「利得の観念」以前 (2/2)
<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> 前便 からのつづき
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- ロバート・L・ハイルブローナー 『入門経済思想史――世俗の思想家たち』 (八木甫・浮田聡・堀岡治男・松原隆一郎・奥井智之訳,ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2001年)
より、 近代のはじまりについて
利得のための利得という観念は、 世界の大部分の人々にはいまなお無縁であり、 記録として残っている歴史を見てもまず出てこない。
35頁
利得の観念、 すなわち働く者は常にみずからの物質的運命を改善しようと努力してもよいし、 また努力すべきだとする観念は、 ルネッサンス期と宗教改革期にちらほら見受けられるだけで、 エジプト、 ギリシア、 ローマ、 そして中世へと至る文明の流れを通して、 大多数の中・下層階級にはまったく縁がなかった観念であり、 東洋文明にいたってはほとんどといっていいくらい存在しなかったものである。
同
中世においては、 「キリスト教徒たる者は何ぴとも商人たるべからず」 と教会で教えられていたが、 この格律の背後には、 社会をパン種にたとえるなら、 商人はそれをかき乱すイースト菌みたいなものだとする考え方があった。 シェイクスピアの時代には、 上流階級に属さないごくふつうの市民すべてにとって、 人生の 目的とは、 みずからの身分を高めることではなくて、 それを維持することだった。 ピルグリム・ファーザーズと称されるアメリカ人の祖先たちでさえ、 利得は黙認されてよく、 場合によっては有用でさえある人生の目標などと考えようものなら、 それこそ悪魔の教え以外の何ものでもないと思えたことだろう。
もちろん富はいつのようにも存在していたわけだし、 ごうつく張りの話にしても少なくとも聖書と同じくらい昔からある。 しかし、 一握りのけたはずれな有力者が所有する富に刺激された羨望と、 社会にくまなく散乱する富を求めての全般的な闘争とでは大きな違いがある。
36頁
次に、 16世紀のドイツが事例として示される。 その総括の文章――
地上の生活は永遠の生命に至るための辛い足掛かりにすぎないと考えるのが至高の理念とされているかぎり、 実業の精神は奨励されることもなければ、 自然に培われていくすべもなかった。 国王は財宝を欲しがり、 そのために戦争をした。 貴族たちは土地を欲しがったが、 自尊心のある帰属ならだれでも先祖代々の土地を売りたがらないものだから、 ここでも征服という手段に訴えざるをえなくなる。 しかし、 たいていの人々は ――農奴、 村の職人、 それに製造業ギルドのマイスターでさえ―― 、 自分の親の代がしていたような生活をしたいと思うし、 自分の子の代にもそれと同じ生活をするよう望み、 自分のことは放っておいてほしいと考えていた。
37-8頁
ここで、 こちらのエントリ で示した アダム・スミスの世界への接近がはじまる
日常生活の通常の行動原理としての利得の観念がなかったこと ――事実、 利得の観念は教会には絶対的に不評を買うものだった―― 、 この点が、 一〇世紀から一六世紀にかけての奇妙な世界と、 現代に近づいてきた、 アダム・スミスに先立つこと一、 二世紀の頃の世界とを区別する大きな違いである。 ところが、 これよりもさらに根本的な違いがあった。 「生計をたてる」 という観念がまだ生まれていなかったことである。 経済生活と社会生活は一つのなっていて同じものだった。 仕事は、 ある目的、 つまり金を稼ぎその金で物を買うという目的のための手段にはまだなっていなかった。 仕事は、 もちろん金や物をめぐって行われるものではあったが、 伝統の一部として、 自然な生活様式として携わるものであり、 仕事そのものが目的だった。 要するに、 「市場」 という偉大なる社会的発明はまだ出てきていなかったということである。
38頁
近代とは何か―― 利得の観念が、 権威と権力により是認、 さらには奨励される時代である
近代性とは何か―― 権威と権力により 利得の観念が 是認さらには奨励されることである
これは、 ごく初歩的な近代 (性) の定義である
要するに、 封建制の崩壊 を近代の画期とする というものだ
宗教論にとって、 この定義は何を意味するのか・・・
いまあらためて 問い直されるべき問題である!!
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「宗教改革以降、プロテスタント諸派が現れることによって『宗教』の意味内容が重層的になってくる。しかし、まだ一般民衆にとって『宗教』は選択できるものではなかった。宗教改革はしばしば『信仰の自由』を求める戦いとして理解されがちであるが、それによて生じたドイツの領邦教会性のもとでは、民衆は領主が選んだ宗教を受け入れるほかなかった。」
(『論座』2001年10月号 小原克博 「日本人の知らない<政教分離>の多様性」)
この文章で政教分離について、もう一つ深く掘り下げられた気がしました。
また、<近代>を浮き彫りにする重要なキーワードに<自由>(宗教的・政治的・経済的)があると思うのですが、まだあまり手がかりがつかめません。
「この点において近代への転換は、まさにそのような価値のヒエラルヒーの転倒によって特徴づけられる。世俗化が、現世の肯定を否応なしにひき起こしていったというだけではない。さきのプラトンの図式を用いるならば、魂の理性的部分、気概的部分、欲求的部分のうち、むしろ欲求的部分が中心を占め、他はそれに従属しそのための手段となっていく。あるいは観照的生活、活動的生活、享楽的生活というアリストテレスの図式を用いるならば、享楽的生活がそのまま肯定され、他はそれに従属していくのである。アレントがさきの生のヒエラルヒーの転倒をみるゆえんであるといえる。」
(『藤原保信著作集 9 自由主義の再検討 p48)
まだまだ思索の途中なのですが、自由を求める精神から引き起こされた矛盾、縛りのない世界の落とし穴が、現代と宗教を結びつけるカギだと思っています。宗教的束縛、政治的束縛、経済的束縛からの自由の奪還(と思われていたもの)の軌跡と、それらから解放された(と思った)<一部の>人たちは、いったいどんな行動をとったのかを理解できたらとがんばってみているのですが・・。なかなか大変です・・・。
やっと『近代政治思想の基礎』をゲットしましたが、これって全部読むんですよね・・・(溜息)
投稿: u.yokosawa | 2009年6月17日 (水) 23時53分
yokosawa さん>
西欧における政教分離の確立過程は もっともっと ホントーに複雑で
高校世界史的な歴史理解ではどうしようもない、、、 と
僕も いつも思っています
で、、、 素人なのに 西洋史をコツコツ独学しているというわけです
『近代政治思想の基礎』 は、まさにそうした 地味ぃな努力の一環なわけですが
いやはや 分厚いですねぇ (笑)
「自由」ということについては、僕もいろいろ調べてきましたが
今のところ、やっぱり「商業の自由」!
これが大事なんだろうな、という結論にたどりつきつつあります
ルターなんかはいろいろあったでしょう。カルバンも
聖公会も 「自由」になりたかったんでしょう・・・
しかし、ここまで世界を変えてしまった「自由」!
誰もが魅了され、正しいことだと心底確信できている「自由」!
それはやはり、商工業の自由ということになっていくんじゃないか、と
そうすると、資本主義の発展史と相からんで、現代までの見通しを
真によくするように思うのです
投稿: コンドウ | 2009年6月18日 (木) 16時27分