ドゥ・ザ・ライト・シング (2/2)
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- 「ドゥ・ザ・ライト・シング」
この映画は アメリカでの いわゆる 「黒人暴動」 を描く
これがなぜ いわゆる 「宗教紛争」 を再考するのに役立つのか・・・
それは、この映画をつうじて 僕たち現代日本人が
「黒人暴動」 という 既成のカテゴリーそのもの に疑問をもちうるからだ
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NYで何かの騒動があった。 打ちこわしがあり、 けが人や逮捕者が出た
その騒動を起こした人は 「黒人」 ・・・・・・ でいいのでしょうか?
その騒動は 「暴動」 ・・・・・・ ということで いいのでしょうか?
いわゆる 「黒人暴動」 とは いったい
誰が 何を おこない、 どのような状態 になったことなのでしょうか?
僕たちは そういったことを何も知りません。 考えようともしません
そのくせ、 「黒人暴動」 についてのイメージだけはしっかりもっています
この映画でも執拗に描かれるように
アメリカの日常生活は、 「白人」 「黒人」 「黄色人」 などのカテゴリーが
どうやら 溢れかえっているようです
登場人物の生活は、 完璧に そのカテゴリーの内側で営まれています
その語り、 発想 (の元)、 行為、 コミュニケーション・・・ 全て! です
このことは
彼らは 「黒人」 である
という単純な結論をもたらすのでしょうか・・・?
もちろん そうではないでしょう
カテゴリーは主観と客観の 《あいだ》 にあるのであり
動機は 意識と無意識の、 あるいは 個人と集団の 《あいだ》 にある
それを一言でいうなら、 「歴史」 ・・・
そうとしかいえない、 《欲望の政治学》 ・・・
こういう境位を この映画は実によく描いていると思うのです
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