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2009年5月11日 (月)

人々の精神に現前しているインド

こちらのエントリ からつづく

====================

なんだか・・・ エリアーデばかりで恐縮だが、 とにかく面白いので

また引用です

しかし今回は、 エリアーデその人! というよりも

20世紀初頭、 若きエリアーデが生きたルーマニアにおいて

インドなるもの」 が どう受け止められていたか、、、 その回想です

◇ 大学に入ったときの知的雰囲気はどんなものでしたか、 この時代の、 つまり一九二〇年から一九二五年にかけてのルーマニアの文化的雰囲気は?

◆ 私たちは当時 <大ルーマニア> と呼ばれていたものの文化から、 つまり一九一四年~一九一八年の世界大戦後の文化から生まれた最初の世代でした。 規制のプログラムのない、 実現すべき理想のない最初の世代。 私の父親の世代と祖父の世代には一つの理想がありました。 ルーマニアのすべての地方の再統合です。 この理想は達成されていました。 そこで私は 自由なプログラム をもたない最初のルーマニア人世代に属するという幸運に恵まれたのです。 私たちは伝統的源泉だけでなく、 つまり古典文化とフランス文学だけでなく、 ほかのすべてのものを自由に発見することができました。 私の場合、 イタリア文学と、 宗教史と、 その次に東洋 (オリエント) を発見したのです。 友人の一人はアメリカ文学を、 別の一人はスカンジナビア文化を発見しました。 私たちはジャック・バコの翻訳によってミラレパを発見しました。 すべてが可能でした、 お分かりですね。 ついに、 本当の出口を準備していたのです。

◇ 普遍への出口、 人々の精神に現前しているインド、 ブランクーシに読まれるであろうミラレパ・・・・・。

◆ ええ [後略]

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 28-9頁

「R」 は対話相手のクロード=アンリ・ロケ、 「E」 はエリアーデ

傍点を付された部分は 太字で示した。 ルビは 括弧内に示した

僕のような、 南アジア研究をやっている宗教学者 には、 大変興味深い記述なのです

皆さんにとっては、 いかがでしょうか?

【メモ】

この点にご関心がおありの方、 こちらのエントリ もご参照ください

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01A 宗教学」カテゴリの記事

02A 南アジア研究」カテゴリの記事

02B 《神秘のインド》 という表象」カテゴリの記事

コメント

<ブランクーシに読まれるであろうミラレパ・・・・・。>

 ここのところがどうしても理解できなくて、すごく苦労しました。ミラレパは多くの詩を残しましたが、それは悟りを開くための説明としか、私には思えなかったからです。

 マハームドラーを行ずるとき
 わたしは気を散らすことも労することもなく
 あるがままの状態にくつろぐ
 空(くう)の境地では
 明知にくつろぎ
 至福の境地ては
 自覚にくつろぎ
 無想の境地では
 裸の心にくつろぎ
 現象の現れと活動においては
 三昧(サマーディ)にくつろぐ
 このようにして心の精髄に瞑想すると
 おびただしい理解と確信が湧いてくる
 自ずから目覚めるによって
 一切は労せずして成就される
 もはや悟りを求めることなく
 わたしはとても幸せ
 望みからも恐れからも自由で
 わたしはとても楽しい
 ああ、迷いが知恵として現れるとき
 それを楽しむのは何と愉快なことか
 (第34章)

 これこれ!心的宇宙との交信ですよね。
 しかも、悟りではない。

 たぶん、日本人用に好まれて訳されるのは説法に近いものが多いけれど、ヨーロッパ人向けにはこんな感じのが多いのかも。それならちょっと納得できます。

 芸術には、私たちの想像を駆り立てるものと、こころに直接入り込んでくるものがあると思います。ブランクーシは後者の典型ではないでしょうか。
 「内的なプロポーション」とか「精神のきらめき」とかいう彼の言葉からも読み取れます。
 それと心的宇宙との交信は合致すると思います。

 しかし、私が言いたいのは、芸術と違い、言葉は感性だけでなく、知性を経由しなければ届かないということです。そこのところをエリアーデは何とかしたいと思って苦労したのでしょうね。

 わたしも、ひとのこころに直接届くことばを紡いでみたい気はします。

 

 すいません。
 
 発見があんまりうれしくて記名するの忘れてました。

yokosawa さん>

コメント ありがとうございます

芸術体験と 宗教体験 (「体験」 は、この場合 もちろん解釈学的な意味で)・・・
違うのか、同じなのか、、、 よく考えるほど わからなくなります

僕個人は、「ホンモノ」の体験であれば、 両者は同じ
と 言っていいんじゃないか、という立場です

もう少し広く、現代日本についていえば・・・
「宗教」というコトバを 肯定的に使いたい人たちの間でなら
この僕の立場は 共有されることでしょう
(芸術は いまや無害、、、それどころか 有益)
(と思われているぐらいですから)

何らかの「狂気」の実在を そこには想定したくなりますね

  <芸術の狂気>は、私も日頃から感じております。勝手にこころに入ってきて、ただ心地よいとか気持ち悪いとか思わせるものの中には、絶対に存在すると思っています。

 その中でも一番は、何といってもモーツァルト。ヴァイオリン協奏曲なんか私も大好きなんですが、いつもなぜ心地よいのかわからなくて不安になります。(そんなときはガーシュウィンを聞いて人の息吹を感じたりします)
 
 人は自分の感性にもっと敏感になるべきですよね。「宗教」だって、本当に自分のものなのか、なにかに烙印みたいに焼き付けられたものなのか。それとも勝手に自分に入り込んでくるものなのか。よく考える必要があると思います。

 余談ですが、今回ミラレパの詩を何編か読んで、なぜかランボーが思い浮かびました。ぜんぜん違うのになぜだろう。迷って漂っている感じがするからかな?

yokosawa さん>

宗教に強くコミットしている人は (20代までの僕のような人は)
宗教と芸術が 根本において「一緒」、、、
(「通じる」はまだいいんですが、 「一緒」)といわれると
違和感をおぼえるようです

――宗教には宗教にしかない、本質がある! というわけですね

「宗教」と呼ばれる一連の観念と制度の大複合体・・・
これが人間を 不自由にしているのか、自由への細い道なのか――
それはまだ 結論が出ないのです

では、、、 僕は、、、?

僕は、先にも書きましたように、いまや 芸術と宗教の根源的一致を
感得するようになっております
「コンドウ」というセンサーが いま現在、ここで
そのように機能するようになっている、、、 ということなんですね

  私は、優れた芸術には宗教性が含まれるけれど、宗教と芸術は別物だと思います。

  確かに、私の中で宗教に対する概念が不確定なので、私にとって知識としての宗教は0かもしれない。けれど、宗教がなくて自分が存在するかと言えば、それはないような気がします。
 宗教が<本当に自分のものなのか、なにかに烙印みたいに焼き付けられたものなのか。それとも勝手に自分に入り込んでくるものなのか。>の答えは、すべてですよね。芸術にこのすべてが含まれているでしょうか。
 また、わたしという存在が芸術の上に立っていると言えるでしょうか。

 芸術はわたしの外でわたしに影響するものだと思うのです。
  

yokosawa さん>

「宗教と芸術は別物」 ―― そうかもしれません

他方、そうでないかもしれません

芸術の根源を 「美」 にもとめ、それを 「エロス」 や 「クルヒ」
と とらえなおすなら、 宗教と芸術を生み出す 人間の底は
結局 同じところ、、、と とらえられるかもしれません

くりかえしますが、芸術の力と方向性が組みあがっている
その 「底」 ということです

こういう議論をする場合、 コトバがとにかく厄介ですね

  ―宗教と芸術を生み出す人間の底は―結局何もかも生み出す場所だと言えるのではないでしょうか。そこから生まれてきたものを<同じもの>とみなすか、<違うもの>と見るのかは、難しい判断だと思います。

 わたしから生まれたものは、わたしの血を引いているけれど、わたし自身ではない。

 でも、先生のおっしゃることもよくわかります。

 芸術は、さまざまな人の手によって、私たちに伝えられるものですよね。その時に込められた人の思いが伝わってくるものが、芸術だと私は思うのです。たぶん、その辺が先生と私の違いになっているのだと思います。

 本質+想い=芸術

 本質+本質+・・・・+本質=???

 うーん、難しい。

yokosawa さん>

宗教もまた、伝達の過程で そこに籠められた思いを伝えるもの――
と言えるかもしれません

もちろん この場合、「歴史」(伝達の過程)をもたない、その意味で
「純粋な」宗教性(スピリチュアリティ?)という考え方に
僕は、ちょっと疑問を感じるということです・・・・・・

しかし! こういう話をしていても、埒があきまさせんよね

なぜなら、この対話においては、宗教や芸術というコトバを定義する
それぞれの「本質」についての理解が 問題になっているからです
本質論は、すれ違いになったとき、なかなか折衷させることが難しい
共有できる根拠や方法が、なかなか見つからないからです

ということで、、、
むしろ 僕が問いたいのは、次のことです

宗教と芸術を「異なるもの」として考えるようになったのは
いつのことからだろう・・・・?
非宗教的なものとしての芸術――
これは 少なくとも、近代の観念=制度ではないだろうか・・・・?
「伝統芸能」においては、そのような峻別は むしろ
「芸」の極致を乱すものと考えられるのではないか・・・・?

むしろ、私たちの用語法=理解そのものを 歴史的に脱構築したい
と 思うわけです

 ―日常がバトルフィールドな私の生活の一端―

 「結局、宗教勉強してる人とかって、宗教を生み出した人間は偉いって言いたいだけじゃないの。ママだって変わんない。このスパゲッティーがおいしいとかじゃなく、スパゲッティーのレシピが好きなんじゃなく、この素材のピーマンがすごく好きっていう感じじゃない?」
 (食卓で野菜たっぷりトマトスープスパゲティーを食べながら)

 いや、違う。断じて違う。しかし、反論できない・・・。どうしよう!?汗
 (早くバシッと反論できる大人な私でありたいのに・・・)

 

 生活の中で、宗教と芸術が一体化しなくなった理由について、私なりに考えてみました。

 それは、芸術家がこの芸術を他人に愛でてもらいたい、またこの芸術を愛でたいと私たちが思う気持ちから派生した<保護⇔非保護>の関係からではないかと。

 そして、私が宗教と芸術が違うと思うのは、<保護⇔非保護>の関係において、心理的な立ち位置が、
 宗教:保護
 芸術:非保護
 であるからだと思います。作品が保護に近づけば宗教的に、非保護に近づけば芸術的になるのではないでしょうか。

 この関係は近代に起きたことではないし、制作という行為に伴う自然な現象だとおもいます。(宗教も制作物と考えた場合)

 いかがでしょう?

 


 

yokosawa さん>

学問をはじめるとき、きっかけとなるのは 実に些細で、小さな事柄でしょう、大概
宗教学なら、教祖の人生や思想にうたれて・・・ということも多いでしょう
もちろんそれだけではなく、宗教体験、宗教観念、宗教団体、宗教事件 などなど

しかし、学問を進めていきますと、二つの傾向が出てきます
① 初発の関心を どこまでも保ち続けること
② より広範な問題へと 関心が拡大(もしくは変質)すること

僕の場合、典型的に後者です

いまや、自分の研究は「人間=社会=歴史」をやっているのだ、と思っています
これは 厳密の意味での宗教学では、もはや ないかもしれません
特定教祖や特定教団などへの関心は、いまやどこかに行ってしまいました

【そういえば・・・ ピーマンが好きだった気がするけれど・・・ どうだったかなぁ・・・ まぁ いまはとにかくスパゲティなんだよね】

こういう境域を、僕は「ザ・思想」と呼んでいます
(YONSH「読んでおきたい宗教論」 ご参照ください)

ただし、「ザ・思想」において、宗教には(特権的 とまではいいませんが) 
非常に重要な役割=布置がある、、、とは思っています
この場合、もちろん「宗教」とは、特定の人物や団体、流派、、、
といったことではありません
ある種の「人類史」的な、「自然史的」な想像界における「宗教的なもの」――
そういったことです

==========

宗教:保護
芸術:非保護 ・・・
とありますが、すいません、ちょっと意味がとれませんでした

<何が何を保護する(あるいは しない)> のでしょうか?

  近藤先生が後者の典型なら、私は前者の典型ですね。初めに考え始めたことから、きっと一生抜けられないのでしょう。
  声を大にして言いたいのは、私には「人間偉い」的な考えは全くないということです。むしろ宗教は人間が生きていくために必要だから、私たちに与えられたモノの一部であって、人間が作り出したという考え方はどうだろうかと…。(生きていけないから与えられないモノだったら、進化の過程で得られたということになるのですかね。)


 きちんと説明できていなくて申し訳ありませんでした。2つ以上のことを同時に考えられないので、メモにとっていたのを、要約しすぎました。もう少し忠実に書いてみます。

 <保護⇔非保護>

 私が宗教と芸術が違うと思うのは、この<保護⇔非保護>の関係がちょうど逆であるから。

 芸術<保護>⇔私たち<非保護> 
 宗教<非保護>⇔私たち<保護>

 つまり、私たちがそのモノに対する感情が<これを愛したい、守りたい>だったら芸術。逆に<これに愛されたい、守られたい>だった宗教。
 作品が非保護に近づけば宗教的に、保護に近づけば芸術的になる。
 (うわっ、ここが逆でしたね)

 ただ、音を聞くこと・色を見ることのどこからが、芸術を愛でることになるのか・・・という根本のところで、またひっかってしまいました。


注:もう一つ今考えていることは、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトについてです。

なるほど・・・

ヒトの側が感じる「愛されたい感、守られたい感」を
「宗教」なるものの 本質とみるわけですね

オットーを思い浮かべる宗教論です

たしかに、僕個人には そのような感覚はあまり強くなく
したがって 宗教論において重要視していないです

さて、、、 あらためて 芸術と宗教の関係ですが、、、
yokosawa さん流の<保護⇔非保護>論をうかがった後でも
やはり 僕には、 芸術と宗教の区別を設けようとする
時代的/歴史的な事情が、そこにはたらいているように思われます

<愛したい感、守りたい感>と<愛されたい感、守られたい感>の区別は
おっしゃるとおり、 なにも近代に限られないでしょう
しかし、そこにわざわざ 宗教と芸術を対応させるというところに、
僕は 歴史的事情を見いだすのです

<愛されたい感、守られたい感>を励起する芸術、、、
<愛したい感、守りたい感>を励起する宗教、、、
そういうものは やはり想定してよいのではないでしょうか

何が言いたいかというと、 「宗教」というコトバ、「芸術」というコトバ、、、
それらが僕らの生のリアルを ねじまげている――
ということです

何度も繰り返しになりますが、「非宗教的な」芸術、、、という観念
これこそが 近代的なものだ、と言いたいのです

 「厳密さを欠くのは、通常、一つの事物を広すぎる類の中にふくませるからであり、しかも、事物や類といったものが、既成の言葉に応じているからである。けれども、まず既成概念をはなれ、事象的なものの直接的な視覚をもったうえで、その事象の分節を念頭において細分するとすれば、表現のために作るべき新しい概念は、今度こそ、その対象の寸法にぴたりと合わせて仕立てられるわけである。」
    (ベルクソン 『哲学の方法』)


 「このような所与性を、ぴたりと適合する意義によってひたすら解明しながら、これに表現をほどこそうとする以上のいかなることもしないような言葉こそは、絶対的な端緒、最初から把握されたもの、原理にほかならない。」
    (フッサール 『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』)


 わたしたちは、確かにことばによって縛られますが、その縛りから解放されるべく、日々の努力を欠かさないことが大切だと思われます。天才たちがついぞ解放されることのなかった、ことばの呪縛。しかし、逃れる可能性については否定的ではなかった。これは、わたしたちに何を訴えていうのでしょう。

 さて、宗教という言葉に一番縛られているのは誰でしょう。わたしですか。社会ですか。それとも近藤先生ですか。
   

yokosawa さん>

このブログのコンセプトの柱は、「ハードな宗教学専門ブログ」なのです
そういったものが、日本語で ぜんぜんなかったので
一度使ってみよう、と思ってやっております

したがって、この場で 僕は、とくに宗教にこだわっています
もちろん、これには 「宗教学者」という「職業」を選んだという
僕の事情が 重なっています

ただし、僕の関心そのものは、以前にも書きましたとおり
「宗教的なもの」すらも超え出てしまい
もはや ナニ学だかわからないものになってしまいました

宗教的なもの、宗教史には、特別な意義がある、というのは
なにも こだわり、、、というよりは、 思索の結果として出てきた
ひとつの結論だ、と自分では思っているのですが、、、
「こだわって」いるように聞こえますか?

前任者の磯前先生ほどではないにせよ、宗教学者が宗教にこだわることの
なんと申しますか、、、潔くないこと、、、カッチョ悪いこと、、、
なんかを この世代の宗教学者(とくに東大系)は 分かちもっております

宗教学者であるからこそ(!) 宗教を特権的な位置におくわけにはいかない!
それは、こだわりというよりも、かなりの自明な命題だと思われるわけです

さて、、、
ということで、あらためて

芸術と宗教に「それぞれ別々の本質を割り当てるのが当然」という観念・・・
これは、この時代の、先進諸国の、都市部の、インテリの間の問題である、
と僕は思いますが、、、いかがでしょうか

<愛されたい感、守られたい感>を励起する芸術、、、
<愛したい感、守りたい感>を励起する宗教、、、
 について、私もよく考えてみました。

 私はとても芸術とは遠い位置にいる人間だと自覚しているので、友人たちを思い浮かべるに、芸術に愛されたいと思う人間は確かにいると思います。ただ、<芸術に愛される>という表現ではなく<芸術の神に愛される>という表現がよく使われることに気づきました。どうして擬人化(擬神化?)されるのか、そこのところに何かあるような気がします。
 したがって、またしても先生とは別の視点から芸術にアタックすることになります。
 6月から美術史の授業を取っています。(これも避けてきていた学問なのに、ほんとうに偶然てイヤですね。)すこしきちんと学んで整理できたらいいなと思っています。

 先生によく似てるなぁと思う人を見つけました。(丸山氏を追っているとき偶然に!)

 「わたくしは現代の新宗教運動やイデオロギーによってかき立てられている激情的な動向のなかに、現代化を装い、マルキシズムやマオイズムの借物衣装を身につけた古代の呪的カリスマとしての指導者と、この呪術宗教的カリスマ支配に一時的、心情的に人格委譲し、その支配に服従しようとするシャーマニズム的な『聖』の弁証法の、両局に分化した残存現象をかいまみるように思うのである。日本人の精神構造における古代シャーマニズムの影は意外に濃く、ふかいものがあるようである。」
   (堀 一郎  『民間信仰史の諸問題』)

 言っていることは全然違うのに、同じものを感じます。

yokosawa さん>

芸術と宗教は、 とても大事なポイントになる と僕も確信しています

実は、、、来年の「宗教学各論」で テーマにしてみようかな、と思ってました
(ただし、適当なテキストが、、、なかなか見つからない、、、)

考えたことなど、またぜひぜひ!聞かせてくださいませ

大学院入試のため、僕が必死に勉強したのが 堀先生の『事典』でした
かつては、まずあそこから勉強するのが常道だったのです

もしかしたら、、、そういったことも 関係しているのでしょうか
なんだか楽しいご指摘でした ありがとうございます

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