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2009年6月 5日 (金)

先住民とブッダと中沢新一

<連載 中沢新一論> 前便は こちら

====================

中沢思想は ヴィジョンである、 と こちら に書いた

その確実性/建設性/肯定性は

「先住民」 と 「ブッダ」 について語られる、 次のような言葉と 照応している

もちろんそういう理想の世界は、 かつて一度たりともこの地上に実現されたことはないし、 また未来にも実現されることはないでしょう。 しかし、 そのような理想の世界を、 思考によって正確に思い描き、 神話の力を借りて途絶えることなく語り続けることによって、 先住民の文化は人間を堕落させることがなかった、 と言えるのではないでしょうか。

『対称性人類学 カイエ・ソバージュⅤ』 111頁

もちろん、 私たちのような「凡夫」に、 ここでブッダが要求しているような純粋な贈与の行為を現実におこなうことはまず不可能なことでしょうが、 贈与の 「理想=イデアル」 を現実世界の中に持ち込むことによって (それは無限集合を現実の世界に持ち込んで数学の思考をおこなう行為と同じです。 …[略]…)、 人類の新しい生きる指針を提出しようとしている点で、 大乗仏教のおこなった思考と実践はまったく画期的なことでした。

同 159頁

ここでの 「先住民」 や 「ブッダ」 は、 中沢先生ご自身の法身である

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04A 連載 中沢新一論」カテゴリの記事

コメント

 「ヴェブレンは後年の論文で、『未開生活の規律は人類の生活史の文化的局面のなかでもっとも長く続いており、おそらくもっとも厳格なものであっただろう。したがって遺伝を通じて、人間はいまもなお野蛮な性格をもっており、それはこれからも無限に続くに違いない』と書いている。」
(ハイルブローナー 『入門経済思想史 世俗の思想家たち』 P377)


 私は、このような人間の原始的な思想の中の野蛮性や略奪心を抑えるため、宗教が大きな役割を果たしてきたという中沢氏の考えに同意します。そして、当然これからもその役割は必要であると考えます。


 「下層階級は、上層階級と一触即発の状態にあるのではなく、双方は共通した態度という、漠然とはしているが強固な絆でつながり合っている。労働者は経営者を追い払おうとするのではなく、経営者と張り合おうとするのである。労働者自身、自分たちの仕事が雇い主たちの仕事ほどには尊ばれていないことを黙認している。労働者たちの目標は、上層階級を取り除くことではなく、その階級へよじ登ることである。有閑階級の理論には、社会的安定の理論の核心が含まれている。」
      (同 P380)


 資本主義による急速な経済発展が顕著なインドにおいて、カーストの各階級のバランスが変化することは考えられますか?特に、(先日のNHK特集では)同じ階級間での貧富の差が問題になってきているとのことでしたが、実際はどうなのでしょう。
 それと、上記のような経済の中の格差と、宗教上の格差を比較したときの相違点で、覚えておかなくてはならないことは何ですか。

yokosawa さん>

yokosawa さんは書きました
=========
人間の原始的な思想の中の野蛮性や略奪心を抑えるため、宗教が大きな役割を果たしてきた
=========
   ↓
中沢先生、 こういうことをおっしゃってますか?
どの本で言っていることなのか、もしわかったら 教えてください

僕の理解では、「大きな役割」 と同時に 「より破壊的な役割」 も果たしてきた、そのような意味で 大変アンビバレントなもの――
それが 「宗教」、、、
というのが、 より中沢先生っぽいのかな、、、と思うのですが、、、

==========

二つ目のポイントは、大変大きく、かつ大変有意義だと確信します

最近、宗教学者とその周辺は、まさにこの点を 論じなくなっています
マルクス主義に失望しきった世代が、 文化論やスピリチュアリティ論に
どうしても軸足をおきがちなのが、その理由なのかもしれません
一昔前なら、間違いなく 「反動的」 と呼ばれるような傾向です

そうした潮流には、理由があるように思います
しかし、さらに大きな問題は
より若い世代の宗教学者が、そうしたことを理解せぬまま
階級と差別の問題を、宗教研究から こっそり除外していることです

これはもう 「反動的」 とすら呼べない、
実にコジンマリとした、 自我中心主義、、、
悪く言えば、かなり神経症的な知的潮流――
後世には そのような判断がくだされるかもしれません

==========

さて、、、
インドについて語るとき、 二つのコトバをしっかり区別してくださいませ
① カースト
② 階級
これは、重なっていますが、性格をかなり異にする集団概念です

そのうえで 申し上げますと
現代インドにおけるグローバル資本主義の圧倒的な拡大浸透は
「カースト」を 少しずつ 掘り崩している――
こうしたテーゼを支持する現象は たしかにあります

一方、「階級」間格差が さらに深刻になっているのは
言うまでもありません

次に、こうした状況下での「カースト」と「階級」の関係についてですが
カースト構造と階級構造は、緩やかに一致していますから
低カースト、とくにアウト・カーストが
低層・ルンペン・反社会分子などとして、あらたに構造化されなおす――
そうした「傾向」がある、、、と言えましょう

これはもちろん、「傾向」です
なぜなら、カースト構造と階級構造は、完全に一致しないからです

==========

宗教と経済階層の問題は、さらに複雑な議論になります
この簡単なコメント欄で ちゃんと応えられるものではなさそうです

かと言って、よい参照文献も思い浮かびません
とりあえず、次のエントリを再見していただき、そのうえで
もし疑問点などあれば、あらため聞いていただけませんでしょうか

「宗教、階級、差別」
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2009/05/post-ebe6.html

ご理解、ご協力 よろしくお願いいたします

  「対称性の思考にもとづく新しい『倫理学』を、私たちは想像しなければならないのでしょうか。現生人類である私たちの祖先は、かつてはそのような倫理をよく知り、それにしたがって自然の一部である自分たちのささやかな領分を守って、生きる努力を重ねてきました。自分だけの利益を図ったり、功利的な目的を追求しようとするたびに、対称性の思考による倫理がストップをかけてきました。―中略―
 倫理による命令は、つねに『部分と全体が一致する』という対称性の倫理学にしたがおうとします。そのために、こうした倫理は合理化することができません。私たちが今日、人類の知性を集結してつくりださなければならないものは、このような倫理ではないでしょうか。そのために、私たちには神話の研究が必要で不可欠です。またことによるとそれ以上に、私たちは仏教から多くのことを学ぶ必要があります。なぜなら仏教こそ、対称性の思考という原初の知性形態(流動的知性と呼んできたものです)に磨きをかけて、それを完成形にまで発達させようと試みてきた、ほかに類例のない倫理思想だからです。」
 (カイエ・ソバージュⅤ 対称性人類学 pp155-156)
 
  たしかに、先生のご指摘の<野蛮性や略奪心を抑えるため宗教の力>に関して言えば、私の私的な流用であるかもしれません。中沢氏も「ずいぶんと興ざめさせられる嫌な部分もたくさんあって、こんなものとつきあっていられるか、となんどもおもったこともある」(ミクロコスモスⅡpp173-174)と書いています。
 しかし、先生とは論点がずれているかもしれませんが、中沢氏は今日までの研究のなかで、宗教の危険性よりは、<対称性の思考>が含まれるところの仏教の倫理性を重要視しているし、未来を見出していると思うのです。

 「この著者はそこで『思考法の規則』としての諸宗教の殻を割った奥には、すべての宗教に共通する『核』のような部分が潜んでいて、これを取りだすことがこれからの人間のやらなければいけない仕事だと言っています。これはまったく正しい視点であると、私も思う。
 いずれにしても、宗教というのは、世間で言われてたり考えられているのとはちがって、ほんとうに面白いものなのである。ことのよると、人間という生き物のいちばん面白い部分は、そこに凝縮されていると言っていい。この本を読んで、私も日本の『娘たち』や『息子たち』に、もっとやさしく、楽しく、宗教を語ってあげる義務が、自分たちにはあるなあと感じた。それを知っていると人生は確実に豊かになるからだ。」
 (ミクロコスモスⅡp178)

 この言葉の中に、以前の中沢氏とは変化している何かを感じませんか?(ここの部分をこれから引用する予定ありましたか?す、すいません)
 そんな全体を私なりにまとめてしまった結果だと思います。しかし、私的な流用はいけません。反省し、より著者の意志から離れた引用などしないように、もっときちんと文章を読み込む力をつける努力をしたいと思います。

 ほんと、毎度毎度長くなってすいません。私は物書きを目指すものとして、人の書いた文章をブツッと切れないのです。ひとことひとことに魂を込めて書いていることがわかるし、いくらかでも寿命を削ってるだろうぁなんて思ってしまうので。

 先生もお忙しいのに時間を取っていただいて申し訳ないです。どうかお気になさらず、放っておいてください。・・・書きすぎかな・・・。

 今日の質問

 流しそうめんとそうめん流し。スピード感があるのはどっち?
 

  インドの勉強をちょっとだけしてみましたが、なにせ日本と違って、もともとの国の構造が複雑なので、うまくまとまりません。
 まずは、ヒンドゥー教が一般的な宗教とは言えない(前にも書きましたが、文化に近い)という根本的な違いにより、普通は政治として処理されている部分が、宗教の中に組み込まれて考えられているというのが大きな問題になっているように思われます。たぶんインドで生活している人たちと私達の見解が大きく分かれてしまう主要な部分であるように思えます。
 しかし、私は経済の格差も、ヒンドゥー教での格差も、もとはひとの心理の中にある競争しなければ生きていけない意識、弱者と強者を二分しなければ成り立たない精神構造にあると思っています。

 この先はあまりに少ない手持ちの資料からの推測なので、間違いは指摘してください。

 まず、ヒンドゥー教の中で、ヴァルナがさらにジャーティによって細分化されたのは、生活を維持していくための必要からであったが、それに社会的な序列を定めたのはヒンドゥー教の規範である<浄・穢>観である。
 このヒンドゥー教の<浄・穢>観が密教を通じて日本に入ってきて神道や陰陽道と集合しながら、賤民差別・女性差別・障害者差別を定着させる宗教的基礎になったという(社)部落解放・人権研究所の宗教部会の報告書「『ケガレ観念の歴史的変遷』~国家権力による差別制度をめぐって~」はなかなか興味深い資料でした。
 さらに遡って、なぜヒンドゥー教が<浄・穢>観にこだわったかといえば、たぶんアーリア文化とドラビダ文化間の対立の中で、アーリア民族がみずからの絶対的優位を確保するために行った事の結果ではないかと思っています。
 
 中国での差別概念は<貴・賤民>観で、儒教が基盤となっているのですが、賤民であっても同じ人間であり、貴も賤も可変的であるというものです。
 この差の出所はさておき、宗教による差別化はどこにでも表象しているのは事実で、ヒンドゥー教に限ったことではない。それはやはり人間が必要に応じて作ってきた制度である言えるのではないかと思います。
 
 また、近代化によってそれに変化があったかといえば、資本主義の中にも見られるように、あるいは、そのことを熟考していなかった社会主義、共産主義の失敗を通じて、私たちはあまり変化がないのではと、感じることができるのではないでしょうか。

 インドにおけるダリットの立場の変化については、私には複雑すぎて予想できません。しかし、ダリットの中でも大学を出て政治家や医者になるような人が増え、ダリットの富裕層が増加したとして、その人たちはほかのダリットのために私財を投じて全力を尽くすでしょうか。それとも、自分の身内を自分と同じような富裕層にする努力をするでしょうか。それはもう、日本と同じように教育面の格差の広がりを生み、次の手を打たないとダリット間の格差は広がるばかりになるでしょう。
 また、最近どんどんと増加していく中間層は、自ら運転し、掃除や洗濯は掃除機や洗濯機で済ませる人たちです。ダリットがダリットとしての職業を確保することもますます難しくなっていくでしょう。そんなとき、新しい職業につけるような政策がなされるでしょうか。
 それとも、仏教への改宗がますます増えることになるのでしょうか(改宗すれば大丈夫?)

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