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2009年7月の記事

2009年7月31日 (金)

感性から理性へ

<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> 前便は こちら

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かつて 「近代性とはなにか」 というエントリ

次のように書いた

近代性とは 「人間主義、 個人主義、 合理主義」 に支えられた観念と制度の体系である、 と

  • 神から人間へ (人間主義)
  • 集団から個人へ (個人主義)
  • 感性から理性へ (合理主義)

こうした三種の価値観シフト (認識論的には、 人間、 個人、 理性の概念化と定位) が、 近代性をもっともよく特徴づけるのではないか

逆から言えば、 神なき個々人の理性中心主義 こそが 近代性の極致ではないか

ここで「感性」 とは 「感情」 と 「直感」 のふたつである

平均的な近代人 で、 「感性」 を全否定までする人は まずおるまい!

したがって、 理性中心主義=合理主義 といっても 程度問題だ

しかし、 ヘゲモニーはたしかに理性におかれている――

この点は認めざるをえない

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ということで、、、

  • 福岡伸一 『動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか』 (木楽舎, 2009年2月)

より 一節を紹介したい

あらかじめ言っておけば、 福岡先生は 単純な理性中心主義者ではない

人間の自由と自律についての美学と未来構想が 理性に重きをおく――

ト学会なら 「健全な懐疑主義」 とでも言いそうな

そのようなイデオロギーの持ち主である

もちろん ここでの 「健全さ」 をちゃんと論じるべきだが

そして僕も、 そうした立場には賛成だ

僕のほうが より折衷主義的、 中道主義的 だと思うが

それにしても 基本賛成だ

<つづく>

【シンポ】 映画の中の宗教文化

映画のシンポ で話をさせていただけることになった

映画の中の宗教文化

趣味と実益をかねるというが、 まさにこれがそうだ!

とてもうれしい

これに乗じて、 後期の授業では 映画を真正面から取り上げよう!

レスポンデントは (臼杵陽先生 はもとより)

みなさん よく存じ上げている方ばかりだ

とても面白いシンポになると思う! 太鼓判!

ご興味をお持ちの方も多かろう

日曜の渋谷ということもあって、 おいでになる方は多いと思われます

申し込みが必要とのことなので、 お早めにどうぞ

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以下、 公式サイト より転載
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映画の中の宗教文化

国際研究フォーラム

2009年9月20日

【日時】 平成21年9月20日 (日) 10時~17時30分
【場所】 國學院大學・学術メディアセンター1階・常磐松ホール

【発題者】
 近藤光博 (日本女子大学)
 中町信孝 (甲南大学)
 Jean-Michel Butel (仏・INALCO)
 Jolyon Thomas (米・プリンストン大学)
 Gregory Watkins (米・スタンフォード大学)

【レスポンデント】
 臼杵陽 (日本女子大学)
 櫻井義秀 (北海道大学)
 冨澤かな (東京大学)
 西村明 (鹿児島大学)
 山中弘 (筑波大学)    

【司会】
 井上順孝 (國學院大學)

*使用言語:日本語・英語 (英語には通訳がつきます)
*参加費 無料
*事前申し込みが必要です。
問い合わせ先: infoshubun@kokugakuin.ac.jp
参加をご希望の方はお名前、 ご所属を明記の上、 9月15日までにお申し込み下さい

趣旨

 このシンポジウムでは、 宗教文化教育の教材の一つとして映画を位置づけたときに、 どのような可能性、 利用の方法があり、 また問題点を孕んでいるかなどを、 幅広い視点から議論し、 意見交換することを目指します。
 映画の中にはしばしば非常に興味深い宗教文化の問題が織り込まれています。 キリスト教、 イスラーム、 仏教といった歴史的な宗教を正面から扱ったいわゆる宗教映画は言うまでもなく、 喜劇映画、 ミステリー映画、 恋愛映画、 ドキュメンタリー映画など、 さまざまなタイプの映画に、 宗教に関わるテーマを扱ったシーンを見出すことができます。
 それゆえ学校教育において、 宗教文化の問題を身近に感じさせる上で非常に有効な教材になりうると言えます。 宗教文化に関わるテーマは中等教育においては、 歴史、 地理、 倫理、 美術、 音楽、 国語、 さらには英語といった科目に深く関わります。 高等教育においては、 宗教学、 社会学、 人類学、 民俗学、 歴史学、 文学など多くの学問分野に関わります。
 その意味で宗教文化教育における映画の活用は多くの可能性を秘めています。 しかし、 映画は一定の視点から描写されたものであるゆえ、 偏見や誤解といったものを与えることもあります。 影響が大きいだけに、 この点への考慮も重要でしょう。
 グローバル化が進む現代は同じ映画をほとんど同時に複数の国の人が観るとことが多くなりました。 同じ映画も受け取る宗教文化の違いによって、 異なった意味と影響をもたらすでしょう。 そうした受け取る側の文化的差異も考慮に入れる必要が増しています。
 異なった学問領域と異なった国の研究者が議論することで、 映画を教材として用いる上で、 新しいパースペクティブが生まれることを期待しています。

〔事務局連絡先〕

〒150-8440 東京都渋谷区東4-10-28
國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所

*問い合わせ/参加申し込み先
infoshubun@kokugakuin.ac.jp
Fax: 03-5466-9237
参加をご希望の方はお名前、 ご所属を明記の上、 9月15日までにお申し込み下さい。

主催:
國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所
科学研究費補助金基盤研究(A)
「大学における宗教文化教育の実質化を図るシステム構築」

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2009年7月30日 (木)

資本主義の基礎

<連載 近代と何か、 近代性とは何か> 前便は こちら

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こちらのエントリ へのコメントにて

yokosawa さんにご紹介いただいた書評論文

  • 古賀勝次郎 「『資本主義の哲学的・経済的基礎』 ――S・ペジォヴッチ編著―― philosophical and Economic Foundations of Capitalism, edited by Svetozar Pejovich, Lexington Books, 1983」 (『早稲田社会科学研究』 第29号, S59・9, 175-98頁)

その最初のあたりで 古賀先生

同上書 「序文」 (ペジォヴィッチ) を要約なさっている段落より

「啓蒙主義の時代」 (The Age of Enlightenment)である近代社会は、 ニュー・フロンティアへの機会が多いに開け、 また、 自然科学の分野で様々な発見がなされた。 そしてそれらは、 人間の宇宙観や社会観に大きな変化を齎した。 しかし、 近代社会における最も重要な変化は、 人間生活の経済的側面を重視するようになったことである。 そこで、 経済成長を促進することが第一の目的となり、 そのための制度が要請された。 こうして資本主義と社会主義が生まれた。 資本主義は、 十七世紀の初め、 先ずイギリスに、 次いでオランダに現われた。 社会主義は、 一九一七年のロシア革命が起るまでは、 知的思惟の産物であった。 資本主義制度は、 その社会的効率性が実証されたため、 またたく間に、 西欧、 北アメリカへと拡がっていった

178頁

近代とは何か―― ① 啓蒙主義が支配的になると同時に、 ② 人間生活の経済的側面が重視されるようになった (そして、 その帰結として、 まず資本主義を、 次いで社会主義を生みだされた) 時代である

近代性とは何か―― ① 啓蒙主義、および ② 人間生活の経済的側面の重視 (そして、 その帰結としての、 資本主義と社会主義の制度=観念) である

楢山節考

<連載 宗教学のための映画> 前便は こちら

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  • 「楢山節考」 (今村昌平)

前近代、、、 というと 聞こえがとにかく悪い

要するに、 僕らが失ったもの、、、 のことだ

これを知る (できるだけヴィヴィッドに想像する) ことで見えてくるのは

僕ら自身の近代的市民生活の 《歴史》、 《欲望の政治学》

あるいは 《アーキテクチャ》 だ

つまり、 《世俗的近代》 を逆照射することができるのだ

宗教を学ぶとき、 この点はとても大事だ

  1. 「宗教」 なる概念=制度が いかに窮屈かを知るために
  2. 今も地球上の現実は 「世俗的近代」 そのものとは到底異なるのだから

今村昌平監督 の 「楢山節考」 (1983年)

そうした視点から観てほしい映画だと思う

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なお、 これとちょうど同じ観点から おすすめできる映画が

少なくとも あと二本 ある

別便にてご紹介させていただきたい。 乞うご期待

【メモ】

  • こちらの作品、 映画化は二度されている。 今村監督の方をおすすめしたい
  • 1983年カンヌ・パルムドールは納得 (「戦メリ」 も好きだが、 やはりこっちかなぁ、、、 と思う)
  • 今村監督なのだからして、 もちろん 「エロ」 なところがミソなのだが、 それゆえ 大学の授業ではおすすめできない
  • 『映画で学ぶ現代宗教』 には載っていない

2009年7月29日 (水)

異界からの光が照らしだす

前便 よりつづく

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  • 石井美保 『精霊たちのフロンティア: ガーナ南部の開拓移民社会における 〈超常現象〉 の民族誌』 (世界思想社, 2007年)

石井美保さん が論敵に選んだのは

  • 象徴的抵抗論
  • モダニティ論

のふたつである

これらの 「グランド・セオリー」 は

それ自体が分析者を誘惑する魔術的な魅力をもっている

281頁

なかでも最大の魅力は、 これらの言説において語られる物語の陰の主人公となるのはほとんど常に、 「彼ら」 を鏡像とした 「われわれ」 である、 という点にあるのではないだろうか。 象徴的抵抗論やモダニティ論において、 反省や嫌悪、 あるいは批判や憧憬の対象として問題化されるのは、 それが分析の対象としている非西欧社会の人びとではなく、 西欧社会に生きる 「われわれ」 とその歴史である

281頁

[わたしたちは] 象徴的抵抗論やモダニティ論の強力な主張に同調する過程で、 これらの議論が前提としている 「われわれ」 に同一化するのである

こうした傾向に対して、 石井さんの 「超常現象の民族誌」 は

ガーナ南部における呪術・宗教現象をひらかれた歴史性のなかでとらえること、 同時に地域社会のミクロな政治経済変化と呪術・宗教変容との絡みあいが生みだす独自のコンテクストを理解することを目指してきた。 さらにまた、 「身体性」 を鍵として、 超常的なるものに浸透された現実世界のありように接近しようと試みてきた

283頁

というのである。

ひらかれた歴史性――

独自のコンテクスト――

身体性から垣間見える現実世界のありよう――

そして、 前便 で引用した最終段落より、 再び次の一節をば

異界からの光が照らしだす日常世界の実践的論理

284頁

こうしたあたりが 石井さんが描き上げたかったものである

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【メモ】

アフリカ人類学の研究者であられる石井さんだが

最近では、 マンガロール近郊 (インド) をフィールドにされているらしい

足立明先生、 田中雅一先生、 関根康正先生 など

南アジア人類学の錚々たる先輩方の薫陶を受けておられるようなので

そのあたりが影響してのことなのかな、、、 と想像

2009年7月28日 (火)

クムラン

<買う本>

  • エリエット・アベカシス 『クムラン』 (鈴木敏弘訳, 角川文庫, 角川書店, 2000年)

松岡正剛氏 が絶賛している ので 再認識した本

著者が美人だとかなんとか・・・ (笑)

『ダ・ヴィンチ・コード』 は、 腸閉塞で入院中

病室ロビーにあったのを一気読みしたが・・・

はたしてこちらはどうか

期待は大である

【メモ】  本務校図書館にはない。 大学生協でも品切れ

2009年7月27日 (月)

超常現象の民族誌

前便 よりつづく

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  • 石井美保 『精霊たちのフロンティア: ガーナ南部の開拓移民社会における 〈超常現象〉 の民族誌』 (世界思想社, 2007年)

博士論文をもとにした著書である

本書の最終段落を引用してみよう

超常現象の民族誌家は、 科学的な論理の光で異界を隈なく照らしだすことを目標とするものではない。 むしろ、 明滅する異界の一瞬の光をとらえ、 異界からの光が照らしだす日常世界の実践的倫理を追究することを目指すのである

284頁

この文章が端的に述べるのは

石井さん言うところの 「超常現象の民族誌」 とはなにか、 である

もう一段落、 引用しておきたい

こちらは少々長いが、 どうぞお付き合いください

本書でみてきたように、 精霊祭祀や卜占をはじめとする呪術・宗教実践は、 マクロな社会状況そのものを主題化するというよりも、 むしろきわめて日常的であり、 しばしば卑近な、 だからこそ切実な人びとの苦悩や欲望や願いの機微により深くかかわっている。 このように、 きわめて身近であり世俗的なものでありうる呪術・宗教現象が、 その一方で人びとの日常的な生活世界を超える呪術的現実の位相を開示し、 深遠な神話的時空の中に人びとを導き入れるのは不思議なことではない。 なぜなら、 おそらく呪術や宗教とは、 何よりも人びとの生きる日常的なリアリティについての実践なのであり、 人びとが日々心を砕き、 もっとも切実に希求している苦悩や願いにかかわるものだからである。 また同時に、 そうした一見ありふれた苦悩や願いこそが、 頻々と移り変わる歴史の変遷を通して、 人間の生にかかわるもっとも普遍的で深遠な問題を喚起しつづけるものと思われるからである

281頁

人びとの生きる日常的なリアリティ――

一見ありふれた苦悩や願い――

こうした石井さんの立場は

井上順孝先生 の論文 (前便 参照) における整理 (18頁) によれば

(3)  それが主張していることを否定も肯定もせず、 ただ当事者の一人称の言葉をできるだけ加工せず伝えようとするやり方

(4)  ある程度その世界に近づこうとする意識をもち、 相応の努力を払いながらも、 適当な方法を見いだせずにいるもの

という二つの立場の中間あたりだろうか・・・

「適当な方法を見いだせずにいる」 というのは、 むろん

いくらか保留すべきであるだろう。 しかし 石井さんは

人間の行為と身体において顕現する妖術や呪術、 精霊憑依の本質とはいったい、 何であるのか?

284頁

という問いについて

おそらく …… 十全に答えられることなく残るに違いない

と判断しているのだから

《要は 「超常現象」 って 科学的に 実在するって言えるのか?!》

という問いについての 「適当な方法」 は 「見いだせていない」

ということで、 さほど問題ないのかもしれない

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さて、、、 石井さんの研究の問題関心と文脈は

もちろん、 井上先生が整理したものとは はっきり異なる

実際、 井上論文は 本書文献評には挙げられていないのだから

「我田引水」 にならぬよう、 そちらをこそ紹介しておくべきだろう

<つづく>

【報告】 研究会 「イランとインド」

こちらのエントリ で紹介した研究会が 盛況のうちに終了

以下、 その報告と今後の予定を 転載いたします

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南アジアML "SAAF"より転載
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7月26日 (日) に開催した第33回懇話会では、 青木健さん (早稲田大学 非常勤講師) より 「イランとインド ---- 古代アーリア人と近世パールスィー」 と題するご講話をいただきました。

発表者を除く参加者がなんと17名で、 普段の倍の人数が集まり大変盛況でした。 しかも、 初参加者が11名で、 学部生も4名が参加してくれました。 また、 インド学 (ヴェーダ学、 言語学、 文献学) の研究者数名の参加も得ることができました。

青木さんのご講話では、 前半を 「古代アーリア人」、 後半を 「パールスィー」 についてお話しいただき、 それぞれにざっくばらんな質疑応答を入れていくものでした。

第1部では、 メソポタミア付近が中心となる東西世界を俯瞰する地形図を用いながら、 遊牧系と定住系のアーリア人の複雑な流れを非常に簡潔に手際良くまとめていただきました。

第2部では 「パールスィー」 とアーリア人の関係からはじまって、 7世紀以後に彼らがイラン高原から南アジアへいかに逃れ、 「根無し草の宗教」 としていかに生き残ったのかを、 ほぼ現代までを射程に入れて解説していただきました。

質疑や議論は、 ご講話の内容を反映して、 古代から現代、 中国から欧州と、 大変広範にわたりました。 それにもかかわらず、 青木さんにはひとつひとつ実に丁寧にお答えいただき、 その学識の広さに参加者は驚き、また感銘を受けました。

結局、 2時にはじまった懇話会は予定を1時間以上もオーバーし、 5時過ぎまで続きました。 また、 懇話会終了後は、 青木さんを囲んで、 ささやかな親睦の場を設けました。

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お礼

なお、 今回の月例懇話会より、 参加の皆さまに対し、 ご所属やメールアドレス、 ご専門や研究テーマなどをうかがう 「アンケート」 を配布しました。 この試みの目的は、 若手研究者のデータベースをつくりあげることで、 そこでの横のつながりを涵養することにあります。 ご参加の皆さまには、 こうした趣旨をよくご理解いただき、 丁寧にご対応いただきました。 この場を借りて、 お礼を申し上げます。 ありがとうございました。

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今後の予定

次回の月例懇話会は夏休みを挟んで、 10月を予定しております。
大学院生のどなたかにご発表をいただけたら、 と考えております。
また、 別様の企画案などありましたら、 ぜひお聞かせください。
9月中にご案内いたしますので、 引き続き皆様のご参加をお待ちしております。

懇話会担当委員

2009年7月26日 (日)

神々の沈黙と意識の誕生

以前、 「科学・こころ・宗教」 というエントリ にて

宗教研究にとっての 自然科学の重要性に触れた

まずは直接に問題となるのが

  • 宇宙物理学 + 量子論 : 単なるメタファー利用ではなく
  • 生理学(脳など) + 進化心理学 : 心の哲学

あたりであろうか (そもそも これらをどうまとめてよいのやら・・・)

なかなか 信頼できる先行研究がないので

とりあえず 手当たり次第に読みすすめている

ということで、 大部の

  • ジュリアン・ジェインズ 『神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡』 (柴田裕之訳, 紀伊國屋書店, 2005 [原1976] 年)

を読んでみた

この本が 意識論としてとくに優れているとは思わない

今や紋切り型の 「ポップサイエンス」 「疑似科学」 に通ずるところすらある

実際、 一部には、 トンデモ本ギリギリの際物という評価もあるようだ

読むんだったらもちろん パスカル・ボイヤー 『神はなぜいるのか?』 (原2001年) だろう

出来がちがう   しかし…

僕が注目したいのは、 原著出版の古さである

もう30年以上も前に、 こうしたことが言われているわけで

しかも 個別の主張はさておき (ときにトンデモ?)

着眼そのものや 文明論の見通しなどについては

たしかに参考になるものがあるのだ

たとえば、 比喩に関する議論

ただし まったく不十分にしか深められていないが…

少なくとも、 数ある宗教論の一古典として とりあえず勉強しておく――

それぐらいの価値はあるだろう

2009年7月25日 (土)

超常体験と宗教研究

かつて 井上順孝先生 は 次のように書いた

超常体験の処理が [研究者にとって] 困難な理由は明らかである。 それは超常現象の解明が、 現在の自然科学の能力を超えているからである。 ほかにも理由は列挙できるかもしれないが、 結局この点に収斂する。 すると、 超常現象をどの程度解明できるかは、 自然科学の発展に大きく依存していることになる。 この事実は、 はっきりと認めておいた方がいい。 しかも、 宗教学は、 この方法によるなら、 主導権は握れないということも明らかである。 生理学、 物理学、 医学などの領域の人々との共同研究ということはあり得ても、 そこで研究の主たるプログラムを提示するというわけにはいかないであろう

脇本平也・柳川啓一 (編) 『現代宗教学1 宗教体験への接近』 (東京大学出版会, 1992年) 21頁

「超常体験と宗教研究」 という論文のなかで、 である

この論文は 要するに

宗教研究とか言って、 結局 ヤバいところは素通り

何もないかのように進めちゃってるけど、 それでいいの?

一体 どうすんの?

という問いかけをおこなったもの

問題点の整理や、 研究の蓄積 (多くはないが) を整理している

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井上先生のこの論文を 僕は 大学院生のときに読んで

至極もっともだ! という感想をもった

もっともだけど、 すごく難しい・・・ そう思った

だから、 井上テーゼがその後、 学界レベルで追究されてはいない――

こうした現状を 簡単には批判できない

実際、 僕自身も そこをほとんど考えたことがないのだから

しかし最近、このあたりのことを (文脈は 当然 違えど)

研究の主題にしてやってらっしゃる人類学者がいる、 と知った

石井美保さん

である

<つづく>

2009年7月24日 (金)

情の論理しかない

前便 では

  • 中西新太郎 (編) 『1995年: 未了の問題圏』 (大月書店, 2008年9月)

「対論5 サブカルチャーと批評 杉田俊介 × 中西新太郎」 から

一節をご紹介したが

本便では、 その対論を終えて 杉田さん がお書きになっている

「あちこちがただれてくるよな平和」 と爆裂弾 (278-81頁)

より、 別の一節をご紹介します

小林の 『戦争論』 を支える論理は何だったのか。 情である。 いっけん傲慢な尊大さにもかかわらず、 小林のマンガのなかには被差別部落の人々・薬害エイズ被害者・日本兵などの 「虐げられた者への眼差し」 (大澤信亮) が、 弱者への情が、 脈々と見られる。 まずはそれを認めねばならない。 わしは馬鹿だから情でしか動けない、 とも彼は言った。 そしてその情の先に、 あの自己犠牲が現れた。 《特攻隊には宗教で死ぬ陶酔感もない/彼らには情の論理しかない/ 「愛する者たちの住むクニを守るため」 に自死するだけだ》 (356頁)。 小林はそこに、 真善美を超える崇高な何かを込める。 「はっきりいってわしは善人でありたいとも正義でありたいとも言ってない/悪人と言われても祖父たちを守ると言っているのだ」 (64頁)

279-80頁

たくさんのことが読み取れる一節だが、 ここではあえて

特攻隊の 「動機」 のところに注目してみたい

その動機は 小林が言うほど単純素朴ではないと思うが

それでも、 いわゆる 「宗教」 的な動機が どこかに行ってしまっている――

このことは おそらく正しい

それは 僕が

というエントリーで書いたことでもある

戦いの場、 命がけの場における 人のふるまいを云々するとき

僕らは、 本当に慎重に、 がんばって 想像力を働かせないといけない

2009年7月23日 (木)

生まれてこなかったほうがよかった生

こちらのエントリ で ちょこっと触れた

  • 中西新太郎 (編) 『1995年: 未了の問題圏』 (大月書店, 2008年9月)

「対論5 サブカルチャーと批評 杉田俊介 × 中西新太郎」 から

杉田さんの発言

冒頭の 『愛人』 とは 田中ユタカさん の漫画です

『愛人』 の世界は、 障害者や廃棄された生命の側に、 つねに寄り添おうとしています。 主要人物はみな難病者・障害者・遺伝子改造人間なんです。 そして重度障害者どうしが障害のある子どもを産む光景のなかに、 最後の希望を見る。 「生まれてこなかったほうがよかった生」 が深く肯定されることなしに、 自分で自分の生を祝福することはできない。 でもその子どもは、 未知の可能性を切り開くかもしれない。 「呪われたまま/赦されないまま/生きてなさい」。 それに賭ける。 それはナウシカの終わり方ともつながっている。 美少女は最後死んでしまうし、 青年も無残な死に方をするんだけど、 完結した 「二人だけの愛」 ではなく、 無数の子どもたちの傍に寄り添おうとする。 「生まれてきてよかった」 じゃなく 「生まれてきてくれてありがとう」 へとターンするんですね。 そのことでようやく、 自分の生が本当に肯定される

276頁

絶望にはいろいろあるけれど、 今の世の中 よっぽどラッキーでないと

絶望と無縁で 寿命をまっとうできない

それはすなわち、 幸せな日常にいつもベットリ影がはりついていることでもある

手がかりとなるものは 何か・・・?

僕には

  • 「生まれてこなかったほうがよかった生」 が深く肯定されること
  • 「生まれてきてくれてありがとう」へとターン

こうしたことは、 本当に手がかりになると思う

ジベタリアン

昨晩 11時ごろ

近所のコンビニに行ったら、 アラサーの男性ばかり5人

駐車場に直に座って なんだか話し込んでいた

一部 スーツを着ている人もいたから

サラリーマンも含まれていたのだろう

コンビニ前での深夜のたむろ・・・ 完全に日本の文化になった

と実感した

ジベタリアン という言葉ができたのが 1997年だというから

僕が出会った青年たちが 中学 高校のころだったろう

まさに! ジベタリアンとなった世代が いまも ああして

ジベタリアニズムを実践している 大人として!

念のために言い添えておくが、 これは批判でもなんでもない

現代日本の社会学である

【メモ】 「ジベタリアン」 で Google! → 

2009年7月22日 (水)

ニヒリズムを超克する唯一の道

前便 よりつづく

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《明晰なベタ》、 あるいは 《コントロールされた愚かさ》 について

真木悠介 『気流の鳴る音』 別の個所から

真木先生ご自身の言葉から

戦士の使う新しい楯が 〈コントロールされた愚かさ〉、 つまりみずからの 意思を意志する ことであることをわれわれはすでに知っている

156頁: 傍点は太字で示した

 われわれの行為や関係の意味というものを、 その結果として手に入る 「成果」 のみからみていくかぎり、 人生と人類の全歴史との帰結は死であり、 宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌道を、 せいぜい撹乱しうるにすぎない。 いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、 このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。

 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、 また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、 今、 ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、 豊饒にとりもどすことにしかない

同 212頁

2009年7月21日 (火)

コントロールされた愚かさ

以前、 「銃夢」 というエントリ を書いて

《シニカルなもの》 と 《ベタなもの》 という対概念に触れた

その点につき、 真木悠介 『気流の鳴る音』 より ――

まずは、 ドンファン・シリーズ Tales of Power (Penguin Books 版, 1974年) より孫引

知者には名誉も尊厳も家族も名前も故郷もないのだ。 あるのは生きるべき生活だけだ。 こういう中で彼を仲間たちとむすびつけている唯一のきずなが、 〈コントロールされた愚かさ〉 なのだ。 こうして知者は努力し、 汗を流し、 息をきらす。 だから彼を見てもふつうの人間とおなじようにみえる。 ただその生活の愚かさがコントロールされているということを除けばだ。 なにごとも他のことよりも重要なものなどありはせんのに、 知者は行動を選び、 それが重要であるかのごとくに行動しきるのだ。 彼の 〈コントロールされた愚かさ〉 は、 彼に自分のやることには意味があると言わせるし、 じっさいそうであるかのように行動させる。 けれども彼は、 ほんとうはそうでないことを知っているんだ。 だから彼が自分の行動をやりおえると心しずかに引きこもるし、 その行動が善だったか悪だったかとか、 うまくいったかいかなかったかなどということには、 まったく何の関心も示さないのだ

138頁: Tales of Power, pp. 109-110 からの引用とのこと

これに対して、 真木先生は次のような注釈をつける

このように 〈コントロールされた愚かさ〉 とは、 明識によって媒介された愚かさ、 明晰な愚行、 自由な愛着、 対自化された執着である

そして、 再び Tales of Power から引用する

解脱した人間は、 死を逃れるすべのないことを知っておる。 彼はただ一つのものしか、 自分を支えるものをもたない。 それは彼の決定の力だ。 彼はいわば、 自分の選択の主人でなければならん。 彼は選択が自分の責任だということを知りぬいておる。 だからいったん選択をしたら、 後悔したり自分を責めたりしているひまはないのだ。 彼の選択は最終的だ。 それはただ彼自身の死が、 何かにしがみついているひまを与えないからだ

戦士はこのように、 死すべきものとしての自覚と、 解脱と、 自己の決定の力とをもって、 彼の人生を戦略的に構想し設定するのだ

同 139頁: Tales of Power, p. 189 からの引用とのこと

ドンファンの言葉であるが、 そこにあらわれる 「知者」 はさておき

「戦士」 という言葉が 僕がガリィについて書いたことそのものだ、 と思った

<つづく>

【メモ】  真木悠介 (見田宗介) について 前便は こちら

【再掲】 古代アーリア人と近世パールスィー

研究会のご案内 再掲いたします

参加料等無料にて どなたでもご参加いただけます

日曜の昼間ではございますが、 どうぞお越しください

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以下、 南アジア系ML "SAAF" より転載
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第33回月例懇話会を、 以下のとおり開催いたします。

今回は、 ゾロアスター教研究で知られる青木健氏をお迎えし、 本年5月に出版された 『アーリア人』 (講談社選書メチエ) を踏まえ、 イランとインドとの相互交流についてお話し頂きます。

青木氏からは次のようなメッセージを頂いております。

イランとインドとの文化的な類似性や相互交流を、 古代イラン学・ゾロアスター教研究の立場から考察する。 古代アーリア人の活動と、 近世のパールスィーの活躍の2つが焦点になる。 インド学とは全然違う視点なので、 活発な議論を期待いたします

繰り返しになりますが、 私どもとしましては月例懇話会という場を、 若手研究者の交流の場として育てていきたい、 と考えております。 皆さまのご参加とともに、 学部、 院生などへの呼びかけをぜひともお願い申し上げます。

今回も日曜に開催します。 前回と前々回と同様に時間帯を昼間に設定しました。 開催日時について、 ご意見等あれば、 ぜひお寄せくださいませ。

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日時:    7月26日(日) 14:00-16:00

題名:    「イランとインド: 古代アーリア人と近世パールスィー」

発表者: 青木健 氏 (早稲田大学非常勤講師)

参考書: 同 『アーリア人』 (講談社選書メチエ,2009年)

場所:   日本女子大学 目白キャンパス 百年館7F 史学科中央研究室
  (エレベータ降りて右 突き当たり)
  アクセスマップはこちら => http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html

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以上、 皆さまのご参加をお待ちしております。

懇話会担当委員 近藤光博・杉本浄

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2009年7月20日 (月)

近代における自由と資本主義

<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> 前便は こちら

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貯蓄と投資 ――倹約と企業―― について

「指令に基づく経済」 (たとえば、 ソビエト・ロシアとファラオ時代のエジプト)

ではないところの

「資本主義」 (≒ 「経済自由主義」) の特徴づけ

というのも、 指令に基づく経済においては、 貯蓄と投資はともども上で決められ、 国民の貯蓄がピラミッドや発電所への融資に活用されることを保証するのは、 国民の経済生活全般にわたる管理だからである。 資本主義の世界では事情が異なる。 そこでは貯蓄への意志決定も投資への衝動も、 ともに経済主体たち自身の自結衣宇井氏に委ねられているからである。 そしてこれらの意志決定が自由であるがゆえに、 かみ合わぬという事態もまた起こりうるのである。 そこでは貯蓄が過少であったり、 投資を支えるには貯蓄が過少であることが起こりうる。 経済的自由は、 いかにも望ましい状態である。 だが不況や好況においては、 われわれはありうべき結果に対処しうるだけの準備をしておかなければならないのである

ハイルブローナー 『入門経済思想史 世俗の思想家たち』 436-37頁

これは、 ケインズが 『雇用・利子・貨幣の一般理論』 を著わす前

『貨幣論』 において展開した理論の要約、 その一部である

もっとも、 ハイルブローナーによれば

この考え方はケインズの独創ではない。 名を連ねれば長くなる数多くの経済学者たちが、 景気循環におけるこえっら二つの要因 [= 貯蓄と投資] の決定的な役割について、 これまでにも指摘してきた。 ところがケインズが取り上げたものすべてがそうであったように、 経済学が行なう抽象化も彼の綴る散文にかかると次のような光輝を放つ

同 437頁: 以下 『貨幣論』 からの引用があるが、 省略

経済思想、 経済理論もさることながら

僕が注目したいのは、 「自由」 ということ

自由が (資本家のみならず) プロレタリアの権利であるとき

それは 資本主義制度と切り離せるのか・・・?

このトートロジー!!

自由とは政治的権利であるのと まったく同時に!

経済的自由そのものでもあるということ ――

この抜け道の無さ!!

近代とは何か ―― 経済的自由が各人に保障されることで、 資本主義システムの稼働を可能にする時代である

近代性とは何か ―― 経済的自由を各人に保障することで、 資本主義の稼働を可能にすることである

清水より帰宅

こちらのエントリ より つづく

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第42回 南アジア研究集会 より帰宅

参加申込者が例年になく少ないと聞いていたが

ふたを開けてみれば 90名ほどの参加者

まずまずの盛況ぶりだったといえましょう

発表者の方々はもちろんだが、 何より 幹事の皆さん ご苦労さまでした

若い方の参加が非常に多かった

大学院生、 PD、 さらには学部学生の方まで!

いろいろな大学で 南アジア研究を志す人たちがいることを、 再確認

苦手なソーシャライズもしたりして、 得るところが多かったです

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【特記】

二つのNGOの関係者が運営、 発表をなさっていた

内幕はいろいろ大変だろうが、 しっかりとした哲学と活動に

大変心強く 感じ入りました

国際援助に関心はあっても どこから入っていいかわからないという方

とても信頼に足る団体だと思います

また

中村尚司先生

のご活躍にも あらためて眼を開かされた思いがしました

2009年7月19日 (日)

軽信と儀式好き

<エピグラフ>

人間とは、 生来の凶暴性と創造力とが [ママ: 「を」?] 合理性の口実の下に覆い隠している、 上手に組み立てられた 「経済法則」 によって理解されるべきものではない、 とヴェブレンは述べた。 人間を論じるには、 人類学者や心理学者の、 世辞の少ない、 より根本的な語彙を用いたほうがよい。 つまり、 人間とは強力で不合理な衝動をもった、 軽信的で粗野で儀式好きな生き物なのである

ハイルブローナー 『入門経済思想史 世俗の思想家たち』 400頁

紅の豚

<ただ好きな歌を紹介するだけのコーナー>

『紅の豚』 は、 おはずかしながら、 マイベスト50映画 に入る・・・

2009年7月18日 (土)

怪物の世界

こちらのエントリ で紹介した

  • 中原昌也 『映画の頭脳破壊』 (文藝春秋, 2008年3月)

『ラザロ』 三部作を素材にした、 井上紀州監督 との対談より

井上  『華氏451度』 でブラッドベリが予言した世界が、 今実現しているんですよ。 そういう時に怪物が生まれる。 怪物というのは、 巨悪や強大な権力が生むのではなくて、 人びとの日々の欲望が生むんですよ。 だから知性をもって考えないといけない。 確か、 中原さんとは二〇〇一年に対談したと思うのですが、 あの頃から状況はさらに悪化していますよね。

中原  確実に悪くなっていますね。 だから、 自己責任でやれば、 何をやってもいいというような世の中になっている以上、 逆説的にいえば、 どんどん怪物が生まれればいいと思う。 無差別殺人が起きても、 犠牲者本人だけが悲しむという世の中なんだから。

116頁

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【メモ】

『ラザロ』 は 以前からどうしても観たいのに、 全然観れないでいる映画だ

「怪物」 と 「世界」 こそ、 この映画が描くものだと思う

第42回南アジア研究集会

こちらのエントリ でご紹介した

第42回 南アジア研究集会

に行ってきます

以前と比べれば、 俄然 インドへの関心は高まっているが

いざ 研究ということになると なかなか人は集まっていない

東洋史全体が 低調なのだと聞く

今回の研究集会でも、 例年になく参加申し込みが少なかったそうだ

力の入った発表やシンポがズラリと並ぶ

伝統あるこの研究集会を 少しでも盛り上げたいなぁ、、、と思う

2009年7月17日 (金)

ヨーロッパ宗教改革の連携と断絶

去る6月27日 森田安一先生 の退官記念パーティーに出席した

森田先生は 「ザ・改革」 はもちろん、 スイス史の大家でもあられる

私の本務校の史学科の大先輩

たくさんの著作のある森田先生だが

上記パーティーの折 出版されたばかりの

  • 森田安一 (編) 『ヨーロッパ宗教改革の連携と断絶』 (教文館, 2009年5月)

を参加者みなさんに配っていただけた

奥付によれば、 初版発行から1カ月で第二版が出ている

学術書としては 異例の売れ行きではないだろうか

出版社のサイト より 「書評・解説」 は次のとおり

ルター、 ツヴィングリ、 カルヴァンらを源流とする宗教改革運動の影響は、 一地域・一時代にとどまらなかった。 ヨーロッパ各地に波及し、 宗派を超え、 長期にわたった刷新運動、 その諸潮流の様相を16篇の論考から概観。 気鋭の研究者を含む執筆陣による、 近年の宗教改革史研究の信頼ある一大成果

また、 本書といっしょに

  • 森田安一 『森田安一先生退職記念 略歴・著作目録』 (日本女子大学文学部史学科研究室・日本女子大学文学部史学科同窓会, 2009年6月)

もいただいた

2009年7月16日 (木)

映画365本

<読んだ本>

こちらのエントリ でも書いたように

ちょっとわけあって 映画評論なるものをちょっとだけ読んでいる

最近読み終わったのは

  • 宮崎哲弥 『映画365本: DVDで世界を読む』 (朝日新書, 朝日新聞出版, 2009年5月)

駅の本屋で見かけて 買い求めたもの

この本での映画紹介には ある原則が貫徹している

面白くてためになる映画を紹介する (10頁)

要するに、 勉強になる映画・・・ ということ

この原則にまったく異論はないのだが、 やはり

ちょっと自己限定しすぎかなぁ、、、 という物足りなさが残った

守りが上手 というべきなんだろう、 きっと

もっとハジけてまってもえぇのかも 映画評ってのは!―― という感想だ

もちろん 情報量はすごい。 読みやすさも満点だ

たしかに 「ためになる」 といえば、 なる

実際、 観てみたいと思わせられる紹介記事も いくつもあった

たとえば

『グッドナイト&グッドラック』 (ジョージ・クルーニー)

観のがしていたが、 やはり観ておくべきだと

宮崎さんの解説と紹介によって 確信した

この映画、 「第2章 メディア」 で紹介されている8本のうちのひとつ

この章が 僕には一番面白かった

一方、 期待して読んだ 「第6章 宗教と思想」 はイマイチだった

2009年7月15日 (水)

ネットと無尽

先日 「タノモシ、あるいはムジン」 という記事を書いた

頼母子、 あるいは無尽という制度が日本にあるなんて

いい歳のオッサンが初めて知った、 という記事だ

そしたら、、、

2009年7月14日付け 読売新聞 朝刊を読んでいて、 見つけた

ネットと無尽

揺るぎない 「生身のきずな」

という記事。 名物コーナー 「緩話急題」 である

著者は 社会部の 稲葉光秋さん

SNSで知り合った人たちから助言を得て、 居酒屋を開業し

その店にまた SNSつながりの人たちが来店する――

そんな事例を紹介するのだが

当の店主が こう言ったのだという

会津は無尽が盛んですから。 その影響も大きいんですよ

この店主自身

町おこし関係者、 昔からの友人たち、 の二つの無尽に所属している

稲葉さんは、 福島県立博物館の 佐治靖学芸員 の話をきく

いわく、 会津の無尽は

今は金融というより、 定期的な 「飲み会」 の性格が強い

佐治学芸員は つづける

無尽は見ず知らずの人も巻き込み、 クモの巣状に人間関係を作っていく。 ネットで生まれる関係と共鳴するものがあるかもしれません

この言葉を紹介して、 稲葉さんは記事を こうまとめる

 友人関係をあっさり破壊したり、 国境を越えた接触を可能にしたり。 今、 良くも悪くも人間のつながりに大きな影響を及ぼすネットの猛威の前に、 個人の無力さを感じることがある。

 でも、 生身の人間たちが営々と築き上げてきたクモの巣だって、 そう簡単に敗れはしない。 会津の居酒屋のにぎわいは、 それを教えてくれる

とても面白い記事だった

目に付くときは、 目に付くもんだ、 ムジン!

2009年7月14日 (火)

なぜなら我々は体なのだ

<エピグラフ>

自分の体を知らない相手といくら意見交換をしたところで、 その会話には不幸をもたらす力もなければ、 逆に喜びをもたらす力もない。 偽の行為であり、 最終的には成り立たない。 なぜなら我々は体なのだ。 我々はなによりもまず、 そしてほとんどもっぱら体でしかない。 だから我々の知的そして精神的なものの考えかたのほとんどは、 実際、 体の状態で説明がつく

ミシェル・ウエルベック 『ある島の可能性』 195頁

2009年7月13日 (月)

ドゥ・ザ・ライト・シング (2/2)

<連載 宗教学のための映画> 前便は こちら

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  • 「ドゥ・ザ・ライト・シング」

この映画は アメリカでの いわゆる 「黒人暴動」 を描く

これがなぜ いわゆる 「宗教紛争」 を再考するのに役立つのか・・・

それは、この映画をつうじて 僕たち現代日本人が

「黒人暴動」 という 既成のカテゴリーそのもの に疑問をもちうるからだ

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NYで何かの騒動があった。 打ちこわしがあり、 けが人や逮捕者が出た

その騒動を起こした人は 「黒人」 ・・・・・・ でいいのでしょうか?

その騒動は 「暴動」 ・・・・・・ ということで いいのでしょうか?

いわゆる 「黒人暴動」 とは いったい

誰が 何を おこない、 どのような状態 になったことなのでしょうか?

僕たちは そういったことを何も知りません。 考えようともしません

そのくせ、 「黒人暴動」 についてのイメージだけはしっかりもっています

この映画でも執拗に描かれるように

アメリカの日常生活は、 「白人」 「黒人」 「黄色人」 などのカテゴリーが

どうやら 溢れかえっているようです

登場人物の生活は、 完璧に そのカテゴリーの内側で営まれています

その語り、 発想 (の元)、 行為、 コミュニケーション・・・ 全て! です

このことは

彼らは 「黒人」 である

という単純な結論をもたらすのでしょうか・・・?

もちろん そうではないでしょう

カテゴリーは主観と客観の 《あいだ》 にあるのであり

動機は 意識と無意識の、 あるいは 個人と集団の 《あいだ》 にある

それを一言でいうなら、 「歴史」 ・・・

そうとしかいえない、 《欲望の政治学》 ・・・

こういう境位を この映画は実によく描いていると思うのです

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【メモ】  「ドゥ・ザ・ライト・シング」 で Google!! →

2009年7月12日 (日)

映画の頭脳破壊

こちらのエントリ に書いたように、 映画評論を読んでいる

仕事にしたくないので、 あくまでも 少なめに・・・

面白かったのは

  • 中原昌也 『映画の頭脳破壊』 (文藝春秋, 2008年3月)

あっという間に読了した

雑誌 『文學界』 での連載を 単行本化したもの

2007年1月号から 2008年2月号まで

中原さんが 14人の論客と 新しめの映画を題材に対談している

どれもこれも面白かったが、、、 ひとつだけ紹介するなら

6  心は 『ゾディアック』 × 阿部和重

『ゾディアック』 は 僕にはぜんぜん面白くなかった

しかし、 中原さんは冒頭に こう切り出す

フィンチャーには何も期待しないで観たんだけれども、 これはよかった。 最後まで興奮して観られましたね。 トーンが一貫していて禁欲的じゃないですか。 その押さえどころを今回はちゃんとやっていて 「つかんだ」 という感じがしましたね

81頁

「あれ・・・? そうだったけ・・・?」 と僕は思う

対談相手の阿部さんも 中原さんほどの感銘は受けていない様子

中原さんの評価ポイントは、 上記のように

  • トーンが一貫していて禁欲的 ・・・ 押さえどころを今回はちゃんとやってい [る]

というところにあり、 阿部さんもそれには同意している

さらに中原さんは、 この映画を

何か新しい映画を観たという興奮はちょっとあるかもしれない。 『デジャヴ』 (トニー・スコット) を観たときもそういうことを思ったけど、 今回も似たような印象がある

93頁

とまで言う

これは、 完全に僕とは異なる感想だ

あらためて、 中原さんの論点を追ってみよう

  • 昔の映画では簡単にできていた、 本当のリアリズムとは少々意味の違う、 ささくれたリアリティを盛り込むのに成功しているな、 と。 それをリアリティとはあまり関係なさそうな [・・・] フィンチャーがいとも簡単にやってしまった (82頁)
  • [映画の舞台が] 七〇年代のど真ん中ということで、 やろうと思えばこれ見よがしに時代性を出すことができた。 その頃の風俗なんかをもっと入れられたはずなのに、 それすらも排しているでしょう。 その手堅い選択もすがいなあと思って (84頁)
  • [ 「これだけ物語として弱いものを、 よくここまで一篇の映画に仕上げたなというところで感心するよね」 という 阿部さんの発言を受けて] その通りですね。 これを二時間半という長い時間引っ張っただけでも、 何かすごいものを見た気がしました (88頁)
  • 単調な電子音。 まあ、 だから何かすごいよね。 余計なものが本当にない (90頁)
  • 今回の映画あ音響が結構よかった [・・・] 音響と言うより空気としてある音という感じですかね (92頁)
  • そこ [音響効果] はやっぱり洗練されていた。 抑えが効いていたんですね (93頁)
  • 不明なものをまとめていって、 現実という不明瞭なものから、 映画という時間を作るわけですよ (同)

ふむふむ、、、 なるほど、、、 わかったようなわからないような、、、

僕なぞは 『ファーゴ』 (ジョエル・コーエン) と引き比べてしまっていたから

このような観点が出なかったのかもしれない

あるいは、 もはや中原さんは 映画の作り手の側から

映画評論をおこなう、 その一歩手前まで来ていて

一介の消費者/鑑賞者を任ずる僕とは、 そこが違うのかもしれない・・・

などなどと、 思いをめぐらさせてくれる一冊でありました

あらためて・・・ お勧めです!

2009年7月11日 (土)

無意味なものと不気味なもの

関連エントリ →  「狂い」 の構造

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<読んだ本>

とっても、 とっても 面白かった!!

  • 春日武彦 『無意味なものと不気味なもの』 (文藝春秋, 2007年2月)

宗教学をやっていると、 世の中で 「宗教」 と呼ばれるものだけでは

どうも 「宗教」 の謎に迫れていないなぁ、、、 と思うようになるはずだ

「宗教」 とは呼ばれていない、 「宗教的」 とすら呼びづらい

だけれども、 明らかに 「宗教」 と通底する ――

そんな経験と時空間が 僕らの 《近代的 市民生活》 には ある!

その境域は いくつかの要素から成り立つのだけれど

その代表的なもののひとつを、 僕は

非日常的なもの  異様なもの

などと呼ぶことにしている

それはまさに、 本書で言う

無意味なもの  不気味なもの

のことなんだとわかった

その辺りのことを総括する、 著者 春日武彦先生 のコトバを

本書末尾から引用しよう

念のため 言い添えておけば、 これは冒頭から通読すべき本だと思う

そうして、 下に引用する言葉に 最後に出会うわけだ

本来、 これが、 本書の正しい読み方だと思う

 本書でとり上げたさまざまな小説たちは、 その完成度や雄弁さにおいて一定はしていないけれど、 いずれも明瞭な輪郭を備えている。 ひとつの世界を構築している。 しっかりとした存在感を持っている。 だがどれも教訓やメッセージを携えているとは思えない。 娯楽のための綺談であると割り切ったとしても、 それにしては溢れ出てくるものが生々しい。 どこか精神の根源的な部分に働きかけてくる気配がある。 そのようにストーリーと与えてくる印象とが乖離している事実こそが寓意的なのであり、 しかもその寓意はおそらく精神の暗部に働きかけているであろうことから、 わたしはそこにあの不気味な昆虫との類似を感じずにはいられない。 だから、 どうしても、 〈昆虫的〉 なる奇異な言葉を作り出さずにはいられなかったのである。

 扱ったいずれの小説も、 かつて読んだまま自分の心の隅に妙に引っ掛かり、 何かの拍子に意識に浮かび上がっては 「あれはいったい何だったのだろう」 と訝しい気分を覚えさせるものであった。 だがあらためてそれらを読み返すことは、 何か大切なものを失ってしまいそうでためらわれていた。 本書ではそのあたり覚悟を決め、 あえて 〈昆虫的〉 という言葉のもとに読み直してみた報告書という次第である。 おそらくkの行為によって昆虫的な小説たちは再び蠢きはじめ、 気づかぬうちにわたしや読者諸氏の心へ新たな卵を産み付けたに違いない。

285頁

《無意味なものと不気味なもの》、 あるいは 《非日常的なものと異様なもの》

これを表す範疇として、 上の引用文では

  • どこか精神の根源的な部分
  • 寓意
  • 精神の暗部
  • 何か大切なもの

などが選ばれている

一方、 それを感得したり経験したりする 人間の能力は

上記引用文の直前のパートで

  • 直感
  • 感じる
  • 印象

などと呼ばれている

この辺りをすくい上げられないと、 宗教学は まったく面白くない

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【メモ】

本書をどうやって知ったのか、、、 覚えていない

おそらくは、 尊敬すべき書評家 ソコツさん のレビューを読んだのだろう

下記リンクより、 ぜひ そのレビューも読んでいただきたい、、、 です

2009年7月10日 (金)

臓器移植法改正をめぐって 下

前便は こちら

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2009年7月4日付け 朝日新聞 朝刊に

生と死を考える ―― 臓器移植法改正をめぐって 下

という記事が載った。 「上」 は 前便 でご紹介した

澤井繁男先生海堂尊先生 とのインタビューをまとめたもの

お二人は 今回の法改正そのものに、 基本的に賛成している

これは、 「上」 で登場し、 前便にて紹介した

波平恵美子先生島薗進先生 とは異なる立場だ

澤井、 会堂両先生の意見の要点は

  • 国会、関係省庁を中心に、 とにかく議論が浅いし、 遅い
  • 臓器移植は推進すべきことである
  • 脳死を 《人間の死》 と認めることに問題はない
  • 子どもの臓器提供を 親に判断させることに問題はない

とういうことになるだろう

残念ながら、 この 「下」 記事の方は ネット上では読めないようだ

短いがゆえに、 論点が明確になる記事だと思う

この問題への入門として、 「上」 「下」 あわせて推薦したい

映画評論と映画体験

わけあって 映画評論、、、 なるものを いくつか読んでいる

といっても、 数的にたくさん読んでいるわけではない

関連エントリとして 「宮崎駿のアニメ世界が動いた」

ご参照ください

このジャンルの本を手にすること自体、 生まれてはじめて

読んでみて、 とても面白いので ビックリしている

映画はどうも 一人で行きたくない

鑑賞後、 いろんな考えや感情が 内側にうずまいて

どうも吐き出さずにはいられない――

そんな映画になると、 なおさらだ

とにかく どんな形でもいいから、 思いを吐き出したくなる

いつも上手に表現できるわけでもないし

イヤな気分にならずに 映画評をぶつけ合う友人など めったにいない

誰と どんな言葉で 《映画体験》 を共有するのか――

映画評論とは、 要するに このことなのだなぁ、、、 と思った

読書が仕事と化している僕には、 映画はむしろ娯楽でなければならない

映画について 難しいことを とやかく言いたくない

仕事が、 日常が 小難しいことばかりを考え言っているからだ

まぁ それにしても、 吐き出したい気持ちはいくつかあって

映画評論を読むというのは、 その面でのカタルシスになるのだということが

今回の読書で わかってきた

2009年7月 9日 (木)

タノモシ、あるいはムジン

先日 タノモシ という言葉を はじめて聞いた

お恥ずかしながら・・・ と言うべきなのか、 それすらわからない

この言葉は どれぐらい広く 日本人に敷衍しているのだろう・・・?

タノモシは 「頼母子」、 または 「頼母子講」 (タノモシコウ)

別名を ムジン (無尽) というらしい

「タノモシ」 で Google!! →

「頼母子」 で Google!! →

Wikipedia 「無尽」 の項 より、 いくつかの部分を引用してみる

無尽 (むじん) とは日本の金融の一形態である。 複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、 一定又は変動した金品を定期又は不定期に講等に対して払い込み、 利息の額で競合う競りや抽選によって金品の給付を受ける。

頼母子 (たのもし) あるいは頼母子講 (たのもしこう)、 沖縄県では模合 (もあい、 むえー) という。

無尽は、 貞永式目追加法にも記述があり、 鎌倉時代に登場したとされる。 庶民の相互扶助として始まったものだとされる。 江戸時代になると、 身分や地域に問わず大衆的な金融手段として確立し、 大規模化していく講も存在するようになった。

21世紀となった現在でも、 日本各地 (主に農村・漁村地域) に、 無尽や頼母子、 模合 と呼ばれる会・組織が存在している。 メンバーが毎月金を出し合い、 積み立てられた金で宴会や旅行を催す場合もあれば、 くじに当たった者 (くじと言いながら実際は順番であることが多い) が金額を総取りする形態のものもある。 多くは実質的な目的よりも職場や友人、 地縁的な付き合いの延長としての色彩が強く、 中には一人で複数の無尽に入っている人もいる。 沖縄県では県民の過半数が参加していると言われるほか、 九州各地や山梨県などでもよく行われている。

2009年7月4日 9:39 am アクセス

こういった制度の存在すら知らず 40数年

この日本に生きてきたことに 久々にビックリした

同時に、 「講」 という言葉が こうして使われているところに興味をもった

タノモシは 貨幣を基盤とする相互扶助制度でありながら

「講」 とも呼ばれる

「講」 とは 端的に、 信仰集団を指すのだから

その様態にあらわれる世界観は、 きっと

宗教と経済の境界領域に浮かんでいるのではないか・・・

そんなことを夢想した

【研究会】 アーリアとゾロアスター

研究会のお知らせです

『ゾロアスター教』 『アーリア人』 の著作がある

俊英 青木健さん にご講演をいただきます

カジュアルで、 小さな研究会です

どうぞ皆さん、 お越しください

【メモ】  この研究会について 前便は こちら

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以下、 南アジア系ML "SAAF" より転載

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第33回月例懇話会を、 以下のとおり開催いたします。

今回は、 ゾロアスター教研究で知られる青木健氏をお迎えし、 本年5月に出版された 『アーリア人』 (講談社選書メチエ) を踏まえ、 イランとインドとの相互交流についてお話し頂きます。

青木氏からは次のようなメッセージを頂いております。
「イランとインドとの文化的な類似性や相互交流を、 古代イラン学・ゾロアスター教研究の立場から考察する。 古代アーリア人の活動と、 近世のパールスィーの活躍の2つが焦点になる。 インド学とは全然違う視点なので、 活発な議論を期待いたします」。

繰り返しになりますが、 私どもとしましては月例懇話会という場を、 若手研究者の交流の場として育てていきたい、 と考えております。 皆さまのご参加とともに、 学部、 院生などへの呼びかけをぜひともお願い申し上げます。

今回も日曜に開催します。 前回と前々回と同様に時間帯を昼間に設定しました。 開催日時について、 ご意見等あれば、 ぜひお寄せくださいませ。

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日時:    7月26日 (日) 14:00-16:00

題名:    「イランとインド: 古代アーリア人と近世パールスィー」

発表者: 青木健 氏

参考書: 同 『アーリア人』 (講談社選書メチエ, 2009年)

場所:   日本女子大学 目白キャンパス 百年館7F 史学科中央研究室
  (エレベータ降りて右 突き当たり)
  アクセスマップはこちら => http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html

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以上、皆さまのご参加をお待ちしております。

懇話会担当委員 近藤光博・杉本浄

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2009年7月 8日 (水)

「狂い」の構造

<読む本>

《狂気/クルヒ》 は 宗教学では必須の主題だ

これを考えるとき、 僕はこれまで 町田宗鳳先生 の著作を参照してきた

それはとても重要な作品群だと 今でも確信しているが

町田先生のおっしゃる 「狂気」 は、 ちょっとハゲシスギル ・・・

修行僧や神秘家、 芸術家や狂人のごとき

狂気の突出現象というよりも、、、

もっと日常のすぐ隣にあって、 ズルリと顔を出すような

アレ?と気づくと顔のすぐそばにやって来ているような

そんな 《クルヒ》 のあり様を 上手に語ってくれる本はないかな・・・

という関心から、 次の本を試してみようと思う

  • 春日武彦・平山夢明 『「狂い」 の構造: 人はいかにして狂っていくのか?』 (扶桑社, 扶桑社新書, 2007年8月)

さて、 どのような本か・・・

【メモ】 本務校の書誌情報

<図書館目白> ID番号 = *2341322  請求記号 = /493.7/Kas//

アニメの殿堂と母子加算

とにかく アニメっ子で マンガっ子の僕だ

特撮ヒーローものは なぜだか抜け出たのだが

アニメとマンガだけは 僕の身体に染み入っている

これはもぉ なんだかとれそうもない

で、、、 「アニメの殿堂」 である

当然、 なんだか強烈な違和感がある

しかし、 まぁ やってみて悪いものでもなかろう・・・

財政面の裏づけがあるなら!!

「ココログニュース」 の記事

母子加算復活は期待できる?

を読んで、 あらためて その思いを強くした、 強烈に!!

政府と議会は いったい 何を考えているのか・・・

僕だって もちろん

母子加算、 生活保護の現行制度に 無条件賛成ではない

僕が直接する二つの母子家庭・・・ どちらも3人の子ども・・・

ひとつは、 お母さんが ちゃんとした会社で一生懸命働いて

朝昼となく働いて、 源泉徴収されるから 生活保護は出ない

収入は十分という理由で、 公的補助はゼロだ

もうひとつは、 お母さんは ちょっとしか働かない

病気ではないが、 働かない

ちょっとだけ 近所のスナックで働くが、 所得として申告されない

スナック経営者も本人も申告しない。 だから収入はゼロということ

おかげで、 生活保護+母子加算で、 20万を超える月収がある

これは伝聞ではない

僕が 直接知っているケースだ

頑張る人は助けず、 そうでない人を甘やかす――

現行制度は 実際問題 そういうことになっている

完璧な制度などはなかろうが、 改革は必要だ!

しかしそのことは、 母子加算廃止を 必ずしも正当化しない

アニメの殿堂に出す金があれば、 少なくとも

生活保護制度の改革のための 活動資金にそれをまわすべきだ

報道によれば、 文化庁は

「アニメの殿堂」 新築に固執せず ―― 文化庁、 軌道修正

とのことだが、 それでは アカン!

止めるべきスキームは 止めよ! 会計年度途中でも! (苦笑)

2009年7月 7日 (火)

ドゥ・ザ・ライト・シング (1/2)

<連載 宗教学のための映画> 前便は こちら

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<連載 宗教学のための映画> 「序」 と題して 宣伝だけしておいて

前便 から すっかり 間があいてしまった

どの映画からいこうか、、、 と思ったが、 ここは素直に!

もともと こうしたリストを作るきっかけになった映画 から

紹介していくのがいいだろう、 と結論

そのきっかけとは こんな話である――

インドのいわゆる 「宗教紛争」 を僕は研究しているので

その手の話には どうしても熱が入ってしまう

現代宗教の特徴のひとつが 暴力性である とは

まぁ いろいろな留保があるにせよ、 多くの人の強い印象である

経験上、 この点について 現代日本の一般的理解は 至極単純である

すなわち・・・

宗教は人を熱狂させ、 狂信に追い込む

だから、 紛争したり戦争したりするんだ

宗教は絶対的なものだから、 相手を容赦できないんだ ・・・ と

こうしたことを言うときの若い世代の念頭には、 実は

戦前戦中の日本のことも、 オウム真理教のことも それほど強くはない

という事実は それだけで 大変重要だが

それはさておき、 狂信としての宗教 (とくに 「一神教」 の排他性)――

このボンヤリした観念には まったく根強いものがある

この点をまずは確認しておきたい

近現代インドのコミュナリズムについての僕の話は

そうしたボンヤリ観念を真っ向否定することになる

宗教紛争って言いますけど 本当に 宗教が原因なんでしょうか

「原因」 が言いすぎなら、 主要因なんでしょうか

よく考えてみてほしいんです!

違う神様を信じているからって あの人たちは殺し合いをしているの?

儀式の仕方が違うからって?

うちの教祖を信じないからって?

そういうことで 数十万、 数百万の人たちが 憎しみあっている――

ホントに そんな風に思いますか?

「狂信」 とか って言いますけど

小さな集団がそういうのならわかりますが、 巨大な人口が

ただ宗教が違うというだけで ホントに対立・紛争するって・・・・

そんなことをホントに言っちゃっていいんでしょうか?

何十万とか 何百万、 ときに何千万って数の人たちですよ?!

何か別の力学があるって考えたほうが 自然じゃないですか?

こう言うと、 多くの方々は 考え直しをはじめていただける

「あれ? そういえば・・・」 という具合に 思いが流れはじめる

ここで、 いわゆる 「宗教紛争」 の原因/主要因についての

僕の考えを披露するのは、 どうか勘弁していただきたい

この主題は 僕にとって重大すぎて ブログというメディアにそぐわない

一冊か二冊かの本が 必要だと思われる主題なのです、 僕には

さて、、、

上のような問いかけのあと、 「宗教紛争」 の実際を

情報収集したり 想像しなおしたり といった作業がはじまる

このとき、 現代日本の中青年、 つまり

僕ら以降の世代にとって しばしば壁となるのは

集団的沸騰 の体験を めったにもたないことなのです

====================

そこで

  • 「ドゥ・ザ・ライト・シング」

を お勧めするわけです

<つづく>

====================

【メモ】  「ドゥ・ザ・ライト・シング」 で Google!! →

変わるイスラーム

<読む本>

  • レザー・アスラン 『変わるイスラーム: 源流・進展・未来』 (白須英子訳, 藤原書店, 2009年3月)

宗教社会学的な知見から 現代イスラームの動態を見据えた本――

と お見受けした

『朝日新聞グローブ』 の こちらの頁

著者 レザー・アスラン先生 のインタヴュー記事 で知った

まずは読んでみなければ・・・

【メモ】 本務校での書誌情報

<図書館目白> ID番号 = *2351416  請求記号 = /167/Asl//

2009年7月 6日 (月)

【サイト】 思考の方法

実に面白いブログ 発見!!

「思考の方法」

http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/

木工作家の 宮国淳さん が運営なさっているもの

ハードコアな 「哲学ブログ」 (笑) とでも言うべきものです

カテゴリーが目次になっています

1. はじめに

2. 意味とは

3. 自我・欲望・感情について

4. わかる・理解するということ

5. 誤解のない議論のために

参考文献

「はじめに」 を全文引用させていただきますと

 私はこのブログで、 人の思考の方法と、 その際に陥りやすい勘違いについて、 なるべくわかりやすく書いていきたいと思います。

 人はいろいろな観念を使って、 考えたり、 自分の意見を述べたり、 議論したりしています。 しかしその論理に、 様々な勘違い・混同があるために、 もどかしい思いをしてしてしまうことが多いのです。 たくさんの書物を読み、 経験を積んでも、 思考のやり方を間違えてしまうと、 「偉大な勘違い」 をしてしまう恐れがあります。 そのために、 まず人間が思考する方法について、 しっかり見直しておく必要があるかな、 と思っています。

 人間の思考は、 精巧に出来ている一方で、 あまりに自動的に働きすぎるので、 思考の原理を忘れ、 どちらが原因でどちらが結果なのかさえわからなくなっていることがあります。 ひっくり返った議論は永遠に結論が出ません。 原理を把握することで、 無駄な議論、 結論のない問いに悩み続けることなく、 現実社会で生きていけると思います。

 偉大な人の人生訓や説教よりも、 単に原理を知ることが癒しになることだってあると思います。 なぁんだ、 結局そういうことだったんだ、 というふうに。

「はじめに」 のカテゴリーには 「主な内容」 という記事 も入ってます

《知性》 を感じさせる クールな文体がとても魅力的です

僕のこのブログも 「ハードコアな宗教学ブログ」 をコンセプトにしています

宮国さんのブログが、 どんな人たちに どれぐらい読まれているのか・・・

そういった点にも興味があります

臓器移植法改正をめぐって 上

関連のエントリは こちら

====================

2009年7月3日付け 朝日新聞 朝刊に

生と死を考える ―― 臓器移植法改正をめぐって 上

という記事が 載った

波平恵美子先生島薗進先生 へのインタヴュー記事だ

小さい記事だったので、 見逃した方もいらっしゃるかもしれない

asahi.com では とりあえず 見つけられなかった

2009年7月4日 10:08 am 時点

しかし、 ブログ 「薔薇、 または陽だまりの猫」 の下記エントリに

全文が 採録されていた

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/05018711ad69e0e2974090517c459818

僕としては、 師匠である島薗先生の議論に とくに膝をうった

ぜひお読みいただきたい、 と願う

【宣伝】  朝日新聞、 その他の商品の購読申し込みは こちら から  

2009年7月 5日 (日)

童話と神話 (1/3)

授業をやっていると 思わぬところで

受講者の心を 傷付けることがある

「波立たせる」 ぐらいだったら、 むしろ願ったりなのだが

「傷付ける」 になってくると、 ちょっとさすがに 反省させられる

とくに、 僕が理解するところの 《宗教論》 は

人間の狂気や 「影」 に根ざしていないとどうしようもないものだから

(もっと穏当な、 「市民的秩序にかなった」 宗教論もあるだろうが・・・)

(そのようなものは、 僕の得意とする 宗教論 ではないものだから・・・)

不用意に発言すると、 思わぬ反応を呼びおこす

そうすると 僕は、、、 とても反省して、 少々落ち込むことになる

「かわいそうなこと しちゃったなぁ・・・」 とか

「失礼なこと しちゃったなぁ・・・」 とか

====================

先日の授業で、 まさに そういうことが起こった

《童話と神話》 というテーマに触れたときのことである

現代日本で (その他の 「先進国」 都市社会においてもそうだが)

《神話》 というジャンルが 自律的に存在することはむずかしい

そういう時空間で、 では、 《神話的想像力》 が消失したかといえば

もちろん 決してそんなことはなく

むしろ それは きわめてさかんに活性化し、 発露している

その代表格が 「文学」 「音楽」 「漫画」 などの 「芸術」 であり

僕ら以降の世代になじみ深いところでは、 「アニメ」 がある

「アニメ」 にも まぁ いろいろあるわけだが

《神話的想像力》 を意図的に、 直接的に 召還するものとして

ジブリディズニー がある

この二つの会社の作品における 《神話的想像力》 の起動――

これだけでも、 ちょっとしたエッセイぐらい書けそうだが

さらに もう一つの要素を 急いで付け加えないわけにはいかない

それは、この二つの会社が 「子ども」 のための映画を作っていることだ

すなわち、 「童話」 !

《神話と童話》 というテーマは、 二つの会社の製作過程において

意図的かつ明示的に 根本的な推進力になっている/されている――

このことに気づくのは、 宗教学への入門として まったく適している

====================

なぜ 《神話と童話》 は 直結し同一化するのか?

童話という まったく 「近代的な」 ジャンルはなぜ しばしば神話的なのか?

現代の神話はなぜ 童話というジャンルにおいて花開くのか?

そして

《童話=神話》 とは何か?

《神話=童話》 の特質とは何か?

<つづく>

====================

【メモ】

《宗教と芸術》 というテーマで 一年の講義かゼミをやってみたい――

以前から そう公言してきた

しかし、 これがなかなか難しい・・・

よい参考書がない! からだ

誰かご存知の方、、、 教えていただけませんでしょうか m(_ _)m

しかしそれにしても・・・

《宗教と芸術》 って、、、 ここでもまた 中沢先生が、、、

<連載 中沢新一論> は こちら

肉の唄

<極私的覚書>

プロレス漫画の傑作・・・ というと なかなかないんではないか

2009年5月31日付け 朝日新聞 朝刊で

  • コウノ コウジ 『肉の唄』 (ヤングマガジンコミックス)

が紹介されていた

知らなかった作品で、 読んでみたいなぁ、、、 と思った

【メモ】  プロレスについて 前便は こちら

2009年7月 4日 (土)

宮崎駿のアニメ世界が動いた

こちらのエントリ で書いたように

『シュナの旅』 を20年ぶりに手にしてみて

宮崎駿について まともに考えてみたことがなかったと気付いた

戦後日本を代表する映画作家の作品が

この社会と世界の 深いところとリンクしていること――

しかも それがファンタジーという 宗教と世俗の通風孔に

素材を得ていること――

こういうことからして、 実際 宗教学者を標榜する僕などは

一度 ちゃんと考えてみるべきことだったのに・・・

ということで

  • 上島春彦 『宮崎駿のアニメ世界が動いた――カリオストロの城からハウルの城へ』 (清流出版, 2004年)

を買って 読んでみた

数ある宮崎本、 ジブリ本のなかで この本を選んだのには

さしたる理由はない

アマゾンの読者評をつらつら眺めて、 評価の高かったものを選んだだけ

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読後感・・・

まずは、 「映画評って こう書くのか・・・」 という感想

『長靴ネコ』 まで含めるなら、 僕らの世代は 宮崎がらまりのアニメ世界に

どっぷりと漬かってきた

身近になりすぎて、 何をどう語ればいいのやら・・・

陳腐にならず、 彼の一連の大メジャー作品群を論評するには

どうしたらいいのやら・・・

素人の僕には 手つかずだったわけだが

この本で 少しは感触がつかめたように思う

しかし そもそも、 である

そもそも、 映画を論評するとは 何をどうすることなのか、、、

「作品」 を評するという 実に二次的な作業が生むものは何なのか、、、

文学部出身でありながら 僕は、 これまでそこに

どれだけ拘泥し 苦悩することができたか・・・ 心もとない

もちろん、 現在では、 インドという 「よその」 時空間を論じるはめになり

その問題には したたかやり込められることになっているのだが

足元の時空間で生じる 「作品」 には 

物書きとしては 関わり合ってこなかったのは 事実!

そういうところを この本で反省させてもらった、 と思う

コトバを連ねるというのは 実に因果な行いだ

大学という制度に納めていただけているので

なんとなく その因業を素通りさせることもできるけれど

やっぱり そこには 単純でない問題構成があるんだな、と

====================

とまぁ こういう抽象的なことを書いていても面白くないので

上島さんの筆で たとえば こういうのが面白かった、、、

というのをば 一つ二つだけ 断片にてご紹介

====================

【その1】

『千と千尋』 を

足を取り戻す物語 (144頁, 他)

と読むのには まいった。 なるほど! と思った

子供が大人になることと、、、 自分の足をもった子供、、、

【その2】

湯婆婆 と ドーラ の類型を

死ぬ気のまったくない老人 (149頁)

と書いたりする

これは老人差別ではない (念のため)

物語/神話の 一キャラクターの精髄を述べているのだ

このズバッと来る感じは 読んでいて爽快だ

(ちなみに、 上島さんご自身は 「神話」 でなく 「民俗」 と言う)

====================

もちろん 各作品と この作品群は

上島さんとは異なる読みかたを 完全に許容する

僕自身、 「この作品は こう読みたいけどなぁ・・・」 という感想が

ないわけではない

しかし、 この本は、 大変尊重に値する 面白い 評論集でありました

佐々井秀嶺上人 講演の記録

こちらのエントリ にて

佐々井秀嶺上人 の龍谷大学における講演会のお知らせをしました

なかなか 龍谷までは行けないので残念と思っていたら

勤務先のすぐ近く、 護国寺でも講演会があった と後で知りました

残念・・・

龍谷での講演会の様子について、 いくつかのサイトで報告されていました

お話の具体的な内容については

残念ながら これらのサイトからはわからないのですが

佐々井上人の影響力が ジンワリと日本にも及んでいるのはわかります

【追想】

1992年11月か12月、 ナーグプルで 上人にお見かけした、、、 と思う

ストゥーパの建立式典があって、 僕もそこに参加していたのだ

あの乾いた大地に建てられたストゥーパの姿と

何千と集まったダリトの皆さんの姿が思い出される

2009年7月 3日 (金)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない

有名な本なので 今更の紹介ということになるが

  • 町山智浩 『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』 (文藝春秋, Bunshun Paperbacks, 2008年10月)

面白かった

アメリカ論 (「アメリカの愚かさ」論) として読むのは 当然だけど

単なる反米プロパガンダの書でないというのは、 強調しておきたい!

その理由は 二つ

  1. 町山さんにインスピレーションと批判精神、 視覚と論拠を与えているのが、 ほかならぬ アメリカのリベラル層であること。 アメリカは (ちょうどインドのように) まったく一つではない。 最良の部分と 最悪の部分が まるっきり同居している
  2. この 「愚かさ」 は 間違いなく 現代日本のものである、 あるいは こう言ってよければ、 実に近代人一般のものであること。 この本を読んで、 自己反省できない人は、 町山さんの意図を 完全に曲解している。 僕らは、 自分たちの日常で 何かをしなければならない、今すぐ! このことに気づかせてくれる本だ (でなければならない)

50ほどのコラムが集められたもの

どれも抜群に面白いのだが、僕が快哉を叫んだのは 次の三本

  • ブッシュと記者団に恥をかかせた勇気あるコメディアン
  • 魔女狩り連合軍と戦った3人の歌姫
  • アニメとオッパイで稼いでプロパガンダ

いずれも 「第五章 ウソだらけのメディア」 に含まれている

カルト漂流記 オウム篇

<買った本>

  • 早見慶子 『カルト漂流記 オウム篇』 (彩流社, 2009年5月)

内容は 正直まだよくわからないが

著者のブログ 「早見慶子の十条日記」

同じくサイト 「早見慶子公式ホームページ」

にたどり着いて、 直感的に買ってみることにした

著者ご自身による内容紹介は 本便の末尾に採録しました

中西新太郎 (編) 『1995年』 (大月書店, 2008年9月) は名著だったが

いかんせん 宗教の問題がうまく語られていなかった

というか、 ほとんどちゃんと論じられていなかった

早見さんの本は、 まさに中西先生の問題設定のなかで

《宗教》 というこの空白の場を埋め合わせてくれそうな予感がする

あるいは、 村上 『1Q84』 との対比で読まれていいかもしれない

セクトやカルトと上手な距離をとることのできる村上・・・

それらに全身全霊で飛びこみ、 自らに傷を負う早見さん・・・

僕には その対比がとても強烈に迫ってくる

大変アクの強い本だと思うから、 オイソレと学生さんには奨められなさそうだ

しかし僕としては、 ぜひ読んでおきたいと思った

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「カルト漂流記・オウム篇」-彩流社―(定価1890円)の出版によせて

 たった一瞬にして驚くほど人生が変わってしまうこともある。 それが幸せになれる変化ならとても素晴らしいことだろう。 でもたいていは悪いほうの突然の出来事がやってくるから、 この世の悲しみはなくならない。 そう、 私にとっていつまでも頭をもたげて忘れられない出来事が、 あのオウム真理教による一連のサリン事件だ。

 過激派を辞めた私は生きる目的を求めて、 オウム真理教の信者たちと交流し、 道場に足を運ぶようになっていた。 それには理由がある。 セクトを辞めた私にとって、 共産主義は癒しにならなかった。 共産主義は、 むしろセクトを脱退したという自分の汚点を強調する言葉であり、 聞くたびに 「おまえは脱落者」 と言われているような苦痛さえ味わった。 そんな脱落者の私にとって、 宗教は最低の人間でも生きる価値があるとなぐさめてくれるエデンの園のようで、 私の心は少しずつスピリチュアルな世界に魅せられていった。 たいてい社会運動をする人は宗教に批判的だし、 宗教心を持つ人は 「政治は腐敗しているから」 と無関心になってしまう人が多い。 そんな中で私はその両者を見事に統合させたかのような集団、 オウム真理教と出会った。

 出会ったオウムの人々はとても魅力的で、 人間の生きる意味や、 社会、 政治まで幅広く話し合うことができた。 日常生活では軽い話しかできないため、 俗世間を離れて、 こういう人と一緒に修行できるのは、 とても素晴らしいことではないか、 と考えるようになっていった。

 けれど、あのサリン事件で、 その希望は崩壊していった。 そう、 凄惨なサリン事件。 どれほど多くの人々が苦しむことになったのだろう。 被害にあった人々とその家族。 そして殺された坂本弁護士一家、 殺された信者や修行で死亡した家族の人たち。 その苦しみは今も消えないだろう。 けれど加害者だって死刑判決を受けて刑務所を出るときは遺体になったときだけ、 という生き地獄に苦しんでいるはずだ。 組織としての任務でなかったらそこまでしなかったに違いない。

 私はかつて過激派で活動をしてきた。 だから、 あの地下鉄サリン事件に私の分身を見てしまうのだ。 そう、 まるで私の罪を背負って事件を起こしてしまった分身だ。 私は彼らと同じ境遇でもおかしくはなかったのに、 ここで生きている。 だから書こうと思った。

 彼らは真実を求め、 財産を投げ出し、 出家までした勇気ある人々でもあったのだと。 短期間であれほど、 大きな発展を遂げ、 どんなことにも挑戦する集団を私は見たことなかった。 本当にエネルギッシュで理想に燃える魂の集合体だと感じた。 何であんなにも高学歴の若者が魅了されていったのか?

 私の体験したオウム真理教。 その壮大なドラマは一生私の心から離れないだろう。 そう、 それは関わるすべての人が真剣に生き抜いた永遠の物語である。

早見慶子

著者ご自身のホームページより http://hayamikeiko.com/index-2-2.html

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2009年7月 2日 (木)

インド中間層の食と母性

粟屋利江先生 より、 講演会の案内をいただきました

とても関心があるので、 ぜひ参加させていただこうと思います

英語での講演、 通訳の有無は不明ですが、 ご興味のある方はぜひ!

(講演題目をご覧下さい すごく面白そうじゃありませんか・・・?!)

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アンジャリー・バティアー氏の講演会のご案内

このたび、 以下の内容で講演会を開催しますので、 ご案内いたします。

アンジャリー・バティアー氏 は、レディ・シュリー・ラーム・カレッジ (デリー大学) で社会学、 ジェンダーを教授なさっています。

インドにおける食とアイデンティティといったユニークな切り口でインド社会を考察する博士論文を提出なさり、 今回のご講演では、 やはり 「食」 の観点から現代インドのミドル・クラスの 「母性」 について論じていただきます。

ぎりぎりになっての案内になってしまい恐縮ですが、 ふるってご参加ください。 関心のある方にも是非、お声をかけていただければ幸いです。

なお、 この講演会は、 人間文化研究機構地域研究推進事業拠点形成支援事業の一環である、 外大の現代インド研究センター設置準備室と、 科件 「ジェンダーを巡る 〈暴力〉 の諸相: 交差 ・ 複合差別における 「家族親密圏」 の学際的研究」 が共催いたします。

日時: 7月6日 6時半より

場所:  東京外国語大学 研究講義棟4階 海外事情研 (427)

報告者: Anjali Bhatia氏

題目: 'Feeding Brilliance: Thinking about a Middle Class Motherhood in Contemporary India'.

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【メモ】    Anjali Bhatia で Google! →

村上春樹インタヴュー

『1Q84』 出版後 村上がはじめてインタヴューにこたえた

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk01.htm

とても短いものだけれど、 やっぱり注目してしまった記事だった

YOMIURI ONLINE の 「本よみうり堂」 より

【宣伝】  読売新聞の購読は こちら から  YOLツールは こちら から

「オウム」 「原理主義」 「神話」 など、 宗教に直接関連するコトバがいっぱい

あらためて言うまでもないが、 そういう筋が 彼の世界では根幹的なのだなぁ、と

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村上春樹さん「1Q84」を語る

オウム裁判が出発点

 7年ぶりに新作長編 「1Q84」 を発表、 話題を呼んでいる作家の村上春樹氏 (60) が今月上旬、 読売新聞の取材に東京都内で応じ、 「オウム裁判の傍聴に10年以上通い、 死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。 それが作品の出発点になった」 などの思いを明かした。 今回の小説を刊行後、 村上氏がインタビューに答えたのは初めて。

 オウム事件について村上氏は、 「現代社会における 『倫理』 とは何かという、 大きな問題をわれわれに突きつけた」 とし、 この事件にかかわることは、 犯罪の被害者と加害者という 「両サイドの視点から現代の状況を洗い直すことでもあった」 と語った。 また、 「僕らの世代が1960年代後半以降、 どのような道をたどってきたか。 同時代の精神史を書き残す意図もあった」 と述べた。

 こうした社会的な問題意識を背景とする本作は、 長い年月、 互いに思い続ける30歳の男女を軸にした大胆なストーリー展開で読者を引きつけ、 1巻が62万部、 2巻が54万部の計116万部 (15日現在) 。 版元の新潮社によると、 購買者は30代以下が過半数を占める。

原理主義に対抗する「物語」の力

 村上氏は、 「大事なのは売れる数でなく、 届き方だ」 と強調し、 「作家の役割とは、 原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている」 「インターネットで 『意見』 があふれ返っている時代だからこそ、 『物語』 は余計に力を持たなくてはならない」 などと持論を述べた。 1 ・ 2巻で描かれるのは 「1Q84」 年の半年分。 続編を期待する声が早くも上がるが、 「この後どうするかということは、 ゆっくり考えていきたい」 と答えた。

 「ノルウェイの森」 などの小説が英語や中国語、 ロシア語など40言語以上に翻訳されている村上氏は 「今後、 欧米と東アジア間の差は縮まり、 文化的なやりとりは一層盛んになる」 として、 「僕が日本から発信できるメッセージは必ずあると思う」 と力強く語った。

村上春樹 1949年京都府生まれ。 早大文学部卒。 79年 『風の歌を聴け』 でデビュー。 長編に 『世界の終りとハードボイルド ・ ワンダーランド』 (谷崎賞)、 『ノルウェイの森』、 『ねじまき鳥クロニクル』 (読売文学賞) など。 2006年にチェコのカフカ賞、 09年にエルサレム賞を受賞。

(2009年6月16日  読売新聞)

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ほとんど小説を読まない僕だが、 ときどき村上は読む

一番好きなのは 『ねじまき鳥』 だ。 いい意味で 壊れちゃってると思う

『カフカ』 は読んでいない。 『1Q84』 はどうなるか・・・ 自分でもわからない

誰か、 信頼できる知り合いの読後感など聞きたいのだが

今のところ 周りで読んで、 話を聞かせてくれた方はいない

2009年7月 1日 (水)

【報告】 宗教に抗する聖者

こちらのエントリ にてご案内しました研究会が 開かれました

外川昌彦先生の 『宗教に抗する聖者』 の書評会でした

その報告、 および次回以降の予定について、 南アジア系ML "SAAF" に

杉本浄さん が投稿してくださったものを再録させていただきます

【メモ】 杉本浄さんのご著書は 末尾に!

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第32回月例懇話会報告、 および次回以降の企画について

今回は、 外川昌彦著 『宗教に抗する聖者: ヒンドゥー教とイスラームをめぐる 「宗教」 概念の再構築』 について、 澁谷俊樹さん (慶応大学大学院) に報告していただきました。

他の行事と重なったためか、 参加者は7名と少なかったものの、 大変充実した話し合いができました。

本書は、 ベンガル地方出身の聖者フォキル・ラロン・シャハと彼の弟子たちの活動を捉えることによって、 「南アジアの複合的な宗教文化の存立構造」 を解明するだけでなく、 近代の 「宗教」 概念を問うという意欲的なものです。

まず、 報告者の澁谷さんが 「序論」、 「第1~3章」、 「第4~6章」、 「第7章」 の順でまとめていき、 その都度議論を挟んでいくやり方をしました。

議論は、 著書の性格を反映して、 かなり多岐にわたりました。 たとえば、 構築主義と本質主義の 「永遠の」 対立は、 本書の主題のひとつでもあり、 かなり多くの議論がおこなわれました。 また、 開発 ・ 民族誌 ・ 宗教学が重なりあう点が常に議論の的となり、 それに関する参加者による多角的な検討がなされました。

結局予定を大幅に超過し、 3時間以上にわたる熱の入った会となりました (参加者7名のうち、 3名が書評を書くことが決まっていたからか?)

今回、 2名の大学院生の方に来ていただけたのは、 主催者としてはとてもうれしく思っております。 今後とも若手の積極的な参加を希望しております。

関係各位におかれましては、 お声かけ等をよろしくお願いいたします。

次回懇話会は、 7月中旬から下旬を予定しております。

目下、 幹事のあいだで話題にのぼっている本は、 次の二冊です。

● 青木健 『アーリア人』 (講談社選書メチエ, 2009年5月)

● S・スブラフマニヤム 『接続された歴史  インドとヨーロッパ』 (三田昌彦 ・ 太田信宏訳, 名古屋大学出版会, 2009年5月)

これらの著作について、 要約と発表をしていただける方を、 随時募集しております。 ご関心ご興味をおもちの方、 どうぞお気軽にご連絡をくださいませ。

また、 別様の企画案などありましたら、 ぜひお聞かせくださいませ。

月例懇話会幹事

近藤光博 ・ 杉本浄

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中世の都市

<いただきもの>

同僚の 加藤玄 (まこと) 先生 より ご著書をいただきました

  • 高橋慎一朗・千葉敏之 (編) 『中世の都市: 史料の魅力、 日本とヨーロッパ』 (東京大学出版会, 2009年5月)

加藤先生> ありがとうございます

出版社の頁 より

【内容紹介】

都市とは何か, 日本史 ・ 西洋史 ・ 建築史の気鋭の研究者たちが, 巡礼案内といった絵図, そして都市図や屏風絵, 文書にえがかれたさまざまな手がかりから, 中世の空間 ・ 社会を活写する. 個性豊かな史料を素材として中世に暮らす人々とその時代を比較の視点から描き出す. (図版多数)

【主要目次】

序 (高橋慎一朗)

第一部 都市の空間構造

第一章 都市の塀――洛中洛外図屏風にみる京都 (高橋慎一朗)
第二章 都市を描く――イタリア都市図にみる空間の変遷 (横手義洋)
第三章 都市を測る――フランス測量術書にみる尺度と境界 (加藤 玄)
第四章 都市化する霊場――参詣曼荼羅にみる宗教空間 (岩本 馨)

第二部 都市の信仰と生活

第五章 都市を見立てる――擬聖墳墓建造にみるヨーロッパの都市観(千葉敏之)
第六章 都市の信仰――像内納入品にみる奈良の年中行事(藤原重雄)
第七章 町の経済――算用帳にみる京都の人的結合(及川 亘)
第八章 都市の地主――敷地絵図にみる鎌倉の寺院(秋山哲雄)

結(千葉敏之)

ご覧の通り、 加藤先生は第3章を書いておられます

宗教研究者にとっては、 とくに第2部 「都市の信仰と生活」 が

興味の的になるかもしれません

史料がふんだんに紹介されていて、 そういうのは やっぱり面白いですね!

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つづきまして、 高橋慎一朗先生 の 「序」 より

「日本とヨーロッパの中世都市を研究すること」 のおもしろさを、 できるだけ多くの人に知ってもらいたい。 簡単に言ってしまうと、 本書のねらいはこのことに尽きる。

1頁

現代の都市化社会を考える際に、 源流である中世の都市を探ることで、 現代の都市、 さらには現代社会そのものを相対化する視点が提供できると思われる。 現代都市と共通する点と、 異なる点の両者を含み込んだ、 多様な中世都市の姿を、 どのような方法で探っていくのか。 中世都市研究のさまざまな方法論を、 本書では具体的な研究を通じて示していきたい。

2頁

都市そのものの中に興味関心を閉じこめるのではなく、 都市から中世社会を考える、 中世社会の中に都市を位置づける。 そのような立場を堅持しつつ、 中世都市研究の魅力を広く読者に訴えかける書物を作成したい。 そう考えた編者二人は、 必ずしも都市史のみを専門分野とはしないものの、 都市には興味を持つという、ほぼ同年代の研究者に声をかけて研究会を立ち上げたのである。

4-5頁

最後に、 千葉敏之先生 の 「結」 より

 都市とは何か。 都市とは、 文明が創造しえた最も重要な文化の発信手段である、 と言われる。 とすれば、 中世文明とは何かを知るためには、 中世の都市を読み解くことが最良の方途となる。 本書は、 中世を専門とする八名の執筆者 ―― 日本史、 建築史、 西洋史 ―― が、 一つの個性的な史料、 あるいは史料類型をつぶさに観察し、 分析することを通じて、 中世都市の本質に迫ろうという試みである。

243頁

本書は、 各章を目次に沿って通読すれば、 中世の都市をめぐる八つの主要なテーマを知ることができる一方で、 関連する二つの章を併せて読めば、 日本と西洋の違いや共通点、 あるいは学問分野ごとの方法的相違を知ることができる構成になっている。

243-4頁

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