない(ヒンドゥー教徒の家に生まれるとヒンドゥー教徒)
 ヒンドゥー教は長い年月の間に自然に成立して、いろいろな系統が異なる信仰、習俗などが複雑に絡み合っている複合体である。したがって、ある意味では一神教の面もあるが、多神教の面もある。また、思想的・哲学的にみると一元論でもあるし、二元論でもあるし、多元論でもある。

 以上前田先生の講義を引っ張り出してまとめてみました。
足りないところがあったら(ぜったいあるけれど、大まかに見て)フォローお願いします。

yokosawa さん>

インド思想史についての 手際よいまとめではないかなぁ、、、と思いました

むしろ 僕が忘れていたものを、思い出させていただきました

すなわち、多元論!

さらに、不可知論もここに加えるべきですね

(アマルティア・センは、まさにこの不可知論の伝統の継承者であることを宣言しております)

==========

さて、、、
ここでもやはり、別の観点から ふたつ補足させてください

① 「ヒンドゥー教」概念は近代の創作である

もちろん、近世、中世にも「ヒンドゥー教」に相当する観念=制度はありました
ここで近代性を強調するのは、ナショナリズムの問題があるからです
「ヒンドゥー教」は、イギリスなどヨーロッパ諸国とは異なる、
独自のインドそのものの本質、として定式化されました

ここから生じた事態は、少なくともふたつです
その1)
キリスト教でないこと、イスラームでないこと、、、 が
「ヒンドゥー教」には どうしても まとわりついてしまう
その2)
一体性が強調、、、というよりも 強要される
「ヒンドゥー」は一つ、「ヒンドゥー教」は一つ、、、というわけです

yokosawa さんのまとめの中には、この観点が入っていませんね

② 弱者/被抑圧層からの批判

不可触民、部族民、女性などの立場からすれば
ヒンドゥー教とは すなわち抑圧の文明原理です

上のポイントが、外に向かう排他性と 内に向かう画一性の
問題であるとすれば、 抑圧とは
同じひとつのもの、、、 という観念(理想、スローガン、宣伝文句)に隠された
不平等と差別の問題です

たとえば、ヒンドゥー教は多様だ、と言うことは
その多様性が 巨大な抑圧と差別をともなうことを ボンヤリさせます

yokosawa さんのまとめの中には、この点も
十分には 反映されていません

==========

これら二つの点は、最近の東洋研究(オリエンタリズム)、
インド研究(インドロジー)において、やっと指摘されはじめました

僕の知る限り、日本語ではまだ それが十分に紹介されていません
(僕も、小さい記事を いくつか書いただけです)

しかし、英語なら、すばらしい入門書があります
Hinduism: A Very Short Introduction
Kim Knott という方が書いたものです

  ありがとうございました。

 カーストのことなんかも念頭において考えなくてはいけませんでした。ダルマ(法)、実利、愛欲のことについての考察ですね。『鸚鵡七十話』にも差別的な発想が多く見られます。どうして・・・というのは、アマルティア・センの経済学なんかをきちんと勉強すれば見えてくるのかなと思いました。

 自分のまとめと先生の追加分を見渡して、宗教とはなにか改めて考えさせられました。
 <ヒンドゥー教って文化では?>

 ヒンドゥの語源はパキスタンを流れるインダス川の昔の名前「シンドゥ」で、インダス川流域の人々というような意味を持っていた。その言葉にイギリス人がイズムという語尾をつけて「ヒンドゥイズム」という言葉ができ、日本語の「ヒンドゥー教」はそれを訳したものである。

 そもそもヒンドゥ教という言葉そのものがインド人にはどう取られているのだろうと考えました。
 

 

 

yokosawa さん>

ダルマ、アルタ、カーマというまとめですら、どうもきれいに整理されすぎ
高カースト(とくにバラモン)と欧州オリエンタリストの
知的エリートの 自己陶酔的な 言明であるにおいがします

もちろん!それは何らかの文化的背骨にはなっているでしょう
サンスクリット文化=文明の影響力は、それぐらい巨大なのです

しかし、印文・印哲の(インドロジーの)、典型的な「ヒンドゥー教」解説には
いつも 疑いをもって かからねばなりません
そこからもれ落ちているものは何だろう、、、 と

==========

センの議論は、ちょっとご想像のところとは違うかもしれません
僕が念頭にあったのは、『議論好きなインド人』でした

==========

<ヒンドゥー教って文化では?>

僕自身は、「ヒンドゥーの宗教=文化」と書くことがあります
宗教と文化は、実に微妙な関係にありますよね
とくに、ヒンドゥーイズムの場合は!
それから、シントーイズム、ジュダイズム、シッキズムの場合も!

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