« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月の記事

2009年8月31日 (月)

現実主義の政治学

こちらのエントリ で紹介した

  • 施光恒・黒宮一太 (編) 『ナショナリズムの政治学 ― 規範理論への誘い』 (ナカニシヤ出版, 2009年4月)

読了しました

全体として リベラル・ナショナリズム を高く評価する本でした

多くの編者・寄稿者らの 「規範理論」 に霊感を与えているのは

ウィル・キムリッカやデイヴィッド・ミラーらの仕事です

僕などがボンヤリ視野に入れていたマーサ・ヌスバウムあたりは

やや現実味を欠いた、 どちらかと言えば理想論に傾きがちな理論家――

とみなされているようです (まぁ そうかもしれません・・・)

こうしてこの本からは

若き社会科学の研究者たちの 現実主義 への確固たる傾き が

読み取れるのでした

読みやすさも この本の (編著者らの) 特徴なのかもしれません

とにかくわかりやすい。 これもある種の現実主義なのでしょう

【メモ】  「"リベラル・ナショナリズム"」 で Google! →

2009年8月30日 (日)

クジラの島の少女

<連載 宗教学のための映画> 前便は こちら

====================

前便 でご紹介したのは 「楢山節考」

これは、 非近代的なもの をイメージするのに、 とてもよい映画だ

同じイメージを得るのに、 あと二本お奨めのものがある

その一本が

  • クジラの島の少女 (ニキ・カーロ)

こちらは現代の話である

現代のなかに残された、 非近代なるものの ひとつの形――

「エコロジカル」 「スピリチュアル」 そんなイマ的な形容する人もいよう

ジェンダーの観点から これを観ることも正当だ

「子どもの純真」 を見いだす人もいるだろう

しかし僕は、 そういった感想に物足りなさを感じる

僕としては、 あるいは宗教学としては、 これを

近代的なものの浸透と展開の複雑な過程のなかで

壊されたり 失われたりしたものの残滓を描いた作品として観たいのだ

その残滓は 《宗教》 そのものではない

しかし、 《宗教》 に深く深く接続する存在のあり方である

つまり、 神話の世界とはこの世に他ならないという人間的事実

この映画はしっかりと描き出しているんだ、 と僕は思う

老人と子供と動物と秘儀、 女性と海とクジラと剣舞

交信と迷いとジェット機と裸足、 学校と青空と伝説と病院――

そういったものの全てから成る ひとつの世界

僕らのありきたりのコトバをありきたりに使っては描写できない世界

だから近代人ならまずは 戸惑い、 立ちすくむだろう世界

それが、 この映画の主題なんだと僕は思う

【メモ】

アマゾンのカスタマ・レビューなら 「佐倉ごるふ」 さんの評が

僕には一番しっくりきました。  ご一読ください

投票締切り

自宅にもどった。 ニュースはまだチェックしていない

投票率等はどうなっているのか・・・ 70%ちょいぐらいだろうか・・・

民主は完全勝利するだろう

自民は完全敗北するだろう

民主政権は 力を出し切れず、 早晩支持率は激減するだろう

もう一度、 選挙が来るだろう

選挙は政治の単なる入り口なのだから

有権者が注目すべきなのは 明日からの政治なのだ!

2009年8月29日 (土)

今の日本に必要な政治

AERA で連載中の

新浪剛史のビジネス元気塾

読者からの質問に、 ローソン社長の新浪さん が答える――

2009.8.24 号 (85頁) の第33回でとり上げられた質問は

大学院生 | 男性 | 23歳

選挙が近い。 今の日本に必要な政治って、

何だと思いますか?

新浪さんはまず

政治とは、 私見ですがドイツの哲学者カントが唱えた アンチノミー (二律背反) を解決していくことだと思います

強調原文

と述べる

暮らしを支える政策にはお金がかかる、 将来を見据えた施策にも、 お金がかかる。 かといって、 どちらか片方だけに注力すると、 日本はどうなるのか―― この二つのバランスが難しい

経営者の視点で世の中を見てみると、 最近は 「そこそこの暮らし」 に満足して、 自ら成長する意欲を失っている人が多い気がします。 今こそ 「将来はこういう日本にします。 だから、 この政策を進めます。 みなさんもがんばってください」 と、 国が確固たる姿勢で国民に訴えるべき

「国」 に対する要請は まことにそのとおりだ。 一方

新浪社長が言うところの 「成長」 とは なんだろう?

どのように、 どこに向かって 「成長」 するのか・・・

そこがいま問題なのだが、 ここでは述べられない

引用をつづけます

厳しいけれど、 トンネルを抜けると実現性のある夢や希望があることを示すことができれば、 国民も動くはずです。 誰だって、 子孫に明るい未来を残したいのだから

こうしてみると、 政治と経営は似ています。 数字が悪いからといって、 人材育成 [ママ] をやめてしまうと、 10年後、 会社は生き残れるでしょうか。 僕も二律背反のバランスに、 毎日悩んでいるんです

[  ] は引用者による補足

そして、 最後の段落でこう呼びかけられます

常に難題を 直感的に解決 できるのが、 真の政治家、 経営者といえるんでしょうね。 直感といっても、 「動物的な直感」 ではなく、 知力が積み重なった 「人として進化した直感」 ですよ。 さあ、 各党のマニフェストを冷静に判断して一票を投じ、 とぎ澄まされた直感を持つリーダーに期待しましょう

強調原文

短いエッセイだから、 ぜひ読んでいただきたい

投票前に!!!

誰がために穂は実る on the net

こちらのエントリ で紹介した 朝日新聞の連載

誰がために穂は実る

ネット上でも読めるようになりました

  • ただし、 なぜか 第四回だけアップされていません。 問題でも?
  • 「"誰がために穂は実る" 4」 で Google! →

明日の投票日までに ぜひ!

  1. 揺れるコメ票田 「変える」民主、「守る」自民
  2. 信頼回復 農林族手探り
  3. 農協・自民頼みに異変
  4. 自立阻む 目先のカネ
  5. 転作作物も交付金次第
  6. 自由貿易 苦い記憶再び

政権交代が起こらなければ

いよいよ明日が投票日――

またも 長い記事になりますが、 どうぞお付き合いくださいませ m(_ _)m

====================

こちらのエントリ でも紹介したとおり

僕は、 高村薫さん の時評をとても信頼している

今日 (2009年8月29日) 付 朝日新聞 朝刊 の 「オピニオン」 頁は

「09 政権選択」 として、 高村さんが寄稿した時評が載っている

題して 「一票の重さ」

はけ口求める不安

皮膚感覚に背く

成長依存の枠組み

*      *      *      *

劣化する政党政治

レール敷き直し

今度こそできるか

これがまた・・・ 頭がさがるほど 的確な文章だった

今回の衆院選でおこっていることの日本史的な意味――

有権者の動きに関する政治社会学的な分析と理解――

個別の政策はいつも重要だが、 今回の選挙では

このように中期的な視野を どれだけ多くの人がもてるか

そのことのほうが大事だと思う

6段抜きの長めのエッセイである

部分的な引用もいいが、 ぜひ全文を読んでいただきたいところ

  • 残念ながら、 ネット上では読めない
  • 「朝日 オピニオン 高村薫 一票の重さ」 で Google! →

====================

さて、 内容を紹介していきます (引用中、 ルビは省略します)

全体は四つの節に わかれています

①/4 は 有権者の動向を概略します

有権者は、 特定の政党に期待するというより、 とにかくこの閉塞感からの脱出を願っているというのが正しいが、 とまれ現状への不満が、 過去にこれほどはっきりと政権与党への不満というかたちになったことはない。 また、 現状からの変化への期待が、 こうして国民レベルで政権政党の交代論に結びついたのも、 初めてである

もちろん、 どの党が政権政党になっても、 すぐに経済や家計が上向くわけではないし、 山積したひずみが一気に解決するわけでもない。 また、 現状への不満はけっして経済成長や豊かさの否定ではない以上、 変化を期待すると言っても、 あくまで基本的な価値観にまでは及ばないことが前提になっているかもしれない。 またあるいは、 求めているのはどこまでも目先の景気回復と生活の安定であり、 その処方箋が示されるのなら、 どの政党でもよいということかもしれない

しかし、 ともかく小選挙区制が導入されて15年余。 …… いざ選挙となれば、 政権交代は結果として起こりうる。 有権者の多くがいま、 初めて一票の重みを感じ、 初めて真剣に各党のマニフェストを見つめている

「基本的な価値観」 と 「目先の景気回復と生活の安定」 ――

双方への目配りは いま必須の課題である

この論点は この後でも展開されることになる

====================

②/4 は 経済に関する見方をまとめます

日本の繁栄が揺らいでいる―― これが出発点である

旧来の製造業と輸出に依存した日本の産業構造は、 その技術力を活かすような構造転換になおも踏み出せていない

大きな構造転換の見取り図を、 誰も描くことが出来ていない

そこに、 昨秋の金融危機の大打撃が加わった

それは 「ひたすら雇用格差と所得の現象を生み続け」

「地方経済の疲弊を加速させた」

そのため、 多様な国民一人ひとりの 「不満と先行き不安」 が

「一斉に捌け口を求めている」 のだ

しかし、 「真のキーワード」 は別にあるのだ、 と高村さんは言う

真のキーワードは、 先進国が主導してきた20世紀型の経済成長の終わりと、 低成長に入ったこの国の生き方だろう。 そこには、 国のかたちとしての官と民のあり方や、 私たち自身の価値観のあり方も含まれる

具体的には、 「成長」 なるものへの依存が問題だという

「自民党型政治の限界」、 小泉政権の路線と、 その挫折――

こうした流れを跡づけたうえで、 高村さんはこう主張する

してみれば、 時代の変化に対する有権者と政治双方の認識に、 依然不確かさがあったということだろう。 産業、 行政、 国民生活のすべてに誰もが構造的な停滞とひずみを感じ、 誰もが改革の必要を感じながら、 一方で、 誰もがなおも従来の成長のイメージを不確かに抱き続けてきたのである

あらためて、 従来の 「利益分配構造」 が指摘され

「改革のイメージだけを消費して終った」 小泉政権、 そして

その後の自民党の計略が明らかにされる

自民党は構造改革こそ格差をもたらした元凶だとして、 ここぞとばかりに従来の利益誘導を強めていった

こうして今、 いよいよ衆院選が行われることになった

麻生政権による景気対策について、高村さんは

「有権者の皮膚感覚」 を こう代弁してみせる

有権者がこれを、 「百年に一度」 の非常措置として必ずしも評価しなかったことは、 政権の支持率低迷に表れている。 私たちはどこかで安定成長を信じ続けながら、 それでも、 景気対策=財政出動=景気回復といった旧来の図式がもう通用しない時代の大変化を、 肌で感じてはいるということである。 この、 有権者の皮膚感覚に背を向けた麻生政権と自民党方政治の失点は大きい

====================

③/4 は 有権者が次の政権に望むものはなにか である

地方と都市。 正規雇用者と非正規雇用者。 公務員と一般。 高齢者と現役世代。 富裕層と貧困層

こうした人びとの利害の不一致がまず確認される

そのあいだでの利害調整、 権益配分といった課題と

それへの取り組みの基準として

予算規模、 人口構成、 産業構成があげられる

この実に真っ当な主張から、 高村さんは 次のような

エコノミストではなかなか言い切れない結論 (!) を引き出す

そうであれば当然、 これからは右肩上がりの成長下とは異なる枠組みが求められることになろう

キーワードはやはり、 人口減少と低成長であり、 その下での安定である。 安定という以上、 マイナス成長に陥らない産業構造の創出が第一であり、 景気回復はその道筋の外にはない。 また、 製造業や中小企業の今後のあり方も、 雇用のあり方も、 この産業構造全体の将来像を抜きにして再構築できるものではない

さらに農業も、 産業構造の大きな一角を占めるものとして構想しなければ、 自由貿易が進む世界で、 自給率向上どころか存続すらおぼつかないだろうし、 意識だけは高まっている地方分権も、 地域経済を支える産業構造の再構築を抜きにしては成立しない話だろう

この点に関し、 各党の政策もまったく不十分だ、 と言われる

しかし

言い換えればそれだけ大きな課題だと言うことである。 これは国民の暮らし方、 働き方などの価値観全体をゆるやかに変えてゆくものであり、 政権一つで達成されるようなものではない。 必要なのは、 まずは道筋の提示であり、 なにより変化の時代を生きてゆくという私たち全員の意思である

====================

④/4 は 社会保障について特筆する

国民生活のキーワードは少子高齢化社会と、 その下での社会保障のあり方である

子ども手当て (出産・育児・教育)、 年金制度、 国民皆保険制度――

これらの優先順位の高さが 確認される

さて問題は、 もちろん財源である! これについて高村さんは

消費税引き上げの前にやるべきことがある、 と言う。 すなわち

「給付と負担の割合をどうするか」 の、 世代間の合意形成であり、 これも各党が積み残している課題である

そもそも 財源問題については

まずは一般会計と特別会計の財務内容の総点検と情報公開が先であり、 私たち有権者としては、 予算編成も財政再建もそこから始まると考えてよいと思う。 ここでも、 問われるのは全体の構想である

====================

最終二段落 が 本コラムの締めになっている

そこで高村さんは 政権交代の必要性を強く訴える

民主党支持! ではなく、 政権交代支持! である

さて、 個別の政策では大同小異の与野党だが、 政治手法は大きく異なる。 内閣と党が一つになって、 政権政党の意思で官僚を動かすことを政治主導という。 これを民主党が実現できたなら、私たちはこれまで見たことのない政治の姿を見ることになろう。 この政治主導は、 小泉政権が目指して果たせなかったものであるが、 実はこれがあって初めて、 政治が公約した政策の実現も、 霞が関改革も、 予算の組み替えも可能になると言える。 このことは、 何をおいても、 この国にとって画期的なことだと個人的には思う

人によって指示する政策や政党はさまざまでも、 政党政治においては、 ときに政権交代が起こらなければ政治が停滞し、 社会構造も適切に更新されてゆかないのは確かである。 今回の選挙は、 自民か民主かというより、 劣化が著しい政党政治のレールを、 久々に敷き直すか否かを問う選挙である。 内政も外交も、 まずはそのレールの上にあるからである

こうした結論を導く高村さんの論稿を掲載するとは

朝日新聞、 かなり思い切った決断をしたものだ

僕自身、 高村さんに賛成である!!

2009年8月28日 (金)

「非東京」の若者と選挙

日本人の9割は、 「非東京」 で暮らしている

悲喜こもごも、 9割の人生はそこで送られている

ということで、 一昨日 2009年8月24日付 朝日新聞、 文化面に (!)

「非東京」 の若者と選挙

という小特集が載っていた。 これがとても面白かった

リードにはこうある

このところ 「ヤンキー文化論」 が注目を浴びているが、 キーワードの一つが 「東京なき日本論」 だ。 文化的空間としての 「地方」 そのものや、 「東京」 が象徴する旺盛な消費や右肩上がり志向とは異なる価値観や文化に着目するものだ。 その 「東京 (=中央) 的」 ではない若者たちはいま何を考え、 総選挙に何を思うのか。 3人に代弁してもらった

(浜田奈美、 藤生京子)

寄稿者は 三浦展阿部真大木村俊介 の各氏

お三方とも、 隔靴掻痒のところを 実に見事にコトバにしてくれていて

僕は、 ものすごく深くうなずいたのでした

閑話休題――

この小特集、 文化論の切り口でやっているので

文化部の文化面ということなのだろうが

「政治文化」 論はとってもとっても、 とっても大事なのだから

もっと注目される場所に掲載されてもいいのに、 と残念に思う

実際、 本便執筆時、 ネット上でこの記事にはほとんど何の注目も集まっていない

重ね重ね 残念・・・

    • 同記事はネット上では読めない
    • 「"「非東京」の若者と選挙"」 で Google! →

さて、 内容である

ホントは全文引用してしまいたい! 細切れの紹介はもったいない・・・

まぁしかし、 そんなことばかりも言ってられませんので

部分的な引用をさせていただきます

それでもかなり長くなると思いますが、 投票日も近い ことから

どうぞお付き合いくださいませ m(_ _)m

ていうか、 ぜひ! 読んでみてくださいませ m(_ _)m

====================

まずは 三浦展さん (消費社会研究家)

変わらない日本人らしさ

より

本質的に50年前と変わっていない日本人というものがいて、 若者でも、 ある階層にはその種の人たちがいると感じる。 最新の情報や社会情勢に触れいていないから、 変わらない。 数年前、 栃木県で建設業の19歳の若者に日頃聴く音楽を尋ねたら、 テレサ・テンと山口百恵。 理由は 「現場の先輩が聴いているから」。 先輩だけが情報源だ。 あるいは女性誌 「小悪魔 ageha」 に見るキャバクラ嬢たちの不全感も、 昭和40年代の演歌のように古い。 しかし古いと言うことは普遍的なことでもある

彼らの投票行動はおそらくシンプルで 「人柄」 「人相」 が大事。 「頼れそう」 「明るく元気」 「言っていることがわかる」 候補者を気に入るだろう。 そして最終的には 「ノリ」

これは全くそのとおり!

ただし、 「知り合いの紹介」 というのも含めたいところ

どれだけ薄くて細かろうと、 彼らの世界では 「コネ」 が決定的だ

これは要するに、 《ムラ社会》 というやつだ

今も変わらず 揶揄の対象となる 《ムラ社会》 ――

しかし、 これは間違いのない現実である。 そしてそれだけでなく

そんなにバカにしたものでもないのだ

(下の記事、 とくに木村さんのものを読みすすめてください)

引用をつづけます

各地でのよさこい祭りや花火大会の人気も、 地方のコミュニティーが崩壊し経済が悪化する中で若者たちが新たなコミュニティーを求め、 日常の鬱憤を晴らしたいためだろう。 実際、 地方でよさこい祭りに熱中する若者たちを取材し、 看護師や福祉職が多いことに驚いた。 社会を下支えする役割を運命づけられた低賃金でまじめに働き、 よさこいで鬱憤を晴らす若者たち。 こういう人たちが幸せな世の中であるべきで、 彼らが爆発するような社会はダメなのだ

「うっぷん」 のルビは省略

====================

次に、 阿部真大さん (甲南大講師・社会学)

地元志向生かす仕組みを

より

消費の輝いていた時代なら、 消費生活の中心は東京ですから、 東京は輝きの象徴でした。 「地元ではできない暮らしが東京でならできる」 という物語が成立する。 しかし、 もはや若者の心にそのような消費は輝いていません。 たとえば、 学生による同世代のファッションに関する意識調査では、 ブランド品に代表される自らのステータスを誇示するための消費に、 彼らはまったく関心がないことがわかりました

地方が苦しい時代、 彼らの意識を制度的に生かす方法が考えられなくてはなりません。 彼ら自身、 ささやかな暮らしでいいから地元で生きていけるようにしてほしい、 と願っているはずです

====================

最後に、 木村俊介さん (インタビュアー)

冷静に世の中眺める目線

より

若い世代は …… 「普通にやっていたらつぶれる」 と危機感を募らせている経営者と運命共同体的な関係にある。 政治の被害を最も受けた人たちかもしれません

ただ彼ら、 あまりあがらうことはしないようにみえます。 内部で不満は口にするけれど、 社会のシステムを受け入れ、 自分の近しい人を守るために、 何とかサバイバルしようとしている

政治的発言もしたがらない人が少なくない。 意見は持っているが、 あえて言いたくない、 世の中を変革するために、 時には現実の細部を省略して 「こうだ」 と言い切るようなことはしたくない、 という感性。 …… 裏の世界とのつながりとか悪の存在も全部自分の中にため込んで、 「冷静な奴隷」 の立場で、 いわば末端から世の中を眺める目線 ―― それが僕自身も好きなんですね。 そこには暗い話ばかりじゃなく、 他の店との共生を模索するような試みに、 ちゃんとお金が回っている。 若い人たちも夢を捨てていませんよ

大きな視点で考えると、 こういう振る舞いの是非はわかりません。 でも僕は 「失敗ってものはないですよ」 と黙々と仕事に取り組む同世代の姿を、 頼もしいと思う。 基本的な信頼をおいています

====================

内容の紹介は以上です

いかがだったでしょうか?

僕自身、 生い立ちのなかで馴染んできた こうした人びとの世界――

それゆえ、 僕の研究活動にいつも霊感をあたえてくれるこの世界――

たくさんのヒントがそこにはあると思うのです

2009年8月27日 (木)

やばい未来への不安

朝日新聞 朝刊 の連載 「オピニオン」 ――

こちらのエントリ でも紹介したように、 「09 政権選択」 ということで

来る衆院選への世論形成をみちびこうとしている

たしかに、 オモシロイ記事が多い (ネット上で読めないのは 残念・・・)

2009年8月25日付けの紙面では

インタビュー  アラサーが語る

と題して、

人の痛みを知る

時代に流されぬため

知花くららさん (27)

唐揚弁当の豊かさ

やばい未来への不安

津村記久子さん (31)

が登場していた

前者の聞き手は岡崎朋子さん、 後者は織井優佳さん

アラサーの地位も名誉もある二人の女性が

今回の選挙、 ひいては選挙政治そのものをどう考えているか――

強い関心をもって読んだ

====================

知花さんは、 祖父の沖縄戦での体験や 世界各国の人たちとのふれあい

さらには、 チャリティー活動への参加の経験などを語る

素朴でまっすぐなコトバが 心に響きます

とくに今回の選挙に関連する部分を引用してみます

日本の若者は政治に関心がないと言われますが、 そうした深刻な状況 [たとえば戦争] を抱えることもなく、 生きていけるからではないか、 と考え込んでしまいました。 長い平和の時代が続き、 経済的にも恵まれてきた日本。 いつのまにか自分のことばかりで、 人の痛みに思いが至らない世の中になってしまったのではないか――。 [ミス・ユニバース世界] 大会出場を機に、 世界各地を訪れる機会に恵まれましたが、 生まれ育った環境が全く異なる人たちとの出会いを重ねる中で、 私はそんな思いを募らせています

[  ] は引用者による補足

今、 自ら命を絶つ人の数は過去最悪に迫るペースです。 外資系証券会社に就職した大学の先輩は解雇され、 今通っている短大の同級生は、 ほとんどお金を使わない。 でも、 時代の流れに巻き込まれるままでいいの?

自分たちでは変えられないと思っていた固い壁が、 無くなるかもしれない。 総選挙にはそういう 「変化」 を期待します

====================

対照的に、 津村さんは 日本の一生活者としての感覚を語ってくれます

まずは、 《今の世の中》 への違和感が語られます

不安意なるほど安いものがある一方で、 家賃なんかは本当に高い。 こんなに家賃が高いと、 いつか安いからあげも食べられなくなるのかなと、 また思う

今を生きる費用は安くて、 何となくごまかされるけれど、 先の人生を考えると何もかもが高い。 公的介護が当てにならないので、 今から介護マンションをあれこれ見ていますが、 これも高い。 会社勤めと作家と、 私は仕事を二つしている独身の女ですが、 これからの生活を考えたら、 あまり無駄なお金は使えない

年をとると、 幸せのハードルが上がっていく。 肉体的なハードルだけでなく、 お金のハードルが大きい。 それなのに公的な支えは期待できない。 何をやるといわれても、 私が必要になったときにはだめになっているだろうと思ってしまう

刹那的な快楽は、 これでもかというほど工夫が凝らされ、 多様化している。 それは将来への不安を目先の楽しみでごまかすためなのかな、 と疑ってしまう。 そんなに未来はやばいことになるんかと。 だから一票には、 「もうちょっとマシにしてください」 という願いを込める

こうした不安をもとに 選挙政治についての思いが語られる

「政権交代のうねりが」 みたいな話を聞くと、 私は 「うねるなよ」 と反射的に思ってしまう。 もちろん、 うねった方がいいときもあるんだろうけれども、 今までさんざんうねってこれか、 みたいな猜疑心が沁みついている。 それに、 うねりを起こす票には雰囲気で動いている印象があった。 雰囲気をつかめば権力が手に入るというのは理解できない

ルビは省略

「気まぐれ」 で 「感情で動く」 のは、 女性に限ったことじゃない。 女ばかりが政治家を外見で判断してるってこともない。 少なくとも私の周辺で、 政治家に 「ステキ」 を求めている人はだれもいません。 ちゃんとやってくれるんなら、 どんな顔の人でもいいです、 ほんと

====================

紹介は以上です

僕がこれまで紹介してきた記事と同じく、 この記事も

これを読んで、 どこの政党に入れようとか、 どの政治家を支持しようとか

もちろん参考にはなるでしょうけど

そういうものでもないでしょう

僕が関心をもっているのは、 有権者の大きな動きです

それが、 少し時間をかけながら 日本を確実に変えていく――

そういう中期的な視点を 今回の選挙では築きあげるべきだ、 と思うのです

【メモ】  「"アラサーが語る" オピニオン」 で Google! →

「改革」熱冷め 残る失望

2009衆院選の投票日まであと三日!

日本の課題を考えなおそうと その手の記事ばかり書いているが

皆さんの投票先はもう決まっているのだろうか・・・

さて

今日もまた 朝日新聞 (朝刊) で恐縮だが

お金がなくて 産経をとるのをやめていたが、 そろそろ復活させないとなぁ・・・

連載 「09 政権選択」 の本日 (2009年8月27日) 付の記事は

「改革」 熱冷め 残る失望

05年総選挙の自民支持者は

だった。 (社会面 掲載)

前回総選挙からの補助線をしっかり引こうとする記事

この論点こそは 有権者の実際の判断基準と言って、 間違いない!

リードにはこうある

郵政民営化が焦点となった05年衆院選で、 小泉元首相が掲げた 「改革」 に期待した人たちがいた。 あれから4年。 日々の暮らしは厳しくなり、 苦境に追い込まれた人もいる。 30日投開票の衆院選に向け、 どんな思いを抱いているのか

(湯地正裕、 渡辺志帆)

====================

本文はお二人の方の現在をレポートする

「4年前、 変化を求める人たちが小泉さんを推した。 その思いが遂げられず、 今度は民主に向かっているだけかもしれない」

尾道で清涼飲料販売会社を経営する男性 (50) のコトバだ

前回総選挙では ホリエモンのために選挙戦をたたかった

「選挙事務所でボランティアに明け暮れていた」 そうである

それから4年。 従業員6人の会社は、 売上高が前年より2割減。 販路を開拓し、 仕入れ単価の値下げ交渉もするがコスト削減は追いつかない。 従業員の給与も月5万円カットした

男性は言う

「小泉さんは流れを変えてくれると思っていた。 でも、 郵政民営化がゴールで、 その次へのビジョンはなかった」

いまや男性の望みは 実に真っ当なものである

今回の衆院選で、 与野党の公約には、 聞こえのいい政策が並ぶ。 だが、 不安は消えない。 「大企業に眼が向いている。 産業を底辺で支える中小企業を守るための具体策を示してほしい」

====================

お二人目は 新庄市の会社員男性 (58)

4年前は自民党に投票。 「郵政民営化で公務員を減らして、 浮いた税金を有効に使い、 景気を回復してくれる」。 それまで自民党は支持しなかったが、 歯切れのいい小泉首相の言葉に期待を寄せた

男性が、 約40年間 勤めていた市内の電機メーカー工場は

今年10月 「閉鎖されることになった」

転勤を打診されたが断り、 11月からハローワークで再就職先を探すつもりだ。 「4年間、 いつ景気が良くなるのか待っていた。 しかし、 強いものが残り、 弱い者 [ママ] に厳しい世の中になった」

[  ] は引用者による補足

====================

こうした事情と思いが 今回の総選挙の帰趨をきめるだろう

この苦境と それゆえの健全な判断こそ、 今後数年の日本を決定しよう

もちろんそこに加わるべきなのは

若い世代のための未来 を築くヴィジョンと決意

公式、 非公式の制度による 弱者の連帯

そして、 個人と各家庭の責任感と公共心 である

2009年8月26日 (水)

「負けしろ」なき時代の共生力

前便高村薫さん のコラムを紹介した AERA 2009.5.25 号

そこには、 ちょうど同じような気概のこもった記事が載っていた

内田樹の大市民講座

「負けしろ」 なき時代の共生力

である

内田先生はこう書く

日本はずいぶんと手触りの冷たい社会になってしまった。 私が若い頃は、 金がなく、 仕事がなくて途方に暮れているときは (ということは20代のほぼ全期ということだが)、 いつも親族や友人や地域の仲間たちが救いの手を差し伸べてくれた。 「負けしろ」 があったと言ってもよい

13頁

内田先生が描く 《かつての日本》 の 「負けしろ」 こそは

インドのカースト制の根源として 僕が 前便 に書いた

社会に自生的なセーフティネットのことであろう

(もちろん、 インドでもそれは きわめて急速に解体しつつある!!)

内田先生からの引用をつづけましょう

今は一回の失敗の意味がずいぶんと重い。 わずか一度の失敗で、 仕事を失い、 家族友人を失い、 路頭に迷う人がいる。 それほどリスクが高いのは 「弱者は連帯しなければならない」 という自明の理を忘れたからである。 自己利益の追求を優先して、 「負けしろ」 の確保 (弱者同士の連帯) の手間を惜しんだせいである

「弱者同士の連帯」 !!

本当にこれが必要なのだ

経験上、 エコロジーもロハスもスピリチュアリティもいいが

「家族」 が機能してくれるのが一番よい、 と思う

「家族」 は 本当に大きな可能性をもっている!

しかし、 諸般の事情で それはきっとかなり困難なんだろう

では どうするか・・・・・・?

この答えが出なくて、 皆が苦しんでいるのだと思う

僕もまた 手詰まりのままだ

でも、 希望と理想だけは 掲げつづけたい、、、 ということで

内田先生の締めの一段落を引用させていただきます

もし、 若い人が結婚の大切さを思い出したのが、 「弱者は連帯しなければならない」 という人類学的真理の再発見からだとすれば、 喜ばしい傾向であると思う。 限りある資源をフェアに分かち合わなければ生きて行けない時代では 「共生する力」 以上に貴重なものはないからである

愛しのジェニファー

「愛しのジェニファー」 (ダリオ・アルジェント) はよかった!

三池崇史 兄貴 も呼ばれたことで 日本でもすっかり有名になった

「マスターズ・オブ・ホラー」 第一シーズン中の一本

当り外れが多いアルジェント、、、 ていうか

もぉ ほとんどカルト監督じゃんっていう域だが

この作品は 観やすくて わかりやすくて

趣味を前面に出していないくせに 十分その変態性が表れている――

そんなステキな一本です

ホラーなんでネタバレになるとあれですから、 一言だけ

ジェニファーはパリス・ヒルトンだ!

アメリカン・セレブ (笑) が先導する、 あのヒト型イメージは

僕の眼にはまさに! このジェニファーとして映る

もぉ それ以外には見えない!

アルジェントも S・ウェーバー (脚本) も

けっこうそのつもりで この作品を作ったんではなかろうか

2009年8月25日 (火)

未来は若者たちのものである

ちょっと前の記事で恐縮だが

高村薫 さんの AERA での連載 「平成雑記帳」

2009.5.25 号 (69頁) のものは

現代の青年たちを 「夢がない」 とは言うまい。

社会への諦観と醒めた目は、 冷静さに過ぎない。

と題されていた

とても力のこもった文章だった

二段落目にこう書かれている

当たり前のことながら、 漠として薄明るい未来と、 未知ゆえに無限に思われる可能性の二つが揃わなければ、 生き惑うという状態は起こらない。 惑う前に今日の仕事をこなさなければ食べてゆけず、 当てもなく思いめぐらせるような未来もないのが、 〈いま〉 という時代である。 正確には、 未来は確実にあるのだが、 それが明るいものになるとは思えず、 またさらに、 未来は自分がつくるのだという青年本来の意志をもとうにも、 現状から推測できる己が可能性は限りなく小さいということである。 そんな現代の青年たちに、 生き惑う理由自体がないのは当然のことである

69頁: ルビは省略

大学教員の立場で 「青年たち」 と日々接している僕の実感も

まさにこのようなものだ

また、 就職浪人で 本当に苦しかった日々を思い返しても

〈いま〉 の閉塞感は まったく他人事ではない

高村さんはつづける

これを 「夢がない」 とは言うまい。 青年たちはそれなりに正確に時代を見ており、 それをつくりだしたのは自分たちではないという諦観と、 自分たちが社会を変えることはほんとうに可能なのかという見極めの間で、 醒めているだけだろう。 実際、 彼らが社会を変革しようと志しても、 それ以前に親の世代が困窮すれば、 若い世代は自分が望むような教育を受けられず、 そのまま社会に出たあかつきには、 自身の生活も困窮して結婚すらままならない。 子どもをつくるなど、 夢のまた夢である。 そうした厳しい連鎖を、 青年たちは冷静に見定めているに過ぎない

同: ルビは省略

本当にそのとおりだ

〈いま〉 の日本の青年たちと接していると、 僕はインドのことを思い出す

あのきびしい日常、 へばりつくように、 がむしゃらに

したたかに、 しぶとく生き抜いていこうとする意思の固まり――

そこから 振り落とされた人びとを 本当には誰もケアなんてしない――

唯一のセーフティネットは 家族・親族――

カースト制度の生命力の根源は まさにここにある――

規制と因習にとらわれつつも、 人びとの相互扶助のネットワークとしての

カースト (ジャーティ、 ファミリー) ――

高村さんのコトバにもどろう

全文引用したいところだが、 著作権にうるさいアサヒだから

それは 決してゆるされない (もちろん、 当然である!)

最終段落を引用させていただく

そうして行き着くのは、 おそらく刹那的で不安定で、 ひたすら個人の日常を生きるようにな社会だと思うが、 今日の繁栄を優先して、 彼らに教育の機会均等や、 誇りある労働の機会を保障せず、 未来の安定も与えなかった私たちは、 そのときになってようやく、 青年たちが五月病を患った時代を懐かしむのかもしれない。 社会は、 己が人生に惑う理由さえ失った青年たちの醒めた眼を、 もう少し恐れてもよい。 とくに、 未来のかけらもない補正予算案を通して漫然としている政治家たちは

同: ルビは省略

来る衆院選にむけ、 この記事を再度味読しておきたい!

晩夏の油蝉

夕方、 犬の散歩にでた

夏の陽のあるうちの外出は犬に負担なので落日をまつのだが

ここ数日、 めっきり空気が熱を失いはじめている

「涼しくなったねぇ」 なんて、 うちの犬に話しかけるわけだが

薮蚊も気にせず、 彼女は茂みに鼻をつっこんで、 フガフガやっている

と、 左腕に違和感

ひじの上辺りに、 ガサリとした感触がはしった

見ると、 油蝉がとまっていた

なぜか僕はまったく驚かず、 「あぁ、蝉だな」 とだけ思った

覗き込む僕の眼を、 向こうもジッと見返している

羽根の先端は両方ともボロボロだ

命の終わりの夏の務めはもう果たせたのだろうか

家につれて帰ってやろうかとも一瞬思ったのだが

腕を大きく振って、 飛ばしてやった

ジジッと鳴いて、 蝉はすぐに見えなくなった

2009年8月24日 (月)

ギャルファッションの意気

AERA (2009.6.8 号, 14-17頁) 掲載の記事

ギャル産業革命

大手企業も参入する元気市場

煽り文にはこうある

日本中を追おう不況ムードの中で、 若い女性のファッションが

売れに売れている。 その秘密は何か。 モードファッションに詳しい

「マリ・クレール」 前編集長が見て、 探った 「売れる法則」。

文と写真は

ファッションジャーナリスト 生駒芳子 編集部 時津剛 (写真)

「いこま よしこ」 さん、 「ときつ たけし」 さん とのルビあり

ギャルファッション・マーケットの盛況ぶりを取材したもので、 とても面白かった

ギャル市場の5原則」 というのが 書いてある

まずは ① 手ごろな価格。 全身スタイリングしても1万~2万円以内という手の届く庶民的な価格。 そして ② セクシーに見える服作り 。 これが何より重要だ。 ③ トレンドのミキシング感覚 は、 デザイナーは着る本人であるという消費者目線重視の表れ。 ④ ディテール主義 で、 ヘアやメーク、 ネイルに徹底的にこだわる視線は、 男に媚びるためではなく、 あくまでも自分が満足するため。 ⑤ リアリティーある手の届くファンタジー も大切で、 外人セレブより浜崎あゆみ、 安室奈美恵が好まれ、 日本人やハーフのモデルが心をそそる。 手の届かない世界は憧れるに値しない、 という鉄則がギャルにはある。 いわばこれらが、 ギャルファッションの5原則だ

17頁: 強調ママ, ルビは省略した

なのだそうです。 なるほどね、 そうかもしれない

つづく、 次のような指摘も とても興味ぶかい

携帯電話のデザインやコンテンツの独自の進化の具合から、 日本はよく 「カルチャーのガラパゴス島」 と言われるが、 ギャルファッションはまさにガラパゴス的に独自の進化を遂げた、 日本オリジナルの現象だ

ジョシコーセー・ファッションが 欧米の一部で人気だと聞いたことがある

原宿ファッションあたりが 注目を集めるきっかけだったのだろうか・・・

いずれにせよ、 たしかにギャルファッションは世界的にはすごく独自だ

ただし、 この記事でも指摘されているように (16-17頁)

ギャルファッション内部ではきわめて均質的なのだが

さて

「ギャル界のVIP4人」 をはじめ、 ギャルマーケット近辺の取材を終えて

ライターの生駒さんは 次のように記事をしめくくる

考えてみれば、 いいファッションの条件とは、 服より着ている本人が目立ち、 チャーミングに見えることに尽きる。 完全に引き立て役に徹するギャルファッションは、 この厳しい時代を楽しく生き抜くためのポジティヴなスタイル提案だ。 「プライドより、 楽しさが第一!」。 そんな本音で生きるギャルたちの哲学を肌で感じながら取材するうちに、 いつしかギャルたちが、 ファッションの未来を本能的に模索する “恐るべき子供たち” (アンファン・テリブル) に思えてきた

17頁: 「アンファン・テリブル」 はルビ

その通りだなぁ、 と思った

2009年8月23日 (日)

童話と神話 (2/3)

前便は こちら

====================

すっかり間が開いてしまったが、 前便にて

現代日本における 《宗教的なもの》 を考えるとき

なぜ 《神話と童話》 は 直結し同一化するのか?

《神話=童話》 の特質とは何か?

と書いて、 稿を閉じた

なんとも大きなことを書き散らかしたものだ

これだけでも もぉ、 一冊どころか数冊の本が書けそうだ

まぁ この方面の専門家ではないということで

開き直って 自分が気になるポイントだけ 走り書きしてみよう

====================

問題はおそらく単純で

やわらかなまとまりとつながりで いまここにいきる

人間にはそのようなモードが もうすでに備わっているのだ

中沢新一先生のようなヴィジョナリーは、 それを

人間の脳の仕組みからの直接の、 不可避の様態とみなすが

全てのひとが それを認めるとはかぎらない。 それはむしろ

《前近代》 あるいは 《原始》 の遺物

《子ども》 や 《女性》 や 《余暇》 にだけゆるされる余儀

などとみなされることが少なくない

そのようにして 《世俗的近代》 の市民生活を形づくるわけだ

神話や童話は 《世俗的近代》 の いわばゴミ捨て場だ

そこには、 性や暴力、 転倒や越境、 拡散と凝集などが

ぎっしりと詰まっていて、 相かわらず グリングリンと息づいている

現代日本も含みこむ 《世俗的近代のアーキテクチャ》 とは

そのようなものになっている、 と言えそうだ

童話も神話も、 マンガも小説も、 性も暴力も

そうしたもののなかで あるひとつの力場を形づくっているのだろう

====================

では、 《神話=童話》 は 《宗教》 とどう関係するか・・・?

これまた、 簡単に言ってしまったほうがよいだろう

《世俗的近代のアーキテクチャ》 において

これらは 同じ穴の狢 として範疇づけられ、 位置づけられ

構造化され、 言説化されている――

僕にはそう視えるのだが・・・ どんなもんだろうか・・・

<つづく>

2009年8月22日 (土)

経済全体の成長戦略 (2/2)

前便 よりつづく

===================

座談会のまとめとして 小此木潔さん (朝日新聞論説副主幹)が

成長への 「変革」 が新政権の課題

というコラムを書いている

 GDPは日本も米欧主要国も 「底入れ」 の動きを示す。 だが、 失業率の悪化や鉱工業生産の水準の低さを考えれば、 とても回復と呼べる状況ではない

 経済を再び成長軌道に回復させることが大切だ。 しかし、 単にGDPを増やせばいいのではない。 「カジノ資本主義」 主導のバブル型成長は、 もうたくさんだ

 世界と日本が必要としているのは、 環境と調和し、 経済活動の担い手である人間を生かす新たな経済システムへの変革と、 それを土台とした持続可能な成長ではないだろうか

 総選挙で問われているのも、 掛け声倒れの 「改革」 や、 票目当てのばらまきではない

 雇用や福祉、 教育、 環境分野の安全網と投資を思い切って強化し、 貧困と格差の克服を通じて社会の生産力を開花させ、 成長への未知を切り開く。 「生活者本位の経済改革」 路線だ。 それこそが真の 「構造改革」 であり、 新政権が担うべき最大の課題である

実は、 自民、 民主のマニフェストを読んでの感想として

まさに 「経済全体の成長戦略」 についてエントリを書いていたのだが

僕のなんてのは 所詮は 素人仕事・・・

小此木副主幹のコラムで 言いたいことは言い尽くされている

いろいろ大変なのはわかるが、 こういうヴィジョンが必要だと思う

そして! 各党はこの水準でのヴィジョンがまったく欠けている!

そこを問題視する 今回の座談会には 快哉をさけんだ

2009年8月21日 (金)

誰がために穂は実る

<気になった記事>

朝日新聞 朝刊の社会面

誰がために穂は実る

という連載が組まれている

日本の農業/農家と政治/政党の関係をとり上げたルポだ

本日 2009年8月21日付 のもので、 第4回である

この連載、 けっこう大きな紙幅をあたえられているのだが

ネット上で読むことはできないし

ブロガーの間ではほとんど話題にすらのぼっていない

しかし、 これがすこぶる面白い

農協と自民党との密接な連携

ダム建設にともなう土木兼業農家への利権誘導など――

田舎出身ではあるが、 工業労働者の息子だった僕には

側聞することしかできない話題がてんこ盛りだ

どっちにも転ぶことができない農業関係者の苦悶と

それをめぐる権力争いは この国の未来を大きく規定する

もっともっと話題になってよい連載だと思う

【メモ】  「"誰がために穂は実る"」 で Google! →

経済全体の成長戦略 (1/2)

来る衆議院選に向け 自民党と民主党のマニフェストを読んでみた

インドの各政党のものは これまでたくさん読んできたが

日本のものを読んだのは、 考えてみれば はじめてだ

一番気になったのに、 新聞やテレビでほとんど全く報道されない――

そんなポイントがあったのだが

それを論ずるドンピシャの記事が

本日 2009年8月21日付 朝日新聞 朝刊に載っていた

1頁全部を使ってのコーナー 「オピニオン」 、 題して

経済・メディア衆論

総選挙を機に景気底打ちの真偽を考える

飯田泰之さん、 宮崎哲弥さん、 河合正弘さん、 小此木潔さん――

四者による座談会の記録だ

残念ながら、 ネット上では読めない

====================

まず 飯田先生 の 「問題提起」 がある

その小見出しは

労働指標に注目せよ

総論なき自民、 民主の成長戦略

これを受け、 上記4名のあいだで座談会がもたれた格好

座談会の記録の小見出しは

米経済次第で二番底の危険

正社員に戻れぬ日本の 「失業」

官僚に対抗できるシンクタンク

格差・貧困問題の経済検証を

きわめて多様な論点が詰めこまれていて、 どれもが重要なのだが

ここで僕がとくに注目したいのは

飯田先生の問題提起の第二点 「議論なき自民、 民主の成長戦略」 だ

長くなりますが、 二つの段落をそっくり引用させていただきます

 総選挙のマニフェストでは、 各党とも、 格差や貧困解消のための再分配政策を目玉にしている。 だが、 経済成長がない状態での再分配政策は、 一定の大きさのケーキの分け方を変えるのと同じで、 誰かから取って、 誰かに渡すという形にならざるをえない。 自民党は2010年後半までにGDP2%成長を掲げているが、 具体的な戦略が見えない。 民主党も中小企業支援などを並べているが、 個々の産業政策にとどまり、 経済全体の成長戦略がない。 各論には評価すべきものが多いが、 総論がない

 メディアも、 高速道路無料化や年金記録といった個別の問題は大きく報道するが、 経済政全体を鳥瞰するような記事が少ない。 もっとマクロな視点で、 日本経済をどう成長させていくかを考えていかないと、 格差や貧困の解消にはつながらないのではないか

ルビは省略

<つづく>

2009年8月20日 (木)

コミューンは再び生まれるか

現今日本のスピリチュアル・ブームは 共同体形成に向かうか――

メディア的消費と 極私的実践によりになわれてきたこの潮流が

ひとつの岐路にたたされているのではないか・・・ と漠然と感じている

当否のほどはわからない

僕のヴィジョンのなかでは、 とにかく

いまや独自の 《アーキテクチャ》 をもつに至った この日本社会で

行き場を失った人たちが あまりに大量にいて、 その人たちが

《スピリチュアルなもの》 (実際にそう呼ばれていようと、 いまいと)

多様な仕方で吸引されはじめているかのようなのだ

この 《アーキテクチャ》 からの一足飛びの超出――

しかも、 独りでではなく、 他人と手をとりあっての超出――

そんなヴィジョンが じわりと頭をもたげているような・・・・・・

(新宗教というよりは) 新々宗教へと再び近づくような・・・・・・

考えすぎ、 感じすぎなのかもしれないが、 そんな予感がするのです

====================

この妄想をあえて大事にしてみまして

かつてのニューエイジが生み出した数多くの共同体形成の試みを

あらためて評価しておきたい、 と思いたちました

というのも、 ある集まりにて、 20代後半と思しき男性が

あの実験の現代史を ビックリするくらい何にも知らないのを目撃したから

「コミューン」 なんて言葉も、 おそらく彼は知らなかっただろう・・・

左翼的な文化と運動が入り混じった、 驚くほどハイブリッドで多方向な

知的で 活動的で 情動的で 身体的な実践の固まり――

あそこからは どのような 果実 が生じたのか

<つづく>

2009年8月19日 (水)

働く女性のための職場

本務校には 「現代女性とキャリア連携専攻」 というのがある

始動したばかりのコースなのだが、 その委員をやらせてもらっている

大学運営への教員の積極関与という点で、 委員会システムは意義ぶかい

もちろん 委員会なんてもの、 実際には そんなに楽しいものではない

しかし、 僕にとっては 同連携専攻の委員は ちょっと別物だ

それは、 僕に 格別のやりがいを感じさせてくれるからだ

ということで、、、

こちらのエントリ で紹介した

  • 『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか: 超大国の悪夢と夢』 (太田出版, 2009年1月)

より、 女性のための職場について 覚書です

経済誌 『フォーチューン』 毎年恒例の 「最高の職場ベスト100」

この特集について、 2007年1月付けのレポート

いくつかの指摘があるのですが 最後の二段落を紹介いたします

『フォーチューン』 の選んだベスト100企業のうち約3分の1が社内に託児所を持っている。 また、 8割が勤務時間の2割以上をテレコミュート (インターネットを使っての自宅作業) 化している。 シスコ・システム社にいたってはテレコミュート率8割に達する。 ワーキング・マザーには最高に便利だ。 ベスト100の約半分の企業が女性社員の比率が50パーセントを超えている。 日本でも働く母親向けの職場環境をこれくらい実現すれば、 少子化なんてアッという間に解決するぞ

159頁

こう述べて、 町山さんは すぐ次のように付け足す

もちろん、 こんな天国みたいな職場で働いているのはほんの一握りで、 その何千倍ものワーキングプアが底辺で支えているのが格差社会アメリカなのだが

「地域研究的」 とでも形容できるような、 内側からのちゃんとした批判

そこに住んで、 その社会をちゃんと知ろうとすれば、 誰だってすぐわかる

外国理解で、 そんなに簡単で どうってことないのに なかなか徹底されない

そんな立場からの批判―― である

こういうところが、 町山さんの本を面白くしている

DHCニュースリムチャイ

サークルKサンクス で売っている

DHCニュースリムチャイ

が美味い!

ダイエット成分がなんのかんのとあるが

まぁ そこには興味はない

それよりも、 フツーに美味しいのである!

臭覚障害者の僕には 「チャイ特有のスパイシーな風味」 はわからない

それは残念だけど、 味的に とってもいける!

2009年8月18日 (火)

宗教政党 (7/7)

島田裕巳先生 の記事 「宗教政党」 (朝日新聞) について

前便 よりつづく

===================

最後に、 もうひとつ、 再評価しておきたいポイントがある

《宗教右派の世界的台頭》 という 《トレンド》 に関する理解である

一般に、 トレンドには それなりの理由がある

現代日本の場合

「外国人労働者」、 「生命への科学的、 医学的介入」 などが

島田先生が指摘する、 客観的な理由だ

これらが、 排外ナショナリズムや保守的な性=家族倫理を高揚させ

ひとつの選択肢として 「宗教右派」 を台頭させうる――

僕も この観測に同意する

ただし、 島田先生の論旨には難点がある。 それは

現状分析なのか、 将来予測なのか、 その点がどうもはっきりしない

ということだ

現代日本の 「宗教と政治」 という問題設定においては

この点の曖昧さは 避けられねばならないはずだ

未来予測をせよ、 と言っているのではない。 基本的な分析枠組みの問題だ

一方で島田先生は、 一般信徒は こうした方面での活動に

教団幹部層ほどには熱心ではない、 と言っているのだから

(そして、 それを僕も正しいと思う)

その辺りの状況理解とのすり合わせも 必要になる

====================

以上、 7篇にわたって 島田先生の記事をとり上げてきました

僕自身も、 こうした先達の例にならって

ちゃんとした研究をやっていきたいと思います

自転車を交通の主役に

<気になった記事>

朝日新聞 (朝刊) が 「私のマニフェスト 09 政権選択」 という連載をやっている

2009年8月18日付けの記事は

「自転車ツーキニスト」 疋田智さん (42)

自転車を交通の主役に

これがとても面白かった

ネット上でも全文が読める

聞き手は 「市川美亜子」 さん

最初の段落にはこうある

私は、 自転車こそ、 現代社会の抱える諸問題を解決する 「救世主」 だと考えています。 地球温暖化、 医療費高騰、 原油の枯渇、 都市交通の渋滞――。 どれも自転車が解決の糸口になるでしょう

最後の段落にはこうある

日本の政治家は、 選挙の時だけ自転車に乗って 「庶民感覚」 をアピールしますが、 当選後もぜひ、 自転車に乗り続けてみてください。 きっと見えてくるものも変わってくるはずです

いま僕は ぜんぜん自転車に乗らないが

かつては 相模原から目黒まで 自転車通学をしていた

携帯ラジオで 開局したての J-WAVE を聞きながら

ゆっくりゆっくり走っていたのはいい思い出だ

また チャリを始めるときが来そうな気がしている

セブン―イレブン、見切り値引き店の契約切り相次ぐ

<気になった記事>

セブン―イレブン、 見切り値引き店の契約切り相次ぐ

弁当の値引き販売の制限が問題になったコンビニエンスストア最大手セブン―イレブン・ジャパン本部が7月以降、 値引き販売をしている複数の加盟店主に対し、 契約解除を通告したり、 解除を示唆する文書を送ったりしたことがわかった。 本部は 「それぞれに加盟店契約違反があり、 意図的なものではない」 と説明しているが、 店主らは 「値引き販売への報復だ」 と反発している

http://www.asahi.com/national/update/0815/TKY200908140354.html

うちから一番近いコンビニは セブン-イレブンだ

人生ではじめて入ったコンビニも セブン-イレブンだ

厳密な法的判断はおくとして、 記事の伝えるところは

まったく 不当労働行為 そのものじゃないかっ!

大企業の経営陣は これは、 これだけは ゼッタイやったらアカン!

どうなっとるんだ?!!

事実を伝えてくれる報道が、 もっとほしい

【メモ】

  • 「セブン-イレブン 契約切り」 で Google! →
  • 「不当労働行為」 で Google! →

2009年8月17日 (月)

宗教政党 (6/7)

島田裕巳先生 の記事 「宗教政党」 (朝日新聞) について

前便 よりつづく

===================

島田先生の主張は、 宗教政党へのアドバイスになっている

  1. 母体たる宗教団体との組織的な一体性を放棄せよ
  2. 母体たる宗教団体の理念や教義にもとづき、 高い現実批判力を発揮せよ

これらが その要点だ

この点は 実に明瞭だ

実際、 島田先生のもとに 幸福実現党から 「お礼のメール」 が届いたのだそうだ

ではこの主張は、 宗教政党の外側に どんな理解と選択をうながすのか――

宗教政党の支持者になりそうもない人たち (当面、 国民の大多数) にとって

島田先生が朝日新聞で繰り広げた主張は、 どんな意味をもつのか――

この点について、 島田先生は論じていない

この記事は、 公明党に関する基礎知識を与え

幸福実現党をみる視座を素描してくれる

そのお陰で、 偏見や誤解をまぬかれることができる読者はいるだろう

知識見識がいつでも役立つとはいわないが、 それにしたって

自公連立政権をこれだけ経験してきた国民のなかには

冷静な批判眼をそだてたいと思っている人たちは 多かろう

そのためには、 知識と分析は ちょっとはお役に立てるだろう

島田先生は、 この記事を そうした目的にささげているのかもしれない

しかし私見では、 それ以上に大きな示唆が この記事には含まれる

それは、 前便 にも書いたとおり

宗教政党の 《是認》 もしくは 《消極的擁護》 をおこなうという立場だ

これは 《政教分離原則》 のひとつの解釈である

表立ってはいないが、 これはかなり大胆な示唆だなぁ、 と僕は思う

宗教政党は日本でも生まれうる、 実際に生まれてきた――

それは ありうることである――

宗教団体と政党との組織的一体化はいけないが

特定宗教団体の 「理念と教義」 を政治に反映させる努力は

それ自体が違憲だとか、 やっちゃいけないとか、 そんなことはない――

むしろ、 それが 真っ当な現実批判力を示すことだってあるだろう――

そうした動向に 過剰反応してはいけない――

だって、 一般信徒はふつう そんなに簡単には政治動員されないから――

島田先生の立場を敷衍すれば、 そんなところになるのだろう

これは、 現代日本の 《世俗主義》 についての

とてもしっかりした (それゆえ、 反論もあるであろう) 立場だ!

【付言】

インド研究者として、 ちょっとひとこと――

上のような 《世俗主義》 は 現代日本だから有効、 もしくは

場合によっては 有意味ですらあるだろう

しかし、 現代インドで これを言ってしまうと、 非常に大きな問題を生む

なぜなら

  1. インドでは きわめて容易に 政治と宗教がくっつくから
  2. インドでは 政治過程が 過剰に利益誘導的であるから
  3. インドでは 直接行動が まったく正当な政治手段とみなされるから

こうした 《政治文化》 のゆえに、 インドにおいては

宗教政党の理論的な 《是認》 は、 いつもきわめてリスキーである

逆にいえば、 現代日本で こうした条件が出揃わないでいられるか

この点にまで 思考はおよんでいないといけない、、、 ということ

<つづく>

2009年8月16日 (日)

宗教政党 (5/7)

島田裕巳先生 の記事 「宗教政党」 (朝日新聞) について

前便 よりつづく

===================

島田先生の記事は、 大きな刺激になった

内容云々というのももちろんあるが、 何よりも

公明党と幸福実現党の問題から、 日本の 「宗教政党」 という論点を

明確に打ち出していただいたことに、 頭がさがる

ただし、 島田先生のブログによれば

記事の表題はもともと 「宗教と政治」 という 穏当なものだったようだ

編集サイドが 「宗教政党」 という表題を与えたんだろう

しかし、 先生も記事のなかで この言葉を使っている!

「宗教政治学」 を標榜する僕 としては、 こんなマイナーなブログで恐縮だが

まずは レスポンスを書くことで、 先生に敬意を示したいと思った次第

さて、、、

島田先生の記事の最大の特徴は、 《政教分離原則》 に一切言及しないことだ

公明党は憲法違反か――

同じく、 幸福実現党はどうか――

すでに定型化した こうした問いかけに、 本記事はあえて応じない

僕はフォローしきれていないのだが、 もしかしたら

島田先生は、 最近の著作で ちゃんとその応答をしているのかもしれない

そこは分からないが、 本記事に限っていえば、 島田先生は

公明党や幸福実現党の存在を、 原則論から切って捨てることはしない

一方、 積極的な擁護もしない

むしろ、 是認消極的な擁護 ・・・ とでもいえる立場にたつ。 すなわち

(1)

それらの党の存在を 所与 のものとして

あるいは、 「世界的に著しく」 台頭する 「宗教右派」 の一例として

すなわち、 所与 の 《トレンド》 の一部として

(2)

とくに公明党については

創価学会との 組織的一体性 が すでに消失したという事実認識に立って

(幸福実現党については、 その点に触れないまま)

議論をすすめているのだ

こうした 《是認》 もしくは 《消極的擁護》 の立場にたつからこそ

記事の副題にもなっていた、 最終段落のあの主張が生まれる

宗教の機能としては、 理念や教義にもとづいて現実を批判するという点が重要だが、 公明党も、 野党色が鮮明だった結党当初の方が存在感があった。 そこにこそ、 宗教的な理念を政治に生かそうとする政党の存在意義があるはずだ

宗教政党は違憲であるゆえ、 存立はゆるされぬ! どころではない

それには 「存在意義」 がある

理念や教義にもとづく、 強い現状批判能力を発揮することが、 それだ――

こうした主張を、 宗教政党側は アドバイスと受けとめるだろう

<つづく>

2009年8月15日 (土)

宗教政党 (4/7)

島田裕巳先生 の記事 「宗教政党」 (朝日新聞) について

前便 よりつづく

===================

同記事はつづいて、 来る衆院選、 およびそれ以降の

創価学会=公明党の動向と戦術選択について 観測をのべる

次の衆院選では、 公明党の苦戦が予想される。 都議選では候補者を全員当選させ、 その組織力を誇示したが、 得票率は大きく下がり、 かろうじて当選した候補者もいた

示される観測を順に、 箇条書きしてみよう

  • 次の衆院選では、 自民党との選挙協力が裏目に出る可能性が大
  • 国政で公明党の議席数は減少傾向、 これはつづくだろう
  • 政権に固執して、 民主党に接近するかもしれない (両党の政策は弱者救済などで近い)
  • それが起きたとき、 創価学会の会員はそれを受けいれるだろう

これらを指摘したうえで、 最終段落にこう書かれる

しかし、 連立与党入りしてからの公明党は、 その存在感を示し切れていない。 宗教の機能としては、 理念や教義にもとづいて現実を批判するという点が重要だが、 公明党も、 野党色が鮮明だった結党当初の方が存在感があった。 そこにこそ、 宗教的な理念を政治に生かそうとする政党の存在意義があるはずだ

「理念を政治に」 が存在意義――

本記事の副題は、 この段落の主張をまとめたものなわけである

ここには、 島田先生のひとつのヴィジョンが示されている

<つづく>

2009年8月14日 (金)

宗教政党 (3/7)

島田裕巳先生 の記事 「宗教政党」 (朝日新聞) について

前便 よりつづく

===================

現代日本では、 宗教団体の一般信者はなかなか

「政治の世界で現実的な解決を図ろうとはしない」 という指摘――

島田先生は ここでこう問いかける

しかし、 それは公明党と創価学会の場合にはあてはまらないのではないか

ここから、 記事はもっぱら創価学会=公明党論を語る

創価学会の会員の熱心な選挙活動は、 周知の事実である

ただし、 ここで見過ごしてはならないのはそうした活動は選挙の時期に限定され、 普段、 創価学会の会員が公明党の党勢拡大に結びつく活動を展開してはいないという点である

 しかも、 創価学会が、 公明党の政策や方針に対して強い影響力を行使しているわけではない。 この二つの組織が定期的に協議する場はあるものの、 そこで創価学会が公明党に対して強い要望を出すことはない

ここで 「言論出版妨害事件」 に端を発する

公明党/創価学会の政教分離の明確化 (1970年) が指摘される

こうしていまや

まだ誤解があるようだが、 公明党の政策や人事が、 創価学会やそのトップの一存で決まるような状態ではない

と、 島田先生は断言する

僕の知るかぎり、 それはその通りだと思う。 一方、 上記引用中の 「強い影響力」 というのは、 程度問題であるから、 議論の余地はおおいにあるだろう

<つづく>

【メモ】

  • 今更で恐縮だが、 「島田裕巳 創価学会」 で Google! →
  • 「言論出版妨害事件」 で Google! →

2009年8月13日 (木)

宗教政党 (2/7)

島田裕巳先生 の記事 「宗教政党」 (朝日新聞) について

前便 よりつづく

===================

島田先生が選んだキー概念は、 宗教右派 (Religious Right) であった

日本の場合、 「外国人労働者との職の奪い合い」

「脳死を人の死とする臓器移植法改正案」 などが

宗教右派台頭のきっかけになりうる事態だ、 という

僕もそう思う

記事は、 次の話題にうつる

これが、 「ヒンドゥー教とインド政治」 を専門にする僕からすると

《いかにも日本的だなぁ》 と思わされる

 ただし、 宗教団体の信者を政治の世界に引き入れることは意外に難しい。 宗教の世界に魅力を感じる人間は、 本来政治的ではないからだ。 彼らは、 自分たちの抱える問題や悩みを信仰の世界で解決してもらうことを求めて入信する。 政治の世界で現実的な解決を図ろうとはしない

 その点で、 政界への進出を考える教団のトップや幹部と、 一般の会員との間に乖離が生まれやすい。 おそらくそれが幸福実現党の都議選での不振の原因だろう。 信者は、 なかなか政治的には行動しないのである

「乖離」 に付された 「かいり」 のルビは省略した

なるほど、 そうかもしれない

インドではそうではないが、 日本で 宗教は 「現実」 とは遠い

「政治」 は 「現実」 だが、 「宗教」 は 「現実」 ではない・・・?!

「現実」 という日本語は、 独特のツイストをもっているのがわかる

<つづく>

2009年8月12日 (水)

宗教政党 (1/7)

2009年8月6日付け 朝日新聞 朝刊の 「オピニオン 私の視点」 に

島田裕巳先生 の

宗教政党

「理念を政治に」 が存在意義

という記事が載っていた

この記事について、 島田先生ご自身は ブログで

今度の衆院選には、 公明党だけではなく、 幸福実現党も候補者を擁立し、 宗教団体を背景とした政治勢力が登場することになっている。 その点を踏まえ、 その意味や可能性について書いてみた。 かなり丁寧に書いた文章なので、 ぜひ読んでもらいたいところだ

と書いておられる

なおちなみに、 もともとは 「宗教と政治」 というタイトルだったようだ

====================

さて、 内容である

まず 「宗教右派」 という概念で、 幸福実現党を特徴づける

幸福実現党は北朝鮮の脅威を強調し、 改憲を唱え、 日本の人口を3億人に増やし国力を増強するなど、 宗教右派的な主張を展開している

多くの方にとって 「宗教右派」 は聞きなれない言葉だろうが

もとは Religious Right という英語の概念で、 専門家はよく使う

島田先生はすぐにつづける

外国の脅威を強調し、 ナショナリズムを打ち出し、 妊娠中絶や同性愛に反対するのが宗教右派の特徴だ

具体例としては、 アメリカ共和党の有力な支持基盤があげられる

次に、 「日本の宗教右派の代表」 として、 生長の家 があげられる

[生長の家は] 戦前は天皇信仰を打ち出し、 侵略戦争を聖戦と位置づけた。 戦後も紀元節の復活や優生保護法の改正といった主張を展開して、 生長の家政治連合を組織し、 自民党を通して国会議員を数人送り込んだ

こう述べたうえで、 島田先生は、 幸福の科学 (幸福実現党の母体) が

生長の家から大きな影響を受けているだろうことを示唆する

<つづく>

【メモ】

  • こちらのエントリ にて 日本の政教分離原則について触れた
  • 「島田裕巳 宗教政党」 で Google! →

2009年8月11日 (火)

一新塾

AERA 2009.8.10 号 (19-22頁) に 一新塾 の記事があった

「一新塾」 の政治家輩出力

煽り文には こうある

政権選択の夏 若手首長、 国会議員、 地方議員も続々誕生

東京・芝の柵渠ビルの小さな一室から、 続々と新しい政治家が生まれている。

そこは仕事帰りの 「草奔の士」 たちが集う一新塾という。

4頁の記事は そこそこ大きなあつかいだ

ライターと写真として 「編集部 大鹿靖明  写真 家老芳美」 とある

さて、、、

上の煽り文は、 一新塾の趣旨を意図的に、確信犯的に 無視したものだ

なぜなら、 創設者・大前研一さん の語りが カコミになっていて

そこに こう書かれているからだ

カコミのタイトルはズバリ!

「目的は市民の 『底上げ』。 政治家養成の場ではない」

である

一新塾は、 もともと 「平成維新の会」 が土台なんだよ。 そこで思ったのは、 自律してものごとを考えることができる 「啓発された市民」 の層が日本は薄いということです。 だから政治家や官僚に丸投げして任せきりになってしまう。 そこで、 僕らは市民の 「底上げ」 を狙って、 政策を作れるような市民を育てようという思いで、 一新塾を始めたわけです

[中略]

だから、 あくまでもここは政治家養成の場ではありません。 ここを出ても何かの資格を得られるわけではないし、 御利益があるわけでもない。 もちろん政治家になるハウツーw提供するわけでもない。 「ここに来れば政治家になれます」 なんて宣伝したら、 瞬く間に堕落しちゃうよ

[中略]

僕はこうやって一新塾がマスコミに注目されるべきではないと思っているんだ。 マスコミに取り上げてもらえば、 マーケティングができて塾生が集まると思うと、 堕落が始まる。 ここに来れば政治家になれると錯覚する人もやってくる

一新塾の事務局には 「アエラの取材を最後に、 もうマスコミとは付き合うな」 「御利益があると思われるな」 と言っているんだ

平成維新の会の失敗の一つは、 お祭り好きな政治ゴロが集まって、 組織をぐしゃぐしゃにしたこと。 だから御利益目当てに下心のある人に来てほしくないんだ。 一新塾に御利益なんてないんだから

本文より、 同様の箇所

「ここに来る塾生は人生の転機として道を探りたいという人が多いんです。 将来政治家を目指したいという人は塾生の約2割にすぎません」

と、 事務局長の森嶋伸夫 (45) は言った。 したがって進路も、 政治家は少数で、 会社やNPO、 市民団体をおこすケースのほうが圧倒的に多い

22頁

結局、 一新塾とはどのような場なのか――

最終段落で、 ライターの大鹿さんはこう書く

本気の思いをみんなが尊重してくれる。 まぜっ返したり、 冷笑されたりすることはない。 そんな純粋な志がそこにはある。 門をたたき、 ここを去る人たちが日本を少しずつ変えていく。 それはまるで幕末に有為の人士が多数輩出した大阪・船場の適塾のようである

22頁: ルビは省略

このとおりであってほしい! ありつづけてほしい!

あの野武士のような塾生、 OB/OGたちに 心よりの敬意をこめて!

【メモ】

  • 「一新塾」 で Google! →
  • 「平成維新の会」 で Google! →
  • 「適塾」 で Google! →

2009年8月10日 (月)

近代精神

こちらのエントリ でも引用したように

「近代性とはなにか」 という記事 で次のように書いた

近代性とは 「人間主義、 個人主義、 合理主義」 に支えられた観念と制度の体系である、 と

  • 神から人間へ (人間主義)
  • 集団から個人へ (個人主義)
  • 感性から理性へ (合理主義)

こうした三種の価値観シフト (認識論的には、 人間、 個人、 理性の概念化と定位) が、 近代性をもっともよく特徴づけるのではないか

逆から言えば、 神なき個々人の理性中心主義 こそが 近代性の極致ではないか

これについて 「近代性とはなにか」 という記事 では さらに

ちなみに、 上の三つのシフトはちょうどその順番で

西欧に起こったのではないか、 と見通しをつけていたのですが

西欧の哲学史・心性史を実際にたどってみると

そこまできれいには 流れていかないみたいですね

という注釈を入れたのだが、 意外とそうでもなさそうだ、、、 というお話

====================

いろいろ勉強していくなかで

自分とまったく同じことを考えていらっしゃる先生を見つけた

現代に生きるわれわれが近代精神という言葉でふつうに思い浮かべるものは、 おそらく次の三つの指標であろう。 第一は、 十字軍遠征をその象徴とする中世盛期の神中心主義に対する人間中心主義であり、 ルネサンスの文化運動の中心原理となったものである。 第二は人格の自立への志向に裏付けられた個人主義の精神であって、 もちろんこれは、 おのれの属する大小の組織や権威からの独立を主張する。 そして最後にあげられるべきものは、 新しい思考法としての科学的合理主義である。 これら三つの指標が精神の内部において明白に結びついているとき、 われわれはこれを近代精神と認めることができよう

鎌井敏和 「ケンブリッジ・プラトン学派とその周辺」 鎌井敏和・泉谷周三郎・寺中平治 (編著) 『イギリス思想の流れ: 宗教・哲学・科学を中心として』 (北樹出版, 1998年, 25-48頁) 25頁

おこがましい話だが、 鎌井敏和先生 と自分の主張が

あまりにも同じ内容、 同じ言葉づかいなので 大変ビックリした

ただし、 僕のエントリは2006年、 同上書発行は1998年!

そして 鎌井先生は次のようにつづける

この一節が、 本エントリの要諦である

この三つの指標は、 時と所に応じて、 強弱・濃淡の差はあったが、 ルネサンス期以来、 ほぼいま述べた順序に従って徐々に歴史のなかに立ち現われ、 近代史の展開を彩ることになった

「近代性とはなにか」 という記事 を書いていた当時

フランス思想史を中心に追っていたせいかもしれないが

西欧近代における 《人間 ⇒ 個人 ⇒ 理性》 という歴史的変遷

僕には やはりよく見えていなかった

しかし、 当初の直感は当たっていたのかもしれないなぁ、、、 と

鎌井論文で 意を強くした次第

あらためて・・・

近代とは何か―― 人間主義、 個人主義、 合理主義が、 ほぼその順に積み重なるようにして、 あらたな精神を形成してきた時代である

近代性とは何か―― 人間主義、 個人主義、 合理主義が、 複雑に相互干渉しながら、 ひとつのまとまった精神をつくりあげている状態のことである

【メモ】

ただし、 「近代性とはなにか」 という記事 の最後に書いた

「主権・国民・世俗性」 と 「人間・個人・理性」 、、、

この二組の問題系を 僕はまだ上手に接合できないでいる

との課題は、 やはりまだ残る

この課題への取り組みとして、 資本主義論をやっているのだが

たとえば、 こちらのエントリ ご参照

まだまとめ上げるまでにはいたっていないのです

一部で好評を博している論点でもあり

なんとか頑張って、 よい感じにまとめあげたいと思っております

2009年8月 9日 (日)

専門家の権威、市民の能力

前便 までつづけてきた

  • 藤垣裕子 『専門知と公共性: 科学技術社会論の構築へ向けて』 (東京大学出版会, 2003年)

のご紹介。 本便にて とりあえず最後になります

<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> の一便ともなります

====================

藤垣先生 は 脱 「技術官僚モデル」 を提唱されている (前便 参照)

では、 そもそも そのモデルとはどのようなものか――

藤垣先生は 次のように書いておられます

またもや少々長くなりますが、 どうぞお付き合いください

「公共空間」 での問題解決において、 現場を支配している二つのシンプルな思いこみとして、 技術官僚モデル (Technocratic Model) と民主主義モデル (Democratic Model) とが挙げられる。 前者では、 強い科学主義・技術官僚主義があり、 科学者集団が証拠を評価するときの基準に行政官が通じることによってよい判断ができる、 とされており、 後者ではより多くの価値観 (専門家以外の) を導入することによってよい判断ができるということ主張されている。 [たとえば] 前者のモデルは、 環境における有害物質の規制の失敗は、 不十分な専門家投入の結果である、 と主張し、 一方後者では、 市民は十便に技術的なことを議論できる、 という仮定にたち、 民主制の導入を説く

136頁, 注12: 参照文献は引用者が省略した 

さて、 ここからが 私なりに注目したい文章である

現代日本ということに話はうつる

日本の科学技術政策は、 圧倒的に前者の技術官僚モデル (テクノクラティックモデル) に基づいて実行されている。 このテクノクラティックモデルの基礎となるのは、 専門主義への厚い信頼である。 だからこそ、 日本の公共空間の意志決定において、 専門家の意見の投入 (専門家委員会の構成) に大きな労力が割かれてしまう傾向があるのである

政策決定における科学への厚い信頼――

これはまさに 近代の一大特徴だろう!!

しかし、 藤垣先生の本は、 理論書であって歴史書ではない

近代日本において、 あるいは近代という時代において

科学への権威と信頼の付与が どこで いつ はじまり

それが どこで いつ どうやって展開したのか――

翻って、 日本の 「市民」 の議論能力への信頼は いつ どこで どのように

もたれたり、 もたれなかったりしてきたのか――

同様に、 その他の場所での 「市民」 についてはどうか――

こうした問いに 本書はこたえてくれない (もちろん それでかまわない)

さらに勉強すべきポイントがここにはあるだろう

ストリートの人類学

<いただきもの>

関根康正先生 より

  • 同編 『ストリートの人類学』 (国立民族学博物館, 2009年) 上下巻

「国立民族学博物館 調査報告 81」 と 「82」

を頂戴した

関根先生の 「ストリートの人類学」 については、 紹介したことがある

自作の宗教学リーダー 「YONSH」 にも これはおさめてあったはず

全970頁の超大部!!

読みとおす日が来るのか・・・ 正直 心もとないが、 せめて

断片的な抜き書きだけでもやって、 この労作に敬意を表します

===================

関根先生ご自身の 「まえがき」 より

ツリー思考の脳梗塞、 これはホームにまどろんでいた者が突然ストリートに投げ出された状態というアレゴリーを夢想させる。 モダニストがもっとも廃棄してきた世界に身を投げ出される。 そこで私はどう動き回りどう思考し、 どう前向きに生を再構築できるだろうか。 いわば、 「ストリートの人類学」 の3年半のプロジェクト活動が、 自らの思考にストリート状況を生み出さんという効果をもたらしたようだ。 それは、 面白くも重要なことであるが、 一種の窮状でもある。 この対応の易しくない窮状こそが、 リハビリの思想への痛みを伴う転換の契機であるにちがいないのだと受けとめている

上巻 7頁

そして、 「結章」 として最後におかれた論文

  • 「『ストリートの人類学』 という批評的エスノグラフィーの実践と理論」 (下巻, 519-60頁)

より

もちろんそれはストリートのロマン化なのではない。 むしろ逆であって、 蒙昧に安易にロマン化したホームに向かう主流に対して、 鬼気迫るストリート的な現実を差し出すことが目論見である。 人間の生の根源あるいは剥き出しの生 (アガンベンのビオスに回収できない他者としてのゾーエーに当たるもの) に感応呼応するストリート性を差し出さねばならないほどに、 現代は追い込まれたと言うべきであろうか。 ストリートをロマン化している余地 (特権的外部) など、 もうないのである。

 もう一度言うと、 ストリートの人類学は、 脱ネオリベラリズムを標榜し、 知らぬ間に自分が自分で首を絞めていくような自己監査文化 (audit cultures) の檻の中に現実生活を閉じこめていく主流傾向に歯止めをかける意図を有している。 そこにこの人類学的研究の社会的コミットメントの要諦があると辞任している

下巻 525頁: 注記、文献参照は省略した

人は生きる場としてなんらかの 〈場所〉 を必要としそれを求めるが、 それを統一性や本質化の前提を持つものにしないという抑制の効いた機制のなかで獲得するという、 微妙な 「ストリート独裁」 の意義を常に噛みしめつつ、 流動だけの過剰なネオリベラリズムの破壊力にへばりつき逆手にとって、 上記の意味での 〈場所〉 の空隙 (メディオロジーにおける 「媒介する行為」 の意のメディアシオンさらにはトランスミッションの 「物象化された組織」、 またドゥルーズならば非―コミュニケーションの空洞や断絶器と呼ぶもの) を切り出すことが大事なのである。 これを、 いつか辿り着ければいい 「哲学的な理想論」 として述べているではなく [ママ]、 私たちが必ずや緊急に進まなければならない、 新たな分裂的な階層社会化に抗する、 他者を犠牲にしない方向に進む唯一の現実的な未知として記しているのである。 その意味で人類学は実学である。 ストリートの聖人や達人だけがしれいれば良いというような生き方ではない。 ストリートでかろうじて生きているように見える人たちの場所感覚を哀れんだり、 疎んだりしている暇はもうない。 その気構えと身のこなしを真摯に学び、 我がものにしていく努力が皆に求められる

下巻 551-2頁: 注記は省略した

====================

【メモ】

「"ストリートの人類学" "国立民族学博物館"」 で Google! →

2009年8月 8日 (土)

学問は何のためにやるのか

前便 より連続でご紹介してきた

  • 藤垣裕子 『専門知と公共性: 科学技術社会論の構築へ向けて』 (東京大学出版会, 2003年)

最終章で

学問とは何のためにやるのか

という、 おそらくは著者にとっての根底的な問いが示されている

ウェーバー 『職業としての学問』 も引き合いに出しつつ

著者 藤垣先生 は 持論をこう展開する

学問は何のためにやるのか。 洗練された方法論をもって、 専門家としての知識蓄積にはげむと同時に、 社会の意志決定の場では、 各立場の状況依存性と変数結節を解き明かす立場にたつことである。 社会の意思決定の場では、 公共の妥当性境界のために知恵をしぼり、 現場に状況依存した変数も考慮して、 選択肢の提示とその選択結果の予測を事実として提示すること。 それらを解き明かしたのちに、 選択を社会にゆだねるのが、 専門家の責任である

207頁

ここで 藤垣先生 は

「科学技術をめぐる社会的意志決定で用いられる」 (132頁) モデルとして

技術官僚モデル ではなく、 民主主義モデル を推奨しているわけだ

これについては、 別便で紹介したい

<つづく>

キャプテン・アメリカはなぜ死んだか

<読んだ本>

以前町山智浩さん

『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』

を紹介した

面白かったので

『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか: 超大国の悪夢と夢』 (太田出版, 2009年1月)

も読んだ

コラムを百篇集めたものなので、 気楽に気軽に読める本だ

チョビチョビチョビチョビ、好きなところから読みすすめた

『アメリカ人の半分』 は 「単なる反米プロパガンダの本」 ではないと 書いた

今回の 『キャプテン・アメリカ』 は、 《反米》 というよりは

アメリカの恥部と悪夢を ガンガン暴露し、 紹介しつづける本になっている

『週刊現代』 (講談社) の連載コラムが元だというからだろうか・・・

自分を省みるというか、 醒めつつも熱心な反省と前進の契機というか

そういったものが なんだかなくなっているようで

こちらは 学生さんには薦められないなぁ・・・ と残念に思った

アメリカの市民生活は まさに悪夢でいっぱいだ

狂信・人種差別・肉欲・逸脱・反抗・不正・ノイローゼ・殺人・・・・・・

それはそうなんだが、、、 自分の周りはどうかなぁ、、、 とか

そんな中でも ギリギリと がんばっている魂があるんだなぁ、、、 とか

そういうところを視させてくれる 『アメリカ人の半分』 のほうが

僕は好きだ

【メモ】

「あとがき」 (375-8頁) がおもしろかった

『週刊現代』 の内部事情で 本書出版が大幅に遅れた裏事情――

いろんな意味で すごいなぁ、、、 と思った

2009年8月 7日 (金)

システムと精神の変化

こちらのエントリ にてご紹介した

  • 藤垣裕子 『専門知と公共性: 科学技術社会論の構築へ向けて』 (東京大学出版会, 2003年)

科学技術社会 (STS) 論の分野において

「課題を明確化し、 それへの指針を打ち出している」 本、 との解説をいれた

それは具体的にどういうことか

本書の最終段落を まるまる 引用させていただく

長くなりますが、 ご容赦願います

なお、 注目したいのは 「姿勢」 「精神」 「態度」 という三つの概念である

これらと 「システム」 という概念との対語関係が 重要だろう

科学的知見は今まさに作られつつあり、 書き換えられる知識である。 したがって、 科学的合理性も社会的合理性も変化しうる。 我々は、 この変化しうる性質を組み込んだ システム 作りを考える必要がある。 ここで必要なのは、 科学者集団の生産する知識だけで (つまり科学的合理性だけで) 科学的判断 〈judge〉 ができる、 という立場から離れ、 つまり専門主義から一歩離れて、 テクノクラティックモデルからも距離を取る 姿勢 である。 かつ、 ここに共通するのは、 「一度定めた基準」 を科学的判断 〈judge〉 による確実で厳密な 「硬い」 基準とせずに、 いつでも見直しができるようにして、 利害関係の異なるひと (地域住民もふくむ) たちによる話し合いによる合意形成を続けていこう、 という 精神 である。 ここにあるのは、 科学的判断 〈judge〉 で決めたことは揺るがない、 とする硬い 態度 ではない、 柔軟性である。 権威の発生は [ママ] このような硬いモデルから発生しており、 市民はこれに疑いの眼を向けている。 「つくられつつある」 科学観は、 このような 精神 と柔軟性を要求する。 いつでも見直しができる意志決定の可変 システム と、 責任のありかた、 および公共の妥当性境界の責任論を、 これから作っていく必要がある。 これは妥当性境界論および科学技術社会論の今後の課題である

214-15頁: 太字は引用者による

ここで 「システム」 とは具体的な制度のことだろう

一方、 「姿勢」 「精神」 「態度」 は 常識/通念/共有感覚のこと

すなわち

制度と権力と権威に接する面に生ずる 集団的な認知と価値の枠組み

のことだろう

これらを変化させるのは 実に大変な作業となるはずだ

それに果敢に挑むことを宣言する本書、 そしてSTS業界は

やっぱりすごいなぁ と思う

公共性はたち上がる

こちらのエントリ のコメント欄にて

yokosawa さんと 公共性について意見交換しているところ

昨日 (2009年8月6日) 付け 朝日新聞 朝刊に

静かすぎ車 音出す実験

電子音・擬似エンジン音・・・ 「わかりにくい」 多く

という記事が載っていた

ハイブリッド車や電気自動車が 「静かすぎて危険」 という問題――

国交省が、 視覚障害者の方がたの協力で 実験をおこなったそうだ

チャイム音などを出す実験車を走らせて、 皆さんが気づくかどうか・・・

もちろん気づいたとのことだが、 音の小ささや 綺麗さが

かえって注意力をそぐだろう、、、 といった感想が出たそうだ

さて、、、

これこそは 今まさに公共性がたち上がろうとする現場である

自動車の音が 歩行者の安全確保に役立っているのは事実

それが、 ドライバーの注意力と責任感を削いでいるのも事実

HV、EV の登場が 騒音被害に悩む人たちの希望であるのも事実

ここのすり合わせが これから始まる

ポイントは、 自分の意見をちゃんともっておくことだろう

実際問題、 具体的な処置は、 中央官庁と大企業が先導していく

その政治過程は なかなかとめられない!

しかし、 出てきた結果には はっきりと判断をつけるべきだ

そして、 それをちゃんと行動にうつすべきだ

私的であれ、 公的であれ、 半私半公的であれ

行動にはいろいろあるんだから

最後に・・・

「静かすぎ車」 についての僕の意見――

車が静かなら 静かのままにすべきだ

ドライバーの自覚と責任をこそ 問うべきだ

自転車が静かだからって、 わざわざ音出し機械をつけるだろうか?

歩行者の安全を守るため、 道路構造の改築等に税金を使うべきだ

納税者とその家族は、 それについては文句を言うべきではない

ただし、 業者選択と技術導入には 監視をつけるべきだ

【メモ】

  • 「静かすぎ車 音出す実験」 で Google! →
  • 僕は、 臭覚障害者 (匂いが一切ない) だ。 皆さんは気づかないだろうが、 匂いがないことで 世の中は理不尽だな、、、 と感じることがある。 しかし、 それはまったく 「社会問題化」 することはない。 なぜか。 臭覚障害者の数が 極端に少ないからだ。 いい大学を出て、 大学教員なぞをやっている、 その他の点ではまったく健康な、 喫煙者だけど酒は飲まない、 40過ぎのストレート男性である僕は、 完璧なる 「サイレント・マイノリティ」 の一員なのである・・・  さて、 僕が体現する公共性とはなにか・・・

2009年8月 6日 (木)

疑似科学と科学の哲学

<読む本>

科学の問題にもう少しこだわってみたくて

  • 伊勢田哲治 『疑似科学と科学の哲学』 (名古屋大学出版会, 2003年)

を読んでみることにした

僕にとって、 ポイントは二つ

  1. 宗教と世俗の 「図=地」 関係における科学の布置
  2. 近代性における科学の布置

こうした関心は もちろん本書の意図とはずれるだろう

しかしまぁ、 ものはためしで

【メモ】 本務校図書館 請求記号 = /401/Ise

2009年8月 5日 (水)

専門知と公共性

<読んだ本>

  • 藤垣裕子 『専門知と公共性: 科学技術社会論の構築へ向けて』 (東京大学出版会, 2003年)

副題にあるとおり、 「科学技術社会論」 (STS) の教科書である

理系学問 (ザ・科学) と政策決定のあいだの問題領域を

理論的に走査した労作

サイエンティストではなくても、 研究教育を生業とするわれわれには

多少なりとも肌感覚でわかることをば

理論的に 精密に 記述したうえで

課題を明確化し、 それへの指針を打ち出している

本書の主眼は 理系学問と公共性とのコンフリクトであるからして

「社会科学」 もほとんど蚊帳のそとである。 したがって

「人文学」 などは もぉ ほとんど何も触れられない

これはとても残念・・・ なのだが・・・

では、 人文学がこの領域に何を言えるのかといえば

それはまったく心もとないかぎり

近代とは何か、 近代性とは何か――

この疑問をもって本書を手にしたが

STS業界の緊張感ある議論に触れられたのが 何よりの収穫だった

【メモ】

  • アマゾンでの読者レビューの評価はかなり高い!
  • 「科学技術社会論学会」 のHPは こちら

2009年8月 4日 (火)

不安の種

先日 「無意味なものと不気味なもの」 というエントリ を書いた

《無意味なものと不気味なもの》、 あるいは 《非日常的なものと異様なもの》

こうしたものは 現代日本の日常にあふれかえっている――

そのことに注意をうながしたエントリだった

この領域は 現代宗教学にとって とても重要なわけだけど

この関心から

「宗教学の方法」 という授業 を受けている学生さんが

中山昌亮さん の 『不安の種』 という漫画を紹介してくれたのが

僕の目をひいた

何冊か出ているようなので、 とりあえず

  • 『不安の種 フタの章 1』 (秋田書店, 2004年)

をば 買って 読んでみた

とても面白かった

学生さんが紹介してくれたのは 「#29 箪笥」 という回で

どの冊に載っているのかわからないのだけれど、 ともあれ

かなり漠然とした 「不安」 とか 「日常のなかの異物」 みたいなものが描かれていた

そういうものを予期して、 上記第1巻を読んだが

こっちのほうは、 もう少し ベタな幽霊話 (ゴースト・ストーリー) だった

『新耳袋』 とかなり近いテイストだなぁ、 と思った

予期とは違ったが、 とても面白かった

ちゃんと ゾッとした・・・

ちなみに、 僕が一番気に入ったのは 「#23 雨の日」

また、 異物性と不安ということであれば、 「#25 散歩」 がそれにあたる

ホラー漫画は 最近よくあるけれど、 そして この手のものもよくあるけれど

必ずしも 『不安の種』 のような イヤァ~な雰囲気 を醸しだせていない

画力もあるし、 コマ割りもあるし、 しかし何よりも

これはもぉ 作者と編集者のセンスだろう、、、 と思った

2009年8月 3日 (月)

ヒンドゥー教概念の誕生

「ヒンドゥー教」 という日本語

Hinduism という (および それに相応する) 欧米諸語の概念の 直訳 である

Hinduism などの欧州諸語が、 では インド亜大陸現地語の翻訳 かというと・・・

そうではない

これは、 欧州人が与えた 他称 である

インドの地 (ヒンドゥスターン) における観念=制度複合を

外部者である欧州人が観察して 「自分たちとは違うぞ」 ということで

さらに、 欧州の自己理解の一環として

Hinduism などの欧州諸語ができあがってきたわけだ

しかし! である

インドの地 (ヒンドゥスターン) における観念=制度複合を目にした外部者――

これはなにも 欧州人 (とくにヴァスコ・ダ・ガマ以降の) だけではない

何よりも かつてはイスラームの人々が そうした外部者であった

ということで・・・

こちらのエントリ でご紹介した 青木健さん の著作から引用である

  • 青木健 『アーリア人』 (講談社選書メチエ, 講談社, 2009年5月)

10世紀、 「中央アジアでイスラームに改宗したテュルク系遊牧民」 が

インド亜大陸に 「進出」 してきた

彼らは 「現地人を十把一絡げにしか見ず」 「権力者として振るまった」

ガズナ朝のインド侵入を、 青木さんは言っておられるのだろう

そして、 このときに、 おそらく初めて 「ヒンドゥー諸教」 (複数形) という概念が生まれた。 近世ペルシア語文献で、 「イスラーム教徒たちの真理 (Haqiqat-e Ahl-e Islam)」 に対比して 「インド人たちの諸信仰 ('Aqa'ed-e Hendvan)」 と語られる宗教である。 近世ペルシア語文献の分析に従うなら、 この中に仏陀の教え、 サーンキヤの教え、 ヨーガの教えなどが含まれ、 全体としてユダヤ教、 キリスト教、 イスラームなどと並称される 「ヒンドゥー諸教」 を構成している

241頁

2009年8月 2日 (日)

宗教と科学

高校3年の10月まで 完全に理系だった僕

サイエンスの知、 数学の知には 素朴にエロスを感じてしまう

そうした個人的な感性はさておくにせよ・・・

宗教研究にとって この種の知がいかに重要か――

この点には これまでも何度か言及してきた (注1)

科学と数学の知は 存在と生命について 確実かつ斬新な知見を

すでにもう 大量に産みだしているからだ

最近のエントリは こちら

そして、 僕がその重要性を指摘するまでもなく

この領域は 実はずいぶん前から追究されてきた

日本語になっている本も きわめて多い

アマゾン和書で 「宗教 科学」 を検索すると (→

669冊ヒットする (2009年7月23日 16:54時)

しかし、うなってしまうような本は めったにない、 と言ってよいだろう

僕はこの分野の専門家ではないので

網羅的な読書をしてきたわけではない。 しかし!

ほとんどが・・・ ニューサイエンスか、 ロマン主義か、 トンデモ本か

あるいは 問題をぎりぎりまで詰め切れていないか

まぁ そんなところだろう、、、 と経験上 予測している

====================

だから 宗教と科学の問題を 上手にとらえるには

まだまだ時間がかかりそうだ

とくに、 宗教や宗教研究の側から そうした貢献がなされることは

ほとんど期待できそうにない

人間と社会と歴史のヴィジョンのなかに 科学と数学をどう位置づけるか――

宗教や宗教研究は この点を明確にできていないからだ

むしろ参考にできそうなのは

科学の側から 文系的な問題設定へのアプローチ である

注1:

このことはもちろん、 宗教論 (および 人間論、 歴史論、 社会論等) において

理系学者 (サイエンティスト) が 無条件に指導者になる、 という意味ではない

科学者が書いた 「啓蒙書」 (笑) を読んでいると

短絡と (誤った) 一般化が なんともはげしいものが けっこう多い

そのことに著者らがちゃんと自覚的である――

それらは 「方便」 として選ばれた表現上の工夫なのだ――

と僕は信じたい・・・

しかし少なくとも、 まじめで、 影響を受けやすい、 批判が苦手な読者は

そこに披瀝される見解を 「鵜呑み」 に近いしかたで

飲み込んでしまうのではないか・・・

そしてもし、 それを著者らが あまり問題にしていないとしたら・・・

ブックディレクター 幅允孝

AERA の名物コーナー 「現代の肖像」

2009.8.10 号で とり上げられているのは

ブックディレクター 幅允孝

「はば よしたか」 さんと読む

文 = 高瀬 毅  写真 = 森 栄喜

煽り文にはこうある

本のジャングルで、 幸福な出会いを仕掛ける

おそらく世界でただ一人のプロの 「ブックディレクター」 だ。

書店だけでなく、病院、 予備校、 銀行などの 「本棚」 を編集してきた。

本が売れないと言われる時代に、彼がつくる場が注目を集めている。

大変面白かった

TSUTAYA TOKYO ROPPONGI の 《ブックディレクション》 はすごかったし

まだ行ったことはないが、 羽田空港の Tokyo's Tokyo もよいと聞く

《ブックディレクション》 とは要するに、 次のような仕事だ

あまたある本の中から目的にあった書籍や写真集をセレクトし、 並べ替え、 「本棚を編集する」

55頁

幅さん自身の言葉はこうだ

お客は店や経営者の世界観を書くためにやってくる。 店からメッセージを得ようとしているんです。 本は売れませんよ、 と言っても、 本当はこういうことをやりたい、 ということを本棚が物語り、 掬いとってくれるということなんです

56頁: ルビは省略した

さらに、 ライターの高瀬さんの言葉

本が売れないから出版社は新しい本を出して前作の赤字を埋める。 不況になるほど本が出回る。 08年の年刊出版点数は約7万6000点。 何から読めばいいのか、 何を読みたいのか、 わからなくなるくらい書店にあふれかえっている。 本のジャングルの中で道に迷った読者、 消費者にとって幅のディレクションは、 道案内役を果たしているようにも見える

幅の選書と編集は、 本の組み合わせで、 全体の雰囲気を感じ取らせる手法だ。 「イメージの森」 を創っていく感じといえばいいか。 一冊一冊の本は森を構成する木と考えればいい

本にはとにかく可能性があるのだ

小さな本は、 いつでもどこでもアクセスできる端末だし

どんな本も、 そこには筆者と編集者の創造性がつめこまれているのだから

まさに 良い導きさえあれば、 こんなに面白いものはない!

街のなかに 本世界の導きになるスポットがもっともっと増えればいいなぁ・・・

2009年8月 1日 (土)

直感に頼るな

<連載 近代とは何か、 近代性とは何か> 前便 よりつづく

====================

  • 福岡伸一 『動的平衡: 生命はなぜそこに宿るのか』 (木楽舎, 2009年2月)

鳥取県のある高校、 オーサー・ビジットの企画に招待された 福岡先生

 講演会では 「なぜ学ぶことが必要なのか」 というテーマで話をした。 学校で勉強なんかしなくても、 実社会で体得する直感や経験則のほうが生きていく上でずっと有効ではないか――。

 いいえ、 それは違うと思います。 かつて私も高校生の頃、 同じ疑問を深く感じていた。 ようやく最近になって、 少なくとも次のように言えると思うに至った。 「私たちを規定する生物学的制約から自由になるために、 私たちは学ぶのだ」 と

58頁

さらに、 その直後のまとめの部分

 よく、 私たちは、 脳のほんのわずかしか使っていないなどと言われるが、 実は、 それは世界のありようを 「ごく直感的にしか見ていない」 ということと同義語だ。 世界は私たちの気がつかない部分で、 依然として驚きと美しさに満ちている。

 このことから、 私たちは重要な箴言を引き出すことができる。 「直感に頼るな」 ということである。 つまり私たちは、 直感が導きやすい誤謬を見なおすために、 あるいは直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、 勉強を続けるべきなのである。 それが私たちを自由にするのだ

60頁: ルビは省略した

《お気楽・お手軽 反近代》 は、 単純な反知性主義に陥りやすい

昨今の大学崩壊の大きな要因のひとつが、 まさにこれだ

学生たちは 知性の意味や価値 を見失っているのだ

ということで、 あらためて、、、

近代とは何か―― 知性による自由の獲得が可能と考えられ、 実際にそれが大衆規模で追求された時代である

近代性とは何か―― 大衆にとっての知性による自由の獲得という理想の掲揚、 およびその制度的実践である

【メモ】

ライアル・ワトソン を絶賛し、 その著作を翻訳している福島先生は

もちろん 「ニューサイエンス」 の薫陶をうけているとみなしてよい

福島先生の本がバカ売れして、 権威ある賞を得ている事実が示すのは

玉石混交のこの領域を 今一度 評価しなおすべきときがきている――

ということだ

これは、 宗教学が得意とする分野であろう

「ライアル・ワトソン」 で Google! →

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ