なぜなら我々は体なのだ
<エピグラフ>
自分の体を知らない相手といくら意見交換をしたところで、 その会話には不幸をもたらす力もなければ、 逆に喜びをもたらす力もない。 偽の行為であり、 最終的には成り立たない。 なぜなら我々は体なのだ。 我々はなによりもまず、 そしてほとんどもっぱら体でしかない。 だから我々の知的そして精神的なものの考えかたのほとんどは、 実際、 体の状態で説明がつく
ミシェル・ウエルベック 『ある島の可能性』 195頁
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