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2009年5月22日 (金)

別のもの、あるいは超歴史性

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

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こちらのエントリ の コメント欄にて 僕はまた偉そうなことを

エリアーデと中沢では もちろん違いますよね

でも、根本的なビジョンは やっぱりかなり近いものがある、 というのが

僕の理解です

それは、境目のない世界の現前を体験する・・・ということ

その至上の価値を 強調する・・・ということ です

このレベルを「根本的」と呼んでおります

このことを エリアーデの発言の側から 補足しておきます

常に超歴史性は歴史性の中に、 異常は通常の中にカムフラージュされていると私は思います。 オルダス・ハクスレーはLSDの引き起こすヴィジョンについて、 <至福視覚> のように話していました。 そのとき彼には、 ヴァン・ゴッホに有名な彼の椅子が見えていたのと同じように、 ものの形や色が見えたのでした。 この灰色の現実が、 この日常が、 ある別のもののカムフラージュであることはたしかです。 これは私の深い確信です。

エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社, 2009年) 170頁

中沢先生ファンであれば 一読瞭然!

あまりにも エリアーデ的な中沢なのです

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コメント

  「事実についても本質についても重要なのは、問題としている存在を外部から眺めるのではなく、その内側に身を置くことであり、結局は同じことだが、その存在をわたしたちの生の織り目のうちに置き直し、その<開け>に内側から立ち会うことである。これはわたしの身体の<開け>に似たものであり、存在を自らに開き、わたしたちを存在に開くものである。本質にかかわりながら、話すことと考えることの<開け>なのである。見えるものの一つであるわたしの身体は、同時に自らを見るものであり、これによって、自らの内部を見えるものに開きながら、自らを自然の<光>とする。そしてわたしの身体はわたしの<見え>となり、いわゆる『存在』から『意識』への奇跡的な昇格、わたしたちの用語では『内側』と『外側』の分離が可能となるのである。」
 (メルロ=ポンティ  『問い掛けと直感』より)

 結局、同じことを違う言葉で言ってるような気がするのは、私だけでしょうか?
 でも、結果で得たいモノは違うのかな。

yokosawa さん>

いつも コメントありがとうございます。 大変励みになっておりますm(_ _)m

メルロー=ポンティを、ベルクソンやフッサールの流れにおくとしたら
そりゃぁもぉ! 中沢先生なんかには とっても! 近いわけですよね

結局同じ・・・ と言い切っても いいんじゃないかな、と思います

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