宗教学の眩惑と危険
エリアーデは 自らの 「宗教史」 から生じる 「誘惑」、 「危険」 について語っている
少々長いが、 引用させていただきたい
そうしてこの儀礼の意味、 それは世界を再生させることです。 このことを発見すれば、 あなたは永劫回帰を発見したニーチェのように歓喜の叫びを上げることでしょう! というのは、 そこでもまた、 それは完全な自由への一つの招待だから。 だがなんという破天荒な自由を人はもつことができるのだろう、 そうしてこの自由に続くなんという創造性だろう!・・・・・。 ・・・ [中略] ・・・ それはいつも人生をまた始められること、 つまり私の創造性が確保されることを意味するのです ・・・・・。 <誘惑> を語ることができるのはこの意味です。 しかし堕天使ルシフェル的な危険もあります。 ある人間は長い瞑想とある儀礼の後に世界を変えられると信じているのをあなたが理解するならば、 そうして彼がその儀礼の後に世界の主に、 あるいは少なくともその村の主に本当になれるだろうと、 そこまで確信しているのはなぜなのかを知ろうと試みるなら [ママ: 引用者注] ならば・・・・・。 さて、 そこにもまた、 やはり絶対的自由すなわち人間の条件の廃絶の誘惑があるのです。 人間は限定された、 条件付けられた存在です ―― 一方、 神は、 あるいは神話的先祖は、 死すべき身体をもう持っていない精神は、 自由です!・・・・・ これらは、 たしかに、 誘惑です。 でも私は宗教史学者がカンニバリズムに、 あるいは狂宴や近親相姦に誘われるのだという印象を与えたくはありません。
エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) 161-2頁
この文章を、 私たちは 麻原に起こったこととして読むこともできるのだが
(実際、 エリアーデは、 マリリン・マンソン、 ハレ・クリシュナ、 超越瞑想 (TM)、 ムン・ソンミョン (統一教会)、 ラーマクリシュナ・ミッションなどなどの 「セクト」 と、 「ヒッピー現象」 の真っ只中で、 重要なグルの一人とみなされて、 生きていた ―― 同書 149-56頁 参照)
もちろんエリアーデは、 「宗教史学者」 (すなわち 宗教学者!)について言っているのだ
エリアーデは まだよかった、、、
この程度の糾弾ですむのだから、、、
でも、 現代日本の宗教学は、 ポスト・オウムの宗教学なのだ!
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