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2009年5月31日 (日)

中沢新一の「宗教」概念 (2/2)

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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師曰く

 よろしいか? 「宗教」 なる言葉のこうした曖昧さゆえ、 同じ人間がそのときどきの気分で、 正反対の意味で 「宗教」 を持ち出すことがある。

 たとえば、 何か常人の及ばぬ美徳を見せた人物がおれば、 世人はその者の崇高な心を 「宗教」 的だと言って褒めそやす。 他方、 馬鹿げていて危険なことを奉ずる集団を見つけると、 それに対しても 「宗教」 的というレッテルを貼る。

 「説法家」 自身の言葉遣いも一定していない。 ある者は 「宗教 が大事だ。 迷い多き俗世の知恵ではダメなのだ」 と言う。 別の者は 「正しい宗教 が大事だ。 間違った宗教 ではダメなのだ」 と言う。 さらに別の者は 「真実が大事だ。 人間が勝手に神頼みしている 宗教 ではダメなのだ」 と言う。

 言いたいことは似たり寄ったりなのだが、 最初の者は 「宗教」 を真実の意味で、 最後の者は 「宗教」 を誤謬の意味で使っておる。

 よろしいか? 「キリスト教は宗教ではない」 と主張する者もあるんじゃぞ (キリスト教は真理だから宗教ではない)。 また 「禅は宗教ではない」 という主張もよく聞かれる (禅は人間の深い現実を示すだけのものだから、 何かを教え込む宗教ではない)。 近年スピリチュアリティーを提唱する者の中には、 それを宗教には非ずと言う者がある (スピリチュアリティーは人間個人が見出す事実だから、 社会制度が押しつける宗教ではない)。 「宗教」 という言葉はいかに嫌われておることか!

 それでいて今もなお世人は、 何か人生の深い真理なるものもまた、 「宗教」 の語で呼び続けているんじゃ。

 なんという混乱ぶりであろう!

『一Q禅師のへそまがり〈宗教〉論』 192-3頁 (傍点は太字で示した。ルビは省略した)

このマトリックスのなかで、 中沢先生による上のような宗教概念使用が

どこに位置づけられるかは、 一目瞭然であろう

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コメント

  「哲学の出発点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以降にロッチェがオントロギ―の立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギ―は私のいう如き歴史的社会的ではなかった。」
  (西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』より抜粋)

 私は、中沢新一も形而上学に頼らない(正確にはもっと古い哲学の系列の)<ハイデガーの目指した所の>オントローギッシュな哲学の体系を目指しての哲学批判だと思っていました。しかし、それにはちょっと不足する部分が多いし、言い当てている気がしなくて悩んでいました。

 「沈黙と光についての思索は、光の形而上学ではない。この思索は、沈黙は光へ、光は沈黙へ、という2重の移行(オンティッシュな移行とオントローギッシュな移行)の交叉として、元初の場所が示される。2重の移行の意味するところはこう解される。2重の移行は、光の二義、つまり光(=存在としての存在)と燃え尽きた光(=物質)が沈黙(人間本質)を媒介として、沈黙において、結び合うことを明示する方法であると。カーンの言う2重の移行の重なり合いは、われわれが『世界-内-存在』であること、つまり世界に属していることを明示するための方法である。」
 (前田忠直『作品生成のロゴス<建設雑誌 2004年11月号>』より抜粋)

 本当は全文載せたかったくらい、中沢氏と同じようなことを建築の中に見出している人のことを書いた文章です。

 「建築はプレゼンスをもたないが、存在する(exist).。建築は、スピリットの感覚(sence)として、その出現(emergence)として、その明示(evidence)として存在する。そして建築作品がプレゼンスを持つのだ。そしてこのプレゼンスの最高のものが捧げものとして、つまり建築への捧げものとしてつくられるのだ」(同内文章より設計者カーンの論)

 中沢氏がご自分の身の置き場として芸術を選ばれたのは、その懐の深さが彼の感覚と一致したからだと思います。しかし、彼は書いている。それは、哲学や宗教とは別離できない(はずの)彼の本質がさせていることだと思います。
 そして、私は彼がいつか「わたしの存在は○○によって為る」と言ってくれないかなと期待しないではいられません。なぜなら、私の知りたいことを言ってくれる前に、天才たちはみんな逝ってしまうから。

yokosawa さん>

形而上学というコトバのとり方が ここでも問題ですが・・・
中沢思想が、 ある種の「ヴィジョン」(決して明かされない)に基づき
そこからのみ構築され、全体として、あるいは結論として
その出発点である「ヴィジョン」の真理性(科学的・非科学的 双方の意味で)
を明証するようになっている、、、
こういう意味では、まさに形而上学という名にふさわしいように思われます

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