ライシテの歴史
<買う本>
- ジャン・ボベロ 『フランスにおける脱宗教性 (ライシテ) の歴史』 (三浦信孝・伊達聖伸訳, クセジュ文庫, 白水社, 2009年)
括弧内の 「ライシテ」 は 「脱宗教性」 に付いたルビ
こちらのエントリ で触れた ボベロ先生と 伊達さんの仕事
どう考えても大事なものでしょうっ!
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「私は民主主義がキリスト教世界の外で成り立つかどうかを問題とするつもりはない。それは成り立つだろう。しかしどう成りたつかが問題である。確かなことは、おそらく西洋と同じ形では成りたたないだろうということだ。そしてまた望ましいことも、西洋と同じ形にならないということである。 -中略ー 私は西洋の学者が精神と文明の寛容と不寛容とについて語った遠大な見透しを想出す。超越的一神教の性格がむろん不寛容であることは、いうまでもないとして、彼にとっての寛容の精神の故郷は、インドであった。しかしすでに儒教的中国は、ビザンティンのロシアとは、社会主義建設の途上に、ある微妙なちがいをみせはじめているといえないこともなさそうだ。日本ではそのちがいを、西洋でよりも敏感に感じとることができるのかもしれない。もしそうであるとすれば、われわれが、われわれ自身の民主主義を、西洋に手本より、ある意味でましなものに作りあげたいと望む理由があるだろう。寛容と不寛容との区別のない一種の経験主義を通じて、『より高い生活程度』ではなく、『より幸福な生活』を実現する道があるかもしれない。ほんとうの目的は生活程度ではなく、生活である。たとえ西洋の社会がそれを忘れているとしても、日本の大衆はそれを本能的に知っているのである。」
(加藤周一『日本人とは何か』 P101~102)
経済学だけでなく、社会学全体から見通すことも必要かもしれません。経済学でいえば「ライン型資本主義」と「アングロ・サクソン型資本主義」の違いに見出せると思っています。
ジャン・ボベロ氏、講演内容は読ませていただきましたが、<きちんと>読ませていただきます。そのうえで、日本の歴史と照らすため『ポスト戦後社会ーシリーズ日本近代史(9)』を読もうと思っています。(当たりかわかりませんが・・・)
やはりウェバーは精読すべきですか?あんまり影響したくない気もするのでちょっと悩んでいます。理解を深める上で読ませていただいた北海道大学の橋本勉先生のホームページは今日の大ヒットでした。
投稿: u.yokosawa | 2009年6月 3日 (水) 01時15分
お詫びと訂正
昨日ここに記載させていただきました北海道大学の橋本先生のお名前は、勉ではなくて努でした。橋本努先生です。謹んで訂正させていただきます。大変失礼いたしました。
投稿: u.yokosawa | 2009年6月 3日 (水) 20時43分
yokosawa さん>
橋本努さんは まだ読んだことがありません
読んでみます
ご紹介いただいたサイトは、たしかに 「当たり!」 ですね
ぜひ、拙ブログでも紹介させてください
ウェーバーの 「精読」 ということであれば・・・
お恥ずかしながら、 僕もやったことがありません
何を求めて、 何を表現したくて 読書するか――
それに照らして 個々に判断していくしかないように思います
投稿: コンドウ | 2009年6月 6日 (土) 15時17分