情の論理しかない
前便 では
- 中西新太郎 (編) 『1995年: 未了の問題圏』 (大月書店, 2008年9月)
「対論5 サブカルチャーと批評 杉田俊介 × 中西新太郎」 から
一節をご紹介したが
本便では、 その対論を終えて 杉田さん がお書きになっている
「あちこちがただれてくるよな平和」 と爆裂弾 (278-81頁)
より、 別の一節をご紹介します
小林の 『戦争論』 を支える論理は何だったのか。 情である。 いっけん傲慢な尊大さにもかかわらず、 小林のマンガのなかには被差別部落の人々・薬害エイズ被害者・日本兵などの 「虐げられた者への眼差し」 (大澤信亮) が、 弱者への情が、 脈々と見られる。 まずはそれを認めねばならない。 わしは馬鹿だから情でしか動けない、 とも彼は言った。 そしてその情の先に、 あの自己犠牲が現れた。 《特攻隊には宗教で死ぬ陶酔感もない/彼らには情の論理しかない/ 「愛する者たちの住むクニを守るため」 に自死するだけだ》 (356頁)。 小林はそこに、 真善美を超える崇高な何かを込める。 「はっきりいってわしは善人でありたいとも正義でありたいとも言ってない/悪人と言われても祖父たちを守ると言っているのだ」 (64頁)
279-80頁
たくさんのことが読み取れる一節だが、 ここではあえて
特攻隊の 「動機」 のところに注目してみたい
その動機は 小林が言うほど単純素朴ではないと思うが
それでも、 いわゆる 「宗教」 的な動機が どこかに行ってしまっている――
このことは おそらく正しい
それは 僕が
というエントリーで書いたことでもある
戦いの場、 命がけの場における 人のふるまいを云々するとき
僕らは、 本当に慎重に、 がんばって 想像力を働かせないといけない
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