コントロールされた愚かさ
以前、 「銃夢」 というエントリ を書いて
《シニカルなもの》 と 《ベタなもの》 という対概念に触れた
その点につき、 真木悠介 『気流の鳴る音』 より ――
まずは、 ドンファン・シリーズ Tales of Power (Penguin Books 版, 1974年) より孫引
知者には名誉も尊厳も家族も名前も故郷もないのだ。 あるのは生きるべき生活だけだ。 こういう中で彼を仲間たちとむすびつけている唯一のきずなが、 〈コントロールされた愚かさ〉 なのだ。 こうして知者は努力し、 汗を流し、 息をきらす。 だから彼を見てもふつうの人間とおなじようにみえる。 ただその生活の愚かさがコントロールされているということを除けばだ。 なにごとも他のことよりも重要なものなどありはせんのに、 知者は行動を選び、 それが重要であるかのごとくに行動しきるのだ。 彼の 〈コントロールされた愚かさ〉 は、 彼に自分のやることには意味があると言わせるし、 じっさいそうであるかのように行動させる。 けれども彼は、 ほんとうはそうでないことを知っているんだ。 だから彼が自分の行動をやりおえると心しずかに引きこもるし、 その行動が善だったか悪だったかとか、 うまくいったかいかなかったかなどということには、 まったく何の関心も示さないのだ
138頁: Tales of Power, pp. 109-110 からの引用とのこと
これに対して、 真木先生は次のような注釈をつける
このように 〈コントロールされた愚かさ〉 とは、 明識によって媒介された愚かさ、 明晰な愚行、 自由な愛着、 対自化された執着である
同
そして、 再び Tales of Power から引用する
解脱した人間は、 死を逃れるすべのないことを知っておる。 彼はただ一つのものしか、 自分を支えるものをもたない。 それは彼の決定の力だ。 彼はいわば、 自分の選択の主人でなければならん。 彼は選択が自分の責任だということを知りぬいておる。 だからいったん選択をしたら、 後悔したり自分を責めたりしているひまはないのだ。 彼の選択は最終的だ。 それはただ彼自身の死が、 何かにしがみついているひまを与えないからだ
戦士はこのように、 死すべきものとしての自覚と、 解脱と、 自己の決定の力とをもって、 彼の人生を戦略的に構想し設定するのだ
同 139頁: Tales of Power, p. 189 からの引用とのこと
ドンファンの言葉であるが、 そこにあらわれる 「知者」 はさておき
「戦士」 という言葉が 僕がガリィについて書いたことそのものだ、 と思った
<つづく>
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