« 清水より帰宅 | トップページ | 【再掲】 古代アーリア人と近世パールスィー »

2009年7月20日 (月)

近代における自由と資本主義

<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> 前便は こちら

====================

貯蓄と投資 ――倹約と企業―― について

「指令に基づく経済」 (たとえば、 ソビエト・ロシアとファラオ時代のエジプト)

ではないところの

「資本主義」 (≒ 「経済自由主義」) の特徴づけ

というのも、 指令に基づく経済においては、 貯蓄と投資はともども上で決められ、 国民の貯蓄がピラミッドや発電所への融資に活用されることを保証するのは、 国民の経済生活全般にわたる管理だからである。 資本主義の世界では事情が異なる。 そこでは貯蓄への意志決定も投資への衝動も、 ともに経済主体たち自身の自結衣宇井氏に委ねられているからである。 そしてこれらの意志決定が自由であるがゆえに、 かみ合わぬという事態もまた起こりうるのである。 そこでは貯蓄が過少であったり、 投資を支えるには貯蓄が過少であることが起こりうる。 経済的自由は、 いかにも望ましい状態である。 だが不況や好況においては、 われわれはありうべき結果に対処しうるだけの準備をしておかなければならないのである

ハイルブローナー 『入門経済思想史 世俗の思想家たち』 436-37頁

これは、 ケインズが 『雇用・利子・貨幣の一般理論』 を著わす前

『貨幣論』 において展開した理論の要約、 その一部である

もっとも、 ハイルブローナーによれば

この考え方はケインズの独創ではない。 名を連ねれば長くなる数多くの経済学者たちが、 景気循環におけるこえっら二つの要因 [= 貯蓄と投資] の決定的な役割について、 これまでにも指摘してきた。 ところがケインズが取り上げたものすべてがそうであったように、 経済学が行なう抽象化も彼の綴る散文にかかると次のような光輝を放つ

同 437頁: 以下 『貨幣論』 からの引用があるが、 省略

経済思想、 経済理論もさることながら

僕が注目したいのは、 「自由」 ということ

自由が (資本家のみならず) プロレタリアの権利であるとき

それは 資本主義制度と切り離せるのか・・・?

このトートロジー!!

自由とは政治的権利であるのと まったく同時に!

経済的自由そのものでもあるということ ――

この抜け道の無さ!!

近代とは何か ―― 経済的自由が各人に保障されることで、 資本主義システムの稼働を可能にする時代である

近代性とは何か ―― 経済的自由を各人に保障することで、 資本主義の稼働を可能にすることである

« 清水より帰宅 | トップページ | 【再掲】 古代アーリア人と近世パールスィー »

04D 連載 近代とは何か、近代性とは何か」カテゴリの記事

コメント

 「ハイエクによれば、資本主義は、人間が理解し得る以上に複雑な社会過程に人間を参加させる有効な方法である、というのは、人間は、自由市場を通して、自分の目的の一部ではなく様々な目的に貢献できるからだ。この後ハイエクの『発見的方法としての競争』の一節が引用されている。ハイエク曰く、自由市場においては、『そこで用いられる知識は、その構成員すべての知識である。そしてそれが資する目的は、個々人の個別的目的である。縦え、その目的が様々なものであっても、或は、矛盾し合うものであっても、である。これに対し、(社会主義市場においては、)組織者の知識のみが、経済自体の設計の中に入り得るのであり、また、そうした経済の構成員すべての行為は、それが資する統一目的ヒエラルキーによって導かれなくてはならない。
 このようなハイエクの文章を引用した後で、ペジォヴッチは次のようにいう。是れ迄、資本主義の起源、その哲学的基礎、またその道徳性について、学問会は、無視するか、或は誤認してきたが、しかしそれこそ現代の中心的問題である。何故そういうことになったかというと、資本主義は、ひたすら経済的効率を追求する無慈悲な社会制度である、といった考えがあったからだ。従って資本主義は、その経済的パホーマンスの故に寛大に扱われたが、その哲学的、道徳的質に対しては評価されてこなかった。(果たしそういうことでよいのか。)」
 古賀勝次郎 『資本主義の哲学的・経済的基礎』(早稲田社会科学研究 第29号 pp178‐179)

 資本主義における自由について、ハイエクはうまく説明しているなぁと感心しました。(社会主義や中道主義に対する批判がすごすぎ・・・と思わなくはないのですが、学者はそうあるべきなんでしょう。)

 そのうえで、哲学者の見た資本主義は最高です。

 「・・・言うならば、資本主義は、数え切れないほどあるその欠点や不正にもかかわらず、イデオロギー上の一種の準-独占権をもっているのです。これは、毒いり饅頭のようなものです。資本主義は共産主義というその歴史的な敵対者を失うと同時に、その敵対者がいわばお膳だてしてくれていた一種の否定的正当化をも失ったのです。ですから資本主義の『勝利』に匹敵するものと言えば、資本主義の混乱以外にはないのです。そうなると、資本主義の勝利にはなにも得るものがなかったという疑念が生じてきます。そもそもなんのために生きているのかわからないときに、戦って勝つことになんの意味があるのでしょうか。資本主義はみずからにそうした問いをたてはしません。ある意味ではそれこそが資本主義の強みの一部でもあります。資本主義は、それが機能するのに意味など必要としません。しかし、個人には意味が必要です。文明もそうです。」
 アンドレ・コント=スポンヴィル 『資本主義に徳はあるのか』pp36-37

 彼はこの著書の中で、資本主義(というシステム)にはそもそも徳など存在しないということを、じつに明確に説明しています。この本は講義をもとにして書かれていて、実は彼のいうことに文句のある質問者に対する回答を「対話編」なる形であとに記載していて、それもとても楽しいのでお勧めです。ばっさりです。

 「数年前に私は、ミシェル・セールが『宗教』の語源に(あるいはありうべき二つの語源のうちのひとつに―この問題は専門家たちのあいだで議論されているものですが、その点はここでは重要ではありません)あらためてとりくんだ講義を聞きました。ミシェル・セールが採りあげ、そのうえもっとも頻繁に専門家たちによって提起されている語源は、言うまでもないことですがフランス語の『宗教[religion]』の語源であるラテン語のレリギオ[religio]は、『結びつける[relier]』を意味する動詞レリガーレ[religare]に由来するという主張です。したがって、宗教は結びつけるものだとミシェル・セールは言っておりましたし、それは彼以前にもしばしば指摘されていたことでした。これがどのような意味であるかはおわかりでしょう。宗教とは、万民を神に結びつけることによって、人びとをおたがいに結びつけるものなのです。しかし、ミシェル・セールがつけくわえて言うには、そしてそれは新しい指摘でしたが、もし宗教が結びつけるものであるなら、宗教の対立項をなすのは、絆の不在であり、ミシェル・セールの結論によれば、それは放置ということです」
 (同上 p41)

 <自由>と<放置>
 考えなくては・・・。

yokosawa さん>

僕が資本主義論にこだわりつづけているのは
もちろん、それが 現代の根底的な規定であるからです
そこに 「徳」 なぞは そもそもないのだ、 という指摘はまさにそのとおり!
これが出発点となりましょう

現代のことを考えようとするとき、 まず 「近代」 に行き当たります
思想 (というよりは 思惟や発想のパラダイム) に関しては
僕なりに 近代性の特徴がまとめられました
すなわち
―― 神なき個人の合理主義 ―― です

しかし問題は、 国家でした
国民国家は まごうかたなき 近代的制度=現実ですが
それが、どうしても上のような認知上のパラダイムと結び付かないのです

そう思いながら 国家論を勉強していたら
資本主義こそが 主犯であることが あらためてみえてきました
そこで、資本主義の「歴史」 (!!) を勉強しなおしている――
これが僕の勉強の現状です

この筋は、地域的には日本とインドを
学問領域的には宗教と政治を 完全に ひとつに包摂します
いわゆる 「近代化=文明化=西洋化=開発」 は
単純に一方的なプロセス (作用と反作用のプロセス) ではありませんが
それにしても、この 「地球史」 の現前は
僕にはあまりに明らかであり、 これをなんとか文章にしたいのですが
なかなか うまくいきません
(社会思想であれば、ウォーラーシュテインがいますが)
(「宗教」というところが、先達がいないのです)

====================

古賀先生の論文、、、 ご紹介ありがとうございます
ネットで入手可能でしたので、印刷しました
読んでみますね m(_ _)m

  ―― 神なき個人の合理主義 ―― 
 近代性を一言で言い表すよい語であると感じます。

 資本主義の発達と植民地制度がもたらした余剰による解放。これだけでもなんだか矛盾を感じます。その余剰によって生まれた中流階級は、かつて王に従い神に従っていた精神を、いったいなにに預けることにしたのでしょうか。

 人が貨幣に執着し、問題を引き起こすメカニズムは、ケインズのいう<アニマルスピリッツ>で説明されたりしますが、それは資本主義社会だからこんなにも表象するのでしょうか。<貧しさ>に対する恐れは<神>に対する恐れとどう違い、どちらが人に対するプレッシャーを多く与えるのでしょう。

 ほんとうに考えるときりがないし、読まなくてはいけない本が増えまくります。

 先日あるテレビ番組で、武蔵野美術大学の学生さんの作品の紹介をしていました。彼らは作品のいたるところでコミュニケーションについて表現していましたし、作品の一つ一つに愛情を感じました。
 それを見て、芸術は人へ不足するものを補う大切な役割を担ってきたということを痛感しましたし、その遺伝子の偉大さを改めて感じました。

 資本主義の次に、ひとをひととして支えることのできる何かは見つかるのでしょうか。
 
 

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 近代における自由と資本主義:

« 清水より帰宅 | トップページ | 【再掲】 古代アーリア人と近世パールスィー »

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ