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2009年5月27日 (水)

ヴィジョンと実証、直観と証明

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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中沢思想における 「ヴィジョン」 と 「実証」 ――

こちらのエントリ にて触れた論点です

これについて、 『精霊の王』 (講談社, 2003年) から補足したいと思います

こうして、 『明宿集』 の冒頭で、 金春禅竹は 「翁」 の本質をまずは 「存在」 そのものとしてとらえることからはじめて、 和歌と性愛の技にひめられた転換の力にまで説き及んで、 「翁」 なる概念の本質にデッサンをあたえた上で、 本論に入っていく。 日本の自然と観念世界を渉猟して、 「翁」 と同じ構造を発見するたびに、 ここにも 「翁」 の構造があるとの裁定を、 つぎつぎに下していくのだ。 その様子はまことに小気味よく、 しかしそのために後世の学者たちからは 「強引なこじつけ」 やら 「ペダンティズム」 やらの批判を受けることになったのであるが、 私は逆に、 そこに金春禅竹の思考の類例のない強力な一貫性を見いだして、 むしろ驚嘆と賛嘆の感情におそわれるのである。

『精霊の王』 184-5頁

ここで中沢先生は、 「小気味よく」 とか 「強力な一貫性」 などの語を使って

ヴィジョンと直観の理性を 称揚している

しかし、 この抑制のきいた表現は、 意図的に選ばれたものだろう

中沢先生による金春禅竹への評価は もっともっと激情的なもののはずだ

中沢思想を 「こじつけ」 や 「ペダンティズム」 として批判するのは

まことに常套的だ

それは 完全なる的外れではない!

しかしそれは、 中沢先生が提起している議論のレベルとはずれている

そして、 この 「ずれ」 こそは 思想全般の中心的な課題である!

(中沢思想は、、、 ではなく、この 「ずれ」 は!)

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コメント

  「『芭蕉』を書く金春禅竹は四十代の盛りの時期にあって、宿神的な存在思想の本質的な正しさを、仏教哲学によって再確認するとともに、逆に抽象的な仏教哲学にもなまなましい存在変容のリアルをあたえていこうとする野心を抱いて、この作品を作っている。この時代に、さまざまな芸能の徒をつうじて、縄文時代の野生の思考に直結する回路をそなえたジャグジ的な思想は、未曾有の高さにまで登りつめようとしていた。それと同時に、この列島に移植された仏教思想は、ジャグジ的な存在思想に親和性を抱くほど、すでにここの大地に深く根を張っていたのである。」
   (中沢新一 『精霊の王』 より抜粋)


 私がこの文章で気になったのは、日本において宗教の世俗化が定着していったのは、日本人の心理の深層にあるものに仏教を近づけていく、このような芸術家の努力も加わっていたのだということです。


 「そういう世界観の比岸性は、どういうことを意味するのでしょうか。仏教が入ってきたときには、その大衆への浸透を妨げる。それにもかかわらず、仏教が大衆の中に入ってゆけば、仏教そのものが、現世利益・比岸的効果の方へ、変わってゆく。仏教からその彼岸性を奪う変化を『世俗化』とよぶとすれば、徳川時代に仏教の世俗化が徹底します。徳川幕府は仏教寺院を行政制度化して、誰も仏教徒でなければいけないということにした。仏教が政治権力と結びついた時代は同時に、思想的には仏教の世俗化が徹底した時代だと思います。・・・(中略)・・・このように早くから現れた世俗的文化は、おそらく、日本の実用的な技術主義(二宮尊徳の『仕法』から戦後日本のGNP信仰まで)、享楽主義(『好色一代男』から週刊誌まで)、および美的装飾主義(『琳派の絵画工芸から日本料理の盛りつけまで)に、共通の背景でしょう。他方同じ背景は、徳川時代以降の日本が、独立した例外(三浦梅園や西田幾太郎)を除いて、抽象的包括的な形而上学の体系を生み出さなかったということも、説明するにちがいありません。」
 (加藤周一『日本文化のかくれた型 Ⅰ日本社会・文化の基本的特徴』 より抜粋)

 私は、日本において、西洋化よりもいち早く宗教の世俗化が行われていたことに本当に同意しますし、そして、それは西洋化によってあまり影響を受けていなかったのではないかと考えています。
 しかし、今日わたしたちを支配する資本主義経済のモノ・金中心の精神は、どうしてたやすく世界中の人々を魅了してしまったのか不思議でなりません。ひとの深層に深く入り込んで、捉えてしまっているホンモノの正体を知ることが、わたしの命題になりつつあります。

コメント返しが遅くなり、 すいません
すごく忙しくて、 じっくり座ることもできないほどだったのです、大げさでなく(泣)

さて、、、
世俗化という概念が、 何しろ問題です
宗教というコトバと同様、 あまりに多様な意味内容をもたされすぎているので、 議論がかみ合わないことが あまりに多いのです

加藤周一は 「仏教からその彼岸性を奪う変化を『世俗化』とよぶとすれば」 と書いています
ですから、 これは議論がしやすい
つまり、 「世俗=此岸・この世・肉体・物質」といった定義ですね

このような意味からすれば、何も 日本だけではなく
あらゆる文化圏/文明圏において
「世俗的なもの」 は 強い価値をもたされてきました
西洋の影響(西洋化)とは 関係がありません

(もちろん、「彼岸性」で特徴づけられることの多い、あのヒンドゥー・インドにおいてすら、そうなのです)

こう考えてきますと、
加藤周一的な意味での「世俗化」と「資本化」は
まったく別のものということになります
ここで言う「資本化」は、自由市場、とくに労働販売の一般化
すなわち、「プロレタリアート化」ということになります

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