不屈のニューエイジャー
<連載 中沢新一論> 前便は こちら
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前便に引きつづき、 真木悠介 (見田宗介) 先生と中沢先生との比較
とにかく よぉく似てる! ってこと、 再確認です
〈土着と近代〉 について語るとき、 土着を日本的なもの、 近代を普遍的なものとしてとらえる見方は偏狭なものにすぎない。 日本の、 中国の、 インドの、 ラカンドンの、 トロブリアンドの土着があり、 ヨーロッパにさえ土着があるはずだ。 〈近代〉 を特殊性として、 〈土着〉 を普遍性として とらえなければならない。 土着は近代を、 下からも周辺からもつつみこむ。 ただ近代が一様であるのに対して、 土着がそれぞれの固有性をもって多様であるという意味においてのみ、 それは抽象的な 「普遍」 と対立する。 しかしこの土着の多様性でさえ、 自然存在としての人類の意識の原構造のような地層で、 たがいに通底し呼び交わしているはずである
真木悠介 『気流の鳴る音』 32-3頁。 傍点は太字で示した
ここでの 「土着」 が、 中沢思想の 「野生」 にあたる
私がこれから数年の間やりたいと思っていることは、 〈コミューン論を問題意識とし、 文化人類学・民俗学を素材とする、 比較社会学〉 である。 私は人間の 生き方 を発掘したい。 とりわけその生き方を充たしている 感覚 を発掘してみたい
同 38頁。 傍点は太字で示した
原著は 1977年。 カスタネダのドン・ファン・シリーズの解説である
真木 (見田) 先生は カスタネダの役どころを引き受けながら
「イメージの論理」 の問題に取り組んでおられる
一方、 中沢先生はもちろん! ドン・ファンの立場から語りを発しておられる
(誰が認めようと認めまいと!)
このところで お二人の偉大な思想家は異なってくるのだが、、、 ともあれ
中沢先生を 僕が 「不屈のニューエイジャー」 と呼ぶことには実際の意味がある――
このことは了解していただけると思う
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