永遠なる生と超越的な力
久しぶりの <連載 中沢新一論> 前便は こちら
また、 真木悠介 (見田宗介) について 前便は こちら
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中沢新一先生と 真木悠介 (見田宗介) 先生は
やっぱり よぉく似ている、、、 というよりは
中沢先生はカスタネダに どれだけ影響されているんだろう、、、
という話のつづきです
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真木悠介 『気流の鳴る音』 132-5頁 には
カスタネダのドン・ファン の死生観が 7点にまとめられている
部分的な引用 (改訂したもの) で ご紹介します
- われわれの個人的な 〈生〉 とは、 われわれの実質である宇宙そのものが、 一定の仕方で凝集して固体化した形態に他ならない。 われわれは実質としては永遠であり、 形態としては有限な存在である。
- したがってわれわれの個人的な 〈死〉 とは、 われわれの実質が形態をこえて拡散してゆくことである。
- ふつうの人間の日常生活においては、 生はみずからの形態の中にまったく内没し、 凝固している。 彼らは 〈死のない人びと〉 である。
- 呪術師は、 この生命の凝集力に裂け目をもっており、 そこからふつうの人間の日常的な生き方をこえる力を獲得する。 「呪術師は死にみずからを襲わせる」。
- しかし同時に、 この裂け目とは生命に固体としての形態を当てている凝集力そのもののゆるみであるから、 そこを通して生命が解体してしまう危険をいつでももっている。 すなわち、 個体の生を超える力は、 呪術師のまさしく呪術師としての能力の源であり、 その 盟友 であると同時に、 いつでも彼におそいかかって生命を解体しようと身がまえている危険な友である。
- だから人間が、 この個体性のかなたの力を狩ろうとするときは、 すなわち 「自己」 を超える歓喜や 「世界」 を超える明晰を獲得しようとするときは、 この遠心力に拮抗して生命の凝集力をいつでもとりもどせるように、 意志をきたえておかねばならない。
- このように、 個人としての自己の生命の凝集力の 解体 とその 再凝集 とを、 主体的にコントロールする力が 〈意志〉 であり、 このような 〈意志〉 を強く発達させた人間が (たんなる呪術師とは異る) 〈戦士〉 である。 〈戦士〉 は自分の死とわたりあう。
【メモ】
上の部分引用にて、 「呪術師」 と 「戦士」 が 同一の死生観と世界観のなかで特徴づけられていますが、 これには 「知者」 も加わる
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